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カラドリウスの塔

作者: 葵生りん


 少年はふらふらと覚束ない足取りの母をようやく肩で支えながら歩き続けた。

 数日前に高熱を出して以来、母はずっとこの調子だ。少年が医者に診てもらおうと言っても母は「急ぎの用が済んでから」と繰り返すばかりで頑として譲らず、憑かれたようにふらふらと歩き続けている。

 そんな母子にそろりと向けられている奇異の目を気にしてか、母は裏路地へと足を踏み入れた。あるいは、単によろめいて迷い込んだだけかもしれないが。

 眩い光が溢れそこかしこの窓に鉢植えの花が飾られている表通りとは一変した、薄暗い路地。

 たった一歩で別世界に迷い込んだような錯覚を覚えた少年は思わず足を鈍らせ、その歩調のズレが強い意志だけで歩を進めていた母の均衡を狂わせ、ついに地に膝つかせた。高熱に冒され肩で息をしているような(てい)の母に、再び立ち上がる力がないことは、幼い少年にも明らかだった。

「ボク、お医者様を探してくる!」

 母がどこを目指しているのか、どんな急ぎの用があるのか、少年は知らなかった。けれど今は、医者を求める以上に大事なことなど考え付かなかった。けれど、母は走りだそうとする少年の腕を掴み止めてゆるりと首を振った。

「この街にお医者様はいないの」

 母は茫然と空を仰ぐ。

「あそこにね、この街の人々を病気から守っている神鳥がいるんですって。だからこの街にお医者様はいないのよ」

 母はそういって街中の他の建物より一際高く作られた塔に目を留めると、眩しそうに目を細めた。

「でも、なにもいないよ?」

 母に倣って塔を見上げた少年は小首を傾げる。その塔の天辺は鐘楼のように吹き抜けになっているけれど、大きな鳥の巣だけで神鳥の姿はなかったから。

「見えない鳥なんですって」

「じゃあ、いるかどうかわかんないじゃないか」

「ふふ、そうねぇ」

 力なく笑った母の熱い手を、少年はしっかりと握った。袖口からうっすらと覗く不吉な黒い痣を隠すように。

「でもね。この街に子どもが生まれたら、どこからともなくその産着の上に白い羽根が舞い降りるんですって」

 母は少年を膝の上に抱き寄せて、どこか夢見るように語り聞かせる。まるで赤子におとぎ話を語り寝かしつけるかのように。

「それに、越してきた人にもね、翌朝目覚めると枕元に美しい羽根が落ちているんですって」

 その白い羽根はこの街を守る神鳥からの贈り物なのだと語った母は、少年の頭を優しく撫でた。

「だから……今夜はこの街で夜を明かしましょう。明日の朝にはきっとあなたの枕元に羽根が届いているわ」

 軒先で夜露を凌ぐのも、もう慣れた。人家の軒先は草原の木陰よりもずっと安堵できることも身に染みた。母子があの悪魔のような病から逃げるように故郷を発ってから、それほどの昼夜を野外で過ごしてきた。そしてその間ずっとそうしてきたように、今夜も母は少年を抱き寄せて夜を明かすのだろう。

