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川蝉

作者: はぶかわ


挿絵(By みてみん)


男がいつものように、川沿いに自転車を走らせていたところ、背後からキンキンという甲高い音が追いかけてきた。

カワセミだ。後ろを振り返ろうともせずに、男はそう決めつけた。

カワセミは、メタリックな見た目の通りに、その声も、どこか金属的な響き方をする。セキレイもまた、似たような鳴き声をしているのだが、カワセミの方がより硬質だと、男は考えている。もっとも、はっきりと聞き分けられるようになったのは、つい最近のことで、以前はよく取り違えていたものだ。


カワセミは孤独な鳥だ。男はそう考えている。

郊外を流れるこの河畔には、季節ごとに、様々な種類の野鳥が集う。

鴨やガンはいつだって家族連れだ。カワウや白鷺にしても、昼間はそれぞれ離れた場所で餌を漁ってはいるものの、朝夕は仲間と寄り添って身を休める。カワセミだけが、日がな一日中、梢の上で川面を睨んでいる。そんな姿が、よく似合う。


この川に住む野鳥は、どこか人馴れしていて、あの二本足で歩く大きな獣は、フェンスを越えることができないんだと、高を括っているようにすら見える。

カワセミも例外でなく、時々、ほんの手の届きそうなところで羽を休める時がある。男はそんな光景を、何度かスマホのカメラに収めたことがある。


カワセミは、きびきびと活発に動く鳥だ。縄張りは広いようだ。朝、男が職場へ向かう時刻に、カワセミもまた、下流から上流へ移動を開始する。水面を低く、這うように、飛ぶ。まるで放たれた矢のように。真っ直ぐに。

小振りな身体をしているくせに、思いもよらないほど、力強く羽ばたく。そしてその度に息が漏れでもするのか、例の甲高い鳴き声を上げるのだ。

男もまた、無心にペダルを漕ぎ続ける。さすがに鳴き声まであげはしないが、ひとこぎひとこぎ太ももに力をこめる度に、息が荒く乱れる。


男が自転車通勤をするようになったきっかけは、コロナだった。

その当時、世間はこの未知のウィルスに対して、過剰なまでに警戒を強めていた。男も、ニュースなどを見ているうちに、満員電車に乗ることに、忌避感を覚えるようになった。かといって、職場には十分な広さの駐車場があるわけでもなく、仕方なくはじめたことだった。彼の会社もそれを推奨していた。

今となっては、コロナを気にする人もだいぶ減った。男も、必要とあらば満員電車にだって平気で乗り込める。ただ、マスク姿があふれる風景が日常となった今のように、自転車に乗る習慣だけが、彼に残った。


まあ、健康にはいいことだろう。それに、朝方、人通りが少ない堤防の路面にタイヤを転がすのは、思っていたよりも気分がいい。今では、ほとんど趣味の一環と言えるほどまでになってしまった。通勤がレジャーになり得るなど、以前の彼には思いもよらないことだった。

あるいは、はっきりと意識したわけではないが、カワセミの存在が自分にこの習慣を続けさせているのかもしれない。

男はふと、根拠もなくそう思った。自転車を進めるのに無心であったつもりが、かえって普段出てこないようなアイデアを思いつく。そんなことが、度々ある。それもまた、この時間が生み出す貴重な副産物なのかもしれない。


そうしているうちに、先ほど遠くに感じていた鳴き声が、見る見るうちに迫ってきた。程なく、自分の左手に姿を現すだろう。そして、その瞬間に普段より少し余計に頑張ってペダルを漕ぐと、しばらくの間、カワセミと並走することが出来る。

相手が三回から四回羽ばたく間。時間にして数秒程度のことだろう。

俺の脚力なら、その気になれば、その時間をいくらでも伸ばせる。だが、道幅は限られているし、人影も案外多い。万が一にも、通勤途中で事故など起こしてしまったら大事だ。無茶をすることはない。

普段の彼なら、そのように考えて、何ごとにも慎重に行動する性質だった。


カワセミは孤独な鳥だ。

男はさっきと同じことをもう一度考えた。

別に俺が孤独な男で、その孤独さをカワセミに重ねている、とかいうわけじゃない。ただ、この朝の時間の、一瞬の邂逅に、訳もなく特別なものを感じてしまっている。

とはいえ、カワセミ自身が孤独な鳥であろうとなかろうと、その鮮烈な青はどうあっても人目を惹く。誰もが見かけると、おっ、という気になる。アマチュアカメラマンにとっては格好の被写体だ。休みの日など、公園の池の畔で は、バズーカみたいなレンズを構えて、日がな一日中カワセミの訪れを待ち惚けている人々の姿を目にすることが出来る。


