第一章 推移する感情たち 2.彼女の答え
午前中の授業は数学a、古典、生物、数学2という比較的理系よりの科目であった。当然友介は全ての授業を居眠りで乗り切り、今は待望の昼休みだ。
(さて……今日は昼飯どうすっか)
昨日までは適当に冷凍食品を詰めただけの弁当を持ってきていたのだが、いい加減同じ献立も飽きてきたので、今日は持ってきていない。
購買で菓子パンでも買おうと席を立ち、財布を取って教室を出ようとする。
だが――。
「へいへいテメエよお、誰に断って教室から出ようとしてんだぁ?」
当然というか当たり前というか、扉は見覚えのある三人の少年によって通行止めにされてしまった。
剛野と、その他二名の子分Aと子分Bである。
先日カルラにコテンパンにされてからしばらく友介にちょっかいを出すことはなかったのだが、それはカルラがいる時だけ。彼女がいないときは、凝りもせず友介にすぐちょっかいをかけてくるままであった。
友介は下らない人間だと割り切って為すがままにされるのだが、これがまた面倒くさい。
周囲に同意を求めて己の正当性を主張するという小物極まりない手法。シンプル故に強力であり、友介の心を確実に削っていた。
だが、それら陰湿な嫌がらせよりも、彼の精神を削るものがあった。
それは――。
(くっっっせェ)
体臭が酷くなった。ついでに口臭まで酷い。
(なんだこいつ、主食はうんこか?)
口に出せば殺されかねないので黙っておくが、それはもう酷いものだった。中にハエが溜まっていてもおかしくない。
「なぁ聞いてんのかよ」
(つばつば! つばを飛ばすな! 皮膚が融けたらどうすんだよ……ッ)
心の中でありとあらゆる罵詈雑言を並べる友介の前で、剛野は上機嫌に何やら言っていた。おそらく友介が何も言い返さないことがよほど楽しいのだろう。自分に怯えているのだと勘違いしていると見える。
実際、彼は剛野に慄いているためその認識に間違いはないのだが、友介の目には少し哀れに見えた。
あまりの臭いに友介が距離を取ると、剛野はさらに上機嫌になる。
「あーようやく分かってくれたか! 良かった良かった。よっしゃ、そんじゃ本題に入ろう」
「あん?」
「安堵、俺らに焼きそばパンかって来い」
「買うわけねえだろうが」
当然の反応をした友介だったが、それがこの少年に通用するわけがなかった。
「はぁあ? 何言ってんだテメエ。お前は殺人鬼。人殺し! だったらさあ、なあ? 分かるだろ? 同じ教室に置いてやってんだから、テメエは感謝して俺ら全員分の昼飯を用意しなきゃいけねえに決まってんだろうがよぉ! ぎゃはははははは!」
軽薄で気持ちの悪い理論を振りかざす剛野を、友介は酷く冷めた目で見ていた。
「なあテメエら! そうだ、今日はみんな、お前に驕ってもらうために弁当も金も持ってきてねえんだ! 言っただろ、クラスラインで。あれ? そういやお前はクラスラインに招待されてなかったか。アーすまんすまん、忘れてたわ」
今さらこの程度の男に何か言われたところで怒るような神経は持っていない。金にも、先日の事件で土御門狩真を退けたことによって得た報奨金が、まだ捨てるほど残っている。
だが、それらは全て杏里の治療費や、復興を支援するために募金するつもりだ。
よって友介は彼らを無視しようとする。しかし――。
「おいおい! 無視か? お前は人を殺す上に、昼飯のない俺たちに空腹を強制させるつもりかよ? ひでえなあ。さっすが人殺し。根っからの悪人はやることが違うねえ」
――あいつらは、まだ子供なだけだ。
何も知らない男が、二年前の事件を引き合いに友介を嬲る。
対して友介は一言も発さない。応えた所で無駄だから――などという下らない理由ではない。
あの地獄が、語って聞かせていいものではないから。そして、彼の言うことは間違っているわけではないからだ。
救える位置にいながら救えなかったのだから、それは殺したも同義だ。
そして当然。
彼の話は新たな事件にも飛び火する。
「どうせあれだろォ?」
つい先日の事件へと。
未だ傷が消えていないにもかかわらず。この頭の足りない馬鹿は口にしてしまう。玩具と爆弾の区別もつかぬまま――。
「この前のテロも、お前がやったんだろうがッ!」
あるいは。
剛野はそれを理解していながら玩具にしたのかもしれない。
彼が決定的な一言を口にした瞬間、クラス中から非難と罵りの言葉が投げかけられた。
「そうだ! お前がいたからみんな死んだッ!」
事実だ。土御門狩真は安堵友介を負って渋谷へ来た。
「人殺し!」
「「人殺し!」」
「「「「「人殺し!」」」」」
生徒たちの熱気は高まっていく。
遠い場所にいるテロの犯人ではなく、身近にいる人柱に怒りをぶつけることに快感を覚えているのだ。
