第一章 推移する感情たち 3.SYURABA
「さっきは随分仲良さそうに話してたわね。なに? 彼女? 約束の女の子?」
「いや、ただのクラスメイトだが」
「ただのクラスメイト、ねえ……」
ジロリ……否、ギンッ! という凄まじい効果音が鳴りそうなほどの勢いで凛を射抜くカルラ。それだけで、年上であるはずの凛の方が固まった。
当然だ。友介は知っている。あの女の目は凶器だ。それなりの修羅場を潜っている友介でさえ時折恐怖を感じるほどなのだから。
さすがに凛が可愛そうに思えてきた友介は、助け舟を出そうと口を開きかけたが、
「ちょっと友介は黙って」
「はい」
慌てて口を閉じた。
「それで? あなたは……って、あ、確かあの時土御門狩真に誘拐されてた……」
「――ッ」
土御門狩真――その名前を聞いただけで、先ほどの何倍もの恐怖が少女の顔に浮かんだ。みるみるうちに顔が青くなり、脚が小刻みに震えた。
「おい、四宮」
「ちょっと、ちょっと黙って!」
「あ、はい」
またしても黙らされた。
凛は恐怖で青ざめた顔へ必死に力を込めると、カルラの金色の眼光に負けじと真正面から視線をぶつけた。
「私は、四宮凛」
「知ってるわよ。アタシと一緒に、そこの馬鹿が助けたんだから」
「おいこら誰がバカ――、」
「死ね」
「それは言い過ぎだ……ッ」
「死ね」
「お前は耳が――」
「死ね」
「もういいお前が死ね」
ちっ、と一つ舌打ちをしてカルラから視線を外すと、そのまま彼女と相対する凛へと注がれた。
未だ体が震えている。だが、その瞳にはありありと闘志が浮かんでいた。どうやら友介の周囲の世界を変えると言ってくれた少女の肝は相当太いらしい。あのカルラと真正面から睨み合うことができる一般人などそう多くはないだろう。
両者の間で火花が散る。
「それで友介、四宮さんと何をしてたの? どういう関係?」
「え、だからただのクラスメイトだって言ってんだろ」
「ほんとに?」
「ええ、ほんとよ」
友介の言葉を、凛が肯定する。カルラはふぅーんと興味なさげに凛を見つめる。そうしながら、金色の瞳から剣呑な色が消えていく。
だが――、
「今は」
「――――」
金色の瞳が再燃した。
「へぇ……なるほど、今はただのクラスメイトっていうわけね」
「ええ」
「いや、別に今だけとは限らないだろうが。来年のクラス替えで――」
「黙れゴミ」
「ほんとうっさい」
「何なんだよマジで……」
まだほんの数分も経っていないというのに雪のように疲労が溜まっていく。あまりに不毛過ぎるやり取りに辟易しながらも、パンを待っている限りこの場から逃げようもない。
そして友介が逃げあぐねている間にも、話はさらに進んでいく。
「じゃ、次はあたしの質問ね。あなたは安堵のなに」
「私? 私はその……」
問われたカルラは一瞬考えるように天井を仰ぐと、ついっと友介へと目を向けた。
「ねえ、私はアンタの何なの」
「あァ? 知るかよカス」
「役に立たないわね」
「つまり、何でもないってことよね」
ふふっ――そんな勝ち誇ったような声で凛がカルラへと声を投げた。対してカルラはそれを鼻で笑って、
「はんっ、誰かの隣にいることに肩書が必要かしら。私は紛れもなくこいつの相棒よ。片腕よ」
「あ、ああそう。でも私はあれだし。安堵とは約束を交わしたしなあ。誰にも言えない秘密の契約を」
「友介……?」
「お前さっきから何なの? 何でしきりに俺を睨む」
「う、うるさいうるさい! っていうかアンタが悪いのよ!」
「何がだよ……」
「それは、えっと……うぅう……うざい」
「いやそれはお前だよ」
「ま、いいわ。それより友介、私が言いたいことは一つよ。なんで勝手にどっかに行くのよ。昨日、私お昼一人だったのよ」
