終章 コインの裏表 1.優しさに包まれて
土御門狩真とライアン・イェソド・ジブリルフォードの渋谷襲撃から、すでに一か月が経過していた。
初めの一週間などは、テレビもその話題で持ちきりであり、街中が恐怖と怒りで染まり上がっていたが、今やそれも鳴りを潜めている。
黒騎士は行方不明でジブリルフォードは逃げおおせたものの、もう一人の元凶たる狩真は光鳥感那に連行され投獄されたらしいが、当然ながら元通りとはいかない。
先の戦いにより、死傷者は五百人にも及んだ。その中には、不幸にも友介の通う愛岳学園の生徒もいた。
彼らの友人たちからすれば胸に穴の開いたような気持ちだろうが、既にいなくなってしまった人間までを救うことは友介にはできない。
彼もまた心に少しの胸を開けられたような思いを抱きながらも、日々をしっかりと過ごしていた。
とは言え、未だ激戦の疲れが取れるわけもなく。
友介は授業中であるにもかかわらずいびきをかいて爆睡していた。
腹に穴が空き二週間も入院していたという話が教師にまで届いていたため、今は大目に見てもらっているが、しかしそれももうすぐ切り替えなければいけないだろう。
何よりも、友介を快く思っていない苛めっ子たちが何をしでかすか分からない。
というわけでそろそろ切り替えなければならない。
終業のチャイムと共に目を覚まし、顔を上げる。黒板には友介には解読不可能な文字と数字が並んでおり、既に次のテストの数学を諦めた。
皆が楽しそうに談笑しながら弁当を持って中庭やら屋上やらへ赴いているが、友達のいない友介は一人で弁当を広げて――
「だめだ」
すぐに思い直し、教室を出ることにした。
「またあのカスが来る」
そう。
悪魔が来る。
風代カルラ。
学校が始まって以来、カルラは昼休みが始まればすぐに友介の教室までやって来て、一人で寂しく弁当を食べている友介をひとしきり笑ったのち、彼と一緒に昼飯を食すのだ。いい加減ブチ切れそうである。
故に。
(今日は一人で食おう。そうだな、便所……は却下。屋上で一人で食うか)
友介はカバンの中から弁当を取ると、すぐさま屋上へと急いだ。
絶対にカルラに見つかるわけにはいかない――その願いが叶ったのか、彼は誰に見つかることなく屋上へ辿り着いた。
数人のグループが談笑しながら昼食を取っている中、友介はたった一人、人気のない所で弁当を開けて。
「いただきます」
一気にかきこんだ。
午前中、本当に何もしていないというのに――全ての授業で寝ていた――腹だけは減るというのは、やはり彼が育ち盛りであるからだろうか。
そうして半分ほど食べかけた時だった。
「ねえ」
不意に頭上から声を掛けられて、友介はとっさに声の方向へ顔を向けた。
そこにいたのは……
「げ、四宮……」
髪を茶色に染めてポニーテールにまとめた少女だった。短く折ったスカートによって、友介の目の前に綺麗なふとももが坐していた。いつものちゃらけた雰囲気はどこへやら、真剣な表情で友介を射抜いていた。側には、彼女の友達もいない。
「……安堵……………………くん」
「……あの、そんなに嫌なら君付けじゃなくてもいいんですけど」
「なんで敬語なのよ」
「いえ、その」
そこで友介は本当のことを言うか迷った。
すなわち、彼女に負い目を感じているものの、この前の件で彼女の前でちょっと恥ずかしいことを叫び過ぎたことにより、どう接していいか分からないという悩み。
一瞬の逡巡の内、彼はある意味では本音である気持ちを告げた。
「話すのがめんどい」
さて、これで怒って友介に罵倒の一つでも浴びせてどこかへ行くだろうと思い、彼は食事を再開した。
しかし。
「いや」
「いやなにが?」
すると何を血迷ったのか、彼女は友介の隣に腰を下ろすと、自分の弁当を広げ始めた。
友介が珍獣を見るような目で凛を見ていると、彼女がそれに気付いたのか、こちらをちらと覗き見て。
「――――ッ」
凄まじい勢いで顔を背けた。
(首の体操か?)
