行間二 従者の意地
「ひ、め……、づ……ッ!」
右腕の付け根に走る激痛を知覚して、褐色の肌を持つ少女は静かに目を覚ました。
覚醒する意識の中で、少女は己の非力を呪う。その弱さのせいで、唯可が危険な戦いに身を投じるこことなってしまった。
空夜唯可はライアン・イェソド・ジブリルフォードにはどうあっても勝てない。あれほど強大かつ致命的な染色を打ち破るなど不可能だ。
自身を海に変えるというその力。染色の力の上澄みである励起状態とは比べるべくもないほどの異常能力。あんなものに勝てるはずがない。
攻略法を見つければ話は変わってくるのだが、空気の存在しない極限状態でそれを見つけることなど不可能というものだ。
ゆえに。
「私が、行かないと……っ!」
悲鳴を上げる体を無視し、ベッドから降りて二本の脚で立ち上がる。
「あう!」
しかし右腕を失うバランスを上手く保てないナタリーは、その場で盛大にこけてしまう。傷口から倒れる事だけは回避したものの、受け身も取れずに硬い床に打ちつけられた少女は痛みに喘いだ。
「う、ぐぅ……っ!」
片方しかない腕を床に付き、痛みを我慢して必死に立とうとする。
命の危険を覚悟してでもナタリーは向かわなければならない。
(待って……私が、行くんですか、ら……!)
何度もこけた。何度も倒れた。その度に衝撃が傷口まで響き、いつしか少女は絶叫を上げるようになっていた。
それでも――。
「あ、うぁあああああああああああっ!」
立ち上がる。
こうしている間にも、唯可は危険に晒されている。あの心優しい少女は、涙を堪えて巨悪に立ち向かっている。
床に転げ激痛が瞬くたびに、ナタリーは唯可との思い出を思い出していた。
一番最初に笑い方を教えてくれた。
『こうやってねえ、ほっぺをうにーっ! てやるのっ。ほら、やってみて』
『こ、こうですか』
『ぶはははははははははっ! な、ナタリーすっごい顔が引きつってて、可愛い……っ!』
今でも笑い方が分からないが、どういう時に笑うのか――楽しい瞬間を自覚することは最近できるようになった気がする。
次に教えてもらったのは、日本語の喋り方だった。
『あのねーナタリーは敬語の使い方変だって。私は空夜唯可なんです、じゃなくてね。私は空夜唯可です、だよ。ほら、どうぞっ!』
『私は空夜唯可っす』
『んふふっ、ふふ……っ! ふ、ふふははははははははははっ! ナタリーは別に私じゃないでしょ? しかも何で急に体育会系の男の子みたいな言い方になってるのっ?』
『あの……笑い過ぎなんです……』
そう言えば未だに敬語は変なままだなと思いだして、そろそろきちんと勉強しないとな、と痛みの中で反省した。
次に教えてもらったのは、料理の作り方だ。
『こうやってね、えっと……あれ、あれれ? まあいいや。卵焼きの付きり方教えるねっ』
『出来ないのなら無理やり教えようとしなくてもいいんです……』
『いや、出来るよ! 私は将来良妻になるんだからっ!』
『あの男の子の奥さん、になんですか……?』
『あぅ……いや、その。えっと……………………………………はい』
顔を真っ赤にして俯き、蚊の鳴くような声で告げた唯可は、とても可愛かったような気がする。その姿を見て、自分が酷いことをしたなと、すでに自分で考える力を持ったナタリーは申し訳なく思ったものだった。
次に、次に、次に――。
そうだ。
彼女には、返しきれない恩がある。
ナタリーに幸せを教えてくれた。彼女に人として生きる楽しさを教えてくれた。余分なものを削ぎ落とされて育ったナタリーに、空夜唯可はその余分なものを拾って、ナタリーにもう一度与えてくれた。
だから、そう。
ナタリーは、唯可のことが大好きなのだ。
そして大好きな人に傷付いてなんかほしくない。
「待っていて、くだ、さい……っ!」
壁に体を押し付け、ゆっくりと――だが着実に、ナタリー=サーカスは大切な友達の元へ歩いて行く。




