第十一話 連帯
師匠の寂しそうなあの顔が、オレの胸を締め付ける。
だが、これは師匠の店を残すために必要なことのはずだ。
そして、あの馬鹿な弟弟子の負担を解放するためにも。
そう自分に言い聞かせる。
今は現実問題として、店の譲渡資金の調達だ。
Kの売却で手にした金は、オレの修行のための旅費と色々な店で実際にその味を味わうための酒代に消えてしまっていた。
師匠の店を買い取るためにはとてもじゃないが足りない。
時間がない。
このままダラダラと時間を過ごす訳にはいかない。
師匠と話した翌日には、荒削りな事業計画書をまとめて、以前Kを開く時に融資をしてくれた銀行に持ち込んだ。
しかし、一度店を畳んだことが影響して、まぁ、一応検討はしてみますがね、と連れない返事が返ってきただけだった。
この調子では他の銀行も似たようなものだろう。
もし融資が通るとしても、相応の時間が掛かることは目に見えていた。
急がなければならない。
時間との勝負だ。
銀行に断られたからと言って諦めるという選択肢は、今のオレにはなかった。
オレが頼ったのは、あのKでのカクテル勝負の時にもいた、根津様だった。
あの時、根津様には情けない姿を見せた。
店を閉めるか悩んでいた時にも随分と弱音を吐いてしまった気がする。
呆れられていても仕方がない。
それでも、希望はここにしかない。
必ず、説得してみせる。
オレの弟弟子がしたように、今度はオレが守る番だ。
この命に換えても。
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「久しぶりだね、ケンジくん。
二年ぶり、かな?」
あのカクテル勝負の時の、自らの技術に酔い驕った顔。
その後の、すべての自信を失い、道に迷った顔。
今の彼の顔は、そのどちらでもなかった。
胸に何か悲壮な決意を固めた、覚悟を決めた顔だ。
良い顔になったな。
どこか、チーフにも通じるものを感じた…兄弟弟子とは、ここまで似るものなのだろうか。
昨日、安永くんからもチーフが意識を取り戻したと聞いている。
時間があればすぐにでも見舞いに駆け付けようと思っていたが、私も従業員の生活を預かるという責任がある。
仕事を疎かにして駆け付けても、彼は喜ぶまい。
仕事が終わってからでは面会の時間にも間に合わない、大勢で押し掛けても迷惑を掛けてしまうし、彼の性格上、恐縮してしまうだけだろう。
落ち着いたら、ゆっくり店に行って、彼の話をしっかりと聞いてから、少し説教がてらに見舞いとすれば良いだろう。
この時まで、私はそんな風に考えていた。
目の前にいる、チーフの兄弟子の話を聞くまでは。
「ご無沙汰しております、根津様。」
その眼は揺るぐことなく、私の目を真っ直ぐに見つめて来る。
力が入り過ぎている、まるでここで命を取り合おうとしているかの様に。
「本来であれば、あれだけ贔屓にしていただいていたにも関わらず、突然店を畳んだご無礼をお詫びしたいところですが。
今は、時間がありません。」
すぅ、と息を吸い込むのが見える。
「単刀直入に申し上げます。
金を、貸してください。」
私の目に、失望の色が広がる。
先程の、いい面構えになった、と思ったのは私の目の錯覚か。
私は自分で言うのも何だが、成功者だ。
近隣でもいくつもの企業を運営しており、寄付もそれなりにさせてもらっている。
そして、成功者ということは、それに群がるハイエナのような人間も、数多く見ているということだ。
所詮はケンジも、成功者に群がるハイエナの一匹にすぎない男だったか。
適当にあしらって追い返そう。
そして、この男のことは二度と思い出すまい。
そう、思った時。
「お願いします。
必ずお返しできる、という保証はありません。
虫のいい話だということも分かっています。」
金を借りようと近付いてくる人間は、皆決まって同じことを言う。
返す当てはある、
儲かる見込みはある、
必ず損はさせない…
聞こえの良い美辞麗句を並び立て、私の機嫌を取り、なんとか宥めすかして金を掠め取ろうとする。
必ず、その口元に下卑た笑みを浮かべて。
だが、ケンジの目はただ真っ直ぐに私を見ている。
笑いの一つも浮かべていない。
これまでのハイエナとは、何かが違う。
そう、思った時。
「オレには…担保にできるような財産も、信用もない、ということは分かってます。
だから、もし返せない、となった時は。
この命を持って償います。」
生命保険の証書がテーブルの上に置かれる。
ケンジは、比喩などではなく、本気だ。
私は、息をするのも忘れていた。
「オレは…馬鹿です…。
愚か者です…。
こんな形でしか…!