「でも……」

 母はもう一度聖堂を見上げ、言い募ろうとする少年の頭をあやすように優しく撫でた。

「大丈夫。明日になれば、きっと」

「でも――」

 穏やかな母の声と撫でつけられるてのひらの感触に、積もり積もった疲労が津波のように押し寄せて遮ろうとする少年の意識をさらっていく。

 遠のく意識の切れ端で、少年は母の祈りを聞いた。


 どうかこの子に羽根を与えてください、と。

 何度も何度も繰り返される祈りと、背中をさする感触。

 それらを感じながら、少年はゆっくりと眠りに落ちていった。


 けれど翌朝。目覚めた少年があたりを見回してみても、羽根はどこにも落ちてはいなかった。

 そして、母は目覚めなかった。

 祈り続けるあまり石になってしまったかのように堅く冷たく、そして全身を黒い痣に蝕まれて――永遠の眠りについていた。



・ * ・



 少年は黒い痣に蝕まれた母の遺体に寄り添うようにして、ただうずくまっていることしかできなかった。

 死を理解できないほどには幼くはない。ましてここ数ヶ月は、周りの見知らぬ誰かが黒い痣に蝕まれて死んでいくのを毎日のように見てきたのだ。

 けれど、母が黒い痣に蝕まれていても、少しずつ体温を失いつつあったとしても、少年はなにもできなかった。

 母がどこを目指していたのかも知らされていなかったし、それに身体がひどくだるくて重い。動くことはおろかなにをすべきか考えることも億劫だった。

 だから、少年はただただぼんやりと目の前の宙を見ていた。



 どのくらいそうしていたのかは知れない。

 が、ふと。

 少年の目の前にふわりと白いものが舞った。

 羽。

 白い、鳥の羽だ。

 鳥の声も羽音もしなかったし、ゆるゆるとあたりを見回してみても、やはり鳥の姿はどこにもない。けれど目の前に落ちてきたそれはどこからどう見ても鳥の羽根だった。

 手にとって見れば、真っ白なのにほんのりと虹色の光を放っていて、この世の物とは思えないほど美しい。

 どくんと胸が痛いほど強く高鳴り、少年は思わず胸を押さえた。

「これが……ボクの羽根?」

 その羽根の輝きを見つめていると全身の倦怠感が薄らいでいくような気がして、羽根を胸に抱いた少年は眠り続ける母を見た。

「母さんの、は……?」

 母の羽根を探して少年があたりを見回した時、パタパタと軽い足音が路地に走り込んできた。せわしなくあたりを見回しながら走ってきたのは、ひとりの少女。

「あ! それ、わたしの!」

 そして少年が持っている羽根に目を留めると、慌てて駆けよってきた。

「それ、わたしの羽根なの。返してくれる?」

 少年よりも幾分年上だろうと思われる少女が手を伸ばし、少年はすとんと肩を落とした。

「……うん」

「拾ってくれてありがとう」

 少年が輝く羽根を返すと、少女は安堵の笑みを浮かべた。

 少年はそれを見ることも返事をすることもなく、すっかり冷たくなってしまった母に再び身を寄せようとした。

 途端、少女が鋭く叫んだ。

「黒死病――!」

 少女は少年の腕を、抜けるほど強く強く引いた。

「離れなきゃ。あなたも感染しちゃうかもしれない!」

「イヤだ、母さん!」

「ダメだったら!」

 少年は母から引き離される恐怖から死に物狂いで抵抗した。だが、少女のほうがいささか力が強いのか、ずるりずるりと少しずつ引き離されていく。

「母さん!母さん!!」

「お願いだから聞き分けて!」

 半狂乱で泣き叫ぶ少年を、少女も声を荒げて引き離そうと必死になる。

「なんだ、なにかあったのか?」

 揉み合う声を聞きつけた野次馬が路地に集まり始め、そして野次馬達は黒い痣のあるの遺体に目に止めると、一気に色めき立った。

「くそ、厄介事持ち込みやがって!」

「これだから余所者は!」

 大小様々な悪態があちこちから飛び交い、少年は大人達の剣幕に身を強ばらせた。けれど、母の遺体が布に包まれてどこかへ運び出されそうになると、慌てて叫んだ。

「母さん! 母さんをどこに連れて行くんだ!」

「火葬して、ちゃんと弔うの。だから、ね? 落ち着いて」

 少女の声は撫でるように優しかったが、追い縋ろうとする少年をきつく抱き留める力はふりほどけないほどに強い。

「……おまえ、あの死体と一緒にいたんじゃないだろうな?」

 体躯のいい男に見下ろされてびくりと身を竦めた少年の手を、少女はきゅっと握った。

「おい、セラピア。この親子、おまえの知り合いか?」

 セラピアと呼ばれた少女は一瞬答えに詰まり、地面に視線を落とした。その間隙に、怒声が飛んだ。

「出て行けっ!」

「そうだそうだ、疫病神め!」

 男が少年に罵声を浴びせ、野次馬達が我先にと同じ言葉を投げつける。

「そいつも感染してるかもしれんぞ。いっそのこと母親と一緒に眠らせてやったほうが――」

「そんな非道が許されるわけないじゃない!」

 セラピアは悲鳴じみた声で叫んだが、大人達の喧噪の前には為す術もなくかき消されるだけだった。

「だってよ、身よりのない孤児のために、この街のみんなが危険にさらされるなんて、俺は御免だぜ」

「そうだとも!」

 あちこちで賛成の声が上がり、罵声や小石が飛んでくる。母から引き離されたうえにわけもわからず大人達の罵声を浴びせられた少年は、もはや泣くことさえできずに顔をひきつらせることしかできなかった。

