第八章 序曲終幕 2.隠された心象
『〝沈め喰らいて糧と為せ〟――「未知なる海怪」』
詠を唱えられ、北欧における漁業神の名が紡がれた。
直後。
不可視の怪物がこの世界の何処かに召喚された。
水と同化しているのか姿は見えない。しかし確実に異物が紛れ込んだ気配があった。
『見せてくれ。君が口だけで終わらない真の女神であることを。証明してくれたまえよ』
轟、と。どこからか巨大な生物が体を蠢かせる音が響いてきた。余波が波となって唯可の元まで届き、水の中だというのに嫌な汗が背中から滲んでいるかのような錯覚があった。
「なにが……ッ?」
体中を悪寒が走り抜けていく。
神経を研ぎ澄ませて、謎の巨大生物がどこにいるかを補足しようと努める。
「…………ッ」
『愚かな』
「――っ!」
静かな声が届くと同時、少女の背中へ痛烈な一撃が見舞われた。まるで巨大な鉄塊で殴りつけられたかのような衝撃。体の中から空気が吐き出され、ほんの一瞬呼吸さえ止まった。みしり、という嫌な音が体内で響き――直後凄まじい速度でかっ飛んだ。水の抵抗など知らぬ存ぜぬと言わんばかりの勢いで、数十メートルの距離を一瞬にして飛び抜ける。水泡が尾を引き、ゆっくりと溶けるように消えていく。
そこへ更なる連撃。唯可は水と風の力を利用して巧みに衝撃を逃すものの、そもそもの地力がかけ離れ過ぎているため意味などないに等しかった。
多方向から繰り出される衝撃は、先の水の砲弾など比較にならぬほど。
しかし。
「なめ、るなぁ……ッ!」
対する唯可もそう簡単にやられはしない。
敵が見えずとも音は聞こえる。
ゆえに、捌けぬならば逃げるまで。
唯可は水と風の魔術を併用し己の周りに水の流れを生み出すとその場から一気に離脱した。海の怪物が追えない速度で飛翔する。
彼女の走った軌跡が白く泡立ちつため敵に居場所を教える羽目になるだろうが関係ない。
謎の怪物が追いつけぬ速度で駆ければよいだけのこと。もはや空気を得ることすらもどどかしい。気泡を生まず、息を止めて逃げ続ける。
だが――。
真横から何者かが唯可へと激突してきた。先ほどのような害意の存在する攻撃ではない。何かに飛ばされた誰かが勢い余って唯可と衝突したのだ。
「がはっ!」
二人一緒にもみくちゃになって飛んでいく。
勢いが弱まり二人の体が停止したところで、唯可とその人物がようやく顔を見合わせた。
「あなたはえっと……川上君?」
「そう言うお前は魔女か」
唯可が彼に空気を与えてから呟くと、千矢はそれが聞こえているかのように返事を返した。おそらく音の振動が伝わるような魔術でも利用しているのだろう。
唯可から見た千矢の姿は、はっきり言って無事だとは到底言えなかった。
あの怪物に滅多打ちにされたのか、体中に傷が付けられており、服はボロボロになっていた。ぼろ雑巾のようなその姿が、端正な顔立ちを台無しにしていた。
それでも千矢は戦意を失ってはいないらしく、むしろ、より一層怒りを膨らませているようだった。
それを語るようなことも態度に見せるようなこともしていないが、表情から滲み出る激情を隠しきることはできずにいた。
千矢はそれに気づいていない様子で、ゆっくりと現状の確認をし始めた。
「奴が召喚した怪物……クーヴハーヴァは北欧伝承における海の神だ。俺達になじみ深い言い方をすれば『クラーケン』と呼べば分かりやすいな」
「クラーケンッ?」
「なんだ、気付いていなかったのか? お前は魔女なのだろう?」
「あ、いや、その……私実は勉学は大嫌いでして……」
「そうか。使えん」
「あうっ」
切り捨てられた唯可は涙目でくらりと後ろへ倒れるふりをするが、千矢は無視した。
「ともかく、敵は巨大生物クラーケン。巨大な体躯に見合った膂力を誇るだけでなく、大量の触手を自儘に振るう正真正銘、神話の一端だ」
「そんなものにどうやって勝つの……?」
「さあな。だが、まだ実態があるだけマシというものだ」
そういうと彼は視線をついと上へ向けた。どうやら彼が向いた方向が現実世界の『上』らしく、月の輪郭がゆらゆらと揺らめいていた。
「この世界を展開した魔術師……ああいや、描画師たるジブリルフォードを斃す方が至難だろう。なぜなら実態を持たないのだから。何をしたところで奴に攻撃は通らない。魔術も銃撃も……斬撃もな」
言い終わると同時に咆哮があった。
それはクラーケンの発したものではない。水という媒体ですら音として認識できるほどの声の主は、悪夢。光鳥感那が尖兵として放った謎の狂人だ。
「■■■■■■■――――――――――ッッッ!」
絶叫を上げながら、そいつは見えないはずのクラーケンへ突貫し、僅かながらも切り刻んでいた。
まるで水という媒体を足場にしているかのよう――否、真実彼は水中を走り回っていた。
地上にいる時と遜色ないほどの速度でクラーケンを相手に大立ち回りを披露してみせる。
その実力は拮抗している。クラーケンの触手は全て完全に受け流され、黒の騎士の斬撃が致命打を与えることはない。
完全なる膠着状態に横槍を入れたのは、こちらも水中を走り回る少年――草加草次であった。悪夢の移動法を猿真似したのだろう。そもそもからして人間の身体能力を遥かに超えた草次ならば出来て当然の芸当であった。
