1
カリフォルニア州、パサデナ市。
ロスアンゼルスから北東におよそ15キロ。アメリカンフットボールの聖地であるローズボウル球技場を有する高級住宅地。
カルテックの略称で呼ばれるカルフォルニア工科大学はそのパサデナ市のほぼ中心地に位置している。日本ではMIT(マサチューセッツ工科大)ほど有名ではないが、ノーベル賞受賞者の数でも、全米の学生の人気でもほぼ同等のレベルを維持している。
リスや小鳥達がのんびりと暮らす小さな森の中に、1882年当時に建設された歴史ある校舎が点在している。初夏の風が爽やかに木々の葉を揺らす中、青々とした芝生と木立に挟まれた石造りの道路の上を、一台の白い電気自動車がゆっくりと走って行く。
やがて、白壁にレンガ色をした屋根の校舎の前で、その電気自動車が停車した。
「サンキュー、エリック」
アダムス研究室でチームリーダーを勤める竹井淳は、黒人の若い運転手にそう言い残すと、校舎の中に飛び込んでいった。黒のポロシャツにグレーのコットンパンツ。右手には静電防止袋に入った基板を持っている。
ノーベル賞受賞者たちが行き来したであろう階段を駆け上がって、彼は所属する研究室の中に入った。
「ダグ、何だよこの基板は?」
部品がビッシリ搭載された基板を示しながら、彼はダグ・メイオスに食ってかかった。ラップを口ずさみながら機械を操作していたダグは、淳の剣幕にビックリした様に大きな目を見開いた。周りの研究員達も何事かと、二人の方を振り返える。
淳は、ダグの作業していた台湾製のリワーク装置のマウスを掴むと、20種類ほどのリストの中から、その基板と同じ番号のプロファイルを読み出した。山の稜線に似た曲線が、モニターに表示される。そのX軸は時間を、Y軸は温度を示している。
「リフローの最大値が210℃って、どういう事だ。この部品はみんな鉛フリーだぜ。230℃以上じゃなきゃ、はんだが溶ける訳ないだろ」
淳は曲線の頂点部分を指で示しながら、ダグに厳しい視線を投げた。
「だって、この前はこのプロファイルでOKだったじゃないか」
ダグは、詰問の意味が飲み込めず、口を尖らせた。その口調から判断すると、他のプロファイルをコピーして使ったに違いなかった。
「それは、鉛の入った共晶はんだの場合だろ。そっちは融点が183℃、鉛フリーはんだの場合は融点が220℃なんだ。この前、ちゃんと説明しただろ」
「そうだっけ?」
淳の説明に、ダグは頭を掻いた。このところ、彼のポカが続いている。それは、このプロジェクトに多額の投資をしている彼の父親と、その息子の無能を知りながら、彼をメンバーに採用したロイ・アダムス教授の責任だった。
「ったく。このザイリンクスのFPGAは1個2000ドルもするんだぜ。もうちょっと大事にしてくれよ」
今回のはんだ付け不良で飛んで行く部品代の総額は、淳の1ヵ月分の給与を超えていた。
「ジュン、ボスがお呼びだぜ」
その時、内線電話の受話器を置きながら、中国からの研究員、アンディー・チャンが言った。
「分かった。直ぐに行く」
淳は、アンディーにそう言うと、もう一度ダグの方を振り返った。
「この部品は全て付け直しだ。言っとくが、部品の取り外しには、十分注意してくれよ。基板のパターンを剥がしたら、今度は3万ドルの基板がパーになるからな」
淳に子供扱いされたダグは、両手を広げて首を竦めた。彼の人間性をどうこう言うつもりはない。しかしカルテックというブランドが欲しいだけの、素人のオモリをするのはもうコリゴリだった。
「ノウテンキ野朗のお陰で、プロジェクトの計画はメチャクチャだ」
淳は、出口の方に向かいながら、日本語でそう呟いた。
淳は、最上階にあるロイ・アダムス教授の部屋に入った。
書類に目を通していた教授は、老眼鏡と一緒に書類をデスクの上に置くと、立ち上がって満面の笑顔で握手を求めた。
IVYリーグのプリンストンとイエールの両校で教授を務めた後、彼は名誉よりもビジネスを求めて、ここに研究所を開いた。研究中の圧縮型蓄電システムが実用化されれば、この研究所はそのまま株式上場され、莫大な利益を生み出す事になる。青色LEDの発明は人類に驚異的な利益を生み出したが、ノーベル賞を受賞するには予想以上の時間が必要だった。ノーベル賞の選考委員たちの多くは、ビジネスと濃厚に結びついた研究を忌み嫌う風潮があるからだった。
「ジュン、調子はどうだ」
教授は、ソファーに座るように促がした。カルテックの他の教授たちに比べると、彼の服装は異彩を放っていた。高級ブランドのスーツに見を包み、時計も靴もダンヒルだった。
「最悪です。光電子顕微鏡の改良計画が遅れ気味で、さっきもダグに文句言って来たところです」
このところ徹夜に近い状態が続いている淳は、いつに無く激しい口調で言った。
「彼も基板のアッセンブリーは専門外だからな。ところで、来週の予定はどうなってる?」
教授にとって、ダグは大事なスポンサーの息子だ。多少の失敗には眼をつぶらなければならない。
「基板のチェックとソフトのバク出しの予定です」
「それはアンディーに頼めばいい。彼なら大丈夫だろう。それより、ちょっと聞いたんだが、ケンブリッジ大学のラシンゲ博士の家に招待されているらしいじゃないか」
淳は、予想外の質問に眉を寄せた。何処からそんな話を聞き付けたのだろう。
「正確に言うと、招待されているのは私の父です。その父に一緒に行かないかと誘われたんですが、こんな情況じゃ無理だって断りました」
淳の説明には嘘が含まれていた。例え、時間に余裕が有っても、彼は父と会う事を避けていたのだ。
「そりゃ、まずいな」
アダムス教授は、右側の眉だけを歪めた。これは、彼が何かを企んでいる時の癖だった。
「まずいって、何がです?」
淳は困惑した表情で尋ねた。この2年間、彼がプライベートの事に関与して来た事など一度も無かったからだ。
「ラシンゲ博士はライトマン博士と共同で数々の業績を残した人物だ。ノーベル賞の候補にもしばしば上がっている。出版業界にも顔が広い」
教授の言いたいことが判らず、淳は黙って次の言葉を待った。
「ジュン、結論から言おう。これは仕事だと思ってくれ。君は来週スリランカに行き、ラシンゲ博士と共に過ごす。そして、われわれが来年発表予定の研究論文について、ニュートン誌かサイエンス誌辺りに掲載が出来るよう、根回しをしてくれ」
淳は、アダムス教授の言葉はウソだと思った。科学雑誌への掲載など彼の力でどうにでもなる筈だった。しかし、彼の命令に背く事は許されない。なぜなら、淳の目的も名誉ではなくビジネスだったからだ。
「ジュディー、これからジュンがそっちに行く。スリランカまでの往復チケットの手配を頼む。それと、出張経費として、3千ドル渡して遣ってくれ」
彼は内線で、秘書のジュディー・フレミングにそう指示した。
「この2年間、君は殆んど休みを取っていない。3千ドルは私からのボーナスだと思ってくれ。領収書は必要ない。2週間のサマーバケーションだ。思いっきり羽をのばして来い」
そう言うと、教授は意味ありげにウインクをして見せた。