聖域結界
虚無感と達成感もほどほどに、私達はその後、再び宿へと戻り、出発の準備を整えていた。
何を失くそうが、何を達成しようが私たちの置かれている状況は変わらない。故にここで立ち止まっている場合ではないのだ。
「そういえば食糧はどうなったの?」
「ああ、買ってあるぞ。そこにまとめている。」
私の問い掛けにアレスは、机の上に並べられた食材たちを指差してそう答える。
「一応確認しようかしら。」
一昨日の夜は気付かなかったが、随分ときれいに並べられる。これは相当待たせていたのだろうなと自覚する。
「燻製、乾燥、塩漬け……まあ上々ね。」
買い物の内容は最初の指示通り、保存の効きやすそうなものが多くを占めており、こちらの計算はかなり楽であった。
ただそれはそうと――
「……なんか多くない?」
――量が尋常ではない。食べきるのにひと月、いやそれ以上かかるのではないか?
「そうか?腐る前には食べきれると思うが。」
「ちなみにこれ何日分?」
彼の発言に嫌な予感を感じ取りながら、私は恐る恐るそんな問いを投げ掛ける。
「十日ほどではないか?」
「おっ、けぇ……分かったわ。」
私は思わず頭を抱えて答える。
これは食事の計算もかなり苦労しそうだ。
「それで、改めて聞くが、そちらはどうだった?」
そんな私の苦悩や思考など知る由もないアレスは、すぐに話題を切り替えてこちらの成果について問いを投げ掛ける。
「まあぼちぼちね。」
はっきり言って時間がなかったことも災いして、期待していた以上の情報は得られていない。だから私は、そんな微妙な反応を返して小さなため息を吐き出す。
「そうか、では明日からは俺も手伝おう。」
「いいわ。どうせこれ以上この街にいるつもりもないし。」
「しかし……。」
「それに、今はそんなに焦るタイミングでもないわ。」
落ち着きのないアレスに対して、私は枕に身体を預けながら答える。
「というと?」
アレスはこちらから視線を外し、荷物の整理をしながら問いを投げ掛けてくる。
「今、国の防衛力が下がってるから。」
「……兵士を遠征にでも出しているのか?」
悪くない発想だけど、不正解だ。
「答えは国防の要を国は自ら手放してしまったからよ。」
「主君の事か?」
私の答えを聞いてアレスはすぐに正解に辿り着く。
「ええ、貴方、“聖域結界”って知ってる?」
「すまない、浅学故、よく分からない。」
まあ戦闘で使える代物ではないし、純粋な戦士である彼が知らなくても無理はない。面倒ではあるが私は細かく噛み砕いて説明をすることにした。
「聖域結界、ってのは複数の魔術を複合させて一つに束ねることで発動する儀式型の魔術。具体的な効果は多すぎて一言じゃ説明しきれないんだけど。まあ、一番重要なのは魔物除けね。」
「そして、それを発動するには、聖女の持つ神聖魔法の魔力が必要ってわけ。」
そう、つまりは魔物を遠ざけ、国民の安全を守るのに私たち聖女は必要不可欠な存在なのだ。
「なるほど、聖女というのは、布教活動だけでなく民の安全を守る為にそういったこともしていたのか。」
「当然よ、人間なんて理由なく誰かに優しく出来るほど強い生き物じゃないんだから。」
私の言葉を聞いたアレスは、返答に困ってしまったのか、黙り込んでしまう。
「…………。」
一瞬の沈黙に耐えられなかった私は、軽く咳払いを一回して話を続ける。
「そして、アールグレン帝国はそれを四十八日周期で発動していた。けど、今回彼らはそれを手放した状態で明日の再展開に臨まなければいけなくなったってわけ。」
「だから新たな聖女が来るまでは結界を発動できない、という事か?」
事の重大さに気付いたのか、アレスは顔を上げてそう問いかける。
「いいえ、聖域結界は別に一人でも発動できる魔術だから、私一人減ったところでせいぜい範囲を狭めるか、一部の機能を切る程度の影響しかないでしょうね。」
「ならばそれほど防衛力の低下の心配はないのではないか?」
「本来ならね。けど、今回切る機能は恐らく、魔導防衛機構の機能だと思うわ。」
私の言葉に、アレスからリアクションが返ってくる事はなかった。
「…………?」
