第一章 推移する感情たち 1.誰かの裏側
「おいこらクソ貧乳、テメエまた焦がしやがったな。食材はテメエのでもフライパンはうちのだぞ」
「う、うるっさいわね! だからさっきから謝ってるでしょッ!」
「その謝罪も三十回超えるとカスみたいな価値しかねえんだよ。まだ赤字企業の株価の方がマシだっつーの」
「い、意味わかんない例えしてんじゃなわいよ!」
安堵家のキッチンで、エプロン姿の少年と少女が指を突き付け合って喧嘩していた。
一人は目つきの悪い黒髪黒瞳の幸薄そうな少年。
もう一人は、赤髪と金色の瞳を持つ妖精のような見た目を持つ小柄な少女。
二人以外誰もいないマンションの一室で、いつものように罵声が飛び交う。
「つーか出来ねえなら俺に料理させろ。お前じゃ無理だ。センスがねえ」
「センスなんて努力でカバーすればいいのよ」
「お前は努力しても無駄だから言ってんだよ。どこの世界に豚肉炒めを三十回も焦がすアホがいるんだよ」
「ここよ」
「なに開き直ってんだよ」
「うるっさいわね! 次こそは成功させるから見てなさい」
「そのセリフも聞き飽きてんだよ! だいたい――」
そこで友介は唇を引き結んで、苛立たしげに時計を指さすと、
「飯作り始めてから二時間、何も出てこないとかおかしいだろうがッ!」
「はいはい、せっかちな男は嫌われるわよ」
喧嘩の内容はいつものように下らないものだ。
カルラが夕飯を作ると言ってから早二時間、何一つテーブルに料理が出てこないことにキレた友介が、カルラに怒りをぶつけたのだ。
そして、カルラの態度は友介からしてみれば最悪の一言に付きた。適当に謝るし、全く反省はしないし、言い訳をして逆ギレしてくるし――ここまでされて手を上げない友介は誇られるべきだろう。
――と、安堵友介が考える一方、カルラもカルラで納得がいかないと内心頬を膨らませていた。
「あのさあ、自分は何にも用意を手伝わないくせに何偉そうなこと言ってんのよ」
「あん? お前が一人で大丈夫だって言ったんだろうが」
「確かに言ったわ。言ったわよ。アンタに『え? 一人で料理も出来ないのか? まあその貧相な身体を見てる限りもやし炒めしか食ってなさそうだもんな』っていう変な煽りをされなかったらもっと早く助けを求めてたわよ」
「はぁ? 事実だろうがもやし女。その体のどこに脂肪があるんだ? だいたい、先に『ふふん、私の料理テクで骨抜きにして上げるわ』とか言って息巻いてたのはお前だろうが」
「ぐぬぬぬぬぬ……納得いかない……ッ! 殺す」
「それはこっちのセリフだよ。もう十時回るぞ。明日も学校なんだよ」
「知るかそんなもん! ていうか男なんだから少しくらい気を利かせて手伝ったっていいじゃない! 甲斐性無し。陰険射撃男」
「待てや何だよその悪口」
「シスコンおっぱい星人」
「待てやこらァ! 誰だそんな適当なこと言いやがった奴は! 今すぐ言え、押しかけて風穴空けてやるッッ!」
小さな子供ならもう寝ている時間だというのに、二人の言い争いは止まらない。
そして結局。
「ああ、ならもういい。俺がやる。お前は座って待ってろ……」
「無理よ、アンタみたいなシスコンおっぱい星人じゃ料理中におっぱいのことばっかり考えて火事になるわ」
「テメ――――――――エよぉ、いい加減にそのまな板みてえな胸の上で刺身切るぞ」
ブチ切れたカルラが包丁を振りかぶるが、友介はそれを難なく躱して台所へと向かった。
カルラが持ってきた豚肉は全て焦げてしまったので、友介は冷蔵庫から豚肉を取り出した。
(それにしてもあいつが持ってきた豚肉の量すげえな。どんだけ買い込んでたんだよ。買い物も出来ないのかあのアホ女は。つぅーか、それが全部焦げてんのはもっと凄いわ……)
などと余計なことを考えて料理をした結果……
「――――」
「――――あの、さ」
テーブルの上には、真っ黒とは言わずとも、所々が焦げ、大変噛み応えのある豚肉炒めが乗っていた。
「言い訳をさせろ」
「どうぞ」
「お前の胸がデカすぎて気が散った」
「もう何もかも死ねッ!」
☆ ☆ ☆
まずい夕食を終えた友介とカルラは、特にやることもなくリビングでくつろいでいた。
二人してだらしなくソファに腰かけ。疲れ切った目でテレビに映る音楽番組を視聴する。……もっとも、連日の『後始末』に追われ疲労困憊の彼らは、内容の十分の一も理解していないが。
ただただ音を垂れ流すテレビへ視線を向けながら、カルラは疲れた声で漏らした。
「喧嘩なんてすると余計疲れるし馬鹿みたいね」
「ちげえねえ。もう、何もしたくねえ……」
「明日学校休も」
「俺も」
