第十二話 初恋の名前
オレは…オレの名前が大っ嫌いだった。
あのクソッタレの親父が、自分の願望の器となるようにと名付けた、このフミトという名前。
生まれた時から、親父の思い通りに生きることを強要された、その証にしか思えなかった。
中学二年の冬、夢中になっていたサッカーの練習中の怪我で、オレは裏切られた。
半年に渡るリハビリの末に、二度と走ることができないと言われて。
そして、オレは初めての挫折を知った。
大切なものを失う恐怖と一緒に。
高校は県内でも有数の進学校を選んだ。
ちょうどその頃には、オレは親父の身長を追い越していた。
そして、あの日。
高校から帰ったオレに、親父は一学期の期末テストで十位以内に入れなかったことを責め立てた。
こんな成績で恥ずかしくないのか。
せっかく金を払って、高校に通わせてやっているのに。
そして、オレは初めて反抗して。
殴ろうとしてきた親父を、オレは殴り返した。
あれ程恐怖の対象だった親父は呆気なく吹き飛んだ。
オレの、初めての暴力は、親父へのたった一発の拳。
虐げられ、暴力に支配され、ずっとああはなるまいと思っていたのに、感情に任せて親父と同じ暴力を振るってしまった。
その事に、底知れぬ恐怖を感じた。
間違いなくあのクソッタレと、同じ血が流れていることを否応なく認識させられたようだった。
だからオレは…その日、初めての家出をした。
制服のまま、なんの計画性もなく家を出たオレに、行く宛なんてあるはずもない。
街中を彷徨い、コンビニの裏手で朝を待とうとしていた。
そして、彼女に出会ったんだ。
「何してるの?」
彼女の第一声は、そんな何気ない言葉だった。
顔を見上げて見れば、スーツ姿の女性が目の前の車に乗り込もうとしてオレに気付いたようだった。
「すみません、何でもないです、ごめんなさい。」
ここはダメだ、もっと人のいないところに行こう。
そう思ってその場を立ち去ろうとした時。
「すみません、って。
キミ、高校生?こんな時間に何してるの?」
当たり前だろう、もうすぐ日付が変わる。
こんな時間に、こんなところに高校生がいて良いはずがない。
それでも、これ以上の面倒は嫌だと思って、オレは適当に言い繕って逃げようと思ってたんだ。
「いえ、本当に何でもないですから。
すみません。」
早くこの場を離れないと。
それだけを思って、とにかく逃げるように立ち上がった時だった。
「もしかして、家出?」
ドキッとした。
思わず身体が竦んで、足を止めてしまった。
「当たりみたいだね〜。行くとこあるの?」
答えたらまずい。
警察を呼ばれたら、あの家に連れ戻される。
あの地獄に。
オレが、親父のコピーにされてしまう。
「大丈夫だよ、警察に言ったりしないから。
ご飯は食べたの?」
そう言われれば、家に帰ってそのまま飛び出してきたから何も食べてない。
財布も持っていないし、持っていたとして小遣いなんて余計な金は渡されていなかったから、入っているのは数百円にも満たない。
オレは、小さく首を横に振った。
「ちょっと待ってなさい。」
そう言って、彼女はコンビニに駆けて行った。
どうしよう。
今なら逃げられる。
このままここを立ち去っても、もう二度と会うことはないだろう。
そう思ってはみても、足が動かなかった。
彼女は、数分で戻ってきた。
その手に、コンビニのおにぎりの入った袋を持って。
「食べよ!
あ、狭いけど車に乗って!」
訳が分からなかった。
見ず知らずの、名前も知らない子供に、この人はなんでこんなに優しくしてくれるんだろう。
怖くはないのだろうか。あの鬼の血を引くオレのことが。
色々な疑問が渦巻く中、それでも言われるがまま車に乗っていた。
「シャケとシーチキンと、明太子!
どれが良い?