どうか、お願いします…!
オレに、金を貸してください!!」
分からない。
ケンジに、一体何があったというのか。
土下座をするようにうずくまるケンジの肩を掴み、顔を上げさせる。
ケンジの目は、赤く腫れていた。
よく見れば、その右の拳も皮が剥け瘡蓋になっている。
私は…どうしても話を聞いてみたくなった。
このプライドの塊のような男が、下らない理由で恥も外聞もなく頭を下げるはずがない。
「何が、あった。
話せ、それが、金を借りる人間の最低の礼儀だろう。」
「オレは…馬鹿でした…。
師匠が…、マスターが、あんなことになってるなんて、知りもしなかった…。」
「師匠?確か、ioriの…?」
「はい…その、ioriのマスターです…。
マスターは今…入院、しています。」
入院、だと…だから、見たことがなかったのか。
だが、私がioriに通うようになって、もうすぐ二年になる。
二年もの間、長期入院、というのは…余程…。
「膵臓癌、だそうです。
発見された時には、もう手術もできないくらいに進行していたと…。」
そんな、まさか。
チーフは、それを。
「チーフは…アイツは、最初から。
マスターが倒れた日に、病院に一緒に。」
「馬鹿な…!それじゃあ、彼は、」
ケンジが頷く。
「それが…ちょうど二年程前…あの、カクテル勝負の、少し前、でした…。
アイツは…その時から、たった一人で、誰にも言えずに店を守っていて…。
もしかしたら、オレは…オレは!」
何かを振り払うように、ケンジが頭を振る。
「アイツが…!
アイツが、助けてくれ、と言おうと、オレのところに来たかも知れないのに…!
オレは、下らない嫉妬とプライドで、あの馬鹿な勝負を挑んで…!
その声すら、上げさせられなかったんです…ッ!」
そんな。
馬鹿な。
その後だ、私がioriに行ったのは。
私は、あの時。
何をした…!
彼が隠していた苦しみに目を向けることもなく、偉そうに、彼を試すような真似をして…。
あぁ、でも、彼は、見事に私を満足させてくれた…そんな苦しみなど、一欠片も見せることなく…!
彼は、私が無責任にもマスターに会いたい、と言った時、何を思っていたのか。
どんな悲しみを押し殺していたというのか…。
「そして…あの、馬鹿野郎は…チーフは…全部、犠牲にして…。」
チーフが。
チーフが、何を。
何を犠牲にした、だと。
全部?
全部、とは…何、を
「アイツは……誰にも言わずに、マスターの、医療費を、」
息が止まる。
「自分で…出してたんです…!
マスターの、帰る場所を守るんだって、
あの場所で、たった、一人で、
戦ってたんだ…ッ!」
ケンジの拳が震える。
その拳に、涙の滴が落ちるのが見える。
「オレが、オレがッ!
何も知らずに、自業自得で、店を閉めて、修行だなんて良い気になって、あちこち出歩いていた時も…!
