第十三話 指輪の約束
それからは幸せという言葉の意味を噛み締めるような日々が続いた。
親父は、勉強して良い順位さえ取っていればオレが何をしていようと文句を言うことはなく、興味があるのは学校の成績だけなんだと言うことをまざまざと思い知らされたりもしたけれど、もう既にオレにとってはどうでも良いことだった。
由美子の誕生日を一緒に祝おうとした時は、内緒でバイトをして貯めた金で買った、安物のペアリングを、宝物のように抱き締めてくれて。
オレは、普段付けていると親父に何か言われるかも知れないからと、その片方を、これまた安物のネックレスに通していつも身に付けるようにしていた。
オレが高校を卒業したら、堂々と指に嵌めるんだ、なんて笑って。
デートの時だけは、その指輪を指に嵌めて出掛けるようにしていた。
これでフミくんとはまた歳の差が開いちゃったね、なんて拗ねたように笑う彼女が愛おしくて、その唇に口付けをして…。
一緒に過ごした時間は、オレに取って宝物のように煌めく記憶になった。
それは、今でも色褪せることはない。
夏が終わり、秋の空気が街を冷やして。
肌を刺すような冬の寒さが訪れても、オレたちは同じ時間を過ごしていた。
寒いね、なんて笑い合って、一つの毛布に包まりながら、テレビでやっていた映画を二人で観て、感想を言い合いながら抱き合って、二人の体温を交換するように求め合って……。
クリスマスが近付いて来た時には、一緒に過ごせると良いね、と笑って話していたのを……今でも、昨日のことのように思い出せる。
二人で小さなケーキを買って、分け合いながら食べたケーキは、初めて食べる幸せな味だった。
そのクリスマスが終わった頃から、彼女の笑顔に曇りが見られるようになった。
いつもの、輝くような明るさが影を潜め、一緒にいても思い悩むように何かを言い掛けて、押し黙る。
その表情を見た時、途端に不安になった。
飽きられたんじゃないだろうか。
やっぱり、由美子にとって、オレはガキすぎたのだろうか。
そんな焦りから、小さな口喧嘩が生まれて。
その年の瀬は最悪の気分で過ごすことになって。
初詣の約束のデートは、どこかぎこちないままに終わった。
そして、正月が終わり、オレの三学期が始まろうとしていたその日……。
彼女に呼び出された。
薄々、別れ話かな、なんて思っていたけど…、その予感は正しかった。
「実家で、見合いをしろ……って、言われてるの……。」
暗い表情で彼女が告げる。
驚きは半分だった。
彼女の実家は遠い地方にあるらしくて、小さな製造業を営んでいることは聞いていた。
小さな頃から家族仲も良かったらしい。
親の愛情を一身に受け、親への感謝の言葉がいつも溢れていて。
家業も順調で、幸せな家族環境だったという。
その家業が、苦しくなってきたらしい。
地元の名士とされる人の息子が彼女の同級生だったらしく、中学校の時の片想いをずっと引きずっていたという。
その家業への支援と引き換えに、息子との結婚を条件にされたと、呟くような声で彼女は語っていた。
彼女の、親への想いは強かった。
遠く離れていても、父母の誕生日や記念日には必ず贈り物をするくらいには。
そこに、オレの家にはない家族の優しさを見たような気がして、言い知れない寂しさを覚えたくらいには。
だから、彼女の苦悩も分かったつもりになっていた。
彼女は、親への想いを切々と語って……親が、苦しんでいるなら、力になりたい、と。
だから、もう、会えない、と。
一条の涙を流しながら、オレに告げた。
引き留めたかった。
ずっと側にいてくれるって約束したじゃないか、高校を出たら堂々と二人で指輪をして、一緒に歩こうって言ったじゃないか……。
そう言って、オレと一緒にいようと、言いたかった。
でも、彼女の涙がその言葉を踏みとどまらせた。
彼女は、ずっと苦しんでいたんだ…そのことが、痛いほど分かった。