「来い!」

「やめて!」

 大男が少年の手首を掴んだ。セラピアは声も出ない少年の代わりに叫び、必死にその巨躯にすがった。けれど大男は遠慮のない力で引っ張り、少女を力ずくで引き離した。

「うあぁぁっ!?」

 少年は恐怖と痛みにつんざくような悲鳴を上げる。けれど、大男は気に留めずにずるりと引き立てた。

「…………っ!」

 大男に引きずられていく少年が助けを求めてさまよわせた視線と、迷っていたセラピアの視線がぶつかった。瞬間、セラピアは心臓を掴まれたような心地がした。

「ダ、メぇぇぇっ!!」

 身を振り絞るように叫ぶと、ほんの一拍だけ喧噪が止んだ。その間隙を逃さず、セラピアは矢継ぎ早に言った。

「その親子はね、昨日わたしのうちに越してきたの! お母さんのほうは間に合わなかったけど、この子はカラドリウス様の祝福だって持ってる。ほら、これがこの子の羽根よ!」

 そう言って、セラピアは一枚の羽根を大人達に掲げて見せた。

「みんな知っているでしょ? カラドリウス様はあの塔の上からわたしたちのことを見守ってくれてる。街の人に加護を与えてくださる慈悲深い神鳥よ!! 加護を持つ子に無慈悲な行いをして、加護を失ってもいいんだったら好きにすればいいわ!」

 大人達は最初疑わしげな視線を向けたが、羽根の輝きを本物と見て取ると、渋々少年を解放し、三々五々散っていった。



「……ごめんね。怖かったよね」

 野次馬が最後の一人まで帰ったことをしっかりと見届けてから、セラピアは竦んだままの少年に声をかけた。

「いつもこんなじゃないんだよ。今ね、みんなピリピリしてるの。今までこの街で病を患って亡くなる人なんていなかったのに、ここ一週間くらいで何人か黒死病で亡くなってるから――」

 怖々セラピアを見上げてくる少年の背中を撫でるけれど、弁明の言葉が耳に入っているのかは疑わしい。

「これ、あなたの羽根がもらえるまで貸してあげる」

 セラピアはさっき大人達に掲げてみせた羽を少年の手に握らせて、ふわりと笑った。

「……え?」

 それはさっき返してくれと言ったばかりのセラピア自身の羽だ。

 少年が羽根と少女を代わる代わる見つめていると、軽やかな笑い声が広がった。

「ね、私の家にいらっしゃい。まずはお風呂に入って、それからご飯食べて、一晩ゆっくり休みましょう。おかあさんの代わりになるかわからないけど、一緒に寝てあげるくらいならできるから」

 頭や背中を撫でる手が、声が、あたたかい。まるで、母親みたいに。

「それでね、明日の朝あなたの羽がまだ届かなかったら、カラドリウス様に直接もらいに行きましょう」

 いくら見つめても崩れることのない穏やかな微笑みに、少年はようやく、小さく頷いた。

 ぽろぽろぽろぽろ、涙をこぼしながら。

「あなたのことが落ち着いたら、お母さんのお墓にお参りもしなくっちゃね……」

 ぎゅうっと少年を抱きしめたセラピアの声も、なぜか涙に震えていた。

「お母さんがいなくなって、悲しいよね。辛いよね。わかるよ。思いっきり泣いてもいいんだよ……」

 ぽんぽんと背中を叩かれた少年は、喉につっかえていたものがぽろりと落ちるようにわあっと大声をあげて泣き出した。

 セラピアは少年が泣きやむまでずっと背中をさすっていてくれた。



・ * ・



「そう、あなたはフォスって言うの。私はセラピアよ」

 少女は朗らかに話しかけながら、大きなたらいに張ったぬるま湯に浸かった少年を赤子の世話でもするように優しく洗った。それから、丁寧に髪をかきわけて(しらみ)を見つけては潰していく。

