第六章 科学侵攻 5.変貌
「さて、と……」
神話の災厄と相対する草次は、あくまで軽い調子で呟いた。
「んじゃ、いっちょやりますか!」
彼は右耳に装着したインカムの調子を確かめながら、近くにいるはずの千矢のことを考えていた。
「なーんか怪しいなあ」
草次の中の川上千矢という男は、とにかく己の命を最優先に考えるような男だった。先日の安倍涼太の件然り、昨日のマンションでの襲撃の際然り。
だというのに、今回。
千矢は敵の姿や魔術を認めた瞬間、人が変わったように戦闘への参加を表明したのだ。
そこにどんな理由があるのかは知らない。
とにかく今は、味方が一人いるということを覚えておけばいい。
少年が啖呵を切った姿を見て、空夜唯可はなぜか愛しい彼の顔を思い浮かべていた。
さして似ているわけでもない。だがどこか似ていた。脆くて、いつか壊れてしまいそうなあの少年に。
己の身を八つに裂かれようとも無理を通そうとするような危うさが彼にはあった。
「……づっ!」
痛みに喘ぎながらも立ち上がる。近くに落ちていた杖を拾って目の前に広がる光景を見る。
なんだこれは。
確かに唯可の欲しているものは友介との日常だ。彼との優しい時間を取り戻しい。そのために彼女は強くなった。
だが。
彼女の願いはそれ一つではない。
原初の望み。最初の渇望。目指した夢の形を思い出す。
空夜唯可は、救いたかった。
己の手の届く場所にいる人たちを、不幸から、理不尽から、不条理から、守って、救いたかった。彼女の近くにいる間は何人たりとも不幸な目には合わせない。それこそが彼女の夢だった。
かつて犯した罪を清算するために。
そして同時に、己の内から湧くどうしようもない衝動があったから。
皆を守りたいと、ずっとずっとずっと思っていたのだ。
六年前の地獄を繰り返さないために。もう誰も、目の前で大切なものを不当に奪われる人たちを生み出さないために。
だというのに、既に何人の人が死んだ?
友達であったナタリーも、唯可を守るために片腕を失い今も寝込んでいる。
そして、今。
また失うのか? 心が折れたと逃げて、目の前で起きる悲劇を傍観するのか? あの少年は魔術師でも何でもない。そんな人間が魔術師――それも神話級に挑めば五体満足でいられないことなど自明の理。
この戦いの結末は、あっけなく下らない予定調和の悲劇にしかならないだろう。
「だめ、だ……」
杖を地面に突き、ボロボロの体を引きずって前に進む。もう何も奪わせない、終わらせない。神話が何だ。楽園教会が何だ。
そんなもの、掲げた夢を諦める理由にはならない!
「ジブリルフォォオオオオオオドォおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッッ!」
絶叫があった。
譲れないものの為に戦う少女の姿があった。
魔女と呼ばれた少女は、己の身を裂いてでも誰かを守るために、一度敗れた戦場へ復帰を果たす。
勝ってみせる。ただ力を持っただけの魔術師に負ける道理なんかない。少女の胸には、誰にも譲れぬ信念があるのだ。
矢のように飛んで、海神の力を自儘に振るう男へ突貫した。
予想外の乱入に、しかし魔術師は喜悦の笑みを浮かべて一言。
「おもしろい」
そこは、狭く暗い部屋だった。四方の壁際に置かれた四つのPCが部屋を圧迫しており、少女が移動できる空間は、部屋の中央にぽっかりと空いたデッドスペースのみ。光源はPCのディスプレイの光だけで、はたから見れば妖しさしか感じないような部屋だった。
部屋の主であるボブカットの少女――痣波蜜希は、デッドスペースに置かれたプレジデントチェア――いわゆる社長椅子に腰かけて、目の前に浮かぶ監視カメラの映像を眺めていた。そこに映る茶髪の少年と魔女帽子を被った黒髪の少女、そして彼らに相対する規格外の魔術師を眺めた。
