行間一 兄の為に
河合杏里は、身に起こったことを完璧に理解していた。
理性はあった。知性もあった。感情も残っていたし、精神が喰い潰されているなどということもなかった。
だから、辛かった。
身体が思う通りに動いてくれない。大好きな少年を、愛した兄を傷付けた。大切な家族を苦しませてしまった。
それが少女にとってどれほど辛いことか、土御門狩真も、安堵友介にも分からない。
たった一人の少年が、どれほど大切な存在であるか知らなかった。
ここで一つの真実を明かそう。
河合杏里には、血の繋がった兄がいた。
しかしその彼は空爆の折に死んだのだ。杏里の目の前で。
もっともその頃の杏里はまだ幼く、物心も付いていない時分であったが、しかしなぜか、その時の喪失感だけは覚えていた。
記憶は風化して、その時の光景なんて思い出せない。だけど彼女があの時感じた悲しみだけは、ふとした瞬間に簡単に思い出される。
だからこそ、新しくできた家族を大切にしようと思った。
あんな喪失感を感じたくはないから。
大切な人を失うことがどれほど悲しいことか、知っているから。
『……うる、さい……』
(あの言葉を聞いたときね、実は傷付いていたんだから)
思い出す、最初の邂逅。出会いの時を。
大切な思い出だ。
あの時からすでに、あの友介を見た瞬間にはもう、杏里は友介のことが大切になっていた。
かつての兄と重ねたのではない。寂しさから代替品を求めたわけでもない。
子供ながらに、好きになったのだ。
ああ、だとするならば、なるほど。もしかしたらあの時、少女は恋をしたのかもしれない。兄としてではなく、一人の男のとして友介のことを好きになったのかもしれない。
もっともそんな感情は、時が流れていくにつれて風化していき、今や世話のかかる兄だとしか思えないが。
つまるところ、他人であるはずの友介を簡単に受けいれられたのはそういう理屈なのかもしれない。
だから、そんな大切な兄を守ろうと思った。いつだって彼の癒しであり、彼の帰る場所であろうと思った。
だというのにこのザマだ。友介を傷付けた。何よりも、彼の日常の象徴として、癒しとしているべきはずの私が敵の手に染まり、友介は杏里を取り返すために危険な戦いに身を投じた。
家族失格だ。
友介を幸せにするはずが、杏里の不注意で友介が悲しみに暮れ、命を落としかねない戦いに進んだ。
(だか、ら……っ)
だからこそ。
河合杏里はこの病室で待つことを選んだ。
私は日常の象徴でいたいから。友介の還る場所でありたいから。闇の中を模索して戦った友介を笑顔で迎え、この大きな胸の中で甘えさせてやるために。
安堵友介には、そういう人間が必要だから。
行きたいという感情を抑え付けて。
助けたい、力になりたいという衝動を封じ込めて。
河合杏里は待ち続ける。耐え続ける。
真に愛する男を想うがために。
ひたすら己の中の衝動を、その矜持でもって抑えつけた。
それはきっと、単純な殺し合いなどよりも遥かに苦しい戦いで。
だからこそ、この少女はこの世界の誰よりも強かった。
(……よしよしくらいは、してあげよう)
淡い微笑とは裏腹に、きつく噛みしめた唇と、握り締めた拳から一筋の血が流れた。