それは麻薬のように甘美な毒。人を堕落させる麻薬に他ならない。
それでも友介は何も言い返せない。言い返してはならない。
なぜならこの感情は、この情動は、この暴動は、彼らの唯一の逃げ道なのだから。
理不尽と不条理と不幸を潰すと誓った。
ならば。
身近でその理不尽に苦しんでいる人間がいるのなら、安堵友介はそれを払拭してやらなければならない。そのための手助けならばいくらでもする。
それが、それが――。
「うっさい! これ以上あたしの恩人を馬鹿にすんなッッ!」
そこで、机を蹴り倒した轟音と共に、教室中に響き渡るような怒声が彼ら皆を黙らせた。
茶色い髪をポニーテールにまとめた少女。スカートの丈は短く、化生も少し派手だ。ボタンは第二ボタンまで外しており、同年代の中では少し大きいくらいの胸の谷間が見えている。
四宮凛。
かつて友介を憎んでいた人物で。
土御門狩真から、安堵友介が救い上げたもう一人の少女。
「なんも知らないくせに騒ぐなよ」
いつも凛と仲良くしている少女たちも驚いた表情で固まっていた。凛はそれら全てを無視して、凛は友介の手を取った。
「行くよ」
クラスメイト達と同様に――否、彼ら以上に驚愕していた友介を引っ張って凛は教室を出た。
☆ ☆ ☆
「ったく! ああもう……ああもうちょームカつくッ! もう! もうもうもう!」
「いや、お前なに怒ってんの?」
「なんでアンタは怒ってないのッ?」
「なんで俺に怒るんだよ。やめてくれ。ギャルは怖い。殺される」
「殺さねえわ! あとギャルじゃねーし!」
「うるさっ」
「あんたねえーッ!」
凛の怒りを聞き流しながら友介は彼女の手を放して購買へと向かった。
「あ、ちょっ」
「あん? なんだよ」
「え、いやぁ?」
引き留めた凛に視線を向けると、なぜか慌てたようなそぶりを見せた。彼女に訝しげな視線を送るも、彼女は視線を向けられた瞬間目を逸らし、下手くそな口笛を吹き始めた。
まったくもって意味不明な彼女の態度を不思議に思うも、特に何もないのならば気にする必要はない。
「そんじゃ、俺は購買まで行くわ。さっきはありがとな」
「え、あ、いや……それほどでも……」
「助かった。お前、ギャルのくせに良い奴なんだな」
「だからギャルじゃねーし! っていうかなにカッコつけて一人で歩いてんの? まだ私アンタから離れるとは一言も言ってねえけど!」
「嫌」
「嫌じゃねーし!」
「無理」
「無理でも―よ!」
「ギャル」
「だからギャルじゃねーって……ってもう良いわ!」
廊下でギャーギャーと騒ぐ友介と凛を、他の生徒たちが驚きの視線で眺めていた。
とは言えそれも仕方がないであろう。スカートを中の下着が見えかねない勢いで短くしている凛と、人殺しの汚名を受け、高等部と中等部問わず嫌われている友介が廊下で仲良く談笑しているのだ。しかも会話の主導権を握っているのは友介と来た。
近くからひそひそと何事なのかと声が上がるが、凛の耳には入っていない。逆に友介の耳はきちんとそれらを拾っており、内心では凛を自分から遠ざけるべきだと考えている。
このまま友介と絡んでいたって、彼女にいいことなどない。
「ねえ」
「あん?」
思案に耽っていた友介を、凛の刺々しい声が現実に引き戻した。友介は何事かと思い、思考を一旦打ち切って彼女に向き直り、
「トイレか?」
「違うわボケッ!」
右ストレートが飛んできた。友介はそれを、首を傾けるだけで避けると、気怠げな声を上げる。
「んで、なんだよ面倒せえな。そろそろ購買行かねえと飯を食う時間が無くなるだろうが」
「う、それはごめん……だけど、安堵、今しょーもないこと考えてたでしょ」
「ンだよめんどうせえな。しょうもねえことって?」
「そうね。例えば、あたしを遠ざけた方があたしの為になるんじゃねえか、とか」
「いや、何で俺がお前の心配をしなきゃ、」
「はいはい、そういうのは良いから」
すると凛はぱっと友介の前へと躍り出て、振り向いた。
「あんたは私を助けてくれたでしょ? だったらそれだけで十分」
「なにがだよ」
「あんたが優しいっていう証拠と――」
四宮凛は確かに安堵友介のことが嫌いだった。
「あたしが、あんたと絡む理由」
それでも、四宮凛は知ったのだ。
誰かの為に戦う安堵友介を。大切な誰かを守るために傷を受けても立ち上がり、彼を嫌っていた四宮凛を救うために怒り狂う少年を見ていた。
安堵友介が秋田みなを殺したのか。殺していなくとも、何者かの凶刃から襲われる彼女を見捨てたのか。あるいは、助けられる位置にいながら手が届かなかったのか。