軟体動物のようにソファの上でダラダラする二人。こんな光景を杏里に見られれば何を言われるか分かったものではないが、今杏里は家にいない。よっていくらでも怠けられるし、学校をさぼったところで怒られない。
「はぁあああああ…………」
長い溜息をつき、体の内に溜まった疲れと憂いを吐き出す。そうしながら友介は、満員電車の中で死んだ顔をしているサラリーマンたちも、今の友介と同じような心境だったのだろうかとどうでも良いことを考えていた。
「なあ、カルラ」
「なによ」
「風呂、先入っていいか?」
「好きにすれば……。もう何でもいいや。寝る」
「女なんだから風呂くらい入れって」
「じゃあ後で入るわ」
現在、友介とカルラはほぼ同居していると言って良い状況だ。というのも、先日の土御門狩真とライアン・イェソド・ジブリルフォードの来襲によって調べなければならないことが上がってきた。そこで、二人は作業効率を上げるため、状況がひと段落するまで同じ部屋で暮らして仕事をする時間を捻出したのだ。
しかし当然ながら、同居していようが、この二人の間に何か色めいたことは一度として起きなかった。
先日風呂上がりを覗かれたこともあり、友介はその辺りの対策も徹底していた。
「んじゃ、行ってくるわ」
「はいはい。早めにね」
怠そうに立ち上がり、近くに置いてあった寝巻を取って風呂へ向かおうとする。視線も寄越さぬままひらひらと手を振るカルラへ友介もまた軽く手を振ろうとしたところで、垂れ流していたテレビからこんな言葉が聞こえてきた。
『さあ! ではでは! それでは最後の曲と参りましょう!
今を煌めくスーパーアイドル! 恒星の如く光り輝く五人のレジェンド!
全ての男性の理想にして。全ての女性の憧れとまで一等星たちッッ!』
そのアナウンスが流れた瞬間、テレビの中の熱狂が最高潮に達した。まるで彼女たちこそを待っていたかと言うかのように。その熱量は画面を超えてこちらにまで伝わってくるほどで、友介は自然足を止めていた。
『ユニット名を日本語に訳せば『あなたの星』――
では、盛り上がって参りましょうッッ!
それではご入場くださいッ! ――『Only Your Stars』で『光への挑戦』です!
どうぞッッッ!』
そうして流れる力強い歌。
それは、どのような困難があろうとも自らが掲げた夢を諦めないという覚悟を歌う炎のような曲であった。
何かの頂点に立つ――なるほどそれは難しい。栄光を手にすると決意した瞬間に人は地獄に落ちるのだろう。
誰もがどん底から始まる。けれどそれすら楽しんでライバルをなぎ倒してでも前に進もう。
歌詞もメロディも歌う五人の少女たちも、星というよりも太陽のように熱いものであった。
立ち止まって歌を聞いていた友介は、そこでふと思い出す。Starという単語が示す意味は『星』だけでなく、『恒星』という意味もあるということに。
広大な夜空の中で儚げに光る星でなく、太陽のように圧倒的で、夜を吹き飛ばしてしまう光を持った荒々しい輝き。
そう、輝いていた。
少女たちは輝いていた。
友介は特にアイドルに詳しい訳でも、とりわけ好きというわけではない。だが、それでも分かる。この五人は他のアイドルとはどこか違うような気がした。
強い。どこまでも強いような気がした。
そして気付けば、太陽のように力強く荒々しい夢の歌は、終わっていた。
友介は、どこか自失したままその歌を聞いていた。
「なに、気になるのこの五人が」
「いや、そういうわけじゃねえよ」
茶化すように訪ねるカルラに、友介はそっけなく答える。
踵を返して再度風呂場へ向かおうと歩を進めた。
「ただ――」
しかし部屋を出る直前、友介は足を止めてこう告げた。
「少し、救われた」
無謀な夢を追うとして、それは間違いじゃないと、アイドルの歌に教えてもらった。
☆ ☆ ☆
翌日早朝。
安堵友介と風代カルラは二人並んで私立愛岳学園への通学路を歩いていた。
「結局登校しねえとダメなのかよ」
「ほんとよね。まさか病院の固定電話から家に電話してくるとは思わなかったわ」
二人が沈んだ空気を発する原因は、ひとえに今朝、杏里から掛かってきた電話から始まる。
曰く、
『もし今日学校行かなかったらこれからしばらくご飯作って上げないから。友介もカルラちゃんも料理できないのは知ってるんだから。私だって全然まだまだだけど、最低限食べられるものは作れるからね。今日行かなかったら、これから自分たちで料理を作って食べてもらうよ』
とのことだった。
まるで昨夜の一幕を見ていたかのように、的確な脅しを敢行してきたと感心したほどだった。
やはり杏里にはかなわないなと、しみじみと感傷に浸っていたところへ、
「シスコンおっぱい星人」
「そうだ、それだ。そんなあだ名を付けた野郎をボコボコにしねえといけねえ。カルラ、お前そのあだ名誰から聞いたんだ」
