第二章 光のアイドル 5.光と影
一通り水族館を回って満喫した友介と凛は、昼食の休憩を取るために館内のレストランを利用していた。これと言って特筆するほどでもない料理を平らげた二人は、しばしの間椅子に座って他愛もない話を続けている。
「それでさー、みなったらさ、その時になんて言ったと思う?」
「さあな、なんて言ったんだよ」
そう、他愛もない話だ。共通の知り合いの――否、友達の昔話。昔の秋田みなの話を、友介は凛に聞かされていた。
ただしそれは、断じて凛が友介の心を折ろうとしているためではなかった。
私は大丈夫、友達の死から立ち上がった。だから今こうして彼女のことを思い出として語ることが出来るのだと――少女は伝えようとしているのである。
友介がみなを救えなかったことに対し、自分で自分を許すつもりがないというのならそれをやめろとは言わない。それは彼が決めることであり、第三者が口を出して良い問題ではないからだ。
ただ、自分に気を遣う必要はないと、凛はそう伝えたかった。
もしも友介が、『四宮凛の友人を救えなかったこと』を悔やんでいるのならば、その罪を、もう許してもいいのだと。
秋田みなと言う少女を救えなかったことに対する罪悪感を忘れないというなら、それを止めようとは思わない。けれど、凛に対して、事実に罪悪感を覚える必要はないのだと、知ってほしかったのだ。
「あんたに匠はあげねえー! だって。おかしくない? あたしそん時彼氏いたのに」
「そんだけ勝田のことが好きだったってことだろ」
そしてその思いは、きちんと友介にまで届いていた。
秋田みなに対する罪悪感は消えないが、少なくとも、既に凛に対して後ろめたい気持ちを抱くことはなくなった。
こうして話せていることも、一か月前まではありえないことだった。どのような運命のいたずらか、交わることの無いはずの道はこうして少しずつだが深く交差していく。
いつだって人と人との絆というものは分からない。どこかで思いがけず交わることもあれば――、離れてしまうこともある。
――唯可……。
そしてそれを自覚した時、いつも少年のまぶたの裏に一人の少女の笑顔が思い浮かぶのだ。
何か一つでも些細なきっかけがあれば再会できたにもかかわらず、その機会をついぞ得ることのなかったあの日を、少しの後悔と共に思い出す。
「ん? どしたの?」
「――あ、いや、なんでもねえよ」
そんな刹那の後悔を、凛に呼ばれて我に戻った友介は、すぐに脇へと追いやった。
そうだ。確かに唯可と会うことは叶わなかったが、今は凛に付き合ってやらねばならない。彼女との縁は、あるいは――唯可と再会出来なかったからこそ得られたものなのかもしれないのだから。
「そんな事より良いのかよ、そろそろ行かなくて。開場は十二時だろ」
「ばっかだねー。開場は十二時でも開演は一時。ならそこまで急がなくても大丈夫なの」
「ああそうかよ」
言い返しながら、友介はふと気が付いた。
他人に対する己の態度や、他者との接し方が、どこか、柔らかくなり始めていることに。
何かきっかけがあっただろうかと首をひねって――すぐに思い出す。
そうだ、あの激戦の中、カルラに慟哭を受け止めてもらったことだ。
あれからというもの、友介の他者への接し方が少し変わった。劇的な変化というほどでもないが、確かに、他者を思いやる余裕ができたのだ。
「なんっか釈然としねえ」
「だからどうしのよ」
「いいや、こっちの話だ」
だが、カルラに慰めてもらったから変わった――そう素直に認められるほど友介はまだ人間が出来ていない。よって彼はこう結論付けた。
(ま、どうせ気まぐれだろ)
時が経てばこのような行動もなくなるのだろうと、どこか寂しげに自らを卑下したところで――、
「いやーすっごく綺麗だったですね! 本番前にいいリラックスになりました!」
鈴を転がすような美声が友介と凛の耳をくすぐった。
「え……?」
「おい、あれって……」
二人が目を向けた先には、白い髪と緑の瞳を持つ獣のように凶悪な目つきの少年と、紅蓮の如き赤髪と黄金色の瞳を持つ、燃え盛る地獄の炎のような少年、そして――