よく分からないが、凛を苦手に思っている友介は弁当を食べきり、そそくさとその場から退散しようとした。
小さな弁当だったので腹は膨れていないのだが、文句は言うまい。可愛い妹の弁当なので良しとする。
「それでは失礼します。お疲れ様です」
せめてもの礼儀として別れの挨拶だけは告げ、その場から退散しようとした友介だったが、
「あの……いや」
ガシリ、と。万力のような強さで友介の右手首が締め付けられた。
「いだ、いてえッ。痛いって! あのすいませんでしたッ! 俺が悪かったからマジで手を離せぶん殴るぞッ!」
「あ、その、ごめんっ!」
「なんで謝るッ?」
「あ、いやだから、その。待ってよ! 話聞いてッ!」
叫ばれて、友介はようやく凛の行動の意味を理解した。
「え、ああ……話あんのか?」
「そーに決まってんじゃん……、それ以外に引き留める理由なくない?」
「ねえな」
なんだか噛み合わないやり取りに、友介の苛立ちは募るばかりだ。
友介は不服そうな表情で仕方なく凛の隣に腰かけると、顎をしゃくって話をしろと促した。
対この間まで敵意を向けられていた相手に、なぜこんなにも引き留められるのか皆目見当もつかない友介は、ただただカルラのおもちゃにされるような新たなネタでないことを祈るばかりだ。
下らない事を考えながらも数秒経ち、未だに話し始めない凛に視線だけを向けたところで。
「あの、この前は、あんがと……」
「あん?」
唐突に、そんなことを言われてしまった。
予期せぬ相手からの予期せぬ謝辞に一瞬だけ面喰い……しかしすぐに思い当たった。
おそらくだが先日の狩真との件を言っているのだ。
狩真に呪いを掛けられ、自我すらも奪われた彼女を救ったのは友介とカルラであり、そのお礼を言うために、彼女はわざわざ嫌いな相手を何度も呼び止めたのだ。
「あの時、とても真っ暗で怖かったわ」
それは理不尽に襲われた者が共通して抱く抗えない恐怖だ。
「自分の意識は底に沈んでいて……なのに体は乗っ取られている。心に大切にしまっていたものまで奪われて、あたし……」
目に涙を浮かべ、あの時の恐怖を思い出す凛の姿はとても哀れなものだった。
「それを、あなた達が助けてくれた……本当に、ありがとう……っ」
大粒の涙を流し、自分の肩を抱くように震えながら、嗚咽交じりに何度もありがとうと繰り返す少女に、しかし友介は顔を向けられない。
たとえ彼女に感謝をされたとしても。
たとえ彼女を救うことが出来たとしても。
「俺は……そんな人間じゃない」
安堵友介は、彼女の友を救えなかったのだ。手の届く位置にいながら間に合わなかった。その肢体を弄ばれたというのに、何もしてやれなかった。
それを、
「確かにそーかも」
四宮凛は否定しない。
彼女は友介に感謝しているが、それと同時に彼に対して怒りもまた覚えているのだ、彼があの時語った言葉から、彼が秋田みなを殺したのではないということは理解している。しかしそれでも、助けてほしかったというのが彼女の本音だった。
人の心は単純ではない。
感謝する心もあれば、同時に許せない怒りを抱く心が巣食っていてもおかしくない。否、それが当然なのだ。
ある人間を全肯定する在り方など異常極まりないもので、それはこの世に存在しえない絆の形だ。
それを、この二人は理解している。
だからこそ、交わらない。
「じゃあ、俺はここで失礼するよ。わざわざお礼を言いに来てくれてありがとう。今度は……」
別れの挨拶。これから二度と交わすことのない会話の締めくくりに、彼は卑怯だと思いながらもこう告げた。
「お前だけでも救えてよかったよ、四宮」
そして友介は今度こそ立ち上がり、振り返ることなく教室へ戻った。
互いに嫌い合う者同士。
互いに負い目を感じる者同士。
奇妙な親近感を覚えたまま、友介はその場を後にしようとして――。
「ま、――まって!」
不意に、袖を引かれた。
「え、は……?」
