第三章 宴 1.裏側
無骨なコンクリートで囲まれた小さな部屋の中、一人の少年の絶叫が響き渡っていた。
「ぐぁ、ぁああ……うぁああ。ああああ、あぁアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアァァァァッッッ!」
血涙を流し、喉が千切れんばかりの絶叫を上げるのは安倍涼太。中性的な可愛らしい相貌を激痛に歪めながら、少年は二重目の呪いの破棄による記憶の再取得を行う。
あの日、遊園地で語らったあの日の会話を思い出す。
『率也さんが字音ちゃんの力を狙っている』
『ほォ……面白そうじゃねえか。詳しく聞かせてくれ』
自らあの場に喰人鬼を呼び出し、少年は幼馴染の少女の危機を救うために悪魔に魂を売った。
『簡単な話さ。字音ちゃんは魔術の才能はないけれど、『未来予知』という現象に対する執着は生半可じゃない。なにせ、才能がないと理解したうえでまだ努力を続けているくらいだからね』
『そうだな。無意味な努力だっつーのにご苦労なこったよ、あの姉ちゃんは』
『今は君の破綻ぶりに付き合う気はないから流すよ』
『好きにしろ』
涼太は咳払いを一つして再度気持ちを引き締めると共に、本筋を進めた。
『率也さんはその必死さを利用しようとしてるんだ』
『あァ……ははッ、こりゃ愉快だなァ。なるほどなるほど、ここまで来たら馬鹿でも読めるわ。――染色か。字音姉ちゃんを『描画師』に格上げするってことね。クハハッ、その能力もおおかた、「自らの思い描いた未来を具現化する」みてェなところだろ。相も変わらずくだらねえ奴だ』
『理解が速くて助かる。そして――』
『お前の頭じゃ率也のアホを出し抜けねえ。狡猾なあの男を、正気のまま騙すなんざ不可能だからな。はいはい、おもしれえ。見えてきた。――お前、俺に洗脳しろって言いてえんだな』
『……そうだ』
あの日交わした契約が、少しずつ像を結んで形となる。記憶という名の大きく精緻な図形を浮かべる。
『君の手で僕を洗脳して欲しい。それも二段重ねで頼みたい』
『ふふ、クハハ……オーケイオーケイ。なるほど理解した。俺に黒幕になれって言いてえんだな』
涼太は声ではなく小さな首肯で返事を返す。
『ただ、きちんと対価は払ってもらうぜ。お前は俺に何をくれる? 返答次第じゃあ、お前の五臓六腑を引きずり出すことになるけどよ』
対して涼太の返答は早かった。
『強者を』
『いいね。乗った。詳細を教えろ』
瞬間、金髪の鬼の口端が凶暴に吊り上がった。引き裂かれた笑みは三日月の如く鋭く、涼太の心臓を射竦める。しかしその怯えをおくびにも出さず、涼太は己の計画の全貌を放し始めた。
『まず君が僕を二重に洗脳する。第一の洗脳は僕と君の間にある友好的な関係全ての忘却』
『悲しいなァ』
『そして二つ目が――僕に彼女を殺すように命令するんだ』
狩真は顔に凶悪な笑みを張り付けながらも、黙って話を聞いている。
『彼女を東日本国の館まで追い詰める。そしたら多分、字音ちゃんは僕を救うために殺されないよう逃げ回りつつも、屋敷からは出ようとはしないだろ』
『ああそうだな。意外とお人好しだからなァ』
『おそらくは状況が動かない限り、拮抗状態が続くと思う。小細工の魔術くらいは使うだろうし、僕は洗脳でそっち方面に頭が働かない』
『なるほど。そこで「強者」の出番か』
『そうだ。日本中の手練れの魔術師に声を掛けて、僕を打倒してもらう』
『そんでそのどさくさに紛れて字音姉ちゃんを救出してもらい、俺が小細工をして姉ちゃんを死亡扱いにする……ってなところか?』
『そうだ。そして君は呪いを掛けている僕の経験した情報を元に、その「強者」と接触し、殺し合いを演じればいい』
『なるほど理解した。んじゃ、契約は成立だ。さっそく舞台を整えるぞ。物語には「始まり」がいる。適当にそこらの奴をぶっ殺すから、お前は姉ちゃんと一緒にそこへ遭遇しろ。黒幕の演出が必要だろうが』
『そうだね』
そう言い切る彼の表情は、字音が知っている涼太のものではない。明らかに、血の道を歩いている者の瞳だった。
『それともう一つ――手練れを集める中で、それとなく「教会」に関する情報を探るようにも命令を組み込んでいてくれ』
『ああ、そっちも了解だ』
そこで記憶の再生の奔流が収まった。溶解した鉄を流し込んだかの如き激痛が突き刺さり、まともに立つことすら出来ないまま、涼太は狩真の言葉を聞いていた。
「そんで、聞きてえんだが、教会に関する情報は見つかったか?」
「が、は……ぅ、……」
当事者である狩真の涼太以外の者は、目の前で起きている事象の意味を何ら理解できず、涼太の有り様を前に呆けて立つことしか出来ずにいた。
