元英雄
それから数時間ほど馬を走らせ、日も落ち始めたころ、ようやく視界の端に小さな村が見えてくる。
ここはヴィルパーチ村、外部からの商人たちが帝都へ向かう際、休息地として利用されるような村だ。
「よし、着いた。」
そこは決して広いとも、設備が整っているとも思えない小規模な集落のようなものであった。
それでも二日間の猶予がある中でこの村を選択したのは、無理なく馬車を走らせて一日のうちに辿り着くことのできる拠点がこの場所を除いて存在しなかったためであった。
「……これで野宿は避けられた。」
聖女として生活をして数年、何不自由なく暮らしてきた私には、何もない荒野で睡眠を取る事はどうしても我慢ならなかった。
だからこそ、皇帝から与えられた二日間の猶予の中で、私は荷物の整理と並行して第一の拠点を探していた。
「……いや、まだね。」
(まずは宿を探して、明日以降の準備をして、あと今日中に服の洗濯もしておきたいし…………。)
けれどまだ終わりではない。今日この後も、当然明日以降もやることは山積みだ。
「……やることが多い。」
日が出始めた時間から、落ちる直前まで、ほぼ休憩なしで馬に揺られた身体は、所々悲鳴を上げており、そんな状態でこれからの事を考えると、心が折れてしまいそうになる。
「まずは順番に…………ん?」
それでも気持ちを切り替えて村への第一歩を踏み出した直後、私の視線はとある建物へと吸い込まれてしまう。
視線の先に立ち尽くしていたのは、古く寂れた小さな教会であった。
「懐かしい。私が拾われたのもこんな教会だったっけ。」
決して綺麗とは言えないものの、それでも思い出の中にある風景とそれが重なってしまい、しばらくその教会に目を奪われてしまう。
「……と、今は近づかない方がいいか。……っ、わわっ!?」
「おっと。」
しかし、いつまでも視線を外せずにいたせいで、その先にある何かに気付くことができなかった。
「いったぁ~、なに?」
視界が大きく揺れ動き、腰から地面に打ち付けられる。一瞬遅れて私は何かとぶつかったことに気付く。
「済まない、少しよそ見をしていた。」
「い、いえ。」
一瞬遅れて低い声が響き、ぶつかった何かが人間であることを理解すると、咄嗟によそ行き用の口調に切り替えて振り向く。
(でかっ!?)
見上げた先には大きな影が広がっており、先に立つ男を見て思わず動きが固まってしまう。
「立てるか。」
フードを目深に被り、わずかに紫の目を覗かせるその男は、こちらの顔を覗き込むように腰を下ろすと、その大きな手を伸ばして首を傾げる。
「ありがと…………ッ!?」
男の厚意を受け取り、その大きな手を取った瞬間、私の全身に凍り付くような悪寒が駆け抜ける。
あえて形容するのなら、まるで大口を開けた蛇が眼前まで迫ってくるような得体の知れないイメージ。
私はこの感覚をよく知っていた。
「………………貴方、呪われてない?」
目の前の男は呪いに侵されている。
それもかなり強力で厄介な呪いにだ。
「……!?なぜそれを……!?」
その推測が正しかったのか、私の言葉に動揺したのか、男は伸ばした手を反射的に引っ込める。
「だって体の中から気持ち悪い力が……。」
「そうか、感じ取れるなら近づかない方がいい。」
その言葉を聞く限り、私の推測は正しかったのだろう。男はさらに距離を取って踵を返す。
「……見ず知らずの貴女にまで迷惑はかけられない。」
男はそう言って私の顔から視線を切ると、そのまま歩いてきた方向に向かって消えて行ってしまう。
「ちょ、待って!貴方そのままじゃ…………!」
一瞬呆気にとられ、その背中を眺めていたものの、このまま放置していれば男の身が持たないと思い彼を追うために立ち上がる。
が、その時にはもうすでに彼の姿はどこにもなかった。
「は、はや……。」
「……なんなのよ!こっちが心配してやってるのに!」
急に現れ、呪いを持っており、有無を言わせず消えていく。私には関係のない事ではあるが、心の中に妙なもやがかかり、なんだか無性に腹が立った。
しかしそんな怒りも長く続くわけもなく、その日の夕方には、男の記憶すらほとんど消えかかっていた。
「ふひぃ~。宿見つかってよかったぁ。」
これ以上ないほどにスムーズに宿が見つかり、夕飯にもありつくことが出来た。決して余裕があったわけではないが、一日目は予定通りに事が運び、私は自分でもわかるほどに上機嫌であった。
少し奮発して借りた広い部屋のベッドに飛び込み、このまま微睡みの中に身を委ねてしまいたい気持ちを抑えながら、ゆっくりと仰向けとなり天井を眺める。
この部屋は良い。城にあった私の部屋と比べたら何もないが、それがかえって思考に集中させてくれる。
「これからどうしようかなぁ。」
何もない天井を眺め、明日以降の動き方について考える。
