第五章 災厄と最悪の襲来 3.神話級
煮え滾る地龍が、対象たる海神の魔術師をその灼熱の咢の内に捉え、塵も残さず燃やし尽くさんと焔の渦を咥内に生み出した。
対して、悠然と佇む第九神父は口元に緩やかな笑みの形を作ると、
「〝溶け漂え――肉と骨。此の刹那、我が肉体は常世と化す〟」
唱えられた詠唱によりジブリルフォードの妄想が補強され、神の奇跡の一端がここに成る。
地龍の生み出した焔の渦が魔術師を中心にスクランブル交差点を焼き尽くした。アスファルトがめくれ瓦礫が音速に届き得る速度で周囲のビル群へ激突した。心地の良い破砕音が炸裂する。吹き飛ばされた瓦礫に続き、地面へ叩き付けられた炎の余剰分が地と建造物、そして大気を焼いた。
それは、まさしく地獄と呼ぶにふさわしい光景であった。その熱量は人どころか鉄を溶かすに十二分である。
だからこそ、その地獄の直中に立つ魔女服の少女の異常さが際立っていた。
魔女、空夜唯可。街を徘徊していた際に着ていた洋服の上から黒いローブを纏った可憐な少女は、しかしその容姿とは裏腹に可愛らしい目元を今は剣呑に細めていた。
「まさか、これを受けて無傷だなんてね」
「いや、危なかったよ。一歩遅ければ蒸発していただろうね」
「――――」
地龍の咆哮の余韻により未だ燃え盛るスクランブル交差点の中央に、余裕の態度を崩さずゆっくりと歩くジブリルフォードのシルエットが映った。業炎から歩み出た男に傷は見えず、また発せられる気配に、先の唯可の攻撃に対する恐れや驚きは感じられない。変わらず、優雅な態度を崩すこともない。
唯可は小さく歯噛みし、再度杖を構えた。
「無駄だとは思うが」
海神の魔術師が短く告げたその直後。
唯可の周囲十メートルの位置に、等間隔で五つの水柱が吹き上がった。竜巻のように渦巻くその激流に呑まれれば、たとえ魔術師とて一秒と持たず挽き肉にされてしまうだろう。それは唯可も例外ではない。
「さて、では次はまたこちらの番だね」
軽い口調。しかしそこに込められた邪気のない殺意は重く鋭い刀のようであった。
唯可はほんの一瞬気圧され、
「ナタリー、逃げるッ!」
「間に合うかな?」
叫ぶなり褐色の少女を脇に抱えると、唯可は四元素の内『風』と『火』を操り己の身をロケットのように天高く打ち上げた。
視界上から下へ凄まじい勢いで流れる中、唯可は周囲で不気味に蠢く水の竜巻のみに注意を注ぐ。
水柱の高さはおおよそ二十メートル。そして唯可は飛び上がって一秒経たぬ現時点で既に十メートルの位置まで上昇していた。
しかし――、
(間に合わ、ない……ッ!)
周囲で渦巻いていた五つの水柱がぐらりと傾くや、糸で引っ張られたかのように中心へと引き寄せられたのだ。
悲鳴を上げる暇もなく視界が暗黒で満たされた。
背筋を駆け抜ける悪寒は死の予感だろうか。
羽虫のように磨り潰されると覚悟した唯可だったが、しかしその時は訪れない。それどころか視界を覆っていた暗黒が霧のように晴れ、腹の底を震わすかのような激流の轟音も消滅していた。
そう――消滅。
「ほう」
ジブリルフォードは未だ余裕の態度を崩さない。その紳士然とした態度は強者の風格であり、貴族の威厳であり、枢機卿としての誇りだ。
だが――、
「姫に……ッ」
ここに、それを崩すことの出来る存在が一人いる。
唯可が脇に抱える少女、ナタリー=サーカス。片腕を失った褐色の少女は、赫怒の怒号を悠然と見上げるジブリルフォードへと叩き付けた。
「姫に手を出すなッ! この無礼者ッッ!」
残った左腕を第九神父へと向けた瞬間、小さな山に匹敵するほどの氷塊が何の前触れもなく第九神父の鼻先数ミリの位置に出現した。
「――なっ」
「へっ?」
ジブリルフォードが驚愕の声を上げ、唯可が声ともならない間抜けな音を発した。
直後。
形容しがたい轟音と共にアスファルトが砕け、その比重に耐え切れず地盤が破壊。氷塊――否、氷山は道路の下に広がっていた東京の地下空間すらも崩壊させながら落下を続けた。
破壊は下だけに留まらない。周囲のビルは軒並み倒壊し、電線が焼かれたのだろうかそこら中から火の手が上がっていた。
氷山の落下の余波は唯可とナタリーにも及んでいた。
音を超えた衝撃波となった波の嵐が空を飛ぶ唯可とナタリーを叩き、吹き荒れる暴風が二人を彼方へと吹き飛ばした。
「きゃっ」
「姫……ッ!」
ナタリーは唯可から離れぬよう残った左腕のみでしっかりと唯可の腰を抱いた。
距離にして五十メートルほど飛ばされたところで制空の自由を得てバランスを取る。呼吸を落ち着け自分たちが吹き飛ばされた方向を見た唯可は唖然とした。
科学圏東日本国、その首都東京。その中でも随一の都会である渋谷の中心スクランブル交差点に、クリスタルのように美しく輝く氷山が生まれていたのだ。
「――――」
常識を外れた――魔術師の視点から見ても異常としか呼べぬ――その状況に絶句する。そしてゆっくりと、己が抱える小さな友へ視線をやった。
ナタリーは力を使い果たしたのか、目をつむり一定の間隔で浅い呼吸を繰り返して眠りについていた。
襲い来る水の竜巻の分子間結合を総て破壊、無害な水蒸気にしたのち、周囲に漂う全ての水分子を強く結び付け合うことで強制的に状態変化を促し一つの氷山を作り出したのだ。
その圧倒的な規模と精密性。二つ名ともなっているこの少女の魔