第六章 科学侵攻 6.狂人
『ゲバババババババババババババババババババババババッっッッ!』
祝詞を終えると同時、狩真の右手に握られた鬼の口が哄笑を上げた。
――ああ、ようやく喰える。
――乾いていたのだ。弱き存在の肉を食ったところで腹が満たされるわけもなし。
――この飢えを、止めてくれ。
笑い声には、そんな歓喜が込められているように、友介には感じられてしまった。
しかし。
「キひひひっ! いいねその表情……まだ折れてねえ。絶望してねえ。ビビってるにはビビってるらしいが……」
「うっせえんだよ。テメエのそれなんざ、トチ狂ったショタジジイの八つ当たりや、ゾンビの大群に比べれば怖くねえんだよ」
「イひひひヒヒヒヒヒヒッ! ヒハハハハハっ! だったら見せてくれえ……楽しみにしてるぜ異端殺しィッ!」
直後、狩真は神速の踏み込みで友介の懐へ潜り込んだ。否、速度そのものは特筆すべきものではない。先も感じた彼の技量。時と距離を感じさせぬほどに上手い踏み込みだった。
狂笑と共に大鉈が振るわれた。貪欲に肉を欲する魔人の口が友介を照準する。掠れば四肢は消えると見て良い。
当然友介は回避を選んだ。それも後方への大跳躍。技術やその後の戦法など考えていない、とにかく回避のみを念頭に置いた逃げの一手だ。
しかし、これが悪手かどうかとなれば、それも否。
友介の得物は拳銃なのだから、距離を――つまり間合いを大きく取れば、狩真の攻撃を受けぬままに銃撃を見舞える。何もギリギリの場所で戦う必要がないのだ。友介はあの大太刀の間合いの外から金髪の少年を嬲り殺しにすればいい。
それが間違いだと、直後に知ることになる。
「きひっ」
堪えきれなかったかのような、小さな笑いが漏れた。愚者を見る軽薄な研究者のような、人を完全に見下した笑みだった。
「そぉらァッ!」
友介が離脱してからすぐ後に、間合いも何も関係なく狩真が隻腕を振るった。本来であれば刃は届かない距離。得物の長さから振るった後の隙を考えれば、それが愚挙だと素人であっても分かるだろう。
しかし。
口が、伸びた。
「な、ぁあッ?」
驚愕に目を見開いた友介は、それでも足を止めることはなかった。一秒を百に分割したような感覚があった。友介の右眼に埋め込まれた義眼が世界の変化を高速で計算し、一瞬先の未来を――つまり振るわれる『口』の軌道を算出する。
分子レベルまで補足可能なその『眼』は、瞬時に演算を終え、その結果を脳に送った。電子パルスを変換され脳に直接の信号として伝わったその指令は、友介の意志に関係なくその四肢を無理やり動かす。
脳による思考ではなく、脊髄による反射のようなもの。異なる点は、それが何も考えずに行われた動作か、演算された最適解かというもの。
結果。『眼』が選んだのは前進だった。
髪先数ミリの位置を凶暴な咢が通過する。しかし友介の頭が胴と分離することはなかった。『口』は何も捉えることなく虚空を噛み砕くに終わる。何も捉えられずに虚しく閉じられた口から、凶暴な歯がぶつかる音が鳴り響いた。歯を剥き出しに、赫怒の色を浮かべる酒盛りの鬼の口。唾液が飛び散り、一滴が友介の肩にかかった。
「ちっ、きったねえなあッ!」
前かがみの姿勢になったまま、友介は右手を突き出して発砲。三発の鉛玉が射出され、狩真の腹に吸い込まれるように空を走る。空気を裂く銃弾は。しかし狩真を捉えることはなかった。
空振りに終わった狩真の大太刀が、地べたに叩き付けられると、シーソーのように彼の体が打ち上がったのだ。
「曲芸師かよ……ッ!」