いずれにせよ、安堵友介が秋田みなの死に間に合わなかったことは、彼女にとって許せるものではない。心情的な部分ではなく――彼女の根底にこびり付いて離れないどうしようもない感情なのだ。
けれど。
人の心には様々な面が存在する。憎く許せないという感情と、救われたことによる感謝の念は矛盾しない。
嫌な奴で、許せない人間だけど、それでも彼は救ってくれたから。
それは奇しくも、二年前のあの日、安堵友介が出した結論と同じだった。
空夜唯可に家族を奪われた。彼女の決断によって彼の祖母は死んだ。それでも少年は――あの少女を殺したくなかった。
好きになっていた。きっかけなどなかったのかもしれない。ただ、いつの間にか好きになっていた。
それと、同じなのだろうか。
凛が友介に惚れているなどと自惚れるつもりはないが、それでも彼の行動には意味があったのだろうか。
「あたしは、あんたが気に入った。あんたを好きになった。だから一緒にいたい。周りの人間がどう思ってるとか関係ないっしょ」
「別に関係なくはねえだろ。周囲の目は大切だ。少し考えたら分かる。敵意や悪意の目で見られればそれだけでこの世界では生きづらくなる」
「そうね。だから、あたしは変えたい」
「あん?」
何を? ――そう問う前に、少女はにひっ、といたずらを思いついた子供みたいな笑顔を浮かべて、
「あんたが人殺しだっつうー、その勘違いを変えたい」
四宮凛という少女は至って普通だ。一般的な観点から見た彼女は、奇抜な服装や茶色い髪のせいで少し変わった女の子に見られるのかもしれない。友介がギャルと言ったように、異性から寄せられる好意も他の少女とは一線を画しているのだろう。
だが、それだけ。それは友介のような日陰者――否、狂人達からすれば十分普通の人間というくくりに入れられる。どこにでもいる、日常を謳歌するただの女の子だ。平均的なラインからはみ出ていない。
けれど。
「あたしは知ったからね。知らなかったあんたを、知ったから……」
四宮凛は。
「ヒーローみたいなあんたを。英雄みたいに戦うあんたを、あたしはあの時見たんだ」
その『普通』の場所から、安堵友介という狂人の評価を変えると、
「だからそういうあんたを、あたしはみんなに知ってもらいたい」
安堵友介の、世界を変えると言った。
「人間は社会からの目を気にしないといけない。周りの目を気にして、周囲の評価を気にして生きて行かなきゃいけない」
「そうだな」
「でも、社会があんたの何を知ってるの? あの剛野や子分Aと子分Bは、あんたの表層しか――ううん、それすらも見てない」
「当たり前だろ。他人からの評価ってのはそういうもんだ」
「そうだね。どんだけ努力しても、努力は見られなきゃ努力したとは認められないし、努力の結果を隠してしまえばただの怠け者になっちゃう。あんたみたいにね」
「別に努力も結果も隠してるつもりはねえよ。別に言うほどのことでもねえから――、」
「そう、あんたはそう思ってる。だから、それを誰かがみんなに教えないとダメだと思う」
それは、彼女が元々持っていた持論なのだろうか。
あるいは、変わった――のだろうか。
「一人で頑張ってる誰かの努力の語り手が必要なんだと思う。あたしはあんたの、それになりたい」
だって――。
「あんたはあたしの、紛れもない英雄さんだから」
「なんだよ、英雄さんって」
「さあ? ま、可愛いからいいっしょ」
「勝手にしとけ」
「うん、勝手にする。だから、さ――」
続く言葉は派手派手しい見た目の彼女には似合わないものだった。
つい先日の屋上でも、このような態度を取っていたか。
顔を真っ赤に染めて、小さな声で告げる。
「あんま、あたしを遠ざけないでよ……。寂しいじゃん」
「…………」
友介は数秒の逡巡の内、適当な調子で口を開いた。
「勝手にしろ」
「ぁ――」
だが、友介はそう言って凛の横を通り過ぎて購買の列に並んだ。彼女の寂しげな声を無視して少年は財布の中身を確認する。
そして――
「いや、お前並ばねえの? パン無くなるぞ」
「え――っ、ぁっ。あ、いや!」
「誰だよ、さっき俺と一緒にいたいって言った奴は」
「そ、そこまでは言ってなくないッッ?」
「忘れた」
「んぐぐぐぐぐ……ッ!」
「つうか早く並べよ」
「う、うん……」
からかわれて唸っていた凛に隣を開けてやり、二人並んで購買に並ぶ。
先ほどまでとは違い少し距離が近くなったことで凛の口数が減ったが、友介は気にせずメニューを眺めて――そして、視界の端に何かが映った。
(あん?)
気になった友介が目を向けた先に。
「ふぅぅ――――――――――――ん。ずいぶん仲良さそうね、〝友介〟」
赤い髪と金色の瞳を持つ少女が。
「で、なに?」
風代カルラが、満面の笑みで立っていた。




