失ったもの
華々しき英雄の復活劇から一夜明けた朝、私と元英雄改めアレスの二人はその村の宿、ではなく、そこから少し離れた別の村、クローフの街に潜伏していた。
戦闘後、即村を出て、日が明ける直前まで馬車を走らせた私の身体は強い疲労感に包まれて悲鳴を上げていたが、それでも眠りにつくことはなく、カーテンを閉め切った薄暗い宿の部屋の中で互いの持つ情報を交換していた。
部屋の中は、私の放つ魔法の光だけが煌々と輝き全体を柔らかく照らしていた。
魔法の正体は「神聖魔法」の効果の一つ、「解呪」だ。
「――帝国を追放、なるほど。故に元聖女か。」
その中で、私は自らがここ数日で経験してきた事や受けてきた仕打ちについて話す。
「そ、だから私の目的は復讐と復権。要は嫌いな奴らを引きずり落して元の位置に戻るのが目的よ。」
話しているだけでも怒りと腹立たしさが沸き起こる。しかし、それでも私が自らの身の上を話したのは、その目標と進む指針を目の前の男と共有するためであった。
復讐をするだけであるなら、はっきり言ってそう難しい話ではない。闇討ちでも破壊工作でも、やれることは無限に思いつく。が、私はこの国の法に触れる事をするつもりはなかった。
理由は単純で、二つ目の目標である聖女への復帰への妨げになるからであった。
その為、今後の活動方針は二つ、こちらは人助け等の善行を積み、同時に他の聖女達の悪行を暴く、或いは自滅を誘う策を張り巡らせていく必要がある。
故に私が掲げる目標に必要なのは、上手く場をかき乱すための頭数と、万が一の際に使える戦力。
私が彼に求めるのは、後者の役割であった。
「それは穏やかじゃない話だな。」
しかし、私の期待に反して彼の様子はというと、目に見えて乗り気ではない表情であり、その返事ははっきりとしない微妙なものであった。
「まあそういう事もあって今は帝国の人間とは顔を合わせたくないの。」
別に私の思考のすべてを理解してもらおうとは思ってもいないし、それに今は、昨日の戦いの直後に村を離れた理由さえ理解してくれれば問題ない。
「だからその日のうちに移動したわけか。」
「そういうこと。」
帝国の領地で魔物関係の事件があれば、その兵士たちが後始末に来る。そうなればそれを解決した私達は状況の説明をする必要がある。
悪印象の残った状態で帝国の人間と関われば、私たちの証言がどのような脚色をされるか分からない。現場を通した上層部にどのような印象を与えるか予測が立たたない。故に、私は今帝国側の人間と接触することは避けたかった。
「しかし、それならば必要以上に目立ってしまったのは悪手だったのではないか?悪い意味で帝国に目を付けられることにならないか。」
それを聞いたアレスは、当然の疑問を口にする。
「まあ、追放された翌日に聖女の名を使って人助けしたらそりゃ喧嘩売ってると思われても仕方ないかもしれないけど、それでもやる意味はあったと思うわ。」
はっきり言って彼の指摘はごもっともだ。あそこで戦い、名前を売ったことで今後得られるメリットと、今背負っているリスクの釣り合いは、私自身も現状測りかねている。それでも私はメリットを優先した。
「というと?」
アレスは背中越しにこちらへ視線を向けて尋ねる。
「新しい聖女よ。」
私の頭の中にあった懸念材料、それがまだ顔も知らぬ後任の存在であった。
「……?」
「私の追放が新聞で国中に広められるのは確定事項。それはもうしょうがない。けどその後、世間が大きく報じるのは恐らく新しい聖女の就任やそれに伴う式典でしょう。」
報じる側としても、より新鮮な情報に食いつくのは当然である。故にこれも当然予想が出来ている。
「なら仮に、それと同時期に私が人助けをしたとして、それは果たして報じられるのかしら?」
「…………。」
私の問い掛けにアレスは黙り込む。恐らく答えは予測できているのだろう。
「答えは否よ。流石に聖女の就任と比べたら話題性が弱すぎる。」
ただの人になった私の話題と、新たなる聖女の話題、世間がどちらを見たがるかも含めてその差は歴然であった。