歯噛みする友介とは裏腹に、狩真の顔には喜悦の笑みが張り付いている。
「キヒヒヒヒヒハハハハハハッ! 潰れろゴミがァッ!」
刹那の思考。
『崩呪の眼』を使うか、否か。
先の安倍涼太との戦闘の際、友介は魔眼の過剰使用により最後には使い物にならなくなっていた。その失敗を踏まえ、友介は極此度の戦闘では極力魔眼を使用しないことに決めていた。実際、彼が魔眼を使用したのは足場崩しの時のみ。というのも、人間を相手に魔眼を使用するのは些かリスクが高いのだ。
当然だが敵は動く。そして動く的は当てにくい。
友介には五感拡張計画で得た『眼』があるが、それだって完璧ではない。相手が人間である以上、『眼』の演算を超えた動きをすることなどありえぬ話ではない。
何より目の前の敵は狂している。頭の狂った享楽殺人者。
人とおおよそかけ離れた思考回路を持つサイコパスに、機械の延長線上でしかないこの『眼』が追いつくことが出来るのかは微妙な所だ。
そして眼前に迫る鬼の口もまた同じ。
あれにはそれなりの意志があるように思える。思考能力を有するあの大太刀に崩呪の眼を使ったところで、おそらくだが得物自身の意志で避けられる。
崩呪の眼は。
黒点を貫かなければ意味はない。
『急所』たる黒点を撃ち抜いて初めて必殺足り得るのだ。
しかし現実問題、何かしらの手を打たなければ、今さらどう足掻こうともあの口に丸呑みされることは変わらないだろう。
ならばどうする?
ここで足場を崩したところで何も変わらない。バランスを崩し直撃を避けたところで四肢がもがれることは変わらぬだろうし、万が一避け切ったとしても次撃に対応することは不可能であろう。
故に。
「キヒヒッ、次はなァにを見せてくれるんだぁ?」
友介は狩真の顔面――その数ミリ外れた虚空へ銃口を向けた。
「見せねえよ。聞かせてやる」
撃鉄が落ちる音が響き、超音速で銃弾が射出された。大気を引き裂きながら飛翔する鉛玉は、友介の想定通り狩真のすぐ横の虚空を貫く軌道だ。
当然それを見切っていた狩真は、首を振るという最低限の回避動作すらしない。時間の無駄だし視界がずれる。
「外れだよ。失望させねえでくれよぉッ!」
変わらず狂笑を浮かべる狩真だが、その声音には確かに怒気が含まれていた。
銃弾が狩真のすぐ横を虚しく通過する。大気を貫通し、
耳の中を矢で貫かれたかのような激痛が走った。
「な、ァ、! ッ?」
脳を直接揺さぶられ、狩真の視界が大きくぶれる。それどころか吐き気が込み上げ、握っていた左手の鬼の鉈が手のひらから滑り落ちた。
「言っただろ。聞かせてやるって」
「ぎ、ぃ。て、めェ……」
地面に蹲り怨嗟の声を上げる狩真は、恨めしそうに友介の面を見る。しかしその顔を見ても、友介の胸にわだかまるのは優越感ではなく、嫌悪感。
怒りだとか恐怖だとか、そういう単純な感情に当てはまらない。
(気持ち悪い……)
鼓膜を破られてなお狂った笑いを崩さないその在り方に、友介はどうしようもない嫌悪感を抱いた。
「こい、つ……ッ」
「クハハハハハハハハハハッ、そうだよ、そう……それがいい。その表情だ。絶望の表情じゃねえ。恐怖の表情じゃねえ。この俺の狂い方を見てなお、なお! なおも立ち向かうその気概ッ! その強さッ! 理解できないものに屈するのではなくッ! 違い過ぎる化け物を否定するその在り方ッッ! お前は……お前こそが俺を満たせる」
今、友介はようやく気付いた。
この男の狂い方が、正常な狂い方ではないのだと。
ただの狂人ではない。サイコパス? 化け物? 悪魔?