あ、飲み物はお茶しか買ってなかったけど、いいよね?」
彼女の声は明るくて、温かかった。
車に乗って、彼女の声を聴いている、ただそれだけなのに。
気が付いたら泣いていた。
相当な混乱と緊張の糸が、彼女の優しさに触れて一気に途切れたのだろうと、今なら分かる。
でも、その時は訳も分からず、ただ泣きじゃくるだけだった。
人前で泣くのも、二回目のことだった。
小学校の低学年の時に運動会で転んで泣いた夜、親父に男が人前で泣くなと、何度も殴られたから。
「大丈夫?
ヤなことあったんだね。
泣いちゃえ泣いちゃえ!
泣いた方がスッキリするよ!」
彼女は、茶化すでもなく、何を聞くでもなく。
ただ、そうやって、寄り添ってくれた。
オレが泣き止むまで、背中をさすり、ただそばにいてくれて。
どれ程その声が、その優しさが嬉しかったか…言葉にならないくらいに。
「泣き止んだね!
おにぎり、どうする?
…って言っても、選べないか…。
じゃあ、こうしよう!」
やっと泣き止んだオレに、優しく笑いかけて。
彼女はそう言って、おにぎりのビニールを外して、半分に割ってオレに渡してくれた。
「あ〜、また海苔が千切れちゃった!
これムカつくよね〜!」
そんな小さなことで笑う彼女が眩しくて、なんだかおかしくて。
その時、オレの悩みは、何処かに飛んで行ったみたいで、ようやく笑うことができた気がする。
「あ、やっと笑ったね!
なんだ、笑うと可愛いじゃん!今いくつなの?」
「15、です…。」
「えっ!
まさか…中学生、じゃないよね?」
「あ、いや、オレ早生まれで…今、高一です。」
「そうなんだ〜。
あっ、辛っ!
この明太子、当たりだね〜!」
口をもぐもぐと動かしながら喋る彼女が、なんだか可愛らしくて。
またオレは笑った。
「辛いの、苦手なんですか?」
「そ、そんなことないよ!?
私はお姉さんなんだからね!?」
顔を見合わせて笑う。
生まれて初めての、穏やかで幸せな時間だった。
「キミ、そういえば名前は?
私は笠間由美子、これでも25歳だよ!」
「オレは、…フミトって、言います。
すみません、おにぎりまでいただいちゃって…。」
「フミトくんか〜、いい名前だね!」
いつも家で食べる時は、会話のひとつもない。
野球のシーズンには親父の贔屓のチームの中継を垂れ流しながら、凡打に終わった選手に悪態を吐きながらビールを飲む親父が、目の前にいるだけだった。
ただ何でもないような会話をしながら、おにぎりを頬張る。
それだけなのに、食事とは、こんなに美味しいものなのかと驚いたことを覚えている。
「何があったのか、話せる?」
全部のおにぎりを分け合って食べ終えた後、彼女は聞いてきた。
車のエアコンが始動して、エンジンが低い唸りを上げている。
話したくないことのはずなのに、この時には由美子さんに聞いて欲しくて、全部話していた。
由美子さんは、何も言わずに時たま相槌を打ちながら聞いてくれた。
「……それで、親父を殴っちゃって……怖くなって、家を出て来ちゃいました…。」
そこまで話した時。
彼女がオレを見つめる目が潤んでいる事に気付く。
「そう、だったんだ……辛かったね…。」
そう言って、右頬に涙が流れる。
どうして、この人は泣いているんだろう。
無関係のオレみたいなガキのために。
そう思った時には、オレの身体が温かいものに包まれていた。
抱き締められたのに気付いたのは、彼女の髪の良い匂いが鼻腔を満たした後。
その温かさが心地良くて、オレはもう一度泣いてしまった。
それから、もう少しお互いの話をした後、
「辛いかも知れないけど…家には、帰らなきゃね。
ちゃんと、お父さんにもごめん、って謝るんだよ。」
「でも……あんなヤツに、」
「キミの辛さは、全部は分かんないよ。
でもね、謝るのはお父さんのためじゃないよ。
フミトくんの、自分の気持ちに区切りを付けるため。
いい?」
「自分の……ため……。」
そんなことは、考えたこともなかった。その言葉が、自然と胸の中に落ちていく。
分かった、と頷いて、彼女の目を見ると、彼女は笑っていた。
そして、オレの頭に手を伸ばして、撫でてくれる。
子供扱いされてるのに、何故だかそれが嬉しかった。
「よし!良い子だね!