「だから追放されて即、人助けの話題を生み出したわけか。」
彼の言う通り、話題の被らない追放から新聖女の就任までの期間であれば、私の善行は大々的に広められるであろう事が予想できる。
しかし彼の言い方は気に食わない。
「私が黒幕みたいに言わないで。」
「失礼した。ただ、この展開は初めから狙っていたのか?」
私の言葉に短く謝罪すると、アレスは矢継ぎ早に質問を繰り返す。
この男には後々、主に対する敬意というものを叩き込む必要があるだろう。
「ええ、先手を取れるのが理想とは思ってたけど、ここまでうまくいくとは思ってなかったわ。」
英雄アレスという戦力、そして、村一つを救ったという偉業、この二つを一夜のうちに手に入れることが出来たのは出来過ぎなぐらい私に運が向いている。
「帝国全体を敵に回すつもりはない、けど、情報戦はキッチリ勝ちに行くわ。」
「……しかしそうなると、面倒ごとを引き寄せそうだな。主に帝国側からの妨害は容易に予想できるぞ。」
それはそうだ。そもそも相手は根も葉もない罪を被せて追放するような相手、ルールなど平気で超えてくるだろう。
しかし私は、そこには現状大きな危機感は抱いていなかった。
「ああ、それなら問題ないと思うわ。当面追手は来ないでしょうし。」
「その根拠は?」
「後々話すわ。……はい、とりあえずやれるだけ治療してみたわよ。」
今はそれよりも彼の呪いの方が重要だ。
魔術による影響を魔法で払うという工程上、どうしても要求される時間は長くなる。
「それにしても、やっぱ強いわね。魔王の呪い。」
長い時間をかけて行った解呪の儀式が終わり、彼の身体からは呪いのかけらも感じないほどに生命力が迸っていたが、それでも治療を行った私の手は、いつものような手ごたえが感じられていなかった。
「いいや、だいぶ楽になった。ありがとう。」
アレスはそう言って感謝の言葉を伝えるものの、彼の身体に張り付いた呪いは、完治ではなく治療による寛解程度のモノであり、根本から取り去ることは出来てはいなかった。
「完全に祓ってやれると思ったんだけど、これは技術とかじゃなくて魔力の問題ね。」
額の汗をぬぐいながら、私はそう返す。
「魔力?」
「ええ、私一人の魔力じゃいくら技術があっても流しきれないわ。」
一般的に呪いというものは対象の魂に張り付きその形状を変化させることで悪影響を及ぼすもの。そして、解呪はそれを聖なる魔力で洗い流す手順を指す。
解呪の理屈はかなり原始的である。呪いという汚れを、魔力という水で洗い流すようなものであり、当て方が悪くても、水量が少なくても呪いは落とせない。また、呪いという汚れが大きく強いほどに、要求される魔力量も、技術も高くなってくるのだ。
そしてそれが魔王の呪術ともなれば、要求されるそれらは計り知れないものになる。
(聖女でも祓えない呪い、ってのは噓じゃなかったのね。)
少し癪だが、私はその事実を認めざるを得なかった。
「それで、どう?動けそう?」
「ああ、魔力さえ使わなければある程度継戦は可能だと思う。」
完治とはいかずとも、それなりに改善されたのか、私の問いにそう答える彼の表情は初めて会った時よりも明るく気力が表に現れていた。
「ほっとけばまた広がるでしょうし、どちらにせよ継続した治療が必要ね。」
そう伝えると、アレスは気にすることもなく上着を着ながら問い掛けてくる。
「……それで、これからどうするのだ?主君よ。」
「まずは食料を何とかしましょう。」
「帝国の中心ならともかく、ここらの辺境なら私が聖女をクビになった話が流れるのはかなり先になると思うし、それまでに保存の効くものを揃えておきたいわ。」
もしも私が追放された聖女であることが知られれば、また国を出た時のような対応をされる可能性がある。故に、食料の補給も、情報収集も、追放されたという情報が出回る前に済ませておく必要があった。
「後は人助けも並行してやってくわ、なるべくおっきくね。」
加えて聖女への復帰の為、昨日の魔物の大軍を掃ったときのように、派手で分かりやすい活躍を収める必要もある。