「まずは拠点になる町か村を定めて、そこから資金源の確保は最優先。」
そんなことを指折りで確認していたはずの私の身体は、気づけば部屋のテーブルの方へと無意識に移動しており、そのままの流れで城から持ち出した大きな地図を広げていた。
「ある程度自由に動くなら私が聖女だった頃に訪問したところは避けるべきだし、教会が立ってるとこなんて以ての外。この町も、私の存在が教会に知られる前に離れなきゃね。」
独り言を呟きながら思考を整理していくと、黙っているよりも考えが早くまとまるような気がした。
そして同時に地図上に次の行き先の候補地を一つずつマーキングしていくうちに私の思考は順調に結論までの道筋を一直線に進んでいった。
「となると、最初の行き先は、ここかしら?」
現在地から近く、教会も、私の訪問歴もない。そのような条件に当てはまる場所は決して多くなく、私の次の行き先はそう迷うこともなく決定した。
次の行き先は、この村から馬車を使って約一日程かかる場所、そう明日も一日中移動だ。
「あとは…………。」
憂鬱な気分になりながらも、あとはやり残したことはないか、などと考えていると、私の脳内に先程の男とのやり取りが思い浮かぶ。
『……見ず知らずの貴女にまで迷惑はかけられない。』
「……バカなんじゃないの。」
よく話もせず、ただ悲しそうな顔だけを見せて立ち去ったその男を思い出して、再び私の頭の中に苛立ちが湧き上がる。
「…………。」
しかしそんな感情とは裏腹に、私の意識はじわりじわりと闇の中に沈みこんでいく。
今日は怪我をして、魔法で治して、馬車で一日中移動して、私の体力はもう限界であった。
今日は頑張りすぎた、やるべきこともやった。あとは寝るだけ、―――ではない。
「……あ、修道服!!洗ってない……。」
リュックからかすかに漏れる異臭が鼻を突いた瞬間、私はそれの存在を思い出して跳ね起きる。
その後、すっかりと日も落ち、星と月の光だけが大地を照らす中、私はまるで雑巾のように丸められたそれを持ち、村から少し離れた小川に向かった。
一発で身元がばれるような服を村の中で洗うわけにもいかず、人通りの少ないところを狙ってここまで来たのが功を奏し、周辺に人の気配がないことがすぐに確認できた。
「ここまで来れば、見つからないかしら。」
「流石にこれを洗ってるところを見られるわけにはいかないもんね。……うぐぉ!?」
川辺に座り込んで、丸め込んだ修道服を広げると、私は思わず顔を離してうめき声を出す。
「最悪なんだけど。」
生ゴミ、土、そして私自身の血によって、酷く汚れてしまったそれは、脱いでから半日ほどしていることもあり、より強烈な臭いを放っていた。
鼻孔から抜ける凶悪な匂いは私の涙腺を刺激する。
「もうむり、さっさと済ませて寝たい。」
「…………っ!誰?」
そう言って臭いから逃げるように修道服を小川へと投げ込んだ瞬間、背後から強烈な気配を感じて咄嗟に振り返る。
「貴女は、昼間の。」
「あら、奇遇ね。」
振り返った先、数メートルほど離れた木陰には、先程村の中で出会った、フードを被った赤い目の男が立っていた。
「済まない。このような場所に人がいるとは。」
「別に離れなくてもいいわよ。私、そういうの効かない体質だから。」
男は先程と同様にその場から立ち去ろうとするが、私は特に気にすることもなく洗濯を開始する。
「……神聖魔法の才の持ち主か。」
神聖魔法、早い話が聖女になるために必須の希少な魔法であるが、呪いの効かない体質というヒントだけでそれに辿り着くあたり、あの男は相当見識が深いのであろう。
「……そんな所ね。」
男が驚きの声を上げているが、私ははっきり言ってこの男に構っているほど気持ちに余裕がない。
なぜなら目の前にいる魔王級の劇物を無力化するのに精一杯であるからだ。
「しかしなぜこのようなところに?女性がたった一人でいるには危険すぎる。」
「ただの洗濯よ。終わったらすぐ帰る予定だし、問題ないわ。」
「そうだったか。ならば、少し休ませてもらう。」
男の安心したような声が聞こえてたのを最後に、私への問いかけは消える。
「…………。」
「…………。」
よほど疲れていたのか男はそれ以上話すこともなく、その場には私の出すバシャバシャと水をはじく音と、遠巻きに聞こえてくる魔物の遠吠えだけが響く。
(き、気まずい。)
しかし、そんな沈黙に耐えられなくなってしまった私は、再び彼との会話を試みる。
「お、起きてる?」
「……ん、意識はある。」
恐る恐る投げかけた言葉に反応して男は少しかすれた声で言葉を返す。
話すことなど考えていなかったが、私の口は私の思考に従ってすんなりと言葉を吐き出し始める。
「貴方の呪いについてだけどさ。」
「……?」