「帝国の首都にある外壁に沿って展開される対魔法の障壁よ。敵が攻め込んできたときに、外部からの魔法に反応して展開されて、内外の魔法の行き来を遮断する。文字通り帝国の最後の砦と言っていい代物ね。」
完全に理解できていないアレスに対し、私はため息交じりに説明を行う。
「そんなものを切って大丈夫なのか?」
「大丈夫ではないけど、平時は目に見えないから、切ったところで誰も気づかないでしょうね。」
魔法に反応して展開される結界、ということは裏を返せば魔法を発動させていない間は何もないも同然であり、戦時でもない今は、なくなっても気付きようがないのだ。
「なにもしなければ無くても気づかないそれは黙って外すには好都合という事か。」
「まあ悪戯で魔法の一発でも撃ち込まれれば即バレるけど。」
そもそもそんなことをする莫迦はそう居ないだろうが、それでも万が一を考えるとリスクは大きい。
「本当に帝国側はそこまで致命的な弱点を晒すリスクを取るのか?」
私の言葉を聞いてアレスは信じ難い様子で問いかける。
「絶対に取るわ。それ以上に優先したい事があるから。」
私とてあの城に六年もいたのだ。そこにいる人間の特性はよく理解している。故に私は確信していた。
「優先したい事?」
「そもそもの話、聖域結界なんて無くたって人間は生きていける。世の中には聖域結界を発動してない国だってあるし、そもそも聖女のいない国だってある。」
「そんな中で帝国がわざわざ聖女に特権階級を与えてまで絶えず聖域結界を展開している理由は?そして、重要な機能を切ってまで、周りからの見え方を気にしている理由は?」
ここまで言えばこの男でも私の考えが何となくわかるだろう。
「政治的な背景がある、という事か?」
「正解よ。アールグレン帝国ってのは世界的に見て列強と言って差し支えないわ。そして、第五代皇帝である今の殿下は、そのプライドがある。だから必要以上に他国からの見られ方を気にする。」
「つまり、聖女一人欠けたところで痛くも痒くもない、と他国に知らしめたいのか。」
面子を守るために民が傷付くリスクも平気で取れる人間たち、それが帝国の貴族連中である、というのが私の考えであった。
「莫迦よねぇ!面子を守るために墓穴掘ってるんですもの!」
せめて後数日待っていればこんな問題は抱えることなく過ごせたというのに、という所まで考えると、私はその愚かさと浅慮に、つい笑みがこぼれてしまう。
「心の底から楽しそうで何よりだ。」
「だが言いたいことは分かった。確かに貴女の言う通り、暫くは楽に動けそうだ。」
ようやく納得したアレスは、少しばかり表情が柔らかくなる。
「新しい聖女が現れるまでの十日間、聖女も騎士団もまともに動けないでしょうし、その間の動き方は少し考えるわ。」
ここまで話し終えると、私は軋む身体を叩き起こしてベッドから飛び起きる。
「分かったのならそろそろ行きましょうか。」
「……どこにだ?」
そして私がそう言い放つと、アレスは不思議そうに首を傾げる。
「次の目的地よ。最低限の情報も揃ったし。あとは実際に行ってみましょ。」
「……聞きそびれていたが、一体何を探していたんだ?」
彼の問いに答えながら私はベッドから離れると、続けてもう一つ質問が飛んでくる。
「これよ。」
それに答えるように私は一枚の紙切れを取り出すと、それをアレスへと投げつける。
「地図?」
「そ、これを使って今からやることがあるわ。」
彼の疑問の声に軽く返事をしながら、私は、その目をじっと見つめながら笑みを浮かべる。
「荒事か?」
私の態度から何かを察したのか、アレスは、苦虫を嚙み潰したような表情で短くそう問いかけてくる。
「大正解よ。さ、準備なさい。」
察しが良くて助かる。などと思いながら、私は、同時に指示を出す。
「まったく、人使いの荒い主君だ。」
苦笑いを浮かべたままのアレスは、小さなため息を一つ吐き出しその重たい腰を上げる。
「……ん?」
直後、アレスは何かに気付いたようにそんな声を上げてその場にしゃがみ込む。
「…………主君。」
「何よ?」
彼の言葉に反応して振り返ると、視界に飛び込んできた情報を前に私の思考がフリーズする。
「……どうやら探し物が見つかったようだぞ。」
「…………っ!?」
アレスが両手で持つそれは、私がずっと探し求めていたもの、一晩中追い求めていたものであった。