「セラ……おねえちゃん?」

「うん、セラおねえちゃんでいいよ」

 石鹸の香りとあたたかなお湯。それが酷く懐かしいようにも場違いのようにも思えて、フォスはどこか赤子のようなたどたどしい会話しかできずにいた。

「ほら、きれいになった。身体は自分で拭ける?」

 けれどごしごしと頭を拭き上げたタオルを渡すセラピアは、そんなことちっとも気にする素振りはない。それどころかフォスがこくりと頷くとぽんぽんと頭を撫でてくれるのだった。

「着替え、お父さんのしかないけど、あなたの服が乾くまでちょっとの間だからガマンしてね。着替えもひとりでできる?」

 大きすぎる着替えを申し訳なさそうにたらいの脇の籐籠に入れて、くるりとつぶらな瞳でのぞき込んでくる。フォスが慌ててうなずくと、にっこりと笑ってから踵を返した。

「あなたが着替えてる間に、スープを温め直しておくわ」

 まるで母親のように甲斐甲斐しく世話を焼くセラピアの背中を、フォスは不思議な思いで眺めた。

「さ、冷めないうちにいただきましょう」

 ぼんやりとその背中を見つめていたフォスは、慌てて着替えると食卓についた。

 真ん中にはやわらかそうなパンが積まれた籠。フォスの前にきちんと敷かれたランチョンマットの上には湯気の立つコーンスープ。セラピアはフォスにパンをとってやり、それから少し焦げたものを選んで自分の皿にとると、食事の前の祈りを捧げる。

 質素だけれど温かな食事と、祈り。

 村から逃げ出すまでは当たり前のようだったそれらのことが、ひどく遠い昔のことのようで、フォスはじっとセラピアを見つめた。

「好きなだけ食べていいのよ。ちょっと作り過ぎちゃって困ってたの」

 セラピアはコップにヤギの乳を注いでフォスに渡してから、自分のパンをちぎって口に入れた。

「……つい、お父さんの分まで作っちゃうのよ」

 今までずっと明るかったセラピアの表情に、急に影が差した。

「もう一週間も経つっていうのに……まだ、慣れなくて」

 ぽたりとスープに雫が落ちた。セラピアはさっと目元を拭って笑ったけれど、フォスはその背中をぽんぽんと叩いた。さっき、泣いているフォスにセラピアがしてくれたのを真似して。

「お父さん、死んじゃったの?」

「うん。あなたのお母さんと同じ病気だった」

 セラピアは奥歯を食いしばって、でも、必死に笑おうとしていた。

「じゃあ、泣いてもいいんじゃないの?」

 目を丸くしたセラピアは、小首を傾げているフォスを抱き寄せた。

「うん。そう、だね……そうだよね……」

 セラピアは少しだけ泣いたけれど、包み込む小さな身体の体温が高すぎることに改めて気づくと涙を納めた。

 すうっと大きく息を吸い込んでから、笑う。

「ありがとう。もう大丈夫だよ」

 父も、痣が出始める前に高熱が出ていた。それを思うと背筋が冷える思いがしたのだ。

(……早く、この子の羽根をもらいに行かなきゃ)

 決意をそっと胸にしまって、フォスをもう一度食卓に着かせた。



「さ、あなたの羽根をもらいに行きましょう」

 スープをゆっくりと飲み干し、パンをおなかいっぱいになるまで食べ、それから乾いた自分の服に着替え直したフォスは、ずいぶん久し振りに人心地ついていた。清潔な身なりと満腹、それだけのことがずいぶんと久しぶりだった。

 相変わらず身体はだるくて重い。それに寒気もする。できることなら少しだけでいいから眠りたいと思った。

「明日の朝じゃダメなの?