「人助けに大小など無いぞ。」
すると私の言葉が引っかかったのか、アレスは眉を顰めながらはっきりとした口調でそう言い放ってくる。
実に英雄らしく、素晴らしい意見だ。腹が立つほどに真っ直ぐで鬱陶しくて忌々しい。
「なるべく目立つものってことよ。帝国の睨みが効いている以上、自由に動ける時間は限られてる。余計なことはしたくないわ。」
そんな思考が漏れ出たのか、そう答える私の口調は自覚できるほどに厳しいものになってしまう。
落とし物を探してあげるよりも、誰かの護衛をするよりも、悪人を倒して新聞に載る方が同じ時間でも効率的に善行を広めることができる。そして、それを選んでいられる時間はほとんどない。故に、私は最高効率で私自身が有利になる環境を整える必要があるのだ。
「余計な事……か。」
「とりあえず、買い物よ。日持ちして、調理の手間が掛かんないやつ、探してきなさい。」
そんな私の論理に、アレスは最後まで納得しきれない様子であった。
なんとも馬鹿正直に生きているのだなと呆れる気持ちもあったが、今の私はそれに付き合っている時間も惜しい。早々に話を切り上げて本題へと入る。
戦力目的とは言え人手が増えたことに変わりない。私のおかげで元気を取り戻した事だし、この男にはしこたま雑用を押し付けよう。
「承知した。合流はこの部屋でいいか?」
「ええ、先の事を考えて、予算はこのくらいで済ませてきてね。あと、意味なく目立たないように、フードはつけておきなさい。」
呪いが消えたとはいえこの男の顔は些か目立ちすぎる。私以上に有名人であることを考えると、本当にどこに顔が割れているか分かったものではない。故にこの男は顔を晒さない方が良いという結論が出る。
「主君は来ないのか?」
私から数枚の紙幣と金貨を受け取ったアレスは、不思議そうな表情でそう尋ねてくるが、私にはそれ以上に重要な仕事がある。
「ええ、少し気になる事があるから、それを調べることにするわ。」
そう、情報収集である。
「じゃ、無駄遣いしないようにね。」
「ああ、分かった。行ってくる。」
アレスが部屋の外へと出ていくのを見送ると、私は疲れの残る肉体に鞭打つように自身の頬をパチンと掌で叩く。
「……さて、私もぼちぼち出ようかしら。」
そう言って立ち上がると、私も彼の後を追うように薄暗い部屋から出る。
それから外へと出て数分。
私は自らの顔を隠しながら建物の影を進んでいた。
私は彼と比べれば世間での認知度は低い。しかし、立場上、見つかった際に面倒ごとになる可能性は彼よりもはるかに高かった。だからこそ、私は彼以上に人の視線を気にしながら道を進む。
なぜこんなことを、などと考えもしているが、それでも昨日の村よりもかなり気持ちが楽ではあった。
「この町は教会もないみたいだし、大分動きやすいわね。」
教会がない。それはつまり、私の顔を認識できる者がいる可能性が、限りなく低いという事に他ならない。
突然の出来事により半ば成り行きで辿り着いてしまった街であったが、この環境は図らずもこちらにとって都合の良い環境と言えるものであった。
「後は……。」
そしてそんな思考と共に天を見上げると、私の視線の先には大きな翼を広げた鳥類型の魔物がその場で何度も回旋しながら宙にとどまっている様子が見えた。
(空新聞……あれもここまで来てるんだ。)
空新聞。鳥類型の魔物を調教し、新聞を持たせることで人間よりもはるかに早く、そして遠くまで情報を届ける。市民が手を出せる中では間違いなく現代最速の情報交換の手段であろう。
帝国領の中心から離れたこの街にすら情報を届けることが可能なそれに驚きながらも、すぐにそれを利用する選択を取る。
「そんじゃまあ、ほい!」
魔物へと視線を固定し、胸元から一枚の硬貨を取り出すと、大きく振りかぶってそれを上空へと放り投げる。
空高く舞い上がるコインへ、魔物は急旋回しながら突き進んでいくと、それを大口を開けて飲み込む。そして、少し遅れて同じ位置から紙の束、もとい“空新聞”が舞い降りてくる。