私がそんな言葉で話を切り出すと、背後の方でごそごそと物音がした。それだけで男の動揺が手に取るようにわかる。
「貴方は自分の呪いについてどのくらい理解してるの?」
「呪いに対する基礎的な知識と、この呪いが他者に影響を及ぼすほど強力なものである。といったくらいだ。」
「…………そう。」
そこまで知っているのであれば、とも思いはしたが、それを放置している事実を思い出し、私は改めて基礎の方から話をすることに決める。
「……呪い、というか呪術ってのは、基本的に解呪しないと生命力を奪い続けるものよ。」
そして小さな沈黙の後に、そんな言葉を切り出す。
「知っている。」
すると男は特段驚く様子もなく答える。
「ソレ、ほっといたら死ぬわよ。」
その様子に小さな苛立ちを覚えた私は一際語気を強くして言い放つ。
「それも知っている。とびきり強力なものだからな。」
しかしながら、「死」という言葉に対しても、男は冷静に受け入れる。
「解呪してあげようか?」
なぜこうもあっさりとしているのか分からなかった私は、呆れ果てながら振り返り、そのような提案を男に投げかけるが、彼はゆっくりとその首を左右に振って口を開く。
「気持ちはありがたいが、不可能だ。」
私の言葉に、男は小さく微笑みながら答える。
「…………。」
「昔、とある国の聖女殿に解呪を依頼したことがある、が結果はこの通りだ。」
言いたいことは分かった。しかし、試す前から否定されるのは少しばかり気に食わない。
「聖女でも解けない呪いって、一体誰の呪いよ?」
聖女の持つ神聖魔法は、呪いや闇の力に対し、強い抵抗力を持つ。故に聖女にとって、呪いをかき消すことはそう難しい事ではなかった。
現に私自身も、聖女としてこれまで様々な呪いを解呪してきた実績がある。そして、それはただの一度たりとも失敗したことがない。
それ故に、彼女には「聖女にも解けない呪い」というものが想像できなかった。
しかし、直後に返ってきた言葉を聞いて私の思考は停止する。
「魔王だ。」
「……なに?呪いで頭がおかしくなったの?」
私の記憶が正しければ、世に言う魔王は今から七年も前にとある人物の手によって討伐されている。仮にその言葉が正しければ、彼は七年以上呪いに侵されている事になる。
そのような驚異的な肉体強度を持つ存在など、私の知る限り存在しない。いや、想像すら出来ない。
「いいや、事実だ。止めを刺す直前に食らってしまったものだ。」
(とどめ?)
魔王は七年も前にとある人物によって討伐された。
その男は赤髪紅眼で筋骨隆々の大男であり、剣技と魔法を使いこなす美青年――
そんなことを思い出しながら目の前の男に改めて視線を戻す。
身体、でかい。私の倍くらい体積がある。
顔はぶっちゃけフードでよく見えないけど、見えてる部分だけで充分美形なのが分かる。
髪の毛、フードの端から覗く赤い髪は噂通りだ。
しかし、瞳の色だけが噂で聞いた紅眼とは似ても似つかない、黒みがかった紫色をしている。
けれど、それ以外の要素が当てはまりすぎている。
つまりこの男はーー
「……貴方名前は?」
「アレス……アレス・イーリオスだ。」
返ってきた男の名前を私はよく知っていた。
「あの魔王殺しの英雄?本当に?」
アレス・イーリオス、その名はまさしく、七年前に私達ヒト族へと戦争を仕掛けた魔族の、首魁である魔王を討伐し、そしてその後に表舞台から行方をくらませた男の名そのものであった。
「英雄、などと言えるほどの力は残っていないがな。」
「噓つけ、全然雰囲気もないじゃない。」
証拠はいくつもある、目の前の男が噓をついているようにも見えない。けれど、どうにも覇気のないその姿をみて、彼が英雄であるという確信が持てずにいた。
「噓というならそれでいいさ。いずれにせよ証明できるものは何もない。いずれ朽ちて死ぬ運命、過去の栄光など意味はない。」
英雄と同じ名を名乗る男は、私の言葉など意にも介せず、自らの辿る運命を受け入れていた。
「その割には随分と満足そうに笑うじゃない。」
「満足さ、この命一つで世に平和が戻るなら、これ以上は何も望まない。」
「そう、つまらない男ね。」
他者との関わりが断たれ、自身の命が尽きようとしているのにも関わらず、その運命を受け入れ、あまつさえそれに満足している男の姿が、面白くなかった。
誰が為に自身の命が消費される現実を受け入れる彼の姿がどうにも気に入らなかった。
「なんとでも言うがいいさ。」
そう呟く男の言葉を無視して立ち上がると、新品同様に綺麗になった修道服を川から引き上げる。
「……よし、こんなんでいいかしら。」
「それじゃあね。自称元英雄様、もう二度と会うこともなさそうだけど。」
最後に吐き出したそんな捨て台詞に、男の返答が返ってくることはなかった。