あれから
2012年12月最初の土曜日
ここ水道橋にある都のセミナーセンターでは、都立高校生を対象とした留学プログラムである「ネクストリーダーキャンプ」の帰国報告会が先程閉会し、1階ロビーでは様々な制服姿の高校生達がそれぞれ仲の良いグループに分かれて記念撮影やおしゃべりを楽しんでいる。
だが俺はどのグループともベクトルが合わない所謂ボッチだった事もあり、コーナーにあるベンチに一人腰掛け近くを通り過ぎる女子高生のスカートから覗く粗挽きソーセージの様な太い脚を眺めながら、読みかけだった日系アメリカ人の朝鮮半島からの引き揚げ記録である「竹林はるかに遠く」の原書を開いた。
やがて正午を告げるチャイムが鳴り、急にそわそわしだした一部の連中が帰り支度を始める中、俺の方に向かって一直線に向かって来る長身の女性の姿があった。
水色のワイシャツに細身の黒いネクタイ、金ボタンの黒ブレザーにだグレーの膝上タイトスカートというその姿は女子高の制服というよりも寧ろミリタリー女子を連想させる。
そう、彼女は高校生ではなく、この留学プログラムの運営スタッフで、現地引率者として2週間前に50名近い高校生と共にオーストラリアから帰国したばかりだった。
この「ネクストリーダーキャンプ」とは昨年スタートした『都立高校生を対象とする奨学留学プログラム』の事で、留学費用の約半分を都が負担する他、事前研修も含めた手厚いサポートを受けられるというもので、留学先の高校との間での単位互換制度があることや、大学のAO入試などでも有利に働くという正に至れりつくせりの美味しい制度なのだ。
また1月出発のオーストラリア行きのAコースと8月出発のカナダ行きのBコースとがあり、参加条件として出国時点で英検2級程度以上の英語力が前提となっているが、事前の準備期間が短く、また帰国後の大学受験準備にも充分間に合うという事もあり、Aコースは帰国子女の割合が多い。
かくいう俺も中学3年で帰国する迄の3年間、シンガポールに住んでいた事があり、シングリッシュと言われるブロークンな英語とシラットと言われる現地の武術に親しんでいた時期があった。
「お待たせ、記念撮影のお誘いが多くてね。でもグレースーツの似合うのイケメン君は此処にはそう多くないから直ぐに分かるわ。」と闊達に笑う女性の名前は「成瀬 まなみサン」
俺の知る限りでは「まなみ」という名前の女性はだいたい美人であることが多いのだが、成瀬まなみもそのご多分に漏れない。
セミロングの髪に大きな瞳、スッとした高い鼻、形良く大きめの唇と全てが奇跡的なバランスを持つ彼女は最強のボンドガール、「ダニエラ ビアンキ」によく似たコケテッシュな美人だ、更にそのゴージャスなボディラインと相まって、ネクストキャンプの男子高校生達の間でオカズにしたいNo.1と言われていたが、実際にもオカズにされていたらしい。
俺の隣に腰掛けた彼女は長い脚を絡めるように組むと、
「お疲れところ申し訳ないんだけど『如月 凱威君』。
このレポートを出して欲しいの。」と俺にレポート用紙を渡して来た。
「ああ、構いませんよ。」二つ返事で、アンケート用紙の項目を眺めていると、
「いつもながら完璧な横顔ね。」まなみサンがあざとく脚を組み替えながら囁くが、その彼女のストッキングとスカートの間の太ももに浮かぶキスマークは昨夜、俺が付けたものだ。
「相変わらず、東洋人の特徴を持たない綺麗な横顔ね。」と彼女がつぶやく。
「それは俺に前を向くなという意味?」と彼女を振り返りながら、俺はウェリントン型の伊達眼鏡を外すと、上目遣いで彼女を見つめた。
まあ今回のプログラム参加者の中で、俺だけ色々と要望が多い事はあらかじめ承諾済だ。
というのは俺だけ他の留学メンバーとは違い「高校生」でなく「高専生」だったからだ。
そして俺は「都立工科芸術高等専門学校」通称「バウハウス」と呼ばれる高専の3年生だなのだが、高専は大学などと同様、高等教育機関であり、都の教育委員化の指導下には無い。
そして今回、俺はとある理由から都知事のご好意による特例措置で都立高校生を対象としたプログラムに無償で参加させて貰っていた。
よって俺はまなみサンから見て、元々イレギュラーな存在として扱われていたことや彼女としても異国で気を許せる相手が必要だった事もあり、お互いに日本に恋人を残しながらも、シドニーでは割とオープンに付き合っていたのだ。
そして、最近の俺は半ば彼女の着せ替え人形と化しており、今日のなんちゃって制服も彼女のセレクトだった。
まなみサンによればCNNの銀髪イケメンキャスターであるアンダーソン クーパーをイメージしたのだそうだ。
因みに彼女はスニーカーはコンバースしか履かない派なのだが、バイク乗りである俺としては丈夫な皮製のK-Swissの方が好みだ。
1時間後、電車で浅草橋に移動した俺達は、まなみさんのお勧めの江戸前寿司の店に居た。
親父さんが握ったトロに醤油を刷毛で塗るのに感動している俺を横目で見ながら、彼女は握り寿司を手で掴み口に放り込み、ガラとお茶とを交互に味わう。
この彼女のカラッとした江戸っ子体質と見た目とのギャップもその魅力の一つだ。
これから会議があると言う彼女と秋葉原駅で別れると、俺は地下鉄を乗り継ぎ、新木場駅で降りた。
国道を渡り、夢の島公園内をショートカットする様に巨大な温室を擁する植物園の横を通り過ぎ、隣接する都営ヨットハーバーにと至った。
大小様々な船が並ぶ中、俺は中型の船の並ぶ区画の桟橋を歩く。その中でモーターボートに帆を付けた様な白い船の前で立ち止まる。
そのまるでスパイ映画の小道具の様なスタイリッシュなフォルムを持つ全長14m、幅4.6mの英国製モーターセイラーこそが俺の住処だった。