どれも違う。
こいつは。
こいつは、そう。
限りなく、どこまでも人間だった。
この男は、欲に忠実なのだ。
「イヒッ、イヒヒヒヒッ」
狂人は狂人でも、何かに感化されたわけでも、誰かの愛を受けなかったわけでもない。
こいつは、己の中に確固たる世界を持っている。
何にも崩せない、絶対的な世界を。
その深層に、人格の奥の奥に。培ってきた記憶の果てに。
この男は、何者にも崩せない〝己〟を持っている。
感化されない。影響を受けない。説得されないし折れることも負けることもない。
「んじゃァ……キハハっ、ハハ、なあ……」
そうして同時に、安堵友介は悟った。
――今のままでは、呑まれると。
「…………っ」
「まだ、屈しねぇ……っ」
その喜悦の笑みの向こうに何が秘められているのか。
気持ちが悪い。
殺したい、殺したい殺したい殺したい。
今すぐに、こいつを……ッ。
「じゃあまあ、そうだな」
理性では抑えきれぬ殺意に呑まれかけていた友介は、続く狩真の言葉と、その隣にいる少女によって現実に引き戻されていた。
「まずは、お前の深層心理を浮き彫りにして、俺と同じ場所に立たせることから始めようか」
そこにいたのは、髪を茶色く染めてポニーテールにした少女だった。顔にはほんのり化粧をしており、スカートは短く折っている。カバンにはキーホルダーがジャラジャラと付けられており、スカートのポケットからは熊のキャラクターのストラップが覗いていた。
「……お、まえ……」
いつもはチャラチャラとした少女で、友介を遠巻きからなじる女の子たちの一人だ。
そして。
救えなかった少女の、友達だった女の子。
「なんで、ここに……」
そこにいてはいけない少女だった。
「四宮……っ」
四宮凛。
安堵友介に友を奪われ、憎悪をその胸の内に宿す少女がそこにいた。
見たこともない、虚ろな瞳を向けて、安堵友介を、射抜いていた。
☆ ☆ ☆
『じゃあ、草加くん、川上君くん、私の言う通りに動いてね』
「え、あ、うん」
「…………」
先ほどまでとは大きく様子の変わった様子の蜜希に、草次は困惑の声を、千矢は沈黙を返した。
おどおどしたコミュニケーションが苦手そうな少女の声ではない。妖艶な、それこそ花魁のような人を蕩けさせるような声であった。
『近くにいる魔女は、その動きに合わせて私が逐次再計算を行っていくから気にしないで。私が指示を出すと言っても現場で戦っているのは二人だから、私の指示が間違っていると感じたら、自分の正しいと思う選択をしてほしい』
「りょう、かい」
『近くのカメラと空の無人兵器は私が支配下に置いてるから』
「俯瞰視点からの情報は信じていいな?」
姿を見せない千矢に蜜希がうんと返事を返した。
「援護も任せて。出来るだけ敵の選択肢を狭める事に専念しておくわ。そっちでは草加くんが後衛、川上君が中衛でお願い」
「前衛はどうすんの?」
『たぶん魔女が勤めると思う』
草次が唯可の方を見ると、彼女は息を切らしながらも力強い笑みで引き受けてくれた。
「その、私は自由に動いていいんだよね?」
「ああお願い唯可ちゃん」
「え、あの……」
「いい加減にしろ」
草次の距離の詰め方に困惑していた唯可を、千矢が草次の頭を叩くことで助けた。あまりノリに付いて行けない唯可は、一旦二人を放って敵であるジブリルフォードを見据えた。
草次と千矢もそれに続く。そこで狙いすましたかのように蜜希の通信が入った。
『敵の魔術師はライアン・イェソド・ジブリルフォード。神話級魔術師で、科学圏のリストにも乗ってる。扱う魔術は水全般。特に海に関係する魔術を得意とするね。モチーフの神は北欧神話のエーギル。特に特別なことはないかな』
その一言に、千矢と草次が絶句した。
無線越しに話す少女は、神話級魔術師を特別な存在ではないと断じたのだ。強がりでも発破でもない。ただの事実としてそう口にしたのだ。
「あの、聞くけどさ……」
『どうしたの……?』
「蜜希ちゃん、だよね……?」
『…………っ、たぶん、そうだと思う』
微かな間があって、少女は答えた。
(そっか)
その返答に、草次は確かに確信した。
(蜜希ちゃんも、なんか悩んでるんだね)