美しい金髪。優しくも情熱に燃えた緑の瞳を持つ少女がそこにいた。
来ている服は特段市井の者と変わりはしない。しかし纏う雰囲気が異なっている。圧倒的な存在感。暴力的なまでのカリスマ。何も着飾らず、特別な力も使用してもいない。真実、身一つで、彼女は光となっていた。
「ぁ……うわあ……」
友介が圧倒されていると、対面に座っていた凛があまりの眩しさに持っていたスマホを机の上に落としてしまった。
凛のその様子に気が付いたのか、金髪の少女がしまったという風に顔を顰めた。
「あらら……またやっちゃいましたよー……」
両手で顔を覆い、小さく嘆息をこぼす少女。彼女はばつが悪そうに凛へ視線を向き直ると、
「ごめんなさい……」
しゅん、という音が聞こえそうなほどの申し訳なさそうな声で凛へ謝罪する金髪の少女。それだけで、凛がはっとしたように起き上がって、
「あ、いえ、こっちこそ! そんな事よりサインくださいッ!」
「俗欲にまみれ過ぎかよ。もうちょい仏の心を知れ」
「何意味わかんないこと言ってんのッ? ていうか安堵、あんたよく冷静でいられるわね! あれ、誰だか分かってんのッ? あの、あの……今日の主役、春日井アリアさんだよ!」
「いやまあ、見りゃわかるだろ。俺だって予習くらいしてきてんだからな」
「じゃあ、サイン貰おう!」
「なんなのお前のその元気。ミーハーか?」
「そうだよ、だからサイン貰おう!」
「だからいらねえよ。サイン貰ったからって何になるんだよ」
「それは貰ったことがないから分からないんだし。バレンタインにチョコを貰えない男子が、『はー、チョコの何が良いんだか。別に自分で買えるじゃん』って言ってんのと一緒! だから、サイン貰おう!」
「だからいらねえっつてんだろッ! 再生テープかよお前ッ!」
「さあ、サイン――」
「死ねッ!」
どこか草次と似た面倒くさいノリの気配を嗅ぎ取った友介は、さっさと彼女の背中を押して金髪の少女の前へと突き出した。
春日井・H・アリア。ここ最近売れ始めたアイドル。
しかしなるほど、アイドルというだけあってなかなかに魅力的な少女であった。鈴の音が鳴るような声音も美しく、これならば人気が出たことにも納得だ。
地金でこれほどまでの魅力を持っているのならば、少し着飾ればよりそれはもう美しい少女になるだろう。
ただ一つ、何かが腑に落ちないという不快な感覚も同時に存在していた。しかしそれも、些末事と切り捨て彼はアリアへ向かいあった。
「あの、すいません。俺の連れが迷惑を」
「え、あ、いえいえ! 気にしないでくださいっ!」
友介が頭を下げると、アリアが慌てたように手を振った。
「私も一応はアイドルですし、こうやって誰かに声を掛けてもらえるだけでも嬉しいです」
どうやらこのアイドルという職業に対して、アリアは一方ならぬ情熱を持っているようだった。もっとも、好きでやっているのだろうから当然と言えば当然か。
アリアは凛がどこからともなく取り出した色紙に笑顔でサインをしていた。その横顔はどこか充足感に満ちていて、心なしか瞳も潤んでいるように見える。
しかし同時に、その奥に哀切や諦観めいたものも垣間見え、友介は内心首を傾げていた。
程なくして凛が嬉しそうな顔で友介の前まで戻ってくると、色紙を友介の顔の前に差し出して、
「ふふん、いいでしょ。あんたはいらないって言ったから、触らせてあげない」
「はいはい、良かったな」
少し舞い上がり気味の凛を適当にあしらっていると、視界の端にいるアリアが友介を不思議な者を見るかのような目で眺めていた。
「あれ。どうしました?」
「あ、いえ! なんでもっ」
何事かと思い視線を向けるもアリアははっとしたように我に戻ると、顔を横に振って何でもないと口にする。
少し違和感が残らなくもないが、友介としても特に追及する気はなかったため、「そうですか」と一言告げるに終わった。
「そうだ、アリアちゃん」
「はい、どうしました?」
「……」