ねえ、いつも学校は、何時くらいに終わるの?」
「学校は…いつも帰ってくるのは夕方過ぎるくらいで。
十八時くらいです。」
「そっか!
今日は私も飲み会だったから、こんな時間になっちゃったけど、私も残業とかなければそのくらいには帰れるからさ!
また、ここで会おうよ!
また、フミトくんの話、聞かせて!」
そんな、約束とも言えない約束。
そして、その日は別れた。
別れ際、初めて彼女に怒られた。
「今日は本当にすみませんでした。
こんな時間まで話聞いてもらっちゃって…。」
「こ〜ら!
そういう時はね、すみません、じゃないんだよ?
ありがとう、って言うの!
分かった?」
「あり、がとう…?」
「そう!
すみませんとか、ごめんなさい、は自分が悪いことをした時に言う言葉でしょ?
そうじゃなくて、相手に感謝を伝える時はね。」
彼女が笑う。
「ありがとう、
って、言うんだよ。」
これが、オレと由美子の出会いだった。
その後、家に帰った時には、まだ鍵は開いていた。
親父の寝室に向かうと、親父はもう、向こうを向いて横になっている。
眠っているのか、寝たふりなのかは分からなかった。
その背中に、ごめん、と小さく呟く。
あぁ、と小さく、それでも確かに返事が返ってきて…親父がどう思って、あの返事をしたのかなんて知らない。
どうでも良かった。
ただ、胸の中にモヤモヤが消えていくのを感じて、自分の中での「区切り」を付けるって言葉の、意味が分かった気がした。
その日は、泥のように眠った。
それから、毎日のようにオレは由美子さんと出会った駐車場で待っていた。
彼女は本当に来てくれて、残業か遅くなった時には、ごめんね、なんて言ってくれて。
聞いたことがある。
どうして、無関係のオレなんかのために、こんなにしてくれるんですか、って。
彼女は、笑って応えてくれた。
「オレなんかのために、なんて言葉は好きじゃないよ〜。
私が、フミトくんの話をもっと聞きたいなって思った、それだけだよ?」
そう言って屈託なく笑う彼女の笑顔が眩しくて。
この時には、彼女に惹かれていたんだと思う。
そうして、由美子さんと逢瀬を重ねて。
初めて覚えたその気持ちは、段々と募っていって。
夏休みに入って、少しした時には、もう自分でもこれが恋だということに気が付いていた。
何とかして、この気持ちを伝えたい…その時に、オレが頼ったのは、一枚の絵だった。
彼女が好きだと言っていたアーティストのアルバムジャケット。
少ない高校の友人にお願いして、CDを貸してもらって、葉書にそのアルバムジャケットの写真を模写していく。
誰かのために絵を描く、というのは初めてのことだった。
夢中になって鉛筆を動かして、描き上げるまでの二日間はあっという間に時間が過ぎて行った。
その日も、約束の時間にコンビニの裏手で待って。
心臓が、聞いたこともないような大きな音を立てる。
彼女を待つ時間が、永遠かのように思えた。
駐車場に着いて二十分、彼女の車が入ってくるのが見えた。
心臓が口から飛び出るのかと思うほど、鼓動が大きく脈を打つ。
車に乗り込んで、挨拶をして。
「どうしたの?今日はなんか緊張してるね。」
彼女の指摘に、冷や汗が流れる。
震える手で、バッグから描き上げた絵を取り出す。
「あの、これ…。」
「ん?
…これ、B'zじゃん!