「ていうかクラスラインではその呼び方が既に定着してるって話を聞いたんだけど、あれ嘘なの?」
「あん? クラス、ライン……?」
「? どうしたのよ」
「いや……」
「何よ、急に元気なくなっちゃって」
それまで上機嫌にカルラと軽口を叩き合っていた友介の口調が、突然歯切れ悪くなった。カルラは不審に思い問いただすが、友介は「別に」と言って応えようとしなかった。
唐突な機嫌の落差に戸惑いを隠せないカルラは、ほんの一瞬頭の中で推測を立てていき――、
「ぷっ、くふふ……」
その何とも愉快な答えに辿り着いた。
「ま、まさか……くくく……まさか」
「黙れ、それ以上喋んじゃねえ」
「アンタまさか、ひひひ、ひひっ! あははははははははは! あはっ! ちょ、ちょっと……あれでしょ! く、クラスライン、に……っ! ふふっ! クラスラインに招待されてないんだ! あはっ、あはははは! あはははははははははははははははッ!」
答えに行きついたカルラが、その場で腹を押さえて爆笑した。それはもう清々しいくらいの大笑いだった。
「ちょっ! い、イジメられっ子を地で行き過ぎでしょ……! ひぃーッ! あはははははは! ちょっと待って! だめ、だめだめ! 友介がイジメられてる知った時よりも面白いかもッ!」
「殺す……殺す……」
「あっはははははははははははははははははははははははははははははッッ! お腹痛い! 痛い痛い! 朝のパンが出てくるって……! もう、ほんとにズルいんだからぁ」
「ズルいってなんだ」
「笑いの取り方が……卑怯」
「なに笑ってんだぶっ殺すぞ」
本気の殺意を込めた目で睨むも、まるで取り合わない。
その友介を不快にするあたりや、敵意を向けようとも暖簾に腕押しであるこの感覚は、どこか土御門狩真やヴァイス=テンプレートを相手にしているようだった。不快でムカついて仕方がない。
「すごく殺したい」
「あはははははは! あはは!」
「ったく、うるせえな。先行くからな」
「ふふ……っ! ふは!」
「………………」
「クラスラインに招待されてないって、それ……友達いないじゃん……!」
「テメエいつまでやってんだ! いい加減にしろやッ!」
校門に辿り着いてなおゲラゲラと笑うカルラに、ようやく友介が分かりやすい怒りの声を上げた。すれ違う生徒たちが奇異の視線を向けているのを背中で感じながらも、彼は続ける。
「つぅーかお前だってどうせ友達いないだろうが! 毎日毎日俺の教室来やがって」
「あ、そうよ、それよ! アンタ、何で昨日教室にいなかったの? 私恥かいたじゃない」
「知るかッ。お前には関係ねえ」
「むっ」
吐き捨てるように告げると、彼はカルラに背を向けて高等部の校舎へと歩き始めた。背を向けながらひらひらと手を振る。
カルラはその背中に恨みがましい視線を向けたが、やがて脱力したように息を吐いた。
背中がどんどん小さくなっていくのを見届けて、カルラもまた己の教室の有る中等部の校舎へと歩を進める。
☆ ☆ ☆
一人。
安堵友介と離れてしまえば、風代カルラは一人になってしまう。
学校に友達はいる。気軽に談笑をする同性の友達も、想いを寄せてくれる異性も存在する。
だが少女はそのどれにも応えられない。心を許すことが出来ない。
同性の友人とは踏み込んだ関係になれないし、異性からの告白には絶対に応じられない。
なぜならカルラは、彼女たちと同じ世界にはいないから。同じ空気を吸うことは許されず。感情に流されて安穏とした日常に身を置くことを許されない。
自分で決めたことだ。
だから後悔はないし、この選択が間違っていることだとは、間違ったものだとは絶対に思わない。
否。
この選択こそが、間違いしかない選択肢の中で最もマシなものだった。
振り返るが、既に少年の後ろ姿は見えなかった。
その事実に、カルラは安堵の息をつく。
風代カルラは安堵友介のことが嫌いだ。それはただ単に彼の性格が悪いからではない。
あの少年と一緒にいると、誓いを忘れてしまいそうになるのだ。あの少年が隣に立っているだけで落ち着いてしまう。
そう、落ち着く。
まるで彼の隣が己の居場所であるかのような錯覚を抱いてしまう。
――それが、どうしても許せない。
彼女の居場所はそこではない。確かに彼はカルラと似た何かを持っているのかもしれない。しかし、それはただ似ているというだけ。
あの少年に、心を許してはいけない。誰にも、風代カルラを見せてはいけない。
だから少女は一人だけ。これからどれだけの道を歩こうとも、その隣に誰が立とうとも、赤髪の少女は過去と己だけを抱いて死ぬ。使命を全うして、この世界から消える。
それが、償いだから。