「修道服!!なんで!?どこから出したの!?」
一瞬何が起こったのかを理解できなかった私は、混乱した思考のまま言葉を吐き出す。
「ベッドの下に落ちていた。」
「昨夜は少し風が強かった。きっと干している時に風に流されて落ちたのだろうな。」
彼の言葉に私は納得してしまう。というか状況から見るにそれしかありえない。
「…………じゃあ私の苦労は何だったの?」
全身の力が抜けていき、そのまま私は地面にへたり込む。
「ま、まあよいではないか。結果的に人助けも出来たようだし……。」
気の毒に思ったのか、アレスが引き攣った笑顔でフォローを入れるが、そんな気遣いすらも虚無感に拍車をかけてしまう。
「よくないわよぉ……。」
宿屋の一室に、虫のように小さな声がこぼれ落ちて消えていく。
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時は遡る。
ルシア・カトリーナが呪いの被害に遭った人間たちの治療のため、方々を駆け回っていた中、クローフの街の詰所では、赤髪の呪術使いベラが窃盗組織の首領として捕らえられていた。
小さな自治組織がある程度のこの街では、当然このような犯罪者を裁くような機関もなく、帝国から派遣されていた二人の兵士が引き渡しの日まで古びた地下牢の中で監視をするような形で彼女の身柄の管理がされていた。
「この女、何も話しませんね。」
魔法を使役するような凶悪犯をとどめておくには少しばかり不安の残るその折の中に閉じ込められてから、一言も口を割る事のなかった彼女を見て、若い一人の兵士は気味悪そうにもう一人の兵士へ言葉を投げ掛ける。
「ふんっ、犯罪者の考えている事など知るか。こんな忙しい時期に人員を割かせおって。」
少しばかり歳のいったもう一人の兵士の男は、投げかけられた言葉につまらなそうに返事をしながら、ギロリとベラの姿を睨みつける。
「…………。」
「それにしても不気味ですね。」
それでもなお黙り込む女を前に、若い兵士は頬を引き攣らせながら後ずさりをする。
「帝都に入れば化けの皮もすぐに剥がれるだろう。放っておけ。」
高齢の兵士がそんな言葉を吐き捨てた瞬間、地下牢の空気が冷たく変化する。
「――まあ、帝都には行かないですけどねぇ。」
直後、その場にいた人間の耳に、幼い声が響き渡る。
「「……っ!?」」
二人の兵士が振り返ると、視線の先にはその身に合わない豪華なドレスを纏い、目元のハッキリとした人形を抱える赤髪の少女が立ち尽くしていた。
「……なっ、何者だ!?」
「どぉもぅ。はじめまして。」
二人の兵士が硬直している中で、少女は手を振りながらベラが囚われている牢へと近づいていく。
「ベロニカっ……。」
二人の女の視線が交わると、ベラは苛立ちを露にしながら少女の名を呼ぶ。
「あらあら、そんなにボロボロになっちゃって、かわいそっ。」
「何をしに来たの。」
自らを見下ろしながらケタケタと笑う少女へ、ベラは低く響く声で短く問いかける。
「なにって、助けに来てあげたんじゃないですか。お姉さま。」
わざとらしくそう呟く少女の表情は愉悦に歪んでいた。
「頼んでないけれど?」
彼女が皮肉気に返したその瞬間、少女の雰囲気が一変する。
少女は人形の頭を片手で鷲掴みにすると、反対の手で牢に手をかける。
「頼んで、なくても、オマエが捕まったら情報が洩れるだろうが。少しは考えて喋れよゴミカス。」
そしてガンガンと牢を乱暴に揺らしながら、表情をほとんど変えることなく罵詈雑言を叩きつける。
「…………。」
しかし、返ってきた反抗的なまなざしを前に、少女はふと表情を切り替えてにこやかで黒々とした笑みを張り付ける。
「ほんっとうに、出来の悪い姉を持つと妹が苦労するわぁ。」
少女がそう言ってベラに背を向けた瞬間、彼女の視線は武器を構える二人の兵士の姿を捉える。
「動くな!」
「まあいいや、とりあえず、お片付けから始めましょ?」
彼女の異質な雰囲気に充てられて、武器を構える兵士たちの身体が小刻みに震える。
「…………。」
同時にベラは何かを悟ったように目を伏せて地下牢の奥へと引き下がる。
「出てきて、ドールブラッド。」
瞬間、薄暗い地下牢は影より暗い闇に閉ざされる。