唐突に近づいた二人の距離に友介は困惑したが、当の本人達は全く気にしていないようであった。さすが女子と言うところか。距離の詰め方が異次元だ。
「アリアちゃんって何でアイドルになったの?」
「どうして、ですか?」
「うん、そう。せっかくだから聞きたいなーなんて」
「うーん……」
悩むようなそぶりを見せながら自然と友介の隣へ腰かけるアリア。どうやらもう少し友介達と時間を共にするつもりらしい。もうあと一時間ほどでライブが始まるというのにこのような調子で良いのだろうかと思わなくもないが、素人には分からぬルールのようなものがあるのかもしれないと考え、口を出さずに二人の雑談を流し聞く。
「そうですね」
そして彼女は告げた。
少女の根底にある唯一無二の光を。
「憧れのアイドルがいて、あんな風に誰かを笑顔に出来たらなあって。そして、できるなら、あの人たちよりもさらに輝いたアイドルになりたいって思ったからですねっ」
「なるほど……やっぱそんな感じかー。凄いわ」
そうして雑談を重ねていると、彼女の護衛だろう二人の少年のうちの一人――赤髪の少年が何事かを耳打ちする。
おそらく、そろそろ時間が近づいてきたから戻るぞということだったのだろう、彼女はすくりと立ち上がると、太陽のような笑顔を浮かべると、
「では、そろそろ戻らないといけないのでこのあたりで! じゃあ二人とも、楽しんでいってくださいね!」
「うん、もちろん。頑張れー、応援してるよ」
「楽しみにしてます」
凛と友介がそれぞれの言葉で応援の言葉を送り、アリアとは別れた。
「可愛かったわー」
「確かにな。さすがアイドルって感じだったな」
適当に言葉を交わし合い、二人も席を立つ。
ライブへの期待が、少し高まる二人であった。
☆ ☆ ☆
時を同じくして、安堵友介の暮らすマンションの一室では、油が蒸発する音が響いていた。
留守を任され、キッチンと冷蔵庫に入れられている安堵家の食材を、特別にこの日だけ使う許可を得たカルラが、昼食を作っているのだ。
先の蒸発音は熱したフライパンの上に卵を落とした音。
卵を焼く音が、たった一人の部屋の中で寂しく響く。
一人菜箸を動かして卵を混ぜながら、カルラはふと疑問に思う。
何故、こんなにも寂しいのだろうか。
友介の部屋に居座る前までは常に一人であった。ほんの一か月ほど前まで、彼女はこうして一人で毎日を過ごしていたはずだった。
しかし、ジブリルフォードと土御門狩真の襲撃を経て友介の家でこうして料理を作ったり、食事を共にするようになって――そうして、もう一度ひとりになれば、感じる孤独感が以前までと比べ物にならぬほど大きくなった気がしてならない。
何故なのだろう――嫌いな相手であろうと、一度でも『時間を共有する』という行為を知ってしまうと、これほどまでに一人が辛くなるものなのだろうか。
カルラは最初そう考えていたが、しかし――
(たぶん、違う……)
その推測を、否とした。
そうではないはずだ。分かち合うことの温もりを知れば、たとえ一人でいなければならない時間が生まれたとしても、それは苦痛となるはずがない。
理由は簡単――友介は必ず帰ってくるからだ。彼はこの家に戻ってくるし、そうなればまた、カルラは友介と共に時間を共有することになるだろう。
『次』があるのだから、寂しいと思うことがあっても苦痛を感じる道理はない。
――なら、どうして?
――なんで、こんなに、胸が痛いのよ……
心のある場所で疼く奇妙な痛みの理由が、少女は分からない。
この苦痛が決して、孤独によって与えられたものでないということを、知らない。
「はじめて、上手くできたのに……」
ふわりと食欲をそそる香りを出す、見事な仕上がりの卵焼き。
それを皿に移し、テーブルまで運ぶ。定位置となりつつある友介の席の前に腰かけ、少女は自作の卵焼きを口に運ぶ。
「うん、美味しい……」
醤油で味付けした卵焼きの旨味が口の中に広がる。
「美味しいわ」
それでも少女は何かが足りないと、目の前の少年の席を見る。
誰もいない、少年の席を。