 セラピアは身を屈めなければ入れないような小さな扉の鍵を慣れた手つきで開けると、にこりと笑った。

「うん、ちょっとだけ頑張ろうね」

 手を繋いだセラピアをようよう追いかけて扉をくぐった先は、天井が見えないほど高い塔の中だった。

「お父さんはね、この塔の守人をしていたの」

 フォスが首を傾げると、セラピアは笑った。

「気づかなかった? ここはカラドリウスの塔なのよ」

 ここに来るときはセラピアにただついていくだけで精一杯だったフォスは、こくりと頷く。セラピアはフォスの手を引いて壁づたいに永遠に続いていそうな螺旋階段に一歩足をかけた。

「だから私、小さい頃から何度もカラドリウス様に会ったことがあるの」

 まるでとても仲のいいきょうだいのようにしっかりと手をつないだふたりは、語りながら階段を登っていく。フォスは息が荒く、時々ふらついてもいたけれど、セラピアがしっかりと手を繋いでそれを助けた。

「見えないのに、会ったことがあるの?」

「ええ。だって鳴き声も羽音もするし、吐息も感じられる」

 カラドリウスはとても大きい。けれど、セラピアは一度も恐ろしいと思ったことはなかった。優しくて、母のいないセラピアを大きな翼で包み込んでくれる――そんなふうに塔の上の神鳥のことを思い浮かべていると、突如カクンと腕を引っ張られる感覚がした。

 セラピアは慌てて意識が朦朧としているフォスを引き寄せて抱きしめる。息が荒い。それに、熱い。血が沸騰しているのではないかと思えるほどに。

「……大丈夫。ちゃんと会えるよ。会ってお願いしようね。病気を治してくださいって。羽根をくださいって」

 セラピアはだれにともなく力強く言い聞かせると、フォスを背負って階段を登り始めた。




「……はぁっ」

 セラピアは一度立ち止まると大きく息をついた。

 幼い頃から何度も登った階段だ。ひとりなら苦にならない。けれど、背中にしがみつく意識すら心許ないフォスを背負っているせいか、時々こうして息をつかなければならなかった。

 一度深呼吸をすると、再び階段を登り続ける音が塔内に延々と響き始める。

 けれど揺れた拍子にだらりと落ちた少年の細い腕に黒い染みのようなものがあることに気づいて、セラピアはまた足を止めてしまった。

(どう…して……っ)

 背中に湯たんぽでも背負ったような熱さのせいだろうか、ぽたりと汗が落ちた。

(なんで、お父さんの……みんなの病気を治してくれなくなったの……?)

 カラドリウスが雛のように羽根で包んでくれた時のぬくもりを思い出すと、なんともいえない気持ちがこみ上げる。

 ずっと、みんなの病気を治し続けてくれた神鳥。なのにどうして、と思わずにいられない。

 ぽたぽたと石の階段を打ち続ける雫は、もはや汗だけではなかった。

(……泣くのは、あとまわし!)

 沈んでいく気持ちを持ち直すため、セラピアは背中に感じる重みと熱に意識を向けた。

 羽根を持っていた父が病に倒れたのだ。羽根をもらったからといってこの子が助かるとは限らない。けれどセラピアは袖でさっと汗と涙を拭って、大丈夫だと強く信じることにした。

 だって背負っているのは、カラドリウスの羽根が導いた少年。この出会いはきっとカラドリウス様の導きだ信じて、一歩一歩階段を踏みしめた。



・ * ・



 朦朧とした意識の中で、母にしては小さい背中に負ぶわれていたフォスは頬に強い風を感じて目を開けた。

「う、わぁ……っ」

 青い空に手が届きそうな気がするほど高く、街も地平線までも見渡せる、吹き抜けになった塔の天辺。

 中央には台座があり、その上には大きな鳥の巣がある。

 頬を緩めたセラピアは少年をゆっくりと下ろして、かわりにしっかりと手を繋いだ。

「カラドリウス様、お願いです。この子の病気をを治してください」

 セラピアに手を引かれたフォスは、ふらふらした足取りで台座の前までくる。祈りに応じてか、ゆらりと空気が揺れた。

(……目だ)

 なにも見えない空間から射るような視線が向けられているのを感じて、フォスは背筋が伸びる思いがした。

 そう、それから、わずかな風。生ぬるいそれは、おそらく呼気。ふわりと触れた柔らかくてあたたかな感触は、おそらく翼。

「目を逸らさないで」

 背後に立ったセラピアが耳元に囁いた。

 フォスは言われたとおりに視線を逸らさずにじっとしていた。するすると身体から糸が引き抜かれていくような感覚がした。

 キュイッ、と高い鳴き声がして我に返ると、不思議なことにさっきまで感じていた全身の倦怠感も熱っぽさも感じなくなくなり、腕の染みも消えていた。

「カラドリウス様、ありがとう」

 セラピアが言うとふわりとあたたかな感触が頬に触れた。セラピアが大きく空にのばした腕の中に、きっと首があるのだろう。フォスの顔にもふわふわとあたたかな羽毛の感触がしてくすぐったい。