――いつか助けられたらいいな。
そんな、戦闘とは関係のないことを考えた。
そしてすぐにそれを放棄する。
今は生き残る方が先決だ。気を抜いている暇はない。ジブリルフォードが攻撃してこない今がチャンスなのだ。こちらを舐めて掛かっている今が、格下である草次たちが勝てる数少ない機械なのだから。
インカムから少女の声が流れる。
『彼が「霧牢の海神」と呼ばれるわけはさっきので分かったと思う。あの魔術は重水を霧として展開して相手の体内に送り込む魔術。神話級とは思えないくらい姑息な業だけど、それだけに侮れない。まあ……』
蜜希が言葉を切るなり、空に浮かぶ無人ヘリの一機からミサイルが射出された。弾頭は彗星のように煙の尾を引きながらジブリルフォードへ突貫する。
蜜希の突然の奇行に、千矢を含めた全員が目を剥くが、ジブリルフォードだけは冷静だった。
右手を前へ。水の盾を展開し、直撃の寸前に大量の水で弾頭を包み込んだ。
『んふ』
直後、起爆。
飛沫が弾け、雨のように草次たちの上に降った。
「あの」
『こんな風にミサイルで吹き飛ばすから安心しても大丈夫』
「あの、俺たちが死んじゃうっ! なんでこんな危ないことするのッ? 俺らなんかしたッッ?」
草次の涙の訴えを聞いた蜜希は、若干の怒りを滲ませてこう言った。
『……わたしの、ぱんつ見た……っ』
「あ、いや」
『恥ずかしかった』
先ほどまでの様子とは一変、本当に恥ずかしそうな小さな声で蜜希が恨めしげに草次へ訴えた。
「ご、ごめんなさい」
『絶対許さない。あとで覚えてて』
普段の彼女に言われたのならば可愛いだとかなんとか言って喜んでいただろうが、今の蜜希に言われるとぞっとするものがあった。とりあえず後で謝ろうと心の中で誓って。草次は続きを促す。
「で、具体的に俺たちはどう動けばいい?」
『まずは魔術の直撃を受けないこと。そのために、絶対にジブリルフォードの前に姿を見せないで。彼の魔術は一つ一つが一騎当千にして万夫不当だから、生身の人間が喰らってしまったら体が繋がったままでいるとは思わないほうがいい』
「え、あの、そんなに……?」
「了解。魔女は良いんだな」
「うん、何が?」
「ああいや、こっちの話だ」
顔を引きつらせる草次とは対照的に、千矢は飄々としたものだった。規格級とはいえ魔術師。命のやり取りにおいて取り乱す愚かさを理解しているのだろう。
自分の名前に反応した唯可になんでもないと告げると、千矢は蜜希との会話に戻る。
「俺はどうする?」
『川上君は魔術が破られないだろうから、敵に視認される位置にいてもいい。でも絶対見つかっちゃダメ』
「了解」
「俺は?」
『草加君は私が指示する以外は物陰に隠れていてほしい』
「でもこんな更地でどうやって?」
「それなら私に任せてほしい」
返したのは唯可だった。蜜希の声は聞こえていないはずなのだが、おそらく千矢と草次の会話から推察したのだろう。
彼女は己が矢面に立つかのように一歩前に進むと、
「私が、ぶっ飛ばす!」
強く、断言した。
「『水天・飛翔浪竜』」
瞬間、唯可の杖より水の飛龍が生まれ落ちた。水の激流が形を成し、前足と翼の同化した悪竜が顕現した。飛翔浪竜を構成する激流はそのエネルギーを外界にまで及ぼし、凄まじい暴風を生み出していた。土埃が舞い視界が狭められる。
「うお、これ、は……!」
「巻き込まれるぞ、何かに捕まれ!」
「はぁあああああああああああああああああああああああああああッッ!」
突如巻き起こった突風にたじろいでいる間に、唯可は攻撃へ転じていた。
「吹っ飛べええええええええええっ!」
砂塵を拭き散らし神話の体現者に突貫する。
対して男は。
「受けて立とう」
あくまで自らのハンデを受け入れた。
両腕を広げ、抱擁するかのような格好で竜の体当たりを受けたジブリルフォードは、ほんの一瞬で百メートルの距離をノーバウンドでかっ飛んだ。三つのビルをぶち抜いた男はしかし、空中で身を翻すと、地に足を付けた。さらに数十メートルそのまま滑ったが、ほどなくして停止する。
居住まいを正して正面を向くと、笑みを深めた。
「来い」