思い切り袖を引かれ、無理やりに振り向かされた。あまりに強い力だったからか、バランスを崩してしまい、たまらずたたらを踏む。
振り返ったそこには、綺麗な雫をたくわえ、友介を真っ直ぐ見ている少女の瞳があった。
その瞳が訴えかける必死さが友介には何なのかさっぱり分からなかった。
だから、純粋な疑問を投げかける。
「……なんだ?」
「あ、いや。だからその……待ってほしい……」
「ごめん、まだ話の続きだったか」
「違う、けど……その、もうちょっと、一緒に喋りたいっていうか、なんていうか……その、逃げられると乙女的に傷付くというか……」
普段のチャラチャラとした雰囲気は本当になりを潜めてしまったらしい。人見知りでもしているのか、凄まじく小さな声でごにょごにょと何かを言う凛。何が言いたいのか要領を得ない少女の語りに、友介はじれったくなって。
「なに、お前俺に惚れてんのか?」
「ち――ッ」
瞬間顔を真っ赤にして大声を上げそうになるが、それをすんでの所で我慢して。
「ちがう……」
蚊の鳴くような声で否定した。
そのしおらしい態度に友介は息を吐いて。
「なら戻るぞ。そろそろ授業が始まる」
「えっ、嘘でしょ? なんでもう始まるのよッ!」
「は? なんで俺にキレてんの? 最近の若者かよ」
「だったらサボる!」
「勝手にしろ」
そう言って今度こそその場を後にしようとするも。
「だめ……一緒にサボろ? ほら、こっそり抜け出してゲーセンとか行ってさ……」
「俺は不良じゃないから無理」
「そんなに目つき悪いのに?」
「目つき関係ないだろ。つうか離せ」
「いやだ」
「離せ」
「いや、絶対離さない」
「お前なぁ……ッ!」
「ていうかなんでそんな頑なに逃げようとするし!」
てこでも話そうとしない凛と、絶対に逃げようとする友介。
「じゃ、じゃあ!」
そうして一分ほど問答を続けたのち、妥協したのは凛であった。
「じゃあ、その……」
「なんだよ」
ようやく袖を離してくれた凛に、友介は少し恨めしげな視線を向けながら先を促した。
「じゃあね、せめてこれから、私と一緒にお弁当食べてくれない? あと、出来れば安堵くんのお弁当を作りたいとか思ってたり……」
「あぁー……」
その提案に友介はほんの一瞬だけ逡巡した。特に断る理由もないが、そんなことをしているとカルラになんと茶化されるか分からない。故に、友介としてはあまり首を縦に振りたくない申し出なのだが……
「あの、だめ……?」
「お前そのあざとい上目遣いやめろ」
渋々許すことにした。
しかし一つだけ譲れないものがあるのでそれだけは告げておくことにする。
「ただな、弁当はいらねえ」
「なんで?」
「ああ、それは――」
理由を告げると、今度こそ友介は凛に背を向けて歩き出した。
どうやら凛も弁当を食べ終わったらしく、トテトテと仔犬のように友介の後ろから付いてくる。
交わらないと思っていた二人の道も、どうやら端と端が擦る程度には触れ合えるらしい。
☆ ☆ ☆
午後の授業もつつがなく終わり、凛と帰りの挨拶を交わした友介は、スマホでカルラに先に帰るよう連絡を入れるておいた。ここ最近は先日の事件の後始末などで忙しいためカルラと行動することが多かったのだが、今日はどうしても外せない用事があるので今日の分の仕事をカルラに任せている。今度昼飯を驕るということで合意しているため、喧嘩になることもないだろう。
彼はカバンを持って迷いない足取りで校門を抜けると、家とは異なる方角へ足を進めた。
高校から徒歩十五分の場所に、彼の目的の場所がある。
そこは、杏里が入院している病院だった。先日の戦闘の影響により、一か月前の敷地内は痛々しい様相を呈していたが、既に工事が大方進んでおり、今では事件前とほとんど変わらない状態だ。
とはいえ、未だ工事は完全には終わっていないため、彼は通行止めにされている通路を迂回して病棟内に入る。