どうしたの、コレ!」
「あ、いや、描きました……。」
「描いた?
え、コレ絵なの!?
フミトくんが!?
すごい!
すごいじゃん!」
彼女の嬉しそうな声が、オレの緊張をほぐす。
オレまで嬉しくなるような、特別な声だった。
でも、どうしても伝えたいことがある…。
ゴクリ、と唾を飲み込んで。
「オレ、ずっと、由美子さんに話聞いてもらってて、ずっと助けてもらってて。
気が付いたら、由美子さんと一緒にいる時間が待ち遠しくなってて、」
由美子さんは、何かを察したのか、真剣な目でオレの話を黙って聞いてくれる。
「オレ…オレ、由美子さんのことが、す…
好きです。
これからも、ずっと、一緒にいたい。
付き合って、ください…!」
由美子さんは、少し驚いたように固まってしまう。
そうだよな…。
十歳も下の、こんなガキに告白されたって、嬉しいはずがないよな…。
諦めよう、そう、思った時に。
「ねぇ……。
私、フミトくんからしたら、十歳も上の、おばちゃんだよ?
本気で言ってるの?」
慌ててその言葉を否定する。
「おばちゃんなんて、そんな……!
年齢とか、そんなの関係なくて、オレが、由美子さんとずっと一緒にいたいって、そう思ったから、」
「……ねぇ、フミトくん…私もね。
最初は、フミトくんが、寂しそうでほっとけないなって、そう思ったの…。
でも、こうやって、話をしていく内にさ、もっと話をしていたいな、って。
一緒に、いたいなって思うようになってた…。
でもね、」
下を向いて、唾を飲み込む。
「必死で、言い聞かせてたの…。
私は、十歳も歳上なんだから、って。
フミトくんには、もっと相応しい人がいるはずなんだからって…。
諦めよう、って、ずっと思ってた。」
そして、顔を上げて…その目には、涙が溜まってて。
もう一度、同じ質問をする。
「本当に、私で良いの…?
私、十歳も、歳上なんだよ?」
「オレは、由美子さんがいい。
由美子さんと、一緒にいたい……。
だから、付き合って、ください…!」
オレの返事を聞いた由美子さんが、耐え切れなくなったのか、嗚咽を漏らす。
泣きじゃくりながら、何度も頷いてくれる。
「こち、らこそ、よろしく、お願いします……!」
その言葉をきっかけに、どちらからともなく力強く抱き合う。
この温もりを、絶対に手離したくない。
この時、オレは本気でそう思っていた。
しばらくはしゃくり上げる彼女を抱き締めながら、喜びを噛み締めていた。
少しずつ落ち着きを取り戻していく彼女の体温が、堪らなく愛おしいものに感じていた。
「えへへ…ごめんね、泣いちゃって。
ねぇ、フミトくん。」
目を赤く泣き腫らした彼女が、言いにくそうに身を捩りながらオレの名前を呼ぶ。
「なんですか、由美子さん。」
「もう、敬語は終わりにしよ?
つ、付き合うんだもん、敬語とか、さん付けとか、やめて、欲しい、かも…。」
みるみる内に頬を紅潮させながら、小さく口を窄めて可愛らしい願いを口にする。
堪らなく可愛らしくて、もう一度抱き締めながら、その耳元で囁くように、その名前を呼ぶ。
「分かったよ、由美子さ……由美子。
これから、改めてよろしくね。」
「……!
うん、うん!
こちらこそ、これからもよろしくね、
フミくん!」
「フミ、くん?」
「うん、
フミくん!
私だけの特別な呼び方!」
照れたように少しだけ舌を出して笑う彼女。
その笑顔に負けて、許してしまう。
「なんだか、照れくさいね。」
「ふふ、ダメだからね?
私だけの特別なんだから!
他の人に、絶対呼ばせちゃだめだからね!」
こうして、オレたちは恋人同士になれた。
この恋の結末が、残酷なものになるとは思いもしないで。