そして。
「うふ」
笑う。
普段の少女からは想像も出来ぬような蠱惑的な笑みだった。まるで、目に見えぬ何かを蕩けさせてしまうような、はちみつのように濃密な甘さを含んだ笑み。
「ライアン・イェソド・ジブリルフォード……『霧牢の海神』の二つ名を持つ神話級魔術師……モデルの神はエーギル」
北欧神話において、海で溺れた人間の魂を引きずり込むという海の神。戦死者を総べるオーディンとは異なり、溺死者を招く神。その名の意味は『迎え入れる者』。
彼女はジブリルフォードに関する情報を科学圏と魔術圏の双方からあらかた集め終わると、次は右手のディプレイに向かい合った。
ポケットからUSBメモリを取り出すと、それを机の下に設置されていたPCの本体へ差し込んだ。
東日本国政府の機密クラウドセキュリティを突き破るためだけに開発したウイルスソフトだった。彼女は簡単な操作だけを行って、あとはソフトに全て任せた。己で作ったウイルスだ。その性能は彼女自身が最も熟知している。
「五秒」
呟いたきっかり五秒後には全て終わっていた。
無人兵器軍を統率しているコンピュータを乗っ取り、魔術師を討とうと必死に空を翔ける百以上もの兵器の指揮権を奪い取った。
「準備完了」
普段のおどおどとした少女からは想像もできないような妖艶な声が狭い空間に響いた。
くすりと艶めかしい微笑みを口元に小さく浮かべると、鈴の鳴るような美しい声で告げた。
「私が指揮を執る。二人は言う通りに動いてね」
その言葉に返事が一つ。
「ええ、大丈夫。魔女さんの動きまで制限するつもりはないよ。彼女の働きに合わせて私が臨機応変に戦術を変えていくから安心していいよ」
そうして、言う。
非力で人付き合いが苦手だったはずの少女は、今この瞬間に変貌する。
「もう全部私の思い通りだから。私が草加くんを勝たせてあげる」
誰も知らない。
痣波蜜希。一見して、何一つ取り柄のないこの少女が、世界では何と呼ばれているか。
世界一の頭脳を持つとされる正体不明の人間。
電子の世界の神。
王座に居座る絶対の一。
裏の世界にいて、その名を知らぬ者はいるまい。
『知識王メーティス』
その脳の中では、世界の半分が解き明かされている。
「始めよっか」
人間の限界。その一つの形が神の威光へ牙を剥いた。
その脳髄の価値を知らぬ少女が、知性という名の暴力を自儘に振るう。
☆ ☆ ☆
ソレを見たとき、安堵友介は胸の中で凄まじく暴力的な衝動が沸き上がったことを自覚した。
行為そのものよりも、己の中にある大切な部分を無遠慮に荒らされたかのような気分だった。
――また、だ。
その声はどこから聞こえたのだろうか。
友介自身の口から発せられたものなのかもしれないし、あるいは心の奥底に住む凶暴な自我からの声だったのかもしれない。
とにかく。
血と肉と骨だけが散華した地獄の中心に立つ、返り血に塗れた少年の狂った微笑みを見た瞬間、安堵友介の中で何かのスイッチが切り替わった。
「――おい」
「キハハっ、ずいぶん遅かったなぁ。もうちょい早く来ると踏んでたんだが……あのおっかない騎士に殺されかけてたのか」
「黙れ」
この少年は、元々許す気はなかった。杏里をあんな目に遭わせたのだ。生まれてきたことを後悔するまで、徹底的に痛めつけるつもりだった。
だが、それでも殺す気はなかった。
彼が殺人犯であろうと、杏里を苦しめた元凶であろうと、殺すことはないと考えていたのだ。
人は変われる。
いつか改心する。
今日の行いを悔いて、明日に繋げることができる。
心のどこかで、そう思っていたのだ。
しかし、もう無理だった。
