第六章 科学侵攻 2.教会
爆撃は、空からやってきた。
空夜唯可がクリニックを出て数分、ジブリルフォードにバレぬよう渋谷の街を風の如く駆ける唯可は、初めその音が意味するのか分からなかった。
耳朶を打つプロペラの回転音。大気を叩くその轟音は、
落とされた数十のクラスター爆弾によって掻き消された。
音が消えた。光が飽和した。
「――なっ」
そんな中でも、己発した驚愕の声だけは耳に届いた。
土と水の盾の重ね掛けにより彼女は己が身を守る。しかし、しかし――。
その他の外の人間はどうなる?
まだいたのだ。一般人が。ひ弱な人間が。無辜の民が。己が身に何が起きたのかも分からぬまま爆炎に身を焼かれ、爆風に吹き飛ばされて塵のように死んでいった。
「な、んで……ッッ?」
激怒を孕んだ叫びが火の海と化した渋谷の街に響き――消えた。
唯可は怒りに脳を沸騰させながらも冷静に場の把握に努めた。
そうして、見つける。
上空。唯可が見上げた渋谷の空に、計十五以上の軍用ヘリが滞空していた。――否、あれはヘリではない。
形状としては飛行機に近い。長い機種と左右に伸びる大きな翼。その先端でプロペラとは異なる回転翼取り付けられていた。
ティルトローター機――通称オスプレイと呼ばれる代物である。
もともとアメリカの軍用機であったのだが、世界の境界線の在り方が国と国ではなく科学と魔術に変わっていく過程で、その技術が東日本国に公開されたのだ。そこへ東日本国が得意とするところの軍用人工知能を移植したことにより、科学圏の戦力は飛躍的に上昇した。
オスプレイの群れは、まるで何かを探すように東京の空に滞空している。
初めは魔女である唯可を探しているのだと思ったが、違う。
答えは簡単にやってきた。唯可の立つ道路に面する高層ビルの屋上から、膨大な量の水から生み出された巨人の右手が伸び、まるで羽虫でも払うかのようなぞんざいな挙動でもってオスプレイの群れを叩き落としたのだ。
巻き込まれた三機以外のオスプレイもまた強風にバランスを崩し、計六機にも及ぶ科学圏の最先端兵器が墜落した。
閃光というにはあまりに禍々しい光が渋谷の街を照らした。次いで轟音が広がると、人々の叫喚はより一層激しさを増した。
逃げ惑う人々はもはや他人の事など気にしていない。
己が生き残ることだけを考えている。他者を救うこと、誰かを助けるなどという思考は頭の隅に生まれもしない。
「い、いやぁああああああああああああ!」
「どけ! どけどけっ!」
「邪魔よぉ!」
「痛いよぉオオオオオオオオオオオ……!」
「助けて、よ……」
瓦礫の下敷きになり身動きの取れない子供が必死に手を伸ばしても、誰もが無視する。見向きもしない。視界に入った途端に目を逸らし、刹那の内に忘却し、思考することをやめる。
己の身は己で守れ。それが出来ないのならば死ぬ。
それが、今、この渋谷を動かしているルールだ。
それを、そんな世界を見て。
空夜唯可は。
(一緒、だ……)
顔を蒼白にして立ちすくんでいた。逃げることもせず、誰かを助けることもせず、災厄に立ち向かうこともせず。
(あの時の地獄と、一緒。だ……)
ただ、幼き日の地獄を思い出して。
あの日の恐怖を思い出して。
あの日の罪を思い出して。
あの日の、誰かの慟哭を思い出して。
「い、や……」
カチカチと硬いものが軽くぶつかり合うような連続音が聞こえる。唯可は、それが自分の口が恐怖で小刻みに震えているのだということに気が付いていなかった。
「だめ、だ……」
だが。
「だめだ……」
彼女はもう、ただのか弱い少女ではなかった。ただ災厄を振りまくだけのひ弱な女ではなかった。
「止めないと」
虚空から杖を取り出して右手に握る。眦を吊り上げ、今なお戦闘を続ける海神の右手と無人兵器軍を睨んだ。
「怖がってるだけじゃ、ダメだ!」
なぜなら彼女は――、
「こんな悲劇、私が止めてやるッ!」
すでに一人前の魔術師なのだから。
少女の周囲に旋風が生まれ、彼女の身体をふわりと浮かばせた。決然とした表情で上空の戦いを見つめながら、唯可は杖を軽く振った。直後、杖の先端から疾風が飛び、少年を戒めていた瓦礫を吹き飛ばす。どういった原理か、瓦礫は彼方まで飛んだというのに、少年は顔にそよ風を受けたにとどまった。
不可思議な現象にあった少年は、唯可の顔を呆然とした表情で見上げていた。
「大丈夫?」
風に髪を靡かせながら、唯可は視線だけを少年に向けて問うた。大して少年は無言でうなずくのみ。
「よかった」
それだけ言うと、唯可は再度杖を振る。瞬間、魔女帽を被る少女が凄まじい速度で上空の戦場へと飛翔した。
風を切る音が耳を撫でる。地獄のような景色が高速で後方へと流れていった。
眼前、戦闘を有利に進めているのは海神の右腕であった。
其は魔術。実体に在らず。
水面に映る月を切ったとて、本物は健在であることと同じ。術者を斃さぬ限り海神の腕が消えることはあり得ない。
どれほど戦闘に特化した人工知能といえども、命を持たぬ敵を殺すことは不可能なのだ。
そうしている内に、また一機落とされた。これによりオスプレイ側の兵力は大幅に減り残り三基となる。
(突撃するならばどっちがいい……?)