アイツは、アイツだけは、
マスターの帰りを、
ただひたすらに待って…ッ!」
ケンジの声は掠れ、震えていた。
嗚咽が漏れるのが聞こえて来る。
彼の右の拳、あの皮の剥けた瘡蓋が、彼の言葉の重さを、そのまま物語っていた。
私の心は、不思議と納得してしまっていた。
栄養失調も。
絵という夢を諦め掛けてまで、彼があれだけ必死に店を守ろうとした訳も。
全部が繋がった。繋がってしまった。
気が付けば、私の頬にも、熱いものが流れていた。
「それで…お前は、私に金を借りて、どうするつもりなんだ…。」
声が震える、もう答えは分かっている。これはただの答え合わせだ。
「マスターに、話をしてきました。
オレに、ioriを。
チーフを、頼む、と。
借りた金で、オレがマスターからあの店を買い取ります。
その金を、マスターの医療費に充てる。
そうすれば、チーフが金を負担する理由もなくなる。
あの馬鹿の未来と、マスターの帰る場所を、今度は、オレが、」
目に力が戻るのが見える。
煮え滾るマグマのような熱を込めて、力強く宣言する。
「守るんです…!」
私は、成功者だ。
成功者には成功者の責務があると思っている。
未来ある若者の芽を、病なんかに潰させてたまるか。
責任を負うのは、私達年寄りの仕事だ。
この仕事は、絶対に奪わせない。
ケンジの店の買取資金については全額私が出させてもらった。
無利子無担保、返済などどうでもいい。
生命の値段と考えれば迷う必要はなかった。
ただ、一つだけ条件を出した。
絶対に店を潰させない。
そのために、経営については多少の口を挟ませてもらうこと。
あの素晴らしい店を、チーフが命懸けで守ろうとした店を、絶対に途切れさせるわけにはいかない。
冷徹な経営者としての目線で、あの店を守るという責任を私にも負わせてくれ、とケンジに伝えたら、アイツはまた泣いてしまった。
ケンジとの話の後、一時間もしない内に、私は全ての仕事を切り上げチーフの元へと向かった。
あの、たった一人の背中に、全てを背負おうとした、愚かで、そして崇高な魂の持ち主に、説教をしなければならないと心に決めて。
チーフの病室は、まるで教会の礼拝堂のようにただ静かだった。
一言も発することを許されないような重い空気に支配されていた。
あの日から泊まり込んでいる安永くんが、伸びた髭もそのままに迎えてくれる。
先程市川先生にもお会いして、かなり容態も安定してきたと伺っているのに、まだそのまま泊まり込んでいるようだ。
チーフも、大学生とはいえもう成人を迎えた一人の男だ。
そこまで過保護になることはあるまいに…。
枕元には林檎が剥かれていた。
ひと口も口をつけられず、既に褐色へと変色が始まっている。
ケンジが見舞いに行った、と言っていたから、その時に持参したものかも知れないな。
病人に固形物はまだ早いだろう、ケンジもまだまだだな…とゼリーの詰め合わせを枕元に置いて、ベッドの横の椅子に腰掛ける。
「起き上がれるようにはなったようだね、チーフ…。
随分と、無茶をしていたようだな。」
チーフは俯き、項垂れていた顔を持ち上げ、力無く私を見る。
こんなに弱々しい目をする男だったのか…まるで、どうしてみんなでオレを責めるんだ、といじける子供にしか見えなかった。
そういえば、バーという空間の外でチーフに会うのはこれが初めてだ。
この姿を見れば、彼が大学生というのも納得できる気がした。
それは、あのioriという空間で、あの制服に身を包んでいた時の彼が、どれほどの覚悟で店に立っていたかを物語っていた。
「ケンジくんから全部聞いたよ…殴られたところは大丈夫かい?」
ケンジからは感情に任せてチーフを殴ってしまったことを聞いていた。
その後、壁を殴って拳を痛めたことまで。
まったく…よくやってくれたものだ。
荒療治かも知れないが、少しはチーフに届いただろうか。
ケンジだけではなく、皆の想いが。
チーフは一瞬目を泳がせた後、また俯いて…呟くような、弱々しい声で。
「聞い…たんですね……。
ご心配おかけして、すみ、ませんでした…。」
その声色には、どこか諦めの色が浮かんでいた。
どこか、空虚に響くその声は…彼の抱えるものが、私の想像を超えて遥かに重いものであることを予感させた。
踏み込んで良いか、一瞬の逡巡の後、腹を決め、全部吐き出させることにした。
「店は、ケンジに買い取らせることにしたよ。
資金は私が提供し、代わりに経営には私も参加する。
もう、あの店は安泰だ。
心配する必要は無くなったよ。
その金で、マスターの医療費も出せる。
足りないようなら、私が出させてもらう。」
チーフの目に浮かんだのは、安堵と……絶望。
「キミのしていたことは尊い、誰にも真似できない崇高な行為だよ。
だがね。
何故、誰にも相談しなかった?