大量虐殺。
それもなにかの正当性を示すための殺人ではない。
快楽。悦楽。愉悦に喜悦。
己の欲求を満たすためだけの奇行だった。
(――こいつは)
背中にじんわりと嫌な汗が浮かぶ。額に浮き出た小さな汗が頬を伝い、おとがいから地面に落ちる。
(救いようのない、邪悪だ)
例えばこの少年が、正気を失っているのだとすればまだ救いはあった。
あるいはこの行動の底にあるものが、過去のトラウマだとか強迫観念にとらわれた末に行動だとか。そうした理由ありきの殺人ならば、安堵友介は土御門狩真という少年を許そうと思えたかもしれない。
だが、違う。
友介の直感が、それを否と告げる。
この少年は至ってまともで。
この殺人に理由は存在しない。
友介はそれら諸々の情報を再度確認し、
「土御門狩真、お前を――殺す」
最適解を、導き出した。
カルラには止められた。殺すなと命じられた。友介も特段それを破るつもりもなかった。
しかし、これは状況が違う。
たとえ友介の手が再び罪に塗れようとも、この害悪は排除する必要がある。
対して、友介の啖呵を聞いた狩真は、笑いでもってそれに応えた。
「キハハハハハハハハハハハっ! そうだよ、そう……お前はそうでなくっちゃならねえ。己の中の衝動を無理やり押さえつけて、本来の力も発揮しないまま敵に敗れるなんてことはあっちゃァならねえ」
そう言って狩真は、右腕を大きく横へ広げてみせた。
「ンハハ……じゃあまァ、異端殺しくんも一皮むけたわけだしぃ? 俺もいっちょギアを上げるとするかァッ!」
これまでで最も凄惨な笑みを浮かべる狩真に危険なものを感じ、友介はとっさに右手を跳ね上げて銃弾を叩き込もうとした。だが、対応に遅れた友介よりも、初めから準備をしていた狩真の方が速いのは当然。
祝詞が紡がれた
「〝京より降り、門へと歩んだ黒檀鬼〟
〝その身その魂、汝の父へ返還せよ〟
〝還る場所なら其処にある〟」
短い詠唱が紡がれた後、少年の背中から黒檀の鬼が生み出され。
糸の束へと分解された。
釣り竿のリールを巻くような音と共に、茨木童子と名付けられた今日最大最悪の鬼が、外道丸――茨木童子の父である酒呑童子――へと帰っていく。
しゅるり、しゅるり。
刀身の周囲で高速で意図が巻かれているかのようで、それもまた釣り竿のリールを意識させられた。
「テメエは涼太に会ったんだよなァ……? 正直に答えてくれ。あいつは弱かったろ? カスみたいな奴だっただろう。式神使い、陰陽師……そう呼ぶにはあまりに弱すぎるあいつはな、まだ半人前にすら達してねえんだよ」
やがて外道丸の姿が大きく変わった。
刀身はすでに原形を保っていない。銀色の光沢も、鋭くも美しい刃の形すらも。
それは、口だった。あるいは顎と呼ぶべきか。
峰に当たる側面を起点に、刀身が口を開いていた。
比喩ではない。
刃の部分が上下に綺麗に割かれており、唾液に塗れた人の腕ほどもある凶悪な牙がカチカチと音を鳴らしていた。何かを咀嚼するように閉じたり開いたりするその口は、そのサイズからして異様だ。まさしく鬼の口。剥き出しの歯茎のような質感を持つそれは、一撃掠れば人間の腕など容易にもぎ取り喰い尽くすことだろう。口を開けた中に広がる闇が、いったいどこに繋がっているのかは皆目見当もつかない。
「キヒヒヒヒヒっ! ハハハハハハハハッっ!」
狂笑を上げる目の前の異常者の人間性を表しているかのような力だ。
「『童子纏い・卑喰ノ鉈』」
これこそが陰陽師の誇る式神の真の使い方。己に、あるいは得物に式神たる怪異を棲まわせることで、怪異の持つ特殊性、その記号を最大限に利用する戦法。
そして、童子纏いと異端殺し。二つの異形が真の意味で対峙した。