「知るかよ」
「あ、これから安堵はあたしと昼飯食うから」
「はあ? 何言ってるのかしら。無理よそんなんの。だって私と一緒に食べるんだから」
「む……み、見捨てられた分際で」
「見捨てられたわけじゃないわよ。あと私がこいつと一緒にご飯を食べたいとかそういう愉快な勘違いをしているのかしら、このビッチは」
「な、ビッチじゃないし!」
すると凛は友介へ振り向いて、
「ビッチじゃないから!」
「あ、そう」
「しょ、処女では、ない、けど……」
「どうでもいいわ」
「そ、そか……、で、でもっ! あの、り、リードは……ッ、って何でもない!」
何やら一人で慌てふためいているが、友介はどうでもいいと視線を切った。疲れたように息を吐くと、もう付き合っていられないとばかりに購買の奥へと進みパンを物色し始める。
あとに残されたのはカルラと凛の二人だけ。
「それで?」
もう一度カルラは同じ言葉を繰り返す。
「アンタは友介の、なに」
「だから秘密の契約を交わしたクラスメイトって言ってるっしょ」
「秘密の契約っていうのは?」
「言うわけないっしょ」
「ふん……どうせ気にするほどのことでもないわね」
そう言うと、カルラは凛に背を向けて歩き出そうとする。
しかしその背に、先ほどまで相対していた少女が声を掛ける。
「あの、さ……」
「……? なによ」
振り返る少女の瞳には、先ほどまでのような剣呑な色は存在していない。なぜ自分を引き留めたのかという疑問が浮かんでいる。
少し間の抜けた少女の顔に少し噴き出しそうになりながら、凛は感謝を告げた。
「ありがとう、助けてくれて」
「――――っ」
だが。
「………………て、」
「え……?」
続く少女の言葉には、
「お願いだから、そういうの、やめ……て……っ」
礼を告げられたカルラの顔には、ただただ悲痛な苦しみと恐怖だけがあった。
「ほんとに、嫌なの……っ」
その表情も。
その瞳も。
それが。
四宮凛には。
とても弱い、親に捨てられた赤子のように見えた。
☆ ☆ ☆
灯り一つない暗黒の空間。
壁と床、そして天井の全てが石で造られたその空間に、一人の『鬼』がいた。ボロボロに擦り切れた布のような衣服。全身に走る無数の傷。ぼさぼさの金髪にこけた頬。
どう見ても不健康なその鬼は、しかし常と変わらず不気味な――あるいは人を不快にするような笑みを浮かべていた。
鬼は冷たい床に腰を下ろしながら、ぽつぽつと天井から落ちる雨漏りの音を数える。
目の前に存在するであろう鉄格子には目もくれず、一心不乱に雨滴の音を数えていく。
「二万六十一、二万六十二、二万六十三……」
常人ならば気が狂うような行為。拷問に近い。誰しもが正気を疑うような光景だった。――それも、両手両足を含めた全身をガチガチに固められた男が行っているとなればなおのこと。
鬼が暗黒の世界を堪能しているその時。
光一つない暗黒にぽっと光が差した。鬼火のように揺れるその光は、魔術によるものか。
――なるほど、ここも相当腐ってやがる。
『鬼』は口の端を吊り上げて常とは異なる冷たい笑みを浮かべていた。
「面会希望者だ。出ろ」
鬼の顔が照らされる。
金髪、だった。
「キヒヒヒッ、おいおい……面会ってなんだそりゃ。まさか率也のクソ兄貴が科学圏に侵入でもしてんのか? それとも何だァ……? まァたあのクソ狐と話せってのか? 光鳥感那だっけか?」
「応える義務はない。とっとと出ろ」
「ヒハはハハハッ! いいぜいいぜ、おもしれえ。全身縛れば狂った殺人鬼も怖くねえってか……可愛いなあ。――ま、いいぜ。ちょうど雨漏り数えも飽きてきたんだ。さっさと新しい刺激をくれ。なんだったらよぉ……」