「あははっ、くすぐったい」

 フォスが笑うと、セラピアも笑みを深めた。それにカカカカカッと笑うような鳴き声がして、空気が振動する。

 セラピアが首筋を撫で、フォスもそれに倣う。

 見えなくても、羽毛の感触や温度や吐息が確かにそこに大きな鳥がいることを証明していた。それから、首からなにか大きく膨らんだ布袋のようなものを下げているのも手触りでわかる。なんだろうとフォスが首を傾げると、すっとカラドリウスが身を引いた。

 触ってはいけないということだろうかとフォスがさらに首を捻った時、和やかな時間が物々しい男たちの足音によって遮られた。

「あなたたち、守人の許可もなく――!」

「守人は死んだろう!」

 大男の一喝に、ふたりは思わず竦み上がった。

「カラドリウス様はもう私たちのことなんて見捨ててどっかに行ってしまったんじゃないのか!?」

「いるなら助けてくれ! 見てくれよ。これ、この痣を!」

「うちの妻も子どもも苦しんでるんだ!」

 ドカドカと押し入ってきてはなりふり構わず騒ぐ大人達の身体に黒い痣が見え隠れする。

(もう、こんなに……!)

 十人、いやそれ以上か――。

 ここまで塔を登ってくる人だけでも、それだけの数がいるということは、罹患者はその何倍いるのかと、セラピアは背筋を凍らせた。

「そのガキのせいだ!そいつが病気をこの街に持ち込んだんだ!!」

「なに言ってるの!最初にこの街で黒死病が出たのは一週間も前じゃない!」

「じゃあ、おまえだ! この街で最初に死んだのはおまえの父親だったじゃないか!」

「なっ……」

 思わぬ飛び火にセラピアは驚愕のあまり閉口した。

「……ち…がうよ……っ」

 この街だけではないことを、フォスは知っていた。母と故郷を離れてから半年以上も旅をして、母を蝕んだあの病が大陸中で大流行していることを知っていた。

 けれど我を失った大人達に張り合う声も勇気もなかった。

「どうしてくれるんだよ! なぁ!」

 ふたりの真横から、キュイッと鋭い声がした。それから、背中に翼のぬくもりも。

 いつの間にか、男達の剣幕に気圧されたふたりは塔の端に追いつめられていたのだ。柵のない縁の向こうに足を踏み外せば、何十メートルも下にある屋根か道に転落死してしまうだろう。けれど、それほど怖いとは思わなかった。背中に感じる羽根のぬくもりはふたりを守るためにそこにあるのだから。

