第七章 真の騎士。真の番 2.ここが始まり。
――■■よ、お前に一つの言葉……あるいは概念を教えてやる。
その声はどこかで聞いたことがあるような懐かしい声でありながら、絶対に関わり合いたくない類の人間が発する者であった。
例えばヴァイス=テンプレート。
例えば土御門狩真。
つまり、この世に混乱をもたらす異常者のそれ。あるいは、余人には理解できぬ思考回路を持つ者の声。
――なるほど。お前は俺をそう定義するわけか。
――存外、本質を見極める力は高いようで何よりだよ。
まるで友介を称賛しているかのような物言いだが、その根底にあるものは無関心だ。
――混沌因子。
――君は、その一人だ。
……なんだよ、それ。
投げ返した言葉は陳腐なもの。己で理解することを放棄した愚者のそれだった。
声は友介のその愚かさを笑うでもなく、嘲るでもなく、ただ無感情に言葉を並べていく。
――それは、君が自分で見つけていくものだろう。
――私自ら講釈するなどと愉快な勘違いをしてたのか?
――だとすればあまりに愚鈍、愚劣の極みだな。死してこの狂った世界に溶けた方が未来とお前、双方の幸せというものだ。
散々な物言いに、友介は苛立ちが膨れ上がるのを自覚した。
ああ、そうだ。こいつは本当に似ている。
土御門狩真。
人の怒りを煽ることが得意なあの男に、ひどく似通っていた。
――ほう。
――さっきも言ったが……君は目が良いらしい。
微かな称賛の声。しかしやはり、どこか浮遊している。
この声の主は。安堵友介に興味がない。おそらく暇つぶしにここへやってきただけの事だろう。
だから――。
――では、お前に構うのも飽きたことだし、そろそろ行くとしよう。
このように、こちらの都合など考えもせず、自分の都合で現れたり消えたりするのだ。
――つまらなかったが、不快ではなかったよ。
――ほら、そなたの番がやってきたぞ。起きろ。
――お前は皆の期待を裏切ってばかりいるが、それでは困るのだから。
――土御門狩真とかいう男が手心を加えた意味、しかと考えるがいい。
――ではな、■■よ。
不安定に口調が変わるその声が遠のいていく。
そうして、友介は夢の世界から現へと浮上する。
意識が現実に近づくにつれ夢の記憶は薄れていき、起き上がった頃には全てを忘却する。
ただし、棘だけは。
その痕跡だけはしっかりと彼のどこかへと刻まれている。
☆ ☆ ☆
目を覚ますと同時、背中に不快な感覚があった。靴の裏で踏みつけられているような感覚がある。こんなことをする人間はこの世にただ一人であろう。
「やっと起きたわね、おたんこなす」
「誰がおたんこなすだよ、チンチクリン」
軽口を躱しながら友介は身を起こす。
服に付いた汚れを払い、面倒くさそうな視線をカルラに向けた。
「んで、なんだよ。今の俺はイライラしてるからお前の軽口に付き合ってやれねえぞ」
「別にアンタに付き合ってもらわなくても良いわよ」
「ああ、そうかよ」
覇気のないやり取り。二人の間に珍しく気まずい沈黙が降りた。
とはいえ特段気にすることでもない。カルラも友介も互いが互いを疎ましく思っているし、出来る事なら関わり合いになりたくない部類の人間であったから。
だから、無理やり間を持たせようとして変に気遣って声をかける必要などない。
だというのに、どうしてかカルラは耐えられなくなって口を開けていた。
「負けたの」
「ああ」
友介を真っ直ぐ見て問いを投げたカルラに対し、問われた友介は地面を向いて力なくうなずいただけだった。
それが――その腑抜けた態度がなぜか、なぜかカルラの癇に障る。
「アンタ、それでいいの」
「良いわけねえだろ」
「じゃあ何でそこで座ってんのよ。まさかビビってんの? 自分を負かした相手が怖いの?」
「……ッ、黙ってろよ部外者が」
無遠慮なカルラに怒声を上げそうになるのを寸前で堪え、代わりに突き放すような言葉を吐いた。
「お前は何も関係ねえだろうが。何も知らないアホにグチグチ言われるほど腐ってるつもりはねえんだよ」
「いや、腐ってるじゃない。ビビって座ってんじゃない」
「黙れっつってんだろ。撃ち殺されてえのか」
「八つ当たり? ダッサ」
「…………ッ」
瞬間、頭の中が真っ白になったかのような錯覚があった。気付いた時には拳銃を引き抜いており、カルラへ向けてその銃口を向けていた。歯を食いしばり、血走った目を向ける少年の表情は、ひどく憔悴していた。
対する少女は、どこまでも冷めた目を向けていた。