飛翔しながら唯可は思考する。刹那の空白を置き、彼女が出した結論は。
「――――」
邪魔な兵器の掃討であった。
残る三基の内の一機が唯可の存在に気付き銃口を向けてくるが、先んじて岩龍を放っていた唯可が一手早い。岩龍に呑み込まれたオスプレイはその咥内で爆炎をまき散らして木っ端みじんとなった。
「まだ……だァ!」
唯可は身の丈ほどもある杖をタクトのように振るい、残りのオスプレイへと差し向ける。これで邪魔者は消えた。余計な破壊がまき散らされることも、無辜の人々が凶弾に斃れることもない。
「ほぉ……私を助けたのかな?」
「――――」
からかうようなセリフに、唯可は一切取り合わなかった。
炎岩混合。灼岩龍を生み出し、ライアン・イェソド・ジブリルフォードへ差し向ける。炎熱に耐え切れず、竜の通った周囲の大気が発火した。気圧の急激な変化により暴風が吹き荒れる。ビルが融け、耐え切れず窓が全て砕け散った。甲高い音が響き、鋭利な刃物と化したガラス片が雨あられと地上へ降り注ぐ。――が、それら全てが灼岩龍の巻き起こした暴風によって吹き飛ばされ、隣のビルの壁へ突き刺さった。
「優しいな、君は」
いっそ慈愛すら込められたかのようなセリフを聞き流し、唯可はさらに二体の灼岩龍を生み出す。
対するジブリルフォードも意識を戦闘へ向け、ポケットに突っ込んでいた片腕を大きく広げた。
海神の腕は彼の背後の天井の地面から、まるで植物のように生えていた。彼はそれを……
「二本だ」
瞬間、彼の背後から生み出されるもう一本の海神の腕。
ジブリルフォードの余裕の笑みに、微かな悪意が滲み、
「押し潰してあげよう」
迫りくる三体の龍の首を、海神の二本の腕が両側面からまとめて押し挟んだ。水の沸点など遥かに超えた莫大な熱量に晒された水の腕は、凄まじい蒸発音を発しながらたちまち体積を減らし始めた。大量の水分が瞬間的に蒸発させられたことにより大量の水蒸気が発生する――などと簡単にはいかない。千度を超えた水蒸気は、周囲の、植物を始めとした発火点の低い物体を燃やしたのだ。あるものは融け、あるものは発火する。
そして。
海神と灼岩龍の拮抗の行方は。
「ふむ、まあ……いいだろう」
蒸発と再生を繰り返していた海神の腕であったが、唯可の生み出した灼岩龍もまた、熱量が奪われたそばから供給されていたのだ。
ジブリルフォードが呟いた直後、海神の腕は完全にその体積を失い、対する灼岩龍はより勢いを増してジブリルフォードへ襲い掛かった。
三頭竜の咢がビルの屋上――その一点を目指し殺到する。課せられた質量と熱量に耐え切れなくなった高層ビルが爆発を起こしながら倒壊し、業炎と爆風、そして粉塵をまき散らした。
魔術師といえど人間相手に明らかな過剰攻撃。死体どころか骨の一片ら残さないであろうというほどの大質量と大熱量を叩き込んだ。
しかし。
「素晴らしい。さすがは魔女。『吸福の魔女』よ、君はここまで成長したというのか」
「――――うそ、でしょ……?」
倒壊したビルの残骸――もはや山のように積み下られた瓦礫の頂に、『霧牢の海神』が立っていた。
「だが、まだ弱い」
――――無傷。
着こなされた青色の背広には誇り一つ付いていない。
ゆるく吊り上がったその笑みは、嗜虐や愉悦からくるものではない。
それは余裕。あるいは慢心と呼ばれるものかもしれない。
強者が格下を前にした表情。
圧倒的な力の差――などという甘い言葉では済まされない格差。あるいはそれを、『違い』というのかもしれない。
例えば、蟻と人間。
例えば、神と人間。
「では」
『教会』の魔術師が。
『枢機卿』が。
『第九神父』が。
一言だけ呟き、
一歩だけ出た。
それだけで空夜唯可の総身が悪寒に包まれた。
恐怖ではなく、悪寒。絶対的な死を前にした寒気。
宙に浮く少女の両ひざが小刻みに震えている。歯の根が合わずカチカチと硬質な音が耳の中で響いている。視界の焦点が合わず、次第に滲み始めた。
「ふむ、泣いているのか」
「あ、ぁあ……ぅあ……」
勝てない。格が違う。立っている世界が違う。過ごしている法則が異なっている。
これが神話級魔術師。これが最強の一角。
これが、これが――
「〝楽園教会〟……」