もちろん、店の客に相談するような内容でもないだろう。
キミの親には、」
「親父になんて…絶対に、言えませんよ…。」
私の言葉を遮って響くその声は、明らかに憎しみの色に染められていた。
彼の闇を覗いたようで、悲しさを覚えると同時に、心臓がギュッと握り締められたような痛みを感じる。
「バーテンダーをしていることも、伝えていません…。
どうせ、あの人に言ったところで、水商売なんて始めやがって、と馬鹿にされて殴られるだけです。」
その言葉だけでも、彼の父親がどのような人間であるかが透けて見えるようだった。
自分の価値観に塗れた、くだらない世間体。
それを、彼に求め、押し付けて…。
「…それでも。
君の身に起きたことを話せば、少なからず理解は示してくれるだろう。
例え同情だとしても、だ。」
チーフは静かに首を振り、悲しそうな声で呟くように続ける。
「あの人にとって、オレは『世間体』でしかないんです。
自分が失敗したことのやり直しをさせるためだけの、」
モルモット。
その言葉が鼓膜に届いた瞬間、思わず息を呑む。
「大学ならどこでも良いから、進学しろ…そう、言われて。」
そう言って、カウンターでは見せたことのないような哀しい笑顔を浮かべる。
「マスターの医療費を出すなんて、あの人にとっては美談でもなんでもない。
ただの『厄介事』でしかない。
そんな他人の人生なんてとっとと見切りを付けて、絵に集中しろ、少しは金になる絵を描けるようになれ…そう言われるだけです。
人のために金を使う余裕があるなら、ここまでにオレにかけた金を返せ、と言われるのが関の山ですよ。
実際、大学に入る時にも言われてますしね。」
最後は吐き捨てるように告げて、見たこともない悲しそうな笑顔を浮かべて、チーフは窓の外に目を向ける。
「ましてや、あの人たちの前で、オレが弱音を吐くなんて、絶対に許されない。
マスターに代わって店を継ぎたい、などと言おうものなら…きっと、罵倒されるだけでしょう。
学業を疎かにして、バーテンダーなんかにうつつを抜かしている、と。」
彼の目には、未来への希望ではなく、親という本来なら絶対の庇護者であるはずの存在に対しての絶望と諦めが刻まれているように見えた。
私は、私自身が選択に迫られた際に、答えを私に委ねながらも…ただ、後悔しない選択をするんだ、と背中を押してくれた父親のことを思い出していた。
失敗すると分かっていたとしても、後悔に囚われないような選択をすれば、お前の人生はきっと豊かになる、と。
その温かい言葉が、私の行動理念。
だが、彼の親は…子供のやりたいことを応援するのが親ではないのか。
挑戦させてやるのが、失敗したとしてもその経験を積ませてあげるのが親ではないのか…!
「そうか……。
君は、成功しか許されない環境で育った、ということだったのか…。
何かに挑戦することも許されない、そんな、環境で…。」
チーフは何も言わず、ただ、うつむいた。
その表情が、私の言葉を肯定していた。
彼は、そんな親の元で雁字搦めにされて育てられ、相談を許されない環境にいたんだ、と。
そんな彼にとって、誰かに…周りの大人に相談して助けを求めるなんて、到底できることではなかったのだろう…。
彼にとって、まだ見ぬマスターというのが、どれ程の存在だったのか。
本物の父親よりも、父親のような存在だったのではないか。
そんな存在を失うかも知れない、その恐怖。
なんとかしてその父親の居場所を、帰る場所を守りたい…全てを犠牲にしても。
彼の孤独な決断の理由が、痛い程分かってしまった。
そして……あの、ケンジに店を買い取らせる、と言った時の絶望の意味も。
彼は、自己犠牲の中にのみ、自らの存在意義を見出せていたのだろう…彼の境遇を思うと、胸が痛む。
溢れそうになる涙を、唾を飲み込んで堪えて言葉を紡ぐ。
「では、学業はどうする。
店はケンジくんが守る。
君は安心して大学に戻ればいい。」
私がこれからの話をしようと、学業の話を振った途端。
チーフの肩が震え、初めてはっきりとした絶望の色を浮かべた。
「…戻れません。
留年が、確定しました。
店のことで、前期はほとんど授業に出られなかったし。
この入院で、単位が足りなくなりました。
親には…退学することを伝えるつもりです。」
チーフの声は消え入りそうだった。
「馬鹿な…留年程度で、」
「親父は、絶対に留年を許さないでしょう…そういう人間です…。
体調を崩して入院して、留年するかも知れないと伝えた時に、学費も、今の部屋代も、もう出さないから卒業したいのなら自分でなんとかしろ、と言われています。」
安永くんの目を見れば、そっと首を横に振っていた…まさか。
「見舞い、には…?」
「私はずっとこの病室に一緒にいましたが……まだ、一度も…。」
あり得ない。それが、親か…!
子供が、心配ではないのか…!