カルラは思う。自分がこんな腑抜けた男を心配するはずなどないと、
ジブリルフォードは、カルラが友介を心配していると勘違いしていたようだが、それは絶対にありえない。
胸中を占める感情は苛立ちだけ。
今すぐにこの馬鹿の顔面を殴り飛ばしてやりたいという感情だけが胸の中で渦巻いていた。
「アンタにどんな理由があってそこで寝てたのかは知らない。まだ立たない理由も分からない。アンタの過去なんて私は知らないし、そんな私がアンタを悪く言うのは間違ってるのかもしれないけど……それでもアンタはダサいわよ」
なぜなら。
この男はこの程度のはずがないのだから。
ここで蹲って爪を噛んで涙をこらえるような、そんな小物ではないはずだから。
安堵友介と一緒に戦ったことなど、本当に片手の指で数えられる程度の回数しかない。先の安倍涼太の事件が初めてであり、それからついさっきの土御門狩真と黒い騎士との戦闘。数えれば二回だけ。
たったそれだけで人の何を知れるというのか――そう言われればそれまでだ。
だが、知っている。
風代カルラは知っている。
この少年がどこまでも必死であることを。
何かのために遮二無二走っていることを。
襲い来る理不尽に屈するのではなく、立ち向かう類の人間であることを、風代カルラは確信しているのだ。
「アンタの妹がなんかおかしなことになってんのは薄々感づいてるわよ。そしてその原因があの異常者ってこともね」
「……だからどうした」
その投げやりな言い方に、今度はカルラが怒鳴った。
「じゃあ何でここで座ってんのって聞いてんのよッ!」
なぜここまで感情が昂ぶっているのだろうか。なぜこんなにも悔しいのだろうか。目の前の男が拗ねているというだけの事実に、どうしてこんなにも怒りが湧いてくるのだろうか。その源泉が分からない。ただそれは、好意じゃないはずだ。恋慕でないはずだ。
「大切なんじゃないのッ? 傷付けれたら、アタシの目も気にせず大声上げてブチ切れちゃうような……アンタにとっての宝石のようなものだったんでしょ? それ傷付けられて怒ってたくせに、急に怖くなって逃げてんなッッ!」
「黙れっつってだろうがッ! 俺の何も知らねえくせに口出すな!」
安堵友介にだって過去がある。トラウマがある。恐怖がある。故に、動けなくなることだってあっても仕方がないだろう。
しかし。
「だからッッ!」
そう言うと、カルラは友介の胸ぐらを掴み無理やり立たせた。
「そのアンタのトラウマは! アンタが杏里ちゃんを諦める理由になんのかッッ!」
「――――ッ、」
「安堵友介。お前の過去は、お前の妹よりも大事なのか? お前の幸せを願って尽くす女の子よりも大切な思い出か? 忘れてはならない過去だっていうのは分かるわ。忘れられない恐怖だってあるのかもしれない。だけど、そんな……そんな理由で!」
怒声を上げ、カルラは右手を岩のように握りしめる。そこに込められた諸々の感情が何なのかも分からないまま、声を張り上げ腕を振るった。
「そんな下らない理由で自分の妹を見捨てんなこの馬鹿ッ!」
鈍い音が炸裂し、少年の体が吹っ飛んだ。
カルラは殴った右手の痛みを抑え付けてなお叫ぶ。
「そんなに苦しいなら私が聞いてやる。迷ってんならヒントを教えてやる。一緒に悩んでも良い!」
「だからお前は……っ」
「関係ないとか知るかッ! まずは杏里ちゃんに起こったことを教えなさい。次にあの異常者が何を言ってきたのか、アンタの過去も、トラウマも、全部教えろ」
「断る。お前には話したくない」
「じゃあ話すようになるまで殴り続けるわ。腑抜けたアンタなんて怖くないし――」
――見たくない。
その最後の一言だけは、辛うじて言わずに踏み止まった。
自分は壊れてしまったのだろうか。どうしてこれほどまでにこの男の腑抜けた姿を見たくないのだろうか。
そうして彼女は、一つの可能性に行きついた。
(……似てるから、折れて欲しくないんだ)
安堵友介は、風代カルラには想像も付かない過去を背負っている。そしてカルラもまた、余人には到底理解できないような大きな罪を抱えていた。
そしてどちらも、潰れていない。
風代カルラはその罪滅ぼしの為に、己に一つの鉄の掟を課し、そして達成不可能な夢を持った。
安堵友介もまた過去に大きな罪を背負い、それに負けじと生き足掻く人間だ。それを、おそらくカルラは彼の言動の節々から感づいていた。
そして、きっとあの傷がきっかけになった。
確信したのだ。『こいつは私と同類だ』と。