「なんだ、今の声?」

 男達がどこからともなく聞こえた鳥の声にあたりを伺っている間に、セラピアはフォスの手をぎゅっと握りしめて、柱に手を伸ばした。

「どこにいるんだ! いるならこの病気を治してくれよ!」

 男達がしきりに喚き、ふっと背後の温もりが消えた。そして、反対側でキュイッと鳴き声を上がった。男達を遠ざけようとしてくれたのだろう。

 でも、とセラピアは柱を強く握りしめた。たとえこの場から逃げたとしても、なにも解決しない。この病が街を、世界を蝕んでいる限り。

「お願いだよ、カラドリウス。ボクを治したみたいに、みんなを助けてよ!」

 フォスが、掠れた声を張り上げた。カタカタと震えている小さな手を、セラピアはしっかりと握りしめる。

「こんな病気がなければ、ボクたちは普通に暮らしていたのに――!」

 ぼろぼろとこぼれ落ちる大粒の涙が、強い風に舞った。風に吹かれた涙が、ぱたぱたと宙で弾けた。

「……鳥だ!」

 その涙が弾けた場所が水面のように揺らめいたかと思うと、そこには大きな鳥が悲しげに佇んでいた。

 全体的には白だが、首回りと尾のつけね、足は黒い。大きな体のわりに目は小さくて、くちばしも小さい。そして、首には大きく膨らんだ袋を下げていた。

「……カラドリウス……」

 伝承に聞くカラドリウスの姿に、大人達も息を呑む。

「お、おい。おまえの痣……!」

 しかもその姿を見ていた男の痣が少しずつ薄らいでいく。大人が色めきはじめると同時に、カラドリウスは大きく羽根を広げた。

 そして大きく羽ばたくと、街の上空に舞い上がる。

 キュイィ――キュイィ――と、高い声で鳴きながら、何度も何度も街の上空を回り続けた。

 その声と姿を、街道をゆく人々が見上げ、あちこちの窓から人々が顔を出して見た。

 はらり、と飛んでいるカラドリウスの羽根が一枚抜け落ちた。

「………羽根だ!」

 目の前に落ちてきた羽根を、フォスが手を伸ばして捕まえた。けれどその輝きは弱々しく、吹き消されてしまいそうなものだった。胸ポケットにしまっていた、セラピアから借りた羽根を取り出して見ると、その輝きも同じように弱々しい。

 顔を見合わせたセラピアとフォスは、祈るような気持ちでカラドリウスを見上げた。カラドリウスは時々ふらりと体勢を崩しては持ち直すことを繰り返しながら、街の上空を飛び続けている。

 はらり、はらり。

 カラドリウスが羽ばたくたびに、抜け落ちた羽根が街の上空を舞う。

 いつしか、街中に白い羽根が舞っていた。

 いや、風に運ばれたそれは街の外にも運ばれているだろう。

 人々はそれを拾い上げて空を舞う神鳥を見つめた。神鳥を見た人は身体の変調が軽くなるのを感じ、感謝の祈りを捧げる。

 それに比例して、カラドリウスが首から下げている袋が膨らんでいく――。


 やがて、破裂してしまいそうなほどパンパンに膨れ上がった袋を下げたカラドリウスがふらつきながら台座の上の巣へと戻ってきた。

 ほとんどの羽根が抜け落ちて、羽根の生え揃わない雛のような不格好な神鳥の姿に、セラピアは涙を浮かべた。

「カラドリウス様……!」

 駆け寄ったセラピアとフォスに向けてキュイッと一声鳴くと、カラドリウスは眩しいほどの光を放ち始める。

 あまりに強い光に、ふたりは庇い合って目を閉じた。

 洪水のように押し寄せる光の中で、ふたりはカラドリウスの鳴き声を聞いた。カカカカカッと笑うような声だった。

 光が収まってからゆっくりと目を開けると、もうそこにカラドリウスはいなかった。

 また見えなくなったのかと思って手を伸ばしてみると、触れたのは羽毛ではなく固い感触だった。固いけれど、温かい。両手いっぱいで抱えるほどの、大きくて丸い。それは――。

「……卵……?」

 フォスが呟くと、セラピアは頷いた。

「ええ。伝承ではカラドリウスは吸い取った病を首から下げた袋にためて、袋がいっぱいになると卵を生むって言われているのよ」

 見えない卵を撫でながら、セラピアはほほえむ。

「さっきの声……この卵の世話を頼むって言ってたのかしらね」

 フォスもまた見えない卵に手を添えて、その温もりに心を預けるように目を閉じた。

「ボクもこの卵のお世話をしてもいいかな?」

 セラピアは卵を大事そうに包んでいる手のひらの上に自分の手を重ねて、ふわりと微笑んだ。


 カラドリウスの卵が生まれた日を境に、大陸中から黒死病が消え、その奇跡に大陸中の人々が歓喜した。

 けれど代わりに、すべてのカラドリウスの羽根は輝きを失い、病気を患うようになってしまった街の人々は肩を落とし、一部ではその信仰に翳りが差した。


 それでも街の中心にあるカラドリウスの塔は今もふたりの守人が守り続けている。


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― 新着の感想 ―
[良い点] カラドリウスの塔 拝読させていただきました。  黒死病とそれを治療することのできるカラドリウスの羽、それをめぐる主人公たちの関係や彼らを取り巻く人々の混乱など、今のコロナ問題にも通じるよ…
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