対して涼太は、既に痛み引き始めているとはいえ、未だこれまで感じたこともないような頭痛に蝕まれ、床の上でのたうち回ることしか出来ない。
そんな中、狩真だけは平素と変わらず下卑た笑みを浮かべながら声を投げていた。
「ま、今は無理か。なら先に俺からだ。ひとまず字音姉ちゃんの救出は成功だ。まあ、友介と殺し合うために軽く斬っちまったけど命の別状はねえよ。まあ、あのまま放置されてたら死んでたろうが、あいつに限ってそれはねえ」
「おま、え……ッ」
「許せよ。結果的には生きてる。殺さなかっただけマシだと思え。ちゃんと契約は守った。そんで二つ目だが……これは契約者としても、『アノニマス』の一員としても聞いとかなきゃならねえ。二回目で悪いが――教会の情報は見つかったか?」
アノニマス――その単語を耳にした途端、涼太の様子が変わった。それまで痛みに狂っていたことが嘘のように静まり返った。涼太は脳を虫に食い潰されるが如き激痛に苛まれながらも、次のように告げた。
「瀬川ミユっていう女が、いた」
「瀬川ミユ。聞いたことねえな。規格級か?」
「あ、ああ……」
額を押さえ、荒い息を吐きながらも、苦痛に喘いでいた少年は己の足で立ち上がった。
「それとなく調べてみたけど……あの女、団員の一人と私的なつながりがあったんだ。たぶん相手が教会の男とは知らなかったんだろうけど……。とは言っても、結局わかったのはそれだけだった。それ以外のことは分からない。――教会の目的はもちろん、率也さんが何を思って奴らと行動を共にしてるのかも」
「そうかい」
ニヤニヤと人に不快を与える笑顔を浮かべる狩真は、そこでいっそう笑みを深くした。
「ったく……あのクソ兄貴も下らねえ悩みの種を残していきやがるな、めんどくせえ。――が……その末に枢機卿とやれんなら是非もねえわな」
「本当に、やる気……? 敵は神話級の使徒だよ。勝てるとは思えない」
「知るかよ。どっちだっていい。俺を満足させてくれるならな。まァ……本命は別にいることだし、あいつらに執着する必要は特にねえんだけどな」
そういって金髪の鬼は一人の少年を思い浮かべる。初めて殺せなかった運命の相手を。
「ま、とにかく今は動かないって方針で良いのか?」
「うん、おそらくは……『上』からも特に言われてない」
「ああそうかい。つってもまあ、この膠着状態もすぐ終わると思うぜ?」
「どうしてそう思う?」
可愛らしく首を傾げた目の前の少年を見て、喰人鬼は喜悦を滲ませた声でこう言った。
「――勘だよォ。鬼の癇」
☆ ☆ ☆
「カルラちゃーん、一緒に遊ばないのー?」
「……いや、私はいいわ」
「か、かか、カルラ、ちゃん……ゲーム、しないの?」
「ええ、今は気分じゃないわ」
午後八時。既に日が暮れて一時間ほど経っているが、友介が帰宅する気配はなかった。
ただ、既に部屋はカルラ一人だけではなく、草次や蜜希、そして千矢といったいつもの顔ぶりが揃っていた。
リビングから聞こえる彼らの喧騒を流し聞きながら、食器を洗うカルラの表情は浮かない。まるで何か大切な者が抜け落ちたかのように、彼女の心にはぽっかりと穴が空いている。
彼女は今日一日、この喪失感、あるいは虚無感のような感情の原因を探ろうと努力したが、未だにその理由が分からないままでいた。
何が原因なのか分からない。友介が関わっていることまでは分かっているが、そこから先を推理することが出来ない。
そして既に、カルラはこの感情の正体を探ろうとするのをやめようとしていた。何故なら、それをしようとすれば否応なく友介のことを思い浮かべてしまい――そして、その彼が四宮凛と二人でライブに行っていることを思い出して、胸が苦しくなるからだ。
「――――っ」
まるで心臓をほんの少し捻られたかのような小さな痛み――否、あるいは疼きとしか呼べぬほどとに小さな感触だ。腕を斬られたわけでもなかれば、全身を殴打したわけでもない。戦闘時に受ける痛みに比べれば痒みとすら呼べぬもの。
しかし、頭ではそれが理解できているというのに、心はそうではなかった。この痛みは――苦しい。何よりも辛く、如何な負傷よりも痛かった。
(私、どうしたの、よ……)
意味もなく玄関へ向かおうとする足を何度止めただろうか。気を抜けば友介の帰りを待っている自分がいて、彼女は本格的に己の心が分からなくなり始めた。
今まではこんなことはなかった。これほどまでに、自分の心が分からなくなったことはなかった。生まれてから一度も経験したこともないような気持ちに、まるで子供のように翻弄される。
心の落ち着かなさから、手元もおぼつかなくなっていく。このままでは皿を割ってしまうかもしれないため、気を付けようとしたところで――、