「……なるほど。」
(クビ宣告から三日、帝国を出て一日経ったけど、まだ情報は届いてないみたいね。)
落ちてきた新聞を拾い上げさらさらと目を通していき、ついに自分の名が見当たらない事を確認すると、私はそこでようやく安堵し、肩の力を抜くことができた。
「けど、ここを拠点にするのは無理そうね。」
安心もつかの間、新聞を流し読みする私の視線の中心、一面にでかでかと見えたのは、新たな聖女が帝国に召喚されたとの見出しであった。
それはつまり、遅れてはいるものの、帝国中心部の情報は確かにこの街にも届いているという事の証左であり、私が帝国から追放されたという情報もそう遅くないタイミングでここにも届くことが予想できた。
「情報との誤差を考えると、ここに居られるのはあと二日三日ってとこかしら。」
「……ん?」
新聞を片手に思考を巡らせていると、とある文言が私の視界の端に映り込んでくる。
「盗難事件の増加、か。」
私は無意識にそれを読み上げる。
物騒な話だ。この辺りはよほど治安が悪いのであろう。
「しょうもない街みたいだし、仕方ないか。」
「「…………。」」
直後、周囲の人間たちの視線が私に降り注ぐ。
「……あ。」
しまった、思わず口に出ていた。
「あ、ははは、失礼しました~。」
そんな言葉と共に私はその場から立ち去る。
それから数時間後、情報収集を終えた私は、疲労でふらつく体を引きずりながらなんとか宿屋まで帰還することができた。
「はあ、疲れた。」
疲れで体が重い。文字を読み過ぎたせいで、視界がぼやけている。
「あら、もうついてたのね。」
満身創痍な状態で扉を開けると、予定通りというべきか、買い物を終えたアレスが私を待ち構えていた。
「ああ、食料は買っておいたぞ。」
こちらに気付いたアレスは、机の上に並べられた食材たちを指差してそう答える。
「分かった。確認は明日するわ。」
「……そちらはどうだった?」
そんな私の苦悩や思考など知る由もないアレスは、すぐに話題を切り替えてこちらの成果について問いを投げ掛ける。
「ぼちぼちよ。欲しい情報はいくつかあったけど。」
「具体的には?」
「伝えたいところだけど少し寝かせて頂戴、頭が働かないわ。」
魔力も使った、頭も使い倒している。そろそろ休まないと本格的にマズい。
「そうか、なら私はしばらく見回りに出るとする。」
そんな言葉と共にアレスはその場から立ち上がりドアの方へと向かっていく。
「体力あるわねぇ。髪の毛と言動だけ注意しなさいよ。」
先ほども伝えはしたが、この男の燃えるような赤い髪色はあまりにも周囲の目を引く。英雄と言わるほどの知名度も相まって、見る人が見れば一目でその素性が割れてしまうだろう。
そしてそれは本人もよく理解しているようであり、特に反論もないまま深くフードを被ってこちらへ視線を返す。
「承知した。行ってくる。」
そんな言葉と共にアレスが出ていくと、私はただ一人広い部屋に取り残される。
雑に閉めたカーテンの隙間から、橙色の光が差し込んでくる中で、私は目を閉じる。
外から聞こえてくる喧騒が徐々に小さくなっていくのを感じる。
私の世界に僅かばかりの平穏が訪れる。
それから少しばかりの時が過ぎて。
窓から差し込む光もなくなり、真っ暗になった部屋の中で私の意識は完全に夢の中へと落ちていた。
「ふぁ……。」
窓から入り込む冷たいそよ風に頬を撫でられて目を覚ますと、私の横では目を閉じ、胡坐をかいて座るアレスの姿があった。
「あら、いたのね。」
「ああ、主君、起きたか。」
私が声を掛けるとアレスは顔を上げて答える。
体がだるい、少し休んだ程度では調子は戻らないか。
「そろそろ食事の時間も終わってしまうがどうする?」
食事、とるべきなのだろうが寝起きという事もあり、あまり食べる気になれない。
「私はいいわ。あなた一人で行ってきなさい。」
私はベッドから立ち上がり、扉の方に向かいながらそう答える。
「どこに行く?」
「散歩よ、散歩。食事が終わる頃には帰ってくるわ。」
