再会は、雨音と共に
雨が降っている。
月明かりすら差さない真っ暗な路地裏の中で、私はたった一人、薄汚れた壁に身を預け、座り込むことしかできなかった。
もう何日、ご飯を食べていないのだろう。もう何日、屋根のないところで眠ったのだろう。
もう何ヶ月、人と話していないのだろう。
寒い。
疲れた。
私、このまま死んじゃうのかな。
そんな思考が頭を支配する中、私の視界に一人分の足が映る。
「あら、大丈夫ですか?」
声に反応して顔を上げると、そこには柔らかな笑みを浮かべる茶髪の女性が、こちらを覗き込んでいた。
「あなたは?」
かすれた声で私が問うと、女性は水たまりのある地面に膝をつき、私の身体を守るように傘を差しかける。
「とある教会で修道女をしています。」
「よければ、うちに来ますか?」
その言葉と共に、私は思い出す。
そうだ。これは私の中にある、一番古い記憶だ。
私の人生は、ここから動き始めたのだ。
――世界が揺れ動く。
「う、んん。」
周囲から聞こえてくる音に意識を引き戻され、重たく閉ざされていた瞼がゆっくりと持ち上がる。ぼんやりとした視界に映ったのは、古めかしくも、どこか丁寧に手入れされた天井だった。
どうやら私は、随分と懐かしい夢を見ていたらしい。
「雨、まだ降ってるんだ。」
先ほどまで見ていた夢のせいだろうか。それともこの部屋に漂う微かな既視感のせいだろうか。理由は定かではないが、私の心は妙にくすぐられるような懐かしさに苛まれる。
しかし、そんな感情を破り捨てるように、喧しい声が耳に飛び込んできた。
「主君? 無事か!?」
「うるさい。大丈夫だから静かにして。」
私の微睡みを乱暴に踏み潰すような足音と共に、扉の向こうから飛び込んできた赤髪の男に、私はため息を返す。
「……私、どのくらい寝てた?」
問い掛けに、アレスは室内の時計に視線を向ける。
「ほぼ半日だ。ここに着いてからは、だいたい六時間程度だ。」
ということは、記憶の最後にあったあの岩場から、さほど離れていないということか。脳内で周辺の地図を思い描くが、寝起きの頭は本来の能力通りには働いてくれない。
「ここはどこ?」
「教会だ。」
アレスは短く、そして躊躇いなく答える。
瞬間、寝起きの脳内に木槌を打ち込まれたような衝撃が響き渡った。
思考が出遅れる。
「…………っ、教会!?」
帝国を敵に回し、その庇護を受けるアルテン教とも当然、良い関係ではない。つまり今ここは、敵の本拠地と言っても過言ではないのだ。
「済まない。避けるべきだとは思ったのだが、貴方の体調を見るに、なりふり構っていられなかった。ここしか思いつかなかった。」
「莫迦っ、だからって、私の立場を忘れたの!?」
上手く言葉が出ない。彼が私を想っての行動なのは分かるが、それでもこの行動はリスクでしかない。
「念のため街の新聞は調べたが、例の件は未だこの街には伝わっていない。一日二日滞在するくらいならまだ――」
「――だとしてもよ。どこなの、ここは。」
リスク管理をしているつもりなのだろうが、その程度ではあまりにもお粗末だ。現在地次第では、今すぐにでも帝国の兵士たちが乗り込んできかねない。
「ダンデの街だ。スラム街の近くにある教会だ。最悪、近くのスラム街に逃げ込めると思ってな。」
「…………っ。」
心臓が跳ね上がるような感覚が私を支配する。
ダンデの街のアルテン教会。想像していた中で、いや、想像していたよりも遥かに最悪の回答だった。
「なんっ、なんで。」
心臓の鼓動が速くなる。息も上がり、呼吸が苦しくなるのを感じる。上手く言葉が出せない。
視界が歪み始めたあたりで、私は自身に強いストレスがかかっていることを理解する。
「なんで、よりによって。」
なんで、よりにもよってここに来てしまったのか。
「あら、目覚めたようですね。」
そんな私の思考を断ち切るように、跳ね上がった心拍を一瞬で止めるような声が響いた。
「…………あ。」
……………………。
よく知っている顔だ。
「お久しぶりですね、シスタールシア。」
何度も聞いた声だ。それこそ、夢に見るほどに頭に染み付いた声だ。
「…………お久しぶりです。シスターローザ。」
私に向けられるこの穏やかな笑顔も、よく知っている。
「…………っ、知り合いか?」
「ええ、そりゃ知ってるわよ。」
私は彼女をよく知っている。彼女も私をよく知っている。
この世界の誰よりも。
そして、その答えは彼女自身の言葉によって示される。
「――彼女を拾ったのは私ですからね。」
「なっ!?」
たった一言、彼女の言葉によってアレスはこの状況を察し取る。
彼女の名はローザ。両親から捨てられ、孤児であった私を拾い、聖女にまで育て上げた人。
そして今、私が一番会いたくなかった人だ。
「済まない、無神経なことをしたかもしれない。」
肝が冷えると同時に、妙な冷静さを取り戻した私はアレスの言葉を素直に受け取る。
「いいえ、私が同じ状況でもきっと同じ行動を取る。貴方に非はないわ。」
むしろ、こうなったのは事前にこのことを伝えていなかった私に非がある。
けど、それでもどうしても、この状況を作り出したこの男と、私自身に苛立ちが募る。
「…………。」
彼女から目が離せず、静かな沈黙がその場を支配する。
「だからとりあえず、二人で、はな――」
私はその沈黙、この気まずさから逃げ出すため、布団を避けて立ち上がろうとするが、再び強烈な脱力感に襲われ、崩れ落ちたところをアレスの腕に抱きとめられる。
「おっと、大丈夫か?」
「ごめん、まだ動くのは無理かも。」
ああ、本当に情けない。
恩師の前で、落ちぶれてボロボロになった姿を晒し、取り繕うことすらできない。
「そうですね。まだ回復しきったとは言い難いでしょう。」
すると彼女は、小さくため息をついてこちらに歩み寄ってくる。
口元が僅かに緩み、眉が少し下がったこの顔もよく知っている。これは、呆れながらも私の言葉を受け入れる時の表情だ。
「なので、もう少しお眠りなさい。」
そう言うと、シスターローザは小さな小箱を取り出した。
疑問を抱く間もなく、小箱の中からどこか懐かしい、花のような香りが広がる。
「…………っ。」
直後、私の視界は再び小さく歪み、意識が暗い闇へと沈み込んでいく。
私を支えるアレスの腕から、僅かな動揺が感じ取れる。
「それは?」
「お香、というよりは香水に近いですね。」
朧げな耳にそんな会話が聞こえてくる。
「昔からこの子は勉強熱心でして、放っておくと夜通し勉強してしまうんです。だから、眠気を誘う効果のあるお香を焚いて眠らせていたんです。」
「そんなものが…………。」
なるほど、通りで嗅ぎ覚えのある匂いなわけだ。
言いたいことは山ほどあるが、口も開かないし、声も出せない。
「彼女自身、今はすごく動揺していると思います。どうですか? 別室でお話など。」
ああ、また私の知らないところで話が進んでいく。
そんな思考と共に、私の意識も完全に闇の中へと落ちていった。