なんて勝手な話。つまりは、私が頑張っているのだからお前も頑張れ。お前が折れれば私も道半ばで折れてしまうだろうが――そんなところか。
寄りかかって勝手に期待して、辛そうにしている人間を腑抜けと罵倒する。何たる我が儘。
しかし、カルラはそれを自覚してなお期待することをやめはしない。
「もう一度言うわよ安堵。私に頼りなさい。私に泣きつけばいいわ。頭悪いんだから助け求めなさいよ。道半ばで折れるなんて許さない。私は、アンタを支えてやる」
「…………意味、分かんねえよ。お前俺の事嫌いだろうが」
「ええ、大っ嫌いよ。死ねばいい。ムカつくし出来る事なら出会いたくなかった」
その清々しいまでの分かり切った答えに、なぜか友介は安心感を覚えていた。
だから。
まるで親に甘える子供のように。
安堵友介は嗚咽交じりに自身の抱えたものを吐露していた。
「二年前、助けられなかった友達がいたんだ……。そいつとそいつの恋人はさ……俺の前で最悪な殺され方をしたんだ……」
今でも忘れない。あの日の恐怖と怒りと悲しみを。
そうだ、友達だった。友達だったのだ。
ずっと一人だった友介に、勝田匠だけは構ってくれていたのだ。恥ずかしくて照れていた友介はぞんざいに扱っていたけれど。罪がどうとか言って逃げていたけれど。大切なつながりだったのだ。
それを目の前で壊された。そいつの大切な人の元には間に合わなかった。
そして。
今度は彼らの友達が、同じように理不尽に見舞われて殺されようとしている。
「そうだよ……怖えよ……怖いに決まってんだろうがッ! また、また目の前であんな目に遭う人間を見たいわけねえだろうが! 俺のせいで、俺の力不足で、何も悪くねえ奴が、幸せに暮らしてたはずの人間が殺されるんだぞ! 俺のせいでッ! 見たくねえ、見たくねえよッ!」
つい先日、友介は凛に憎悪を向けられた。それを友介は涼しい顔で流してみせた。小さな謝罪をするだけで、その場を離れた。
だが、平気なわけがなかったのだ。
それでも、あの場で感情をむき出しにすることは間違っていると思ったから、友介はただ一言の謝罪で済ませた。何も言えないと言った。
友介が殺したわけではなくとも、彼は助けられる位置にいた。自分だってその責任の一端を背負っていることを理解していたから、友介は偽悪的に接した。
「あいつは悪くない、悪くないだろ。友達を殺された上に、自分の命まで失うのかよ……そんな理不尽ってないだろうがッ!」
「…………」
「なあ、分かるか? 自分のせいで人が死ぬ怖さを。その罪を目の前でまざまざと見せつけられる残酷さを。どんだけ胸が引き裂かれると思う。どれだけ辛いことだと思う。嫌いな奴とか友達とか関係ないんだよ」
あの時は空夜唯可がいた。だから戦えた。平静を保って、巨悪に立ち向かうことが出来た。
だけど、今彼の隣に空夜唯可はいない。
もしもあの光景をもう一度見せられてしまえば、何にも抗えなくなってしまう。
「怖いんだよ……ッ! 嫌なんだよッ! もうこれ以上、俺のせいで誰かが不幸な目に遭う姿なんか見たくねえ。そんな理不尽に出会いたくねえんだよッッッ!」
涙を流し、喉が潰れるほどの大声で捲し立てた友介の姿は、何にも頼ることが出来ずに生き詰まってしまった子供そのものであった。
何も為せないことが悔しい。誰も救えないことが悲しい。また自分のせいで人が死ぬ場面を見るのが怖い。
そうした弱い心の全て曝け出す。
「ダメなんだよ……ッ。もう意味が分からねえ。何をすれば良いか分からねえ……。俺は、本当に、どこまで行っても弱虫で、頭悪くて……でも――」
全部吐き出して。
彼の本音を覆っていた全ての泥沼を風代カルラの前に差し出して、そして――。
「諦められないんだよぉ……!」
その一言が。
最後にその言葉が、彼の口から漏れた。
それまで黙って彼の言葉を聞いていたカルラが、その時初めて問いを投げた。
「なにを?」
「分からねえよ。ただ……」
「ただ?」
「俺は、そういうのが嫌いなんだよ。俺は幸せになりたかったし、その幸せを壊す理不尽が許せない。何も悪くない奴らに襲い来るような不条理を潰したい。当たり前に暮らしているのに、悪いことなんてしてなくて、神様に借りを作ったわけでもねえのに、そんな人間に突然降りかかるような不幸が大嫌いだ。その全ての原因であるこの戦争が終わってほしい……」
だから、きっと。
安堵友介は、そうした理不尽に勝つことを諦められないのだ。
どうしても、この世の不条理に立ち向かおうとしてしまう。
