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菩提樹の下で  作者: マーク・ランシット
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 その夜、早めの夕食を終えると、淳と竹井教授の二人はその菩提樹の下に座った。本来ならば、仏教徒の衣に身を包み、座禅を組むのが正式なのだが、特別の計らいで、普段着のまま裸足になり、椅子に座らせて貰った。


 二人は菩提樹を背にして、それぞれが反対側を向くように座って瞑想を始めた。

 瞑想に集中出来る様に、家中の灯りが消され、音も立てない様に配慮された。しかし、スリランカの澄み切った空の下では新月の細長い月の光でも十分に明るく、家の中ではラシンゲ家の人々が二人の事を温かく見守っていた。


 淳は、興奮や慣れない事もあり、初めの1時間位は殆んど集中出来なかった。眼を閉じると、虫の泣く声が物凄く大きく聞こえて来た。その音が、さらに淳の集中を妨げた。

 夜になっても、大気は蒸暑さを留めていたが、時折り海を伝わって来る風が、心地よく淳の肌を撫でて行った。虫よけの為だろうか、それとも瞑想を高めるためなのだろうか、娘たちの焚いてくれたお香の匂いが辺り一面に漂っていた。


 2時間近くが経過した頃、時差ボケも手伝って、まぶたを閉じると睡魔が急速に襲い掛かってきた。


 それは突然に起こった!


 お香の香りに酔いしれていると、突然、菩提樹の内側からものすごいエネルギーが淳の魂を鷲掴みにした。


 うっ。


 淳は、その力によって、乱暴に深い闇に引きずり込まれた。肉体から魂だけを引きちぎられた様な痛みがあった。


 次の瞬間、彼は自分の姿を直ぐ横で見ている自分を発見した。幽体離脱。そんな言葉が頭をよぎった。  

 目を閉じたままの自分の顔の向こうには、星明りを反射して発光しているプールの白いタイルが見えた。そのプールの中では並々と満たされた水が、まるでエーテルの様にキラキラと輝きながら揺れていた。


 うわっ。


 強烈なエネルギーを持った腕が、再び襲い掛かって来た。その腕が、淳の魂を強引に地面の中に引きずり込んで行く。淳は、自分の視線が小さくなって行くように感じた。それと反比例して、菩提樹の下に座っている自分の体が、急速に膨張を始めた。それは、あっと言う間に小山の様に大きくなり、地面の芝生は樹林の様に彼の上に覆い被さった。


 その樹林に潜んでいた虫たちは、まるでライオンや象の大きさになり、自分を襲ってくるのではないかと恐怖を覚えた。さらに縮小して行くと、回りには砂粒が現れ、その砂粒までもがトラックやバスの大きさに変化して行った。


 一体、何が起こったのか淳にはまったく分からなかった。



 菩提樹の上空50メートルの高さで、竹井竜一は停止していた。彼は、息子が同じ様に身体の呪縛から解き放たれるのを待っていたのだ。しかし、彼には、このとき息子の淳が小さな世界へと突き進んでいることなど知る由も無かった。


 彼の思考では、身体を離れた思念が、上空ではなく極小の世界に落ちて行くことなど思いもよらなかった。さらに、考えて見れば、身体と言う物質を離れた、思念のだけの淳の姿を見ることが、可能かどうかもわからなかった。


 彼はいつまでたっても息子がやってこないのを知ると、上空に頭を上げた。彼は瞬く星々に誘われる様に、両手を体につけて飛ぶ姿勢になった。そして、自分の思考を上空に集中させた。


 教授は体がスッと軽くなったのを感じた。次の瞬間、教授の体は上空に向かって上昇して行った。成層圏まで達した時、前方には大気圏の分厚い膜が真空の闇との間に横たわっていた。足元を見ると、菩提樹のあるあの庭も、その町も全く見えなかった。ただ、インドの横にある涙の形をしたスリランカ島の地形が青黒い海の中に広がっていた。


 彼は、再び上空に目を向けると真空の宇宙へと向かった。


 3年前、ラシンゲ教授と瞑想したときは、月に行くだけで精一杯だった。宇宙物理学者である彼にとって、光よりも速いものがこの宇宙に存在しないことは拭う事の出来ない常識だった。だから、この魂のスピードがどれほど速くても、光速を越える事は出来ないだろうと思った。


 いまここにいる自分は、肉体を離れた魂の様なものだろう。だから物質に対して起こりうる事については、何の恐怖も感じなかった。ただ、遥か無限に続く140億光年という空間に、光のスピードで飛び出しても、所詮は詮無いことだ。


 太陽系の一番遠い惑星である冥王星でさえ、光速で5時間半もかかるのだ。思念のスピードがどの程度なのかも、時間の経過さえ知る由もない状態では、地球からの距離38万キロ、光速で1.3秒しかかからない月に行くことすら恐怖だった。


 しかし、今回は、それらの物理学者としての知識を全て捨て去ろうと考えていた。今、こうして肉体を離れた自己の存在そのものが、物理学の常識を逸脱していることに気が付いたからだった。


 彼は、あるところに行こうと決めていた。それは火星と木星の間の軌道を周る5008と名付けられた小惑星だった。彼は、ぐるりと回りを見渡した。自分のスピードを光速と想定して素早く計算した。そして、太陽を背にして、直径10キロ程度の小惑星目掛けて飛び立った。その遥か向こうには、1500光年離れたオリオン星雲が輝いていた。



 びっしりと蠢くバクテリアたちの姿に、淳は吐き気をもよおした。しかし、やがてそのバクテリアでさえ、大きな岩の様に変身して行った。やがて無数のウイルスたちが姿を現した。およそ100nmナノメートルの世界である。いわゆる可視光の世界は既に過ぎていた。一番長い赤色の波長が700nm、青色では470nmである。淳は、なぜそれ以下のウイルスたちの姿が見えているのか判からなかった。恐らく、あの菩提樹の力なのだろうと漠然と思った。



 それはホンの2、3分の事だった様に思えた。竹井教授の目前にジャガイモのような形をしたゴツゴツとした小惑星が現れた。1991年2月20日、滋賀県にある民間天文台であるダイニック天究館によって発見されたその小惑星には、始め5008という番号だけが与えられた。


 しかし、その後、ダイニック天究館館長の計らいで、改めて小惑星「宮沢賢治」と命名された。そして1996年、国際天文連合によって正式に承認されたのである。

 竹井はそのゴツゴツした小惑星の上に立った。そして、銀河鉄道の夜の主人公、ジョバンニになったつもりでその上から宇宙を眺めてみた。


「ではみなさんは、さういふふうに川だと云はれたり、乳の流れたあとだと云はれたりしてゐたこのぼんやりと白いものがほんたうは何かご承知ですか。」

 竹井はわざと、銀河鉄道の夜の最初の一節を口ずさんだ。彼の目の前には巨大な天の川が広がっていた。



 淳の体はどんどん小さくなって行き、やがて原子の世界に到達した。その大きさは、1ナノメートル。1ミリの百万分の1の大きさである。それは紫外線の波長より小さく、既にX線の波長に達していた。科学者の自分には、どうしてこの世界が見えるのかまったく理解出来なかった。


 原子核の周りを電子がぐるぐると回っている。土の中の岩や、砂を形成している原子核たちなのだろう、規則正しく、無数の原子が存在していた。


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