中性的な端正な顔を歪めて、少年は三人の男たち――その奥の牢屋にて眠る、一人の騎士へと視線をやった。
「――あの真っ黒野郎と、再戦させてくれてもいいんだぜぇ?」
「黙れ。黙れよ、土御門狩真」
「ギヒヒヒハハハハハハ! やっと名前を呼んでくれたなあ」
何が楽しいのか、狩真は先ほどからゲラゲラゲラゲラと一人で笑い転げていた。
「んじゃ、さっさと行こうか」
そう言うと、金髪の鬼はむくりと立ち上がり、全身を雁字搦めにしていた鎖から簡単に抜け出た。
その光景を見た看守と思しき三名の男たちは、各々ライフルやら杖やらを取り出して襲撃に身構える。
「きっ貴様! いつから!」
「これくらいで驚くなっての。別に取って食いもしねえよ。今はやる気がねえ」
そうして彼は、牢屋の鍵を左手一本で叩き壊し、看守たちの前に歩み出た。
鉄製であり、かつ表面が錆びていたせいで左手が若干擦り切れていたが、特に気にする男でもない。
「んじゃ」
そして、彼は満面の笑みで。
「行くか」
看守の一人を無造作に殺した。
首へ腕をねじ込んだ。中から食道を引っ張り出し、それを口の中へ押し付ける。
「ヒハッ! ひひひッ! キヒヒヒヒヒハハハハハハはハハハ! カ――――――ッハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ! やぁ――――――ッぱ久々の殺しは気持ちいいなあ」
ぐちり、ぐちりと気持ちの悪い音が暗い地下独房に響き渡る。血肉が飛び散り、折れた歯が近くの看守の頬に当たった。
「ひっ……」
金髪の鬼は、この音こそが至高の楽曲であるとでも言いたげにその顔を恍惚に染めた。
「おらァ! 逃げてんじゃねえぞッ! テメエらが逃げたら誰が俺を案内してくれるんだよ」
「き、貴様! さっき殺しはしないと……ッ」
「ああああああああうるっせえ。うるせえうるせえ。俺は人間だぞ。そりゃ気も変わるわ。つぅーかうるさいから黙れって。さっさと面会行くぞ。……ったく、んくらいのことで喚くんじゃねえ」
安堵友介との戦いを経ても、土御門狩真は変わらなかった。
土御門狩真は、鬼のままだ。
「そんで? どこに行きゃいいんだよ。あんま相手を待たすのも悪いだろうが」
彼の問いに、恐怖に震える看守たちがおそるおそる言葉を紡ぐ。まるで猛獣を相手にするように、一言一句、鬼の気に触れぬように言葉を選び取っていく。
「め、面会は今週の土曜日だ……それまでは地上の留置所にて待機とのこと、だ……」
「はーいはい、りょーかいりょーかい」
相も変わらず、その表情に張り付いた無惨な笑みは、見る者に生理的嫌悪を与えるものであった。
☆ ☆ ☆
渋谷区、スクランブル交差点。
空夜唯可とライアン・イェソド・ジブリルフォードが激戦を繰り広げた渋谷区の象徴たるその場所は、隕石が落ちたかのような有様であった。
――否、事実、ここに隕石は落ちた。氷の隕石は、都民の日常の象徴を粉々に砕き散らしたのだ。
陥没し、地下空洞があらわになった道路。傾いた建造物もあれば全壊し瓦礫の山となったものも存在する。
死んだ街。
人ひとりいない。国から工事を請け負ったはずの工事会社の関係者も、毎日必ずやって来る野次馬も、東日本国の暗部の人間すら、存在しない。生きていない。
……皆、血と臓物をまき散らしているか、焼き焦げた炭になっていた。
――たった二人、大穴の外周部に立つ二人の男を除いては。
「あぁ……これはまたつまらん見世物だ。老人の足掻きなぞ、不快以外のものを感じさせないというのに」
一人は目にかかるほど長い黒髪を持った陰気な青年であった。身に纏う地味な着物。口には煙管を咥えており、どこか掴み所のない……あるいは、浮遊したような存在感を持つ男。