既に彼に空気を与える気泡も消えてしまっているが、闘神種創造計画により改造された彼の体は、そもそもこう言った事態にも対応できるよう調整されているのだ。
もっともそれを知る由もない唯可からすれば唖然とする他ない光景だが、千矢はそれを頓着してやれるほど優しくなかった。
「いつまで口を開けている? あれは二人に任せて俺たちはすぐにでもこの空間の攻略に尽力する必要があるだろうが」
「あ、いや……うん、そうだね。でも……」
「なんだ」
「こんなすごい魔術に、染色に……弱点なんてあるの? 攻略のヒントなんてあるとは……、」
それは当然の疑問だった。
己の体を海に変える――文字通りそれを達成してしまったこの状況をどう打破すればいいというのか。
先ほど千矢も告げたように、海に――この世界そのものになったあの男に、魔術も銃撃も斬撃も通用することはない。闇雲に攻撃したところで打撃を与えられるとは到底思えない。
そも、これは発動させてはならぬ類の染色なのだ。
海に攻撃が通じるわけがない。渾身の一撃は受け流されて水泡が如く消えていくが道理。此の太平の海は誰にも傷付けられない。
しかしそう考える唯可とは逆に、川上千也は馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「そうだな、お前は染色というものを知らないらしいから簡単に説明してやろう」
「え?」
「染色とはな、想いや信念をそのまま形として具象化する能力、異能だ。これはいわば魔術の到達点……というわけではない。むしろ逆。魔術が染色の出来損ないだというだけだ」
「……???」
「…………っ」
話を理解できていないめでたい頭の唯可に苛立ちながらも、千矢は懇切丁寧に説明を続けた。
「こんなところで躓いている暇はないんだ。簡潔に言う。魔術とは染色の上澄みに過ぎないんだよ。心象世界の具現化の劣化版……人間が想像できる範疇の妄想や想像を形にする魔術とはそういうものだ」
魔術が意識的に超常現象を生み出す異能ならば。
染色とは無意識下によって超常現象を生み出すということ。
ゆえにその効果は絶大であり、その力は魔術とは比肩するべくもない。意志の強さが前者よりも全く異なるのだから。
とはいえリスクがないわけではない。むしろ当然ながら必要な魔力も膨大になる。ゆえに染色に至ったものは短命であると言われているが……
(これは、そういう枠に嵌められる力ではない)
千矢は否であると考えていた。
例えばジブリルフォード。あの男は神話級にしては長寿である方だ。見た目からして二十代後半から三十代前半といったところだろう。
神話級魔術師の平均寿命はおおよそ二十代後半であることを鑑みれば、あの男はいつ死んでもおかしくない。事実あの魔術師もそう感じているはずだ。
だが、神話級というだけでも凄まじい量の寿命を食うというのに、染色ほどの力を自儘に振るえばその寿命の減りはさらに速くならなければ道理ではない。超常現象を引き起こすために必要な魔力の量とは、その規模や精密さに起因しているのだから。
「つまりだ」
思案に耽り、一人考察を始めた千矢は頭を振って現実に向き合った。
染色について考えるのは後だ。
「染色とは心象風景の具象化であるのだから」
続く言葉は、希望であり、
「そこには必ず諦観や悲嘆が紛れているはずだろう」
どこまでも悲しい現実でもあった。
「……そうだね」
「人間、誰しも己の夢が絶対に適うなどと驕りはしない。心の奥底では、『できない』『叶わない』『都合が良すぎる』と……そう、思っているものなんだ……」
そう言い切った彼の表情は、悲痛に塗れていた。
彼にもまた、譲れない矜持があった。達成すべき目標があり、取り戻したい大切な人がいるのだ。
だけど。
それを、少年は心のどこかで、諦めていた。
「人間の精神は単純ではない。夢を追う心の隅には恐怖がある。理想を目指す決意の裏には諦観が蟠っている」
染色とはつまり、人間の不完全性を表す力でもあるのだ。
「奴の心に絶対に抗えない恐怖やトラウマがあればそれは大きな弱点となる。例えば火を恐怖していれば、花火のような弱々しい炎であろうとも決定的な弱点となる」
故に千矢と唯可、二人がやるべきことは。
『私の負の感情を見つけ出すこと』
「――――っ」
「盗み聞きとは趣味が悪いな」
唯可が絶句し、千矢が怨嗟の声を上げる。
ジブリルフォードはそれを無視して、さらに告げた。
『君は博識だね、川上千也くん。しかしだ、私がそれを許すと思うか?』
その声を聞いて、唯可は思う。
千矢は気付いていないのだろうが、この声の主は既に、もう……何かを諦めていた。
『私は私の目的を絶対に完遂する。たとえ死んだとしても、最後に私は勝利する』
――故に。
続く思念は、これまで彼が放ったどの言葉よりも重く鋭いものだった。
『この場で私の全身全霊を賭けて君たちを押し潰すと約束しよう。私は絶対に、『この世界』を作り出してみせるのだから』
勝利への執念が。
この男の真実が。
この一瞬、垣間見えた気がした。




