5.それが理
香久山高校の教師、神楽坂は織に、人に害を及ぼす「妖」を狩る「妖退治」に協力するよう求めたが、彼はこれ以上殺しに関わりたくないと言う理由で断る。そこで神楽坂は彼の忌々しい過去をひけらかし織を揺さぶりに来る。
「―――どこまで知っているのですか?」
織の低く響く声には凄まじい濃度の怒気があった。濃過ぎる余り部屋の中の温度がすうと引いていく気がした。天照は刀の鍔に親指を添え、「万が一」に備えた。
「それなりにね。実は知り合いの術者に四年間君を監視するよう頼んだんだ。君と君の過去を調べさせてもらったよ」
「少年院か」
「ピンポーン、大正解」
神楽坂は親指と人差し指で輪を作った。つまり少年院で面倒を見ていた人の中で術者がいたという事だ。
「俺を脅しますか」
「否定はしないよ。でも、それぐらい私たちは君が必要なんだ」
「なぜ俺なんです!? 俺みたいに憑依された人間なら他にもいるんじゃないんですか」
「まあまあ落ち着いて。天照ちゃんの淹れたコーヒーすごくおいしいよ」
神楽坂はコーヒーの香りを嗅いでゆっくりと啜った。
織は悔しくも常にマイペースな彼女に場を呑まれかけていた。苛立ちを込めたため息を吐くと席に戻った。
「確かに、いるにはいる。だけど基本的に、憑依された人間はバケモノに変異してすぐに死ぬ。なのに君は痣だけを残して平然としている。君の様な人は前例がないんだ」
織は神楽坂を睨み付けたままコーヒーを手に取り、口まで運んだ。熱くて香り高いコーヒーが喉元を通り過ぎた。
「だから君の事をもっと知りたい。もっと調べて今後の妖対策に役立てたい。そして―――君の体を元に戻してあげたい」
織の腕が止まった。瞳に映る炎が小さくなっていった。
「……元に、戻れるんですか?」
「分からない。でも私はあると思う。日が差せば影が出るように、生み出すシステムがあるなら滅するシステムがあるのが理だから。それに……」
今まで笑みを絶やさなかった神楽坂が一転、真剣な眼差しを織に向けた。そして席から立ちあがり織の隣まで歩み寄った。
「私の死んだ兄みたいに、これ以上犠牲者を出したくないの。だからお願い―――私たちに手を貸して。お願いします」
織は目を疑った。神楽坂が膝と手を地に着け、深く頭を下げ土下座したのだ。大の大人に頭を下げさせるほど自分が重要な立ち位置にいるなんて未だに信じられなかった。
「……そう、そんな事があったの」
朧は厨房で具材をグツグツと煮込み、火加減を見ていた。甘辛い匂いが唾を溢れさせた。織は洗った食器の水気をしっかりふき取っていた。
「もう訳が分からなかったですよ、刀で斬られそうになるわ妖退治に協力しろとか言われるわ」
「でも、妖退治ねえ。なにかのマンガみたいで面白そうじゃない?」
「そんな楽しいものじゃなさそうですよ。妖を狩ると言っても、狩られた術者も大勢いるそうです」
結局織はあの後、神楽坂の契約を結び後日から正式に香久山高校の生徒として登校する事になった。
あの後、妖や術者の話や神楽坂の兄が織と同じように、霊に憑依され異形の化け物になって死んだ話などを聞かされて複雑な心境になっていた。
食器の片づけが終わり、手に付いた水気をふき取るとポケットの中に硬い感触があった。不思議に思い手に取ってみると、織が声を上げた。
「どうしたの?」
「……渡し忘れちまった」
それはイヤフォンに巻かれた青い音楽プレイヤーだった。さっきの山上天照が落としたものだ。
「すみません朧さん、少し出かけます!!」
「ええ? ああ、気を付けてね」
織は店を飛び出して学校の方へ走り出した。腕時計を見てみると針がもうすぐ十七時を示そうとしていた。この時間だと帰宅部の学生は下校しているだろう。彼女が部活動に所属しているかどうかは分からないが、どちらせよ織は一刻も早く渡したかった。
(変な誤解とかされたら困るしな。急がねえと)
織は外は陽が沈み出し、茜色の空が人や建物の影を伸ばしていた―――その中でも、不気味に揺れ動く影が織の後を追いかけていたが、織は気付く事は無かった。