手離したくなかった。
ずっと一緒にいたかった。
二人でなら……彼女が側にいてくれるなら、未来を信じることができた。
でも、それ以上に……彼女を苦しめたくなかった。
必死で言い訳を探した。
自分の気持ちを、少しでも納得させるための。
相手は資産家だという、こんなどうなるかもわからないガキより、余程経済的に安定できるんじゃないか、とか。
オレが自分の意思だけで結婚できるようになるまで、あと四年と少し…経済的に安定するのを待ったら、いつになるかわからない、それまで彼女を待たせるより、彼女にとっても良いんじゃないか、とか。
長い沈黙の後……オレは、小さく頷いて…。
「そっ…か……。
分かった……。
幸せに、なってね……。」
それだけを伝えるのが精一杯だった。
ごめんなさい、ごめんなさいと泣き崩れる彼女を、もう抱き締めることはできないんだな、と思うと……オレも泣けてきて。
その日は、二人で泣いた。
そこからはあっという間で……彼女は、勤め先にも無理を言って、たった一週間で全てを引き払って地元へと旅立っていった。
車の外から見送った時の彼女は、泣き腫らした目をしていて…。
きっと、オレとそっくりな顔だったことだろう。
そうして、オレの初恋は終わった。
ガキはガキなりに、本気の恋だった。
それからは、オレは荒れた。
家に帰ることもまばらになり、高校にも行かなくなり。
街中で目が合ったと因縁を付けては殴り、肩がぶつかったと言っては殴り…そんな風にして知り合った不良仲間の家を転々としながら、歳を誤魔化して水商売を始めたりもした。
水商売は半年もしないうちに歳バレして、クビになったけど。
喧嘩をして、殴り、殴られている時の痛みだけが、オレがまだ生きていることを実感できる瞬間のように感じていた。
そうやって、自暴自棄な喧嘩を、ほとんど毎日繰り返していた。
ある時は、暴走族に入っていた仲間が、抜けようとしてリンチにあったと聞いて、数名で相手の集会に乗り込んで叩き潰したこともあった。
ケツモチのヤクザが出てきて、慌てて逃げ出したことはしばらく笑い草だった。
そんな風に、たまにバイトをしながら荒れた日々を過ごして、オレは高三になっていた。
確実に出席日数は足りていないはずだったが、進学校としての見栄なのか、留年や退学処分は出さない方針なのか、知らぬ間に進級していた。
家にも学校にも、気が向いた時にだけ顔を出すような生活は変わらなかった。
この頃には、親父も半ば諦めていたのかも知れない。
授業にも出ず、テストも解答欄を何も書かずに提出することもあった。
成績は下降線を辿り、学年の最下層にいた。
か細い声で、大学はどうするんだ、と言われるだけだった。
オレが荒れていくのと同時に、親父の強気な姿勢は鳴りを顰め、泣き落としのような情けない声で大学には行ってくれ、と懇願される。
情けない、抵抗できない相手にだけ暴力を振るうその姿が、ちっぽけな存在に見えた。
そんな風に荒れた日々にも終わりの日が訪れた。
仲間と三人で歩いていた、梅雨が始まろうとしていた夜に。
待ち伏せされていたのか、十人程の相手に取り囲まれた。
相手も強くて、人数も多いもんだから。
あちこち殴られて、蹴られて…やられながらそれでも路地に引き込んで、一人ずつ返り討ちにしていって。
最後に残っていたやつは、見覚えがあった。
前に叩き潰した暴走族で、アタマを張っていたヤツだった。
小さなナイフを震える両手で支えて、来るな、来るなと必死に叫んでいた。
一緒にいただけの仲間は、その暴走族とのいざこざには全く関係ないだけのヤツだったのに、ボコボコにされて顔が腫れ上がり死んだような青痣を浮かべていて。
中途半端にしたからこうなったんだな、とソイツに馬乗りになって殴り続けた。
切り付けられた左腕から血が流れるのにも構わず。
オレの拳が破れるのにも気にせず。
相手の意識がなくなっても。