受付の看護師に見舞いに来たとの旨を伝えると、黒髪の女性は笑顔でそれを了承してくれた。友介ははやる気持ちを押さえて一人の少女が待つ病室へと向かった。
外傷こそあまり見られなかったものの、やはり精神に対するストレスは大きかったらしく、事件が解決してからの一か月間、友介は一度として杏里のお見舞いをして上げることができなかった。
だが、ようやく彼女の心が平静に戻りつつあるという診断と、杏里自身の希望によってようやく面会が許可されたのだ。
杏里に会えなかった一か月間は、友介にとって辛い日々だった。
なぜなら――。
「入るぞ、杏里」
「――――。う、うん」
スライド式の扉を軽く叩く。中から驚いた気配が伝わってくるが、友介はそれを無視して中に入った。今日ここに来ることは看護師から聞いていたはずだが、やはり一か月ぶりの再開となる話は変わるのかもしれない。声も少し緊張しているように思える。
友介はゆっくりと扉を開き、中へ入った。
そこに――。
「治ったんだな、杏里」
パジャマに身を包んだ可憐な少女がいた。豊かな双丘がパジャマを内側から押し上げ、いつもはツインテールにまとめている髪を今日は全て下ろしていた。常と異なり、降ろした髪が肩にかかって大人びた印象を与えてくる。緩い笑みを浮かべる口元や、柔らかく細められた双眸――それらはまるで、妹というよりも、愛しい息子を出迎える母のようなものであった。
「うん、誰かさんのおかげで、すっかり元気になったわ。――ありがとうね」
にこりと笑う妹を見て、友介もまた淡く笑った。
――俺は、今度こそ大切な人を守れたんだな。
失ったものは多かった。取りこぼした命は数え切れず、一度守った誰かも傷つけられた。
「土御門。お前も大事が無くて良かったよ」
そう言って、彼は杏里の隣のベッドに腰かける黒髪の少女へ笑いかけた。
「まあ、私の場合はただの怪我だったから。……あ、明日漫画持ってきて」
「こら、字音ちゃん。入院してるからってダラダラしないの」
「いや、入院中くらいはダラダラさせてやれよ」
「っ! 安堵くん、彼女いないくせにたまにはいいこと言うね」
「黙ってろヒキニート」
軽口を叩きながら笑いあう。
そうだ。
確かに様々な悲しみや苦しみがあったけれど、それでも守れたものがここにあったのだ。
その達成感とは別に、もう一つ。
この団らんの中で、友介が取り戻したものがある。
それは――。
「ねえ、友介」
愛しい妹が友介を呼ぶ。
「こっち来て」
「なんだよ」
柔らかな笑みを浮かべながら手で呼びつけてくる杏里の元へ行く。何をされるのか分からず、友介は頭にクエスチョンマークを浮かべながら杏里の側まで歩いた。
「ほら、しゃがんで」
「あん? こうか?」
杏里の前までやって来た友介は、彼女言う通り膝を折って杏里のしゃがもうとした。
そして――。
「はい、ぎゅうーっ!」
友介の顔が突然甘い香りに包まれて、柔らかな感覚が顔に広がった。
何をされたのか分からず、しばらく為すがままにされていたのだが、すぐさま己の置かれている状況を察した。
「って、おいこら! やめろ、離せ!」
「いや」
「いやじゃねえよ! いいから――」
「うーるさい。頑張ったんだから、これくらいのご褒美はいるでしょ?」
そう言って、杏里は彼の顔を胸に抱いて、その頭を優しく撫でてやった。
たくさん傷付いて、それでも生きて帰って来てくれた兄を癒してやる。
「ずっと決めてたの。友介が帰ってきてくれたらこうするって」
心配だった。駆け付けたかった。力になりたかったし、行って手を引いて一緒に逃げたかった。
だがそれでも、それら全ての衝動を抑え付けて、少女は少年を待ち続けた。
だって。
「ああ、そうかよ」
だって、河合杏里は安堵友介の家族だから。
いつだって、彼の帰る場所なのだから。
「うん。――お帰り、お兄ちゃん」
「ああ、ただいま」
この時。
河合杏里に撫でられたこの時。
ようやく、安堵友介は日常に帰ることができた。