あいつらも、スマホを片手に川沿いを散歩でもすりゃいいのに。

いつもより一足早くスパートをかけているうちに、男の脳裏にそんな考えが過った。

カワセミが姿を現すまでの間、無駄に時間をつぶしているだなんて、俺には到底出来っこない芸当だ。

しかし、カメラが趣味だという友人によると、カワセミが枝などに止まっている姿を撮るのは、さほど難しくはないという。やはり、カワセミの写真といえば、まばゆい光を散らしながら、羽ばたく姿。その一瞬を狙うには、離れた場所からレンズを構える必要があるのだと。


そういえば、俺はカワセミの飛んでいる姿をカメラに収めたことがないな。それどころか、レンズを向けた記憶すらない。どうせスマホのカメラで撮ってもな。しかし、一眼レフを持ち歩くのも、性分に合わないしな。色々理由をつけて諦めてはいるが、そもそも撮りたいという気になったことが、あっただろうか。多分、なかったはずだ。何かに付けて、俺はそうだ。

本当は興味があるくせに、何かと言い訳をしては、重い腰を上げようとしない。機会はそのうち、向こうからやって来るだろうなんて高を括って、自分から手を伸ばそうとしない。そのくせ、他人が楽しそうにそれをやっている姿を目にすると、それはそれで面白くない。自転車にしても、コロナがきっかけにならなかったら、未だに縁遠いままだったろう。


これも、一つの縁なのだろう。

男は当たり前のようにそれを受け入れた。

既に、スピードには十分乗っている。珍しく人影も見渡す限り、ない。スマホはいつでも取り出せるように、左のポケットに入っている。

その時、左手からカワセミが男を追い抜きにかかった。キンキンと打ち鳴らすように、鳴き声と、青を撒き散らしながら。男は息をのむと、左手をポケットに突っ込んだ。無造作にスマホを取り出す。視線を落とすことなく、カメラアプリを立ち上げる。

いつもだったら、呆然と後ろ姿を見送るだけの、この瞬間。男は刹那を切り取るべく、スマホをそちらに向けた。スピードの上がった車体を、片手だけでコントロールするのは、想像していた以上に難しかった。画面を確認する余裕など、あるはずもない。三、四回シャッターを切る。ところが、いまいち手応えを感じられない。気がつくと、男はカワセミから遅れつつあった。

慌ててハンドルを握りなおす。ぐんと体重をかけて、ペダルを踏み込む。ぐいぐいと、あっという間に距離が縮まる。カワセミの小さな翼の、リズミカルな羽ばたきが、はっきりと聞き取れる。

男は再び、カメラを構えた。羽ばたきと鳴き声を頼りに、今度は、一度だけ、シャッターを切った。今度こそ、手応えがあった。まるで、自分の掌で直接、小さくて熱い、生命力のかたまりを、掴み取ったように感じた。

歓喜と興奮。少し気恥ずかしいが、正確に表現しようとすると、どうしても大げさなものになってしまう。そうしている間にも、瞬く間にカワセミは、彼方に飛び去って行ってしまった。男の思惑などお構いなしに。


それを見送った後、全ての力を使い果たした男は、やっとの思いで自転車を路肩に止めた。荒い息に肩を上下させていると、少しずつ頭に登った血が降りてくる。

我ながら、下らない思いつきに夢中になったものだ。朝っぱらから、こんなに疲れてしまったら、仕事にもよくない影響が出るだろう。しかしまあ、転んだりせずに済んで、本当によかった。

男は、そこで左手の中にあるスマホに気付いた。

そうだった。それもこれも、カワセミの写真を撮るためにしたことだった。満足する前に、成果を確認しないとな。

男は手元を操作してフォルダを開いた。


そこには、あの輝かしい体躯を持つ鳥の姿は、どこにもなかった。ただ、冬の朝の空気に鋭く縁取られた、ありふれた小川だけが、写っていた。

男はしばらくの間、呆気に取られた顔つきで、画面を見つめていたが、やがて薄く笑いを漏らして、スマホをポケットに突っ込んだ。

まあ、これはこれでいい写真が撮れた。新しい楽しみも、一つ見つけた。楽しみってやつは、最初は失敗から入った方が、深みが出るってもんだ。

男は震える足でペダルを踏んだ。長い一日の始まりにしては、幸先がいいとはけして言えないが、心は不思議と晴れやかだった。



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