気が付いた時には、雨が降っていて。
倒れていたはずの仲間に取り押さえられていて…雨の冷たさを覚えると同時に、我に帰った。
……もう少しで殺すところだった。
親父の暴力の血を、色濃く感じて恐ろしくなった。
その日から、仲間からも距離を置かれるようになって、居場所だと思っていたはずの不良グループにも居づらくなって…仕方なく、家に帰った。
久しぶりの自宅は、梅雨入り時の蒸し暑さとは対象的に寒々として見えた。
期待していた道を大きく踏み外し、自分の願望の器としてのオレへの失望が溢れているような、空虚な家だった。
自室に戻って、もう向かうことのなくなった机の上に、一通の封筒を見つける。
消印は一ヶ月前。
差出人には、苗字の変わった、懐かしい彼女の名前。
胸がざわついた。
彼女の身に、何かあったのか。
震える手で、それでも宝物を開けるように開封した手紙には……。
何度も何度も書き直したような跡を残した、
少しだけ滲んだ彼女らしい可愛らしい小さな文字で。
オレと過ごした日の、楽しかった思い出を振り返り、
出会えたことへの感謝と…そして、急に別れることになってしまったことへの、お詫びの言葉が書かれていた。
最後に
『大好きだよ、フミくん。またいつか、会えるといいな。』
と、今は誰も呼ぶことのない懐かしい呼び方で……微かに震える文字で書かれていた。
嫌な予感がした。
手紙を持つ手が震え出す。
彼女は、幸せになったはず、なのに。
なんで、今さら。
その日のうちに、ありったけの金を掻き集めて。
差出人の彼女の名前の横に書かれていた住所に向かった。
その頃には、今みたいな地図アプリなんてものはなくて、駅員や交番のお巡りに聞きながら、必死になって記された住所に向かった。
辿り着いたのは、午後一時を過ぎようとしていた頃だった。
頭上の太陽がカンカンと地面を照らして、歩くだけで汗が滴る。
それでも、脚は自然と前に進んでいた。
この角を曲がれば、彼女に会える。
そう、思っていたオレの耳に、車の長いクラクションが響く。
なんだろう、と足を止めたオレの前に、黒塗りの車の先端が、やけにゆっくりと姿を現す。
心臓の鼓動が、これは現実じゃないと告げるように脈打つ。
車は……霊柩車だった。
助手席の男は、泣きじゃくりながら遺影を抱いていて。
一瞬だけ目に入った遺影に写った女性は、彼女に良く似ていたように思えた。
違う、たまたま近所で葬儀があっただけだ。
そう言い聞かせて、もう一度足を動かそうとする。
動かない。
立ち竦むオレの横を、遺族の乗った火葬場のバスが通り過ぎていく。
しばらくの間、その場に立ち竦んだ後。
言うことを聞かない足を引き摺るようにして、その角を曲がる。
三十分前に交番で聞いた、彼女の住所と一致する家の前には、大きな花輪がたくさん並べられている。
門扉には家紋と思わしき紋が描かれた大きな提灯が掲げられ、その横には。
見間違えるはずもない、彼女の、名前。
死んだ。
彼女が。
由美子が。
オレに会いたいと手紙をくれた由美子が。
死んだんだ。
もうオレを、フミくん、とあの愛おしい声で呼ぶ人は、どこにもいない。
いなくなってしまった。
膝の力が抜ける。
その場に崩れ落ちそうになる。
壁に寄りかかって、荒くなった呼吸を整えようとする。
その時、壁の向こうから、葬儀のお手伝いに来ていた近所の人だろう年嵩の女性たちが話す声が聞こえて来る。
「由美子ちゃんも可哀想にねぇ…。
まだ若いのに、事故だなんて。」
「事故じゃないみたいよ〜、自殺なんじゃないかって!」
「嘘、なんで!」
「なんでもね、見ちゃった人によると、完全に赤信号なのに、フラフラ〜って…それで、トラックに轢かれて、だったんだって。」
嘘だ。
彼女に限って、そんな。
あの、明るい彼女が、自殺なんて、
「ああ〜、じゃあ、やっぱりあの噂、本当だったんだ?」
「あの、お姑さんにいびられてる、ってヤツ?