声に宿る色は嘲りのそれであり、口元に緩く浮かべられた笑みもまた嘲笑の類。つまるところ、この少年は一人の男の戦いを塵と切り捨てているのである。
「口を慎め日陰者。眼前の宝にすら気付かない盲人が彼を語るな」
対して、嘲りを多分に滲ませた黒髪の青年に言葉を返したのは、紅蓮の如き赤い髪と、黄金色の瞳を持つ一人の少年。身に纏う服はどこかの新興宗教の礼服であろうか――髪と同様の紅蓮の赤の生地に、瞳と同色の黄金色の装飾をあしらわれた派手な衣装であった。
歳は十七か、十八か。隣に立つ青年よりも五歳ほど年若いように見えるが、彼に物怖じした様子はない。――否、むしろ高圧的ですらあった。
「これは驚いた。お前も人を尊敬するのか」
「彼の理想は尊ぶべきものだ。貴様には分かるまい。過去を抱くだけの馬鹿にはな」
「そうかい。まぁ、俺の意見は変わらないよ。――実につまらない。吐き気を催す」
「八百万夜行、貴様は浅い。貴様のような男が未来の為に命を懸けた者を嘲られる道理はないと思うが」
「あぁ、そうか。肝に銘じておく。ありがたい言葉だ。お前の言葉はいつも俺を導いてくれる。感謝するよ、紅蓮焦熱王」
「馬の耳に念仏か。本当に浅い男だな」
「よく言われる」
氷の如き冷え切った静かな声音で非難する紅蓮の少年の言葉を、陰気な青年はどこ吹く風と聞き流す。
紅蓮の少年もこの一連のやり取りだけで気付いたのだろう――これ以上彼に何を説いたところで無意味だと。
よって話を本題に戻す。
「この下、何があると思う」
「興味ないな。どうせ下らないものだ。大方、この国の暗部、人体実験場か何かだろう。気を向けるに値しない」
「遺憾だが僕も貴様に同意だ。大したものは出てこないだろう。――ただし」
「あぁ……こいつはおかしい。捻じれ過ぎだ。吸福の魔女と霧牢の海神の激突にもう一つ残滓がある」
「『破壊回帰』……いや、今は『破壊技師』だったか。ともかくあの女の介入があったと見て良いだろう」
「では、寄り道は無し。さっさと可愛い騎士を回収して家に帰るとしようか」
「馬鹿が。それ以外にもやることはあるだろう」
紅蓮の少年の言葉に、陰気な青年は「聞いてないが」と何一つ興味を持った様子のない声音で告げた。
紅蓮の少年は侮蔑をため息と共に吐き出すと、ゆっくりと、子供へ言い聞かせるように言った。
「安堵友介を、謁見させる」
「おいおい……それは早すぎるだろう? 陛下に、あの若造をいま会わせると?」
「若造と断じるのは早いぞ。あの男の染色は異常だ。早急に確かめねばならぬだろう」
「だとしても早過ぎる……『あの狂人』もそこまで考えてないだろうよ」
「下らない。だとすればなおさらだ。『混在王』の言葉など当てにならん」
「そうかい。どちらにしても興味はないけどな」
飄々とした態度を崩さない八百万夜行と呼ばれる男は、身を翻しその場を後にしようとする。
だが――、
「待て。これは陛下の意志だ」
「――……なるほどね。あのお方もよほど闘争が好きなようだ。俺にはあまり分からない感覚だね」
「不敬な発言……と取れなくもないが、貴様に限ってそれもないか。あとは僕がやっておく。貴様は貴様の仕事へ戻れ」
「はいよ」
次の瞬間、陰気な青年は霞の如くその姿を大気に融けさせた。
その間際――。
『お前、多分だが安堵友介に会わない方がいいわ……アレはお前にとって、天敵だ』
「なにを……?」
『自分で考えろ』
クスクスと耳障りな嘲笑を残して去って行く黒髪の青年。姿が消え、やがて気配も消えるその間際、黒髪の青年はぽつりと呟いた。
『どっちにしろアレは……この世全ての描画師の天敵だ』
それは、間違っていたのかもしれないし。
あるいは、正鵠を得ていたのかもしれない。




