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菩提樹の下で  作者: マーク・ランシット


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9/12

 翌朝、淳はシンポジウムに向かう前のラシンゲ教授に呼び止められた。


「あの樹のことは知っているかね」

 ラシンゲは庭の中央にある菩提樹の方を指差しながら聞いた。


「ええ。昨日、マリーに聞きました」

 ラシンゲはそれなら話が早いと言う感じで続けた。


「今夜、あの樹の下で瞑想をすることになっている。よかったら遣ってみるかね」

 淳の目が輝いた。願っても無い事だった。 


「はい。でも、何か遣っておく必要はあるんですか。例えば断食だとか・・・」

「そんな事は必要ない。ただ、あの樹の下にじっと無心で座っていればいい。星たちや、月と対話するつもりでね」

「わかりました」

「じゃ、夕方にまた会おう」

 それだけ言うと、ラシンゲは玄関のほうに向かって歩き出した。



「マリー。ちょっと聞きたい事があるんだ」

 淳は、リビングを通りかかったマリーに声を掛けた。彼女はどんな事? と言って近寄って来た。


「博士から、今夜あの菩提樹の下で瞑想してみないかって誘われた」

「えっ」

 マリーの顔が驚きに包まれた。よっぽど信用している人間にしか、あの樹の下に座る事は許されなかったからである。例え、竹井教授の息子と言っても、昨日会ったばかりの淳にそんな事をさせるのは異例中の異例のことであった。


「少し、仏陀の事とか教えて貰えないかな」

 淳は、恥ずかしそうに言った。日本もある意味仏教国であったが、彼は何の知識も持っていなかった。


「それなら、母に聞くと良いわ。彼女は専門家だから」

「えっ」

 今度は、淳の方が驚く番だった。生粋の英国人であるエリザベス・ラシンゲ夫人がどうして仏教の専門家なのだろう。


「ママ、ジュンが仏教のこと教えてほしいんですって・・」

 マリーは、ちょうどリビングに入って来た母親にそう言った。彼女は、ニッコリと微笑んだ。


 昨晩と同じ様に、淳はマリーと同じソファーに座ってラシンゲ夫人と向かい合った。マリーのエメラルド色の瞳と、優しく美しい表情はこの母親から引き継がれたものだった。


「日本人であるあなたが、英国人である私から仏教の話を聞くというのもちょっと不思議な感じでしょうね」

 夫人の言葉に、淳は照れ笑いを浮かべた。


「アメリカではどうか判らないけど、ヨーロッパの大半の科学者たちは、既にキリスト教の教義を本能的に拒絶しているわ。だって、ガリレオやコペルニクスの例を出さなくても、地球中心で人間中心の世界なんて、科学が発達すればするほど理屈に合って行かなくなるだけでしょ」

 彼女は、なぜ仏教に興味を持ち始めたのかという、淳の気持ちを察したかのように、話し始めた。


「ところが、仏教の持つ宇宙観は科学の発達と共にますますその輝きを増して行っているの。私が、仏教を研究するようになったのもそれが理由よ」

 淳は、正直戸惑いを覚えた。あのお坊さんたちの姿や古いお寺の建物からは、最先端の科学に影響を与えられるものなど、なにひとつ想像できなかった。


「私が知っている仏教は、お葬式の時に唱えるお経や、奈良や京都にある仏像のイメージしかないんですけど、仏教の宇宙観というのは、例えばどんな感じなんですか?」


「そうね、例えば成住壊空じょうじゅうえくうという法理。これは、この世の全ての物。宇宙も人間も原子も全ての物が、生まれ、生き、死に、空に帰するという考え方。そして、それらは永遠に繰り返されて行くの」


「終わりがないと言う事ですか?」


無始死終むしむしゅう。始まりも無く、終わりも無い」

「ビッグバンが、宇宙の始まりですよね」


「既にジョージ・ガモフのビックバン理論には、数々の修正が加えられている事は知っているでしょ。計算すればわかるんだけど、標準的なビッグバン理論から導かれる宇宙の姿と、実際の宇宙の姿は違っているの。

 ビッグバン宇宙論では改良版も含めて、現在の宇宙の種は、宇宙創成後1/1044秒でできたとしている。現在の宇宙の姿は、この種が育った結果だと言うわけ。ところが、このわずかな時間に光が進むことのできる距離は3/1034センチメートル。この宇宙で情報を伝える速度は光の速度を超えられないから、宇宙構造の種の大きさはこの距離より大きくなることはないの。つまり、その理論どおりに計算すると、140億年後でもその種の大きさは1ミクロンにしかなっていないのよ」


「でも、ビッグバン理論の根拠になっているハッブルの宇宙膨張の発見と宇宙マイクロ波背景輻射についてはどうなんですか」

「宇宙膨張の問題については他の宇宙論でも説明はつけられる。例えばフレッド・ホイルの定常宇宙論でも、M理論のエキピロティック宇宙モデルでも。だから、現時点でビッグバン理論の大きな根拠になっているのは、宇宙マイクロ波背景輻射だけと言っていいの。そして、この背景輻射についてはラシンゲ自身が反論を出しているわ」

 ラシンゲ夫人の言葉に、淳は驚きを隠せなかった。残念ながら、淳はラシンゲ博士の研究については何も知らなかった。今の時代、それぞれが余りにも専門化してしまい、研究分野が違えば全く別の世界だった。