「良いんです…親からは…留年などという恥を晒すなら、もうお前は……。
用済み、
だと言われていますから…。」
恥、だと…。
この青年の、これ程崇高な、悲壮な行動を。
貴様で追い込んでおいて……。
用済み、だと…!
生まれて初めて覚える激しい怒りが、私の心を支配する。
ふざけるな…!
それが、親の言うことか……!
「……分かった。
すまない、辛いことを話させたな…。
後は私に任せなさい。」
そう伝えて、大学名と彼が借りているアパートを確認した。
美大と聞いていたので、予想通りの近くの大学だった。
誘致の際に私も多少関係したこともあり、顔が効く。
目の前で苦しんでいる若者に手を差し伸べられなくて、何のための成功だ。
この時には、私はこの若者の全てを背負う覚悟を決めていた。
話して疲れたろう、少し休みなさい、と促し、怪訝な顔をするチーフを無理矢理に寝かし付ける。
安永くんを伴って、病棟の談話室へと移動した。
ここからは、大人が責任を果たす時間だ。
そのまま、安永くんには待ってもらい、秘書に電話を掛ける。
「根津だ。
すまないが、あの美大の学生課の課長にアポを取っておいてくれ。
急ぎで頼む。
それと、今から言うアパートの管理会社を調べてくれ。」
アパートの名前を告げ、電話を切る。
安永くんに待たせたことを詫び、向かいの席に座る。
随分と憔悴しているのが分かる…彼もかなりチーフに肩入れしていた様子だったからな。
ずっと病室から離れようともせずに、付き添っていたのだろう。
彼には珍しく、スーツはヨレヨレでシャツの襟元や袖口には汚れも見えた。
だが、そんな様子では、私も話ができない。
これは、歴としたビジネスの話なのだ。
「安永くん。
キミがチーフのために尽力してくれたことは、私も理解している。
だが、君の顔も限界に見える。
この後、私の話が終わったら、まず一度自宅に帰って、ゆっくり風呂に入って休みなさい。」
安永くんは、力なく頷くだけだ。
チーフが倒れて、ショックなのは分かる…私だって同じだ。
だが…彼の憔悴っぷりからは、何かそれ以上のものを感じる。
違和感が耳の奥でチリチリと警鐘を鳴らす。
だが、一先ずはビジネスの話だ。
これは、彼の利益にもなる話だ。
「先程チーフにも伝えた通りだ。
私はケンジに店を買い取らせる。
ついては、これからの会計をキミにお願いしたい。」
安永くんは、まだ焦点の定まらない瞳をゆっくりと上げる。
意味が分からない訳でもあるまいし…苛立ちを隠して、話を続ける。
「もちろん、ここまでの過去の会計処理の見直しもお願いしたい。
加えて、ケンジの債務が残っていないか本人と話をして相談に乗ってやってくれ。
それから、」
ひと息入れて、言葉を続ける。
これで、少しでも安永くんがやる気になってくれると良いのだが。
「私は、チーフの生活を立て直すために支援をすることに決めた。
学費も、当面の生活費も、アパートの家賃についても、だ。
それらの費用の算出や譲渡方法について、会計の専門家としてアドバイスが欲しい。
店の会計はもちろん、ケンジとチーフの件についても、費用は私が出す…別途報酬も出そう。
急ぎでお願いしたい。
頼めるか?」
悪い条件ではないはずだ。
これなら、彼も納得して協力してくれるだろう。
しかし、そんな期待は、全く思いもしなかった形で裏切られた。
「それは……できません…。」
「何故だ!
キミは、ioriの事情もよく知っているだろう!
チーフからの信頼も厚い!
キミ以外に適任はいない、キミの力が必要なんだぞッ!」
声が大きくなる。
突然の大声に、談話室の視線が集中するのを感じる。
「そうじゃ…ないんです。
根津様が言われた、ioriの会計も、ケンジくんの件も…チーフの件も。
全部、私にやらせてください。
ただ……費用は、私が自分で出します…。
報酬も、受け取れません。」
意味が、分からない…。
何故だ。何故、そこまで。
「私は……知っていたんです…。」
それは、罪の告白だった。
知っていた。
その言葉が意味することは。
「……どういう、ことだ。
全部、話してもらおうか。」
安永くんは、コクリと小さく頷き、続ける。
「私は…ioriに通い始めて五年ほどになります…。
ケンジくんがあの店にいた頃から通っていました…。
そして、あの、三年前の、初雪が降った夜。
その日は、自殺した部下の葬儀の日でした…。
とにかく、なんでもいいから、酔いたい気分だった…その日は、マスターは休んでいて…。」
もしかしたら、あの頃にはマスターはもう、と呟いて、安永くんの告白は続く。
「当時は、まだチーフではなかったけれど…チーフの酒を飲んで、チーフの言葉に助けられて…それからは、ioriに足を運ぶ回数が増えていった…。」
ズズッ、と洟を啜る音が聞こえる…泣いているのか。
「ちょうど、二年程前。
マスターが倒れたその日にも…私は、ioriにいたんです…。」
それは。
それは、許せない裏切りのように感じた。
この男は…チーフの苦しみを知りながら、何もしなかったというのか…!
