第八章 序曲終幕 1.彼の隣に立つために。
風代カルラが抜け、ジブリルフォードと対峙する者は四人となった。
魔女たる空夜唯可と科学圏の尖兵である草次と千矢。そして謎の襲撃者である、黒い甲冑を纏った騎士だ。
ジブリルフォードは己が体内にて彼ら四人の存在を知覚する。不快感も嫌悪感も存在しない。もとより彼の染色は、敵を己の体内に取り込むという効果が全てだ。
「ここはあなたのお腹の中だというわけだよね、霧牢の海神さん」
『悲しい呼び方をしないでほしいね。私にはライアン・イェソド・ジブリルフォードという名があるのだから』
唯可のセリフに、ジブリルフォードがさして悲しくもなさそうに答えた。
『君の言う通り、ここは私の体内と呼べる場所だ。見た目は宙に浮いた水の箱でしかないが、事実この世界における全ての事象を、私は知覚することが出来る』
「じゃあつまり」
『生きるも死ぬも、私次第だ』
そう告げる男は、言葉とは裏腹に、染色を発動して以降攻撃を加えてくる様子がなかった。
当然唯可は裏に何かあるのではと勘繰るのだが、そもそも敵の顔どころか、その腹の中にいるのだから思考など読めるわけがない。
そして逆に、こちらの思考が筒抜けであるという可能性は否定できない。染色――初めて聞いた単語であるが、しかし魔術の理に適った力ではある。
そも、魔術とは妄想を具現化する術であり、その根底には人の心が存在する。思いの強さが強さへ直結する――そう断じられるほど甘くはないが、それが最も重要な位置に立っていることもまた然りであろう。
深層心理の風景を現実に出力する染色という力――これがあればどれだけの人間を救えるか。助けられるか。
そう妄想し、己のその姿を夢想したところで。
『なるほど、君もこれに焦がれるか』
「――――」
心を読まれた。
しかしジブリルフォードはさして特別なことをしたつもりはないようで、抑揚のない平凡な調子でさらにこう続けた。
『だがね、染色に焦がれ染色を求めた所で何も得ることなど出来ないよ。その先に存在するのは永遠の停滞。絶対的な断崖が存在するのみだ』
なぜなら。
『染色とは人の心を塗りつぶすほどの魅力を持っている。人間がこれまで歩んできた人生によっ得られた価値観の全てを塗りつぶし、その思考は染色という一つの光だけを向くようになる』
その末にある結末を想像できないほど、唯可の頭はお粗末ではなかった。
「つまり、自分を失くす……力に自我を乗っ取られてしまう」
『そうだ。そうなれば染色どころか、その人間はもう生きているとすらいえないだろう』
実際そう言った人間はこの世にごまんといるのだろう。今この瞬間にも自我を食われた哀れな人間が生まれているのかもしれない。
つまるところ、魔術師と描画師の格差とはこの意志の強弱である。
『望みを叶えるための手段こそが染色と言って良い。しかして、染色を狂おしく求めればそれは破滅へと繋がる』
まさにその地獄に囚われかけていた唯可は、彼の語る言葉が真実であると確信と共に断じることができた。
故に、疑問が生まれた。
「なんで、あなたがそんなことを教えるの……?」
『それは君が知る必要は――ない』
直後、唯可の右側に広がる水が不気味に蠢き――、衝撃が少女の体を叩いた。
「か……、は……っ!」
激痛に喘ぎながら数十メートルと吹き飛ばされる。水の抵抗によって停止するも、追撃に追撃が重なり反撃どころか呼吸もままならない。
先ほど作り出したばかりの空気を与えてくれる気泡は既に消滅した。大量の水を飲み、瞬時にして死が迫る。
「うおりゃぁあああああああああああああッ!」
それを、水中を凄まじい速度で泳いでやってきた草次によって救われた。水の砲弾が次々と迫りくる間隙に、草次が唯可の手を取って離脱したのだ。
乱撃の水域から逃れ、すぐさま己の顔の周囲に気泡を張って空気を確保する。
「げ、ぼ……ばはっ!」
「大丈夫ッ?」
「うん、ありがとう……」
片手を上げて無事をアピールする唯可に、しかし笑う声が一つ。
「おやおや。ゆっくりしている暇はないはずだが?」
「――っ」
「くっそ……っ!」
息を呑む唯可と舌打ちを打つ草次がそれぞれ別の方向へと逃げていく。草次はその強大な膂力でもって軽やかに水中を泳ぐことで冷静に水の砲弾に対処し、対して唯可は水と風を操ることで何とか機動力を確保していた。
問題は他の二人。先の唯可と同じように水の砲弾の乱舞に晒され気泡が潰れてしまっている場合、空気を与えてやらなければならない。しかし現状彼らに位置を把握できていない故、助けようにも助けられないのだ。
(なんでこんなに馬鹿なんだ私は……ッ!)