他者も自分も、不幸な運命から脱して幸せにしたい。
その言葉を全て聞いて。
少年のどうしようもない嘆きを受け止めて。
「だったら」
それでも少女は。
「こんな所で寝てんなッ!」
その馬鹿のことを真に想うがために、もう一度殴り飛ばした。
「そう思うなら立ちなさいよッ! アンタの心はそんなに綺麗なんだから誇りを持てばいいのよッ! ビビるな! ヘタレるなッ! 諦めるな怖がるなッッ! 過酷な運命も残酷な真実も全て受け入れて前に進めッ! それがアンタに求められるもんでしょッ!」
「…………ッ」
「アンタは私と違って綺麗だッ! 誇り高くてカッコイイじゃないッ! 誰よりも純粋な心を持った優しい人間でしょうがッッッ!」
「ちがう! 俺はただ、目の前の不幸を認められないだけで……っ」
「違わないッ! 私が保証する! アンタは、安堵友介は、誰よりも、この世の何よりも気高くて純粋で強くて誇り高くて優しくてカッコ良くて可愛い……最ッ高の男の子だァあッッッ!」
「――――」
そんな。
あまりに度の過ぎた称賛に。
生まれてこの方受けたことのないような肯定に。
自分のことを嫌っている人間からの応援に。
「う、ぁあ……あ、ぁあああああ。ああああああああああああああああ」
安堵友介は、溢れ出す涙を止めることなど出来なかった。
みっともなく口から漏れる嗚咽を噛み殺すことなどできあるはずがなかった。
「なんでだよ……なんでお前が、そんな……俺のこと嫌いなんじゃねえのかよ……! 何がカッコイイだよふざけんなよ……ッ!」
今まで言われたことがないわけではない。それこそ杏里は、友介は優しいだとか、本当はかっこいい男の子だよねだとか、そういうことを言ってくれていた。
だけど、これは違う。
杏里の放つそれらとは全く違う意味を持っている。
汚い部分を全て曝け出して。その中にあったちっぽけな想いを拾い上げられて。
そうだ……こいつは、この阿呆は。
今、この瞬間。
――安堵友介という人間の総てを、肯定したのだ。
清も、濁も。
醜い部分も美しい部分も関係なく、全て。
「ふざけんなよ貧乳が……っ」
「――」
自分は弱くてちっぽけな人間だと思っていた。
何も為すことの出来ない、運命の歯車でしかないと思っていた。
――――世界は巨大だ。だから人間は、運命に抗うことが出来ない。
知るか。
認めねえ。
黙ってろ。
そんなもの誰が決めた。
世界も運命も理不尽も不条理も不幸も戦争も。
俺が全部ぶっ壊す。
そして、その先に新しい世界を作り出してやる。
誰もが笑える世界を。
当たり前の幸せを享受できる世界を。
だからそのために、この世の全ての〝悪〟を相手取ってやろう。
来いよ、世界とやら。
潰せるもんなら潰してみろ。
お前なんかよりも、俺の方が百倍強い。
だから――。
「ありがとう、カルラ」
「――――」
涙をぬぐって、安堵友介は立ち上がる。
両の手に拳銃を握って。
右の目で世界の全てを捕捉して。
左の目であらゆる運命を打ち砕こう。
「もう迷わない。俺は、世界一カッコイイからな」
「ふふっ」
風代カルラは、立ち上がり前を向く安堵友介の横顔を眺めて、嬉しそうに、小さく笑みを漏らした。
「つぅーか誰が貧乳だッ!」
そうして、先の彼の失言を咎めるために鳩尾へ小さな拳を叩き入れる。しかし……
「はい、あまーい。お前程度のパンチで俺を仕留めるなんざ、お前の胸がBカップに成長するくらいありえねえよ」
「殺す」
「やってみろ」
既に、二人の間に気まずい空気は存在しない。気の合わないムカつく相棒がそこにいるだけだった。既に腑抜けも、馬鹿も阿呆も存在しない。
安堵友介と風代カルラ――至高の英雄がそこに立っていた。
「じゃあ、行くわよ。友介」
「――――」
「なに? ビックリしたの?」
「あん? そんなわけねえだろうが。黙ってろチビ」
「黙れ不能」
「俺は絶倫だ」
「キモ」
「お前マジで勝手に自分だけ抜けるのほんまにやめろ」
そう言っていつも通り言い合いをする。
殺すだの死ねだの餓死しろだの……他愛もない憎まれ口を叩き合う。
それは彼らのいつもの風景。
ただし……。
「ははっ、んじゃあ行くか」
「ふふふ……そうね」
その最後に、笑顔がなければ。
戦おう。俺が求める世界の為に。
だからこの腐った世界には、俺の我が儘に付き合ってもらう。
「「背中は任せた」」
互いの拳を突き合わせ、二人は戦いに赴く。
河合杏里と四宮凛。
罪なき二人の少女を守るために。




