写真
人間の記憶というのはまことによく出来たもので、忘れてしまったことでもふとした切っ掛けで、まるで芋の蔓のようにつらつらと思い出すものであります。やかんを火にかけた拍子に人に返しそびれた本があることや、その本に挟まっていたへそくりで酒を買ってしまったこと、その酒ももうなくなったことまで、仔細、事の顛末を思い出します。
しかし奇妙なことに、その記憶というものは意図せず、脚色がなされていたりするものでもあります。随分前のことですが、あなたと訪れた諏訪湖で見た御神渡りの神々しい美しさも、その背後に青く霞む、雪をたたえた峰の雄雄しさも、日を追うごとにその鮮やかさを増してゆくように思われます。鮮やかさが増すにつれ、情景はどんどんと現実味を離れて、終いには空想の世界へと昇華されてゆくことでありましょう。これを人は芸術などとと呼ぶのだと私は思います。
さて、今私の手元にそのとき撮った一枚のマウントフィルムがあります。私が好き好んで撮ったリバーサルフィルムです。写真ですから、正真正銘あのときの情景が、正確に焼き込まれているはずです。
そして私の記憶は脚色され、空想のものとなっていると思われます。私がこの写真を見るとどう感じるでしょうか。こんなに雑然としたものだったかな、とか、やい、こんな色じゃなかったぞ、とか、その現実性にがっかりするはずです。ですが、どうしたことか私の空想化された記憶が写真の現実味と溶けあい、鮮烈な美しさをもって次々とその場の記憶を呼び起こしてゆくではありませんか。
三脚を立てて、ファインダーを睨み、ピントを合わせ、被写界深度を確認して、再度構図を見て。シャッターを切ったのはあなたでしたね。
私はその間、あの神々しい景色に溶け込むように、神聖な空気を全身で味わっていました。
割れ立ち上がる氷は湖畔の石に添い、やがて湖の中央へ向けて緩やかな孤を描き、ずっと遠く、見えなくなるまで続いてゆきます。
向こう岸に張り付くように街が見え、青い尾根が右手から街を覆うように下ってゆき、谷の向こうには遥か遠く、雪をたたえた大峰が凛と佇んでいます。
右手の尾根の向こうにもわずかに白い峰が覗き、滲むような幽かな雲がその上に、まるでこの地を守る神の微笑のように霞んでいるのです。
人の世は無常といいます。常に移り変わってゆくものなのです。人も町も、ずっとこのまま変わらぬということはあり得ません。
次に御神渡りが見られるのはいつのことなのでしょうか。あんなに美しい神の営みが見られるのはいつなのでしょうか。
時は流れ、よどみに浮かぶ泡沫のように人のこころも想いも、かつ消え、かつ結んで、とどまることはありません。
永遠だと思っていた恋も、友情も、絆も、愛情も、いつしか流れに揉まれ、散り散りになってまた、新たなこころを結ぶのです。
しかし、ルーぺで覗き込むフィルムの世界は私を切り取られた時間へ、そのこころへ、永遠の旅の中へ誘うのです。冷たい清冽な風が吹き抜け、ほんのり暖かい陽光が私たちを包むのです。
そこで私は知りました。写真がうつすのは現実でも、空想でも、ましてや世界の真理などでもなく、人のこころなのです。レリーズされた瞬間、光がフィルムに焼き付く瞬間、一種の陶酔を伴うその瞬間のこころが、写真なのです。
そのこころが無限の円環を成し、写真の中で永遠に生き続けるのです。
写真とは、本当に不思議なものですね。
あなたも私も、写真の中で、この無限の円環の中で、変わらぬこころで生き続けられたらよかったのに。あの時、フィルムの中に私たちを閉じ込めてくれればよかったのに。
そうすればなにも、失うものなどありはしますまいに。
あの御神渡りの写真を添えて、筆を置きます。