だが、まだ安永くんの告白には続きがあった。
「マスターが倒れた時、他には客もいなくて。
泣いて、ただパニックになるチーフに代わって、救急車を呼んだのも私です…。
そのまま、チーフと一緒に、この病院まで来て。
その時、マスターの病気のことも、知りました…。」
テーブルに雫が落ちていく。
一滴、二滴と、一度溢れた涙は、もう止まることはなかった。
「私は…チーフに、店を閉めるようにと話したんです。
ただ、チーフは。
チーフは、マスターの帰る場所を、守りたい……オレに、守らせて欲しい、と懇願してきて……。
オレには、チーフの願いを、断ることなんか、できなかった…!」
テーブルの上で強く握られた拳が、白く変色していく…。その拳を握る強さが、安永くんの後悔の強さのように思えた。
「チーフは…お客様に心配をさせたくないから、と……マスターが倒れたことも、入院したことも、絶対に誰にも言わないでくれ、と…。
頭を下げて、土下座までして、頼んで来て…。
オレには、頷くことしか、できなかった…。
絶対に、無理だけはするな、とだけ条件を出して、オレは…チーフと約束をしました。
誰にも言わないから、と。」
涙を拭う、彼のシャツの袖が汚れていた理由に思い当たる。
「マスターが、がんセンターに転院することになった時、チーフが入院費を全額支払ったことを知った時に、悪い予感がして。
馬鹿なことをするな、そう、言ったんですが。
チーフは、このくらいしか、オレにはできないから、と。
今回だけだから、と。
その後は、チーフが無理をしていないか心配で、毎日のようにioriに通って。
段々と痩せていくチーフに、まさか、今でも医療費を出していないだろうなと、問い質したこともあります。
その度に、チーフは、そんなことはしていない、絵を描いているから忙しくて疲れてるだけだと言って。」
悔しそうに噛み締める唇から赤いものが見える。
「オレは…約束したから、と誰にも言わずに、何もできないでいた…。
だから、だからッ!
チーフが、こんなことになったのは、
オレの、オレのせいなんですッ!
そんなオレが、チーフの力になれるなら、ならせてください、根津さん!!
オレにも、チーフを助けさせて欲しいんだ…、
これは、オレの責任なんだ、
オレが、チーフをこんな目に合わせたんだ!
オレが、オレがッ……!!」
一気に、全てを吐き出したのだろう。
安永くんはテーブルに突っ伏して、溢れる涙のままに嗚咽を漏らしていた。
握りしめた拳からは、血が滲んでいた。
その姿が、誰よりも彼自身が苦しみ、後悔していることを証明していた。
チーフとの約束と、チーフを救いたい自分との間で、ずっと板挟みになって。
私には…彼を責めることはできなくなっていた。
ただ今は、取引先ではなく、同じバーを愛する、一人の彼の友人として。
こう伝えるしかできなかった。
「分かったよ、安永くん…。
一緒に、彼を、彼の未来を救おう。
手を、貸してくれるね。」
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チーフの秘密は、こうして白日の元に明らかとなり、彼の献身に心を動かされた大人達の手によって、彼自身の救済に向けて動き出すこととなる。
この時、彼はまだ自分の運命が変わったことを知る由もなく。
その病室のベッドの上で、ただ眠るだけだった。
彼の寝巻きの下には、か細い一本のネックレスに通された、安物の指輪――。
その目から、涙が一雫…流れて、枕に小さな染みを広げる。
彼には、マスター以外まだ誰も知らない……悲しい過去があった。
それは、プロのバーテンダーという仮面に隠された、チーフ――フミトの、過去の記憶。
胸元に遺された、小さな指輪の物語。