「それにしても、まさか俺からかったチケットでクラスの女の子とデートに行くとはなあ。友介くんも隅に置けないというか……」
唐突にリビングから聞こえてきた草次の言葉に意味も分からず動揺し、彼女は洗っていた皿をシンクに落としてしまう。カシャンと子気味の良い音が鳴り、皿が三つか四つに割れてしまう。
「ぁ……」
それを片付けようとしたカルラがとっさに手を伸ばすが、指先が割れた皿の断面に触れてしまい、少し深い傷が付いてしまった。
「か、カルラ、ちゃん……だいじょう、ぶ?」
「あれ、だいじょぶ? 怪我してるじゃん!」
物音に反応した草次と蜜希が駆け寄ってくる。
「だ、大丈夫よ。ちょっと手が滑っただけだから」
表向き冷静な調子で草次たちの助けを遠慮しているが、その実彼女の内情は焦りで空回りしていた。
――どうしよう、割っちゃった。怒られるかも。ううん、怒られるのは良い。けど……
けど? ――その先の言葉が、カルラは紡ぐことが出来なかった。
――けど、私は何を怖がってるのよ。何が嫌なんだろ……
たかが皿一枚で友介が怒ることはないとカルラは分かっている。だというのに、なぜ彼女は友介にこの光景を見られることを嫌だと思っているのだろうか。
「とにかく、すぐに片付け――」
「ただいまー……って、おい。草加、お前らまた俺ん家に勝手に上がってんのかよ。つぅーかカルラも、菓子も何も持ってこねえ奴らを入れてんじゃねえよ」
「そうケチケチすんなってぇー! てかさ、旦那。どうでしたよ、今日」
「誰が旦那だよぶっ殺すぞ。そうだな、楽しかったぞ……って、カルラお前そんな所で何してんだ?」
「うん? ほんとだ、どしたのカルラちゃん」
玄関で草次と軽口を叩き合う友介を見ながら、カルラが呆けたように立っていた。草次も友介も訳が分からず、しばらくじっとカルラを観察していると、彼女が指から血を出しているのを見つけた。
「お前指切れてんぞ。何してんだよ。さっさと絆創膏でも貼れ」
「あ、いや、これは……その、」
「あん? なんだよ、はっきり言え」
「その、ごめん……お皿割っちゃったのよ。それで切っちゃって」
「ああそういうことな。まあ気にすんな。良いから絆創膏でも貼ってろ」
「えっと、ええ。……ていうか、怒らないの……?」
「はあ? こんなんでいちいちお前に怒ってたら俺の身が持たねえだろうが。――ああもう、いいわ。ぼーっとしてねえでテーブルのイスに座れ。俺が治してやる」
「いや、別にいいわよそんなの! 何歳だと思ってんのよっ!」
「良いから黙って座れ」
「友介くん、やっさしい!」
「黙っとけ、ぶっ殺すぞ」
凛とのデートで疲れているのか、カルラに顎でテーブルのイスに座るように促し、草次を適当にあしらった。
救急セットを取り出した友介は、カルラが座る椅子の前まで近づくと、消毒液で傷を洗い、絆創膏を貼ってやる。杏里が怪我をすることが多く、その世話を長くやっていたためか、彼の手際は良く、何ら不満はなかった。
ただ、
(あ、また、触れた……手と、手……)
どうして自分はこのような下らないことの回数を数えているのだろうか。手が触れたからなんだというのか。それで彼女の心の中にあるナニカは変わるのか――頭の中でそのような思考がぐるぐると回るが、対して彼女の心は友介の肌と触れた回数を、意志に反して数え続けていた。
「ほらよ、これでおっけーだ。ったく、余計な手間かけさせんなっての」
「ごめん」
「謝んなよ気持ち悪い」
「き、気持ち悪いってことないでしょ!」
「どうだかな」
「ったくアンタって奴は、もう……ッ」
しかし続く言葉は出てこなかった。呑み込んだセリフが何だったのかは分からないが、これまでの彼女ならば口にするどころか、思いすらしなかったような気持ちが溢れ出そうとするのを何とか堰き止めた。
――ほんとに、どうしちゃったんだろ、私……?
自分が壊れてしまったのかという恐怖と不安が腹の奥からせり上がってくる。まさか自壊でも始まったのか、あるいは何者かに知らぬ間に心を弄られ違う自分になってしまうのか。
その感情の名も存在も知らない少女は、多大な恐怖の中に、淡くも決して消えることのない恒星の如き輝きを見せる幸福を感じられない。今はまだ、未知への恐怖で雁字搦めになってしまっているのだ。
「なんだよ」
「な、何でもないわよ!」
どうやら無自覚の内に友介の顔を見てしまっていたらしく、友介が訝しげな視線を送ってきていた。
「よく分かんねえけどよ、あんま人の顔じろじろ見てんじゃねえよ」
「……う、ごめん……」
分からない。分からない。
その『分からない』が、少しずつ蕾を膨らませていく。