自分の命を守ることに躍起になって他者を死なせるなど唯可の望むところではない。
唯可の中で、事故に対する憤りが熱を帯び始める。
そしてジブリルフォードもそれを察したのか、小さな笑いと共にこんなことを言ってきた。
『そうか……なるほど、見えてきた。君は、誰かが傷付くことが許せないのだね』
「なにを……」
『自覚していないようだが、君は常に誰かの盾になろうとしている。それは物理的な意味だけでなく、人の心をすら、己の心が傷付くことを盾にして救おうとする傾向がある』
空夜唯可の行動は、些か己の身と心を案じていなさ過ぎるきらいがある。そしてそれらは、おおよそが他者を案じてのものであることが多い。
かつて、ヴァイス=テンプレートという魔術師が勝田匠という少年を殺したことがあった。その際唯可は友介と共に現場に居合わせた。
しかし実際の所、あの場で二人が何をしようとも勝田匠は確実に殺されていただろう。どう抵抗したところで、二人の心を嬲るためにあの男は勝田を全く同じ方法で殺していたはずだ。
唯可はあの場で、それを理解していた。勝手な話であるが――勝田匠という少年を勝手に諦めていた。
だからこそ彼女はあの場で、友介を守るという手段に出た。
まだ助かるかもしれないから、助けに行きたいと言っておきながら、助けに行こうとした友介を引き留めた。勝田匠を見殺しにした。
『前提として君は、命の取捨選択を出来る人間だ』
「……だ、だまって……ッ!」
『しかしその分、助けられる命は必ず助けようとするようだね。絶対に守ろうとする。それは残酷なのではなく――ただただ現実的であるだけだ』
「うるさいッ!」
『そして、命を選ぶことでしか多くを救えない己を呪っているようだ。憎々しく思っており、どうしても許せない。だから――』
「違うッ! 絶対に違うっッ!」
ジブリルフォードの言葉を、ついに唯可が完全に否定した。
拒絶でなく、否定した。
「そんな……そんな風に逃げた考え方じゃない……そんな後ろ向きな理由なんかじゃない」
そもそも。
空夜唯可の行動にそのような理由や原理など一つもないのだ。
始まりはきっと、あの時の地獄だ。
唐突な理不尽が襲い掛かった。
予期せぬ災厄が彼女から全てを奪い、空夜唯可という少女から大切なモノを全て奪って、彼女に人殺しの片棒を担がせた。
ああ、きっと。
あの日まで、空夜唯可は確かにそういう打算的な人間だったのかもしれない。
私は罪に塗れた汚れた女だ。人を殺した女だ。生きている命の取捨選択するような外道な女だ。
だけど――。
『俺は唯可が好きだ』
あの告白が、空夜唯可の凍った時間を溶かしたのだ。
『怒りはある。憎しみも存在する。でもそれ以上に、俺はお前が好きだ』
あのそう漏らす少年の両目から流れる涙が、己を屑だと断じていた空夜唯可を変えた。
『今からお前を助けてやる。……けど、それはお前の為じゃない――』
そう言った彼の背中は紛れもなく彼女の英雄だったから。
『――唯可を失いたくない俺自身のために、持てる力の全てをぶつけるッッ!』
――私は、あなたにふさわしい女神になろうと思ったの。
そうだ。
あの時から、全ての打算が消えた。罪の償いだとか、誰かの盾になろうとか、そういう下らない考えは全て過去という名のゴミ箱に捨ててきた。
そして、真に大切なものを手に入れたのだ。
「私は……目の前で誰かが理不尽に潰されようとしている光景が見たくないだけ」
戦火に巻き込まれ両親を失うような……身を切るような思いはもうしたくない。
「不条理が渦巻く世界で、寄る辺もなく迷っている誰かを導いてあげたいだけ」
何も悪いことをしていないのに、運命が狂ったからという理由だけで誰かが絶望の底に落ちるなんてことを止めたい。
「悲しい事件を、心に穴が空くような出来事を、不幸だったねって、同情するだけで何もできないのは絶対に嫌」
そんな無責任は許さない。
彼に救ってもらった女として。
世界一カッコイイ男の隣に並び立つ恋人として。
「だから、私は――全てを護りたい」
失ってしまったものは元に戻らない。それは取り返しがつかないということで、手を伸ばしたところで絶対に届かない。
断崖の向こうにある物にどれだけ手を伸ばしたところで、その袖を掴むことすらできない。
だから、護る。
失ったものを取り戻すことが出来ないなら。
失わないまでだ。
理不尽から。
不条理から。
不幸から。
「私は、理屈なんて知らないッ! あなたの見透かしたような言い方になんか惑わされないんだからっ!」
『面白い。ならば――』
その声は、まるで眩しいものを見る老人のようであった。
若かりし日の自分を思い出しているかのような。
憑き物が落ちたかのような声。
『証明してみせろ』
そして、『太平築く水底の海神』の真の猛威が牙を剥いた。