首を傾げながら問いかけるアレスの言葉に答えると、返事も聞かぬまま私は外に出る。
外は既に日も落ち、薄暗い世界の中で僅かに街灯の炎だけが道を照らす。
「う、んん。」
久しぶりの夜の外出はやはり気持ちがいい。
昼間と違い、行き交う人の顔がよく見えないのも今の私にとっては安心できる。
まあこの発想は完全に日陰者のそれだが、今ばかりは仕方ないだろう。
しいて言えば少し風が強いような気がするが、今の私は解放感に包まれていることもあり、さほど気にはならなかった。
「あら、こんばんは。」
そんな最中、私の思考に割り込むように、目の前から歩み寄ってくる影が声を掛けてくる。
一瞬何事かと身構えるが、闇の中から現れた柔和な表情の若い女性を見て、私はすぐに警戒を解く。
軽装ではあるものの、最低限の防備と腰に掛かった警棒を見るに恐らく守衛ではなく自警団か何かであろうことが予想できた。
「こんばんは~。」
私は怪しまれることを避けるため、可能な限りフレンドリーな声色で返事をする。
「このような場所で女性が一人で出歩くとは、珍しいですね。」
「少し夜風に当たりたいと思って。」
女性の言葉に私は咄嗟にそう返す。
「お姉さんこそ、おひとりで大丈夫ですか?」
私はふと気になったことを女性に問い掛ける。
「ええ、コレもありますし、周囲には私の仲間もいますから。」
女性は私に対して一つに小さなホイッスルを見せながら答える。
準備もいいし人も揃っているという事は、この街の自警団は治安維持に相当力を入れているのだろう。
「最近ここらでは窃盗が横行していますので、気を付けてくださいね。」
窃盗事件が多い、なるほど、警戒を強めてるのはそのためか。
となると、夜中に一人で外を歩き回っている今の私はかなり怪しい存在かもしれない。
「覚えておきます。ありがとうございます。」
余計なトラブルに巻き込まれる前にすぐに部屋に戻ろうと決めると、私は女性に向かって頭を下げ、元来た道を帰ろうと踵を返す。
「…………。」
追放され、仮初の自由を手に入れてなお散歩一つ満足にできない事に辟易しながら私は元来た道を歩く。
「はあ、世界はなんて不自由なのかしら。」
少しばかりの感傷に浸りながら私が呟くと、再び目の前から何者かの足音が聞こえてくる。
「……ん?」
私が視線を向けると、その先には大きな麻袋を持って走る少年の姿があった。
「はっ、はぁ……。」
少年は余裕のない表情で私の真横を駆け抜けていくと、そのまま夜の闇へと走り抜けていく。
「な、なんなの?」
鬼気迫るよう,動揺したような少年の表情を見て、私は戸惑いながら呟く。
「まあいいわ。巻き込まれる前にさっさと戻ろ。」
そうこうしているうちにもう宿の目の前だ。
私は先程までの後ろ向きな考えを捨て、再び睡眠を手に入れるために、真っ直ぐに部屋へと戻る。
「戻ったわよ。」
「主君、無事だったか?」
部屋の扉を開けると、薄暗い部屋の中でアレスが出迎える。
「無事よ。そう何回もトラブルがあって堪りますかっての。」
「それもそうだな。」
私の言葉にアレスは小さくはにかみながら答える。
「まあいいわ。さっさと寝て明日また出発するわ。」
私はそう言ってベッドに飛び込む。
「ああ、分かった。窓は閉めていいか?」
「ええ、お願……。」
窓際に向かうアレスを眼で追いながら返事をしようと口を開いた瞬間、私はとあることに気が付く。
「どうした?」
言葉を途中で止めた私に向かってアレスは振り向きながらそんな問いを投げ掛ける。
「……っ!!」
アレスの言葉を無視して大きく頭を持ち上げた瞬間、体を支えていた腕が滑り、私の身体はベッドの下に滑り落ちていく。
「本当にどうした!?」
アレスの声に焦りが混じる。
しかしそれどころではない。
「ない!」
さっきまであった、窓際に干していたアレが無い。
「……は?」
私は即座に持ち込んだ荷物を広げて中身を確認する。
「ない、ない、ない!!」
どれだけ探してもやはり見つからない。
「修道服がない!!」
夜中の宿屋に私の声が木霊する。