「彼の専門は宇宙塵の研究よ。彼の研究で、これと同じ現象は超新星の爆発によって生み出される鉄の粒子によっても説明できることがわかったの。さらに、ビッグバン理論で考えられている宇宙の年齢よりも、もっと古い年齢の恒星も発見されているわ。つまり、事実上ビッグバン理論を裏付けている根拠は、全てなくなっていると言っていいのよ」


「それじゃ、どうしてビッグバン理論は今でも支持されているんですか?」

 淳の質問に、ラシンゲ夫人は悲しそうに首を傾げながら微笑んだ。


「1600年。イタリアの哲学者だったジョルダーノ・ブルーノは、宇宙は無限であり、一様に広がっていると説いて、火あぶりになっているわ。現在でも同じ様に、なんらかの形で誰かが創造した、ということを主張したがっている人たちが、大きな力を握っているのよ」

 その言葉に、淳はなぜラシンゲ夫人が仏教に惹かれて行ったのかを知った。そして、同時に、あの白人絶対主義の嫌な思いが頭をよぎった。


「仏教とは関係ないけど、ラシンゲの研究の一つを紹介しても良いかしら?」

 夫人の言葉に、淳は勿論という風に頷いた。ラシンゲ博士の研究についても興味があった。


「スウエーデンの物理学者アレニウスが説いたバンスペルミア説は知っているでしょ。つまり、地球の生命は宇宙からやって来たという説。この説は、多くの学者たちから支持されるようになっているんだけど、宇宙塵の調査をしていくと、ウイルスやバクテリアの微片がこの銀河系に充満しているらしいことがわかったの。それと同じスペクトルが宇宙空間や彗星の塵のスペクトルとぴったり一致しているのよ。

 彼の研究によれば、生命の重要な属性はすべて地球外からやって来ている。それは、地球と同じ環境が整いさえすれば、この宇宙のいたるところに私たちと同じ属性の生物が誕生する可能性が高いと言うことを意味しているの」


 淳も、マリーも静かに頷いた。この膨大な広さを持つ宇宙の存在を知ってしまった以上、地球だけが特別だと思う事はむしろ不自然なことだった。極端な例をあげれば、地球のどこかに150億のウイルスが住むコップ一杯程度の水溜りがあって、それ以外の生命が存在しないと仮定し、それだけ(150億のウイルス)の為に、地球や月や太陽が作られたのと同じ位、馬鹿げた話だった。


 その時、淳の頭にあのレストランのウエイターの顔が浮かんだ。あのウイルスみたいな一匹の為に、自分を失っている自分がいた。


「もし、人間と同じ属性を持った生物がどこかに誕生したとすると、彼らはいつの日か、核を手にするんでしょうか?」

 淳は、物理学者として、現代に生きる人間として、一番気になっている事を聞いた。


「夫もあなたのお父さんも、同じ意見よ。その惑星の環境に拠って成り立ちは異なるけれど、彼らはやがて我々と同じように核を持つことになる。そして、我々と同じ属性であるエゴに拠って、核を使い滅んで行くの・・」


 淳は、静かに目を瞑ってその光景を想像した。成住壊空じょうじゅうえくう。物凄い年月をかけ、人間へと行き着いた生物。その結末は、一握りの人間たちの、つまらないエゴに拠る一瞬の崩壊。


「仏教の広大な宇宙観について、一つ教えてあげるわ。法華経のなかに、五百塵点劫の譬という話があるの。五百千万億那由侘阿僧祗の三千大千世界を粉々にすりつぶして微塵とし、東方の五百千万億那由侘阿僧祗の国を過ぎて一塵を落とし、こうして同じようにすべての微塵を落とし終えたあと、今度は塵を落とした国土も、落とさなかった国土もあわせて微塵として、その一塵を一劫とする。

 この意味は、五x百x千x万x億x那由侘x阿僧祗と言うこと。那由侘は千億をさし、阿僧祗はおよそ10の59乗のことよ。

 つまり、この数字だけで、現代の宇宙物理学で使われる数字を遥かに超えているわ。その数字を掛け合わせた数字を一劫として、さらにその一劫に百x千x万x億x那由侘x阿僧祗を掛け合わせた数字を想像できる?


 こんな遠い昔から、仏陀は悟りを開いていると言っているの。そして、仏陀の説く仏とは、キリストの様な人格神ではなく、我々の中や宇宙の中に存在する命、いわゆる法則の様なものの事なの」


 淳は、その数字を想像することが出来なかった。いや、そんな数字を想像できる人間などいるはずも無かった。あえて質問しなかったが、そこにはスピードの単位も、時間の単位も明示されていなかった。しかし、そこに人の歩くスピードを入れようが、光速を入れようが、秒を入れようが年を入れようが、阿僧祗という単位を数乗された数字の前ではなんの違いも無い事は明らかだった。


「キリスト教でも仏教でもそうだけど、創始者の思想は、引き継がれた人々に拠って都合よく解釈され、捻じ曲げられてしまう事が間々あるわ。もしかしたら、キリストの説いた神という概念を、法則という言葉に置き換えると、仏教もキリスト教も結局同じ事を言っているのかも知れない。ただ、それを伝えた人々が、人々を救うために使おうとしたのか、人々を支配するために利用したかだけの違い・・」


 ラシンゲ夫人はそう言って、唇を噛んだ。



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