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菩提樹の下で  作者: マーク・ランシット


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2/12

 3年ぶりに会った重永雄太は、驚くほど垢抜けていた。


 東大時代の彼は、黒ブチメガネに不精髭、首の延び切ったTシャツを気にせずに着ていた。それが今では、縁なしメガネに、綿のブレザー姿だった。


 乗り継ぎの関係で、シンガポールに一晩滞在する事になったとき、淳は、シンガポール大学で講師を務めている重永の事を思い出した。電話を掛けると、彼は二つ返事で再会に応じた。


「シンガポールに初めて来た人間を、ここに連れて来ない訳には行かないからな」

 運河沿いの洒落た中華料理店で、簡単な夕食を取った後、彼はそう言って、ラッフルズ・ホテルのロング・バーに連れて来た。


「何か、楽しそうなところだな」

 換気扇代わりに天井で動いているウチワと、床に散乱したピーナッツの皮を見ながら、淳が言った。


「シンガポールスリングってカクテルは、ここが発祥だ。記念に飲んで見るか?」

 研究室時代は焼酎のイメージしか無かった重永の言葉に、淳は吹き出しそうになった。既に3年が経ったのに、どうしても、あの頃のイメージを引きずってしまう。


「いや、俺はビールでいいよ」

 隣の白人客が飲んでいるフラスコ状の変わったグラスを、あごで指しながら答えた。


「じゃ、俺も同じにするか」

 重永はちょっと残念そうに言うと、ピーナッツを持って来たウエイターに、ビールを2杯注文した。


「このピーナッツはお代わり自由なんだ」

 彼は美味そうに口に運んだ後、その皮を床に捨てた。


「何で、研究室に残らなかったんだ。お前、井上教授に誘われてたんだろ」

 この日、二度目の乾杯をした後、淳は気になっていた事を聞いた。


「一時は残るつもりだった。けど、俺の能力じゃせいぜい助教授止まりだ。金もコネも無いし。下手すりゃ、一生、講師で終わるかもしれない」

 重永は、悪びれた様子も無く、再びピーナッツを口に運んだ。それは、取りも直さず現在の彼が満足している事を示していた。


「そんな時、ここから話が有った。大学院時代に発表した、皮膜式ヒーターの研究に、開発費を出しても良いってね」

 淳は、コングラッチュレーションと言ってフラスコグラスを上げた。


「オファーの条件は?」

 淳も、重永を真似てピーナッツの皮を床に落としながら聞いた。どうやらこれが、この店の流儀らしい。


「10年間、ここに留まること」

「たったそれだけか?」

 淳は、大げさに驚いて見せた。それは、彼がアメリカ人と付き合うために、自然に身に付けた仕草だった。その意味では、自分も3年前とは大きく変わっているのだろう。


「ああ、悪くない話だろ。宿舎を出ない限り、家賃も食事代も要らない。給与はすべて貯金できるって訳だ」

「大学院のポッと出に、なんで、そんな条件を提示するんだ」

「お前はカルテックみたいなところにいるから判らないだろうけど、俺達が考えている以上に、東大っていうのはブランドなんだよ。このアジアでは・・」

 重永の言葉に、淳は信じられないといった顔をした。


「ここに10年いたら、俺は40になる。結婚して、子供でも生まれてみろ。それから日本に戻って職探しなんか出来ないだろ。それがこの国の狙いさ。資源の無いシンガポールにとっては、人材こそが国の重要な資産だ。その為に、毎年莫大な予算を注ぎ込んでる」

 重永の話に、淳は納得した。この国の人工的な美しさも、もしかしたら人間をつなぎ止める為のエサなのかも知れない。


「ところで、その皮膜式ヒーターって、どの程度のパワーが見込めるんだ?」

 淳は、重永の皮膜式ヒーターの事は全く知らなかった。 


「200ミリ角で2kワット。このフラスコ型のビールジョッキに5ミクロンの皮膜を蒸着させれば、たった2本で風呂が沸かせる」

 彼は手に持ったグラスを見せながら言った。


「ホントか?」

 淳も、手の中のグラスを見た。確かにコイル状のヒーターに比べれば、面状のヒーターの方が効率は良いに違いない。


「ああ、実験室ではガラス製の瞬間湯沸し器でコーヒーを飲んでる」

「安全性は大丈夫なのか?」

「主原料は、いわゆる酸化鉄の一種だ。有害物質は一切含まれてないし、コストも物凄く安い」

 ヒューーッ。淳は思わず唇を鳴らした。彼の中のビジネスマンが眼を覚ました。


「電極には何を使ってるんだ」

「銀ペーストだ」

「銀だと、イオンマイグレーションは心配しなくていいのか」

 イオンマイグレーションとは、銀や銅などのイオンが絶縁物質の上をカビの様に伝って行き、やがてショート不良を起こす現象の事だった。


「実験の結果では問題ない」

「面白そうだな。で、取り合えずのターゲットは何だ」

 淳の目が、次第にギラついて行く。重永は、意外な印象を持った。研究室時代の彼は、一途な研究者だった。


「半導体の製造装置だ。一番、利益率が高い」

「スペックは?」

「300ミリ角でΔデルタ・ティーがプラマイ3℃」

「かなり厳しいな」

 淳の言葉に、重永は首を捻った。専門外のハズなのに、どうして判るのだろうか?


「ああ、膜厚を均等にすると、どうしても中央部の温度が高くなる。どうやって膜厚をコントロールするかが現在の課題だ」

 淳は、ピーナッツを食べようとした手を途中で止め、何かに集中する様に、天井のウチワを睨んだ。しばらくすると、ニヤリと笑って、ピーナッツを口に放り込んだ。


「それだったら、厚みではなくて、密度で制御したらどうなんだ。ナノテクを使えば難しい話じゃない。なんなら後からレーザーでカットする手もある」

「なるほど・・」

 重永は、淳の発想に目を見張った。東大の研究室でも、淳の頭脳は群を抜いていた。父親へのコンプレックスさえ無ければ、どの研究室にでも残る事が出来た筈だった。


「2ヵ月待ってくれれば、今の仕事も一段落する。シミュレーション装置を考えてやってもいいぜ」

「なんだか高くつきそうだな」

 重永は、一層ギラツキ始めた淳の瞳を見ながら、思わずそう言った。


「パテント申請時に、俺の名前を追加してくれるだけでいい。安いもんだろ」

 重永は、返事の代わりにフラスコ型のグラスを、淳のそれにコツンとぶつけて飲み干した。淳も、それに従った。


「ごめんなさい、待った?」

 淳がビールを飲み干した時、一人の女性が重永の隣に座った。韓国系だろうか、美しい女性だった。ショートヘアーに切れ長の目をしている。


「紹介するよ。韓国からの留学生、イエー・ヨンジェさんだ。俺の研究室でアシスタントをして貰ってる」

 重永はそう言ったが、彼女が単なるアシスタントで無いことは直ぐにわかった。


「東大時代の友人の竹井淳。彼の父親は、世界的に有名な宇宙物理学者の竹井竜一教授だ」


 淳はニッコリと笑って、彼女に握手した。しかし、心の中では彼の紹介の仕方に、久しぶりに日本にいた頃の不快感を思い出していた。俺は、竹井淳であって、竹井教授の息子と言う存在ではナイ。それこそが、淳を父から遠ざけさせているモノの正体であった。



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