この家も名家だなんだって言われてるけど、お姑さん怖いもんねぇ〜!」
「そうそう!
なんでも、由美子さん、早く孫を産め、男の子以外は認めない、みたいに毎日言われてて。
しかもこの広い家、全部の掃除から洗濯からご飯の用意まで、毎日一人でやらされてたって言うじゃない!」
「それは本当よ!
こないだの冬とか、あの大雪の日もね、一人で雪かきしてたもの!
あんのバカ息子は手伝いもしないで、だいじょぶか〜だいじょぶか〜ばかりで、頼りないったらありゃしない!」
「それじゃあお姑さんに文句も言えるはずないわよねぇ〜!
ホント、由美子さん可哀想だわぁ。」
可哀想だわぁ。
その言葉が、いつまでも耳に響く。
嘘、だろ……。
幸せに、って、約束、したじゃないか……。
彼女の幸せを信じて、見送った先が、ただの地獄だったなんて。
そんなこと。
そして、思い出してしまった……。
手紙の、日付。
あれは。
あの、手紙は。
壊れそうになってた彼女の。
SO、S……。
オレは。
オレは、何を、していた。
彼女のSOSにも気付かないで。
ただ子供が癇癪を起こすように暴れて。
オレが、ちゃんと家に帰っていれば。
オレが、すぐに手紙を受け取っていれば。
オレが、すぐに飛んで来ていれば。
オレが、彼女の手を握って、ここから連れ出していれば。
彼女は、死なずに、済んだ。
オレが……、
殺したんだ。
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そこから、家までどうやって帰ったのか、全く覚えていない。
もう何も考えたくなかった。
呼吸の仕方を忘れたように、過呼吸を繰り返して、狂ったように泣いて。
もう、この世界の何処にも彼女は居ない。
そう考えたら、何処にも居たくなくて、死にたいって、その時思った。
死んだら、彼女に会えるって。
でも。
彼女を助けられなかったオレが、間に合わなかったオレが、彼女に会う資格なんて無いって思ったら、死ねなかった。
そんな時に思い出したのが、高校の美術の教科書に載っていたピエタだった。
死せるイエス・キリストを抱く聖母マリア像。
ルネサンスの巨人、ミケランジェロが刻んだその彫刻は。
赦しと、再生。
そして、贖罪の象徴。
息子の死という痛ましい悲劇を受け容れ、穏やかな表情を浮かべるマリアが、記憶の中の彼女に重なって見えた。
何より、人の原罪を一身に背負って死んだキリストが、彼女を殺したオレの罪とその対価としての罰に相応しいように思えた。
何枚も、何枚も。
取り憑かれたように模写をした。
小さな教科書の写真じゃ物足りなくなって、使い果たした小遣いじゃ足りなくなって、また日雇いのバイトで得た金で写真集を買って、また模写をして。
そうしているうちに、夏休みが終わろうとしていた時、親父はまた進学についての話を持ち出してきた。
この男は、オレが何を思い、何故ピエタを描いているのかなんて、これっぽっちも興味がないようだった。
ただ、大学には行ってくれ、お願いだから、金は出すから…。
金、
金、
金。
由美子は、その金のために死んだというのに。
全てが憎かった。
だから、コイツが縋る大学と金で、コイツに復讐してやりたいと思った。
だから言ってやったんだ。
大学なら何処でも良いんだな、って。
親父はこれでオレが大学に行ってくれるんだという深い安堵と、暴力でなく金でならまだオレをコントロールできるんだとでも言うような軽蔑の眼差しを向けてきた。
もう、そのどれもがオレにはどうでも良かった。
オレの頭の中には、
彼女への想いと、
彼女が生きた証を、
そしてオレの罪を。
ピエタという題材を通して描き切ることしか頭になかった。
そのためにはもっと圧倒的な技術が要る、カラヴァッジョの狂気が要る。
彼女と別れてから、机の引き出しに仕舞っていたネックレスを胸に、オレは美大への進学を決めた。
そして、その美大に通う中で――オレは、マスターと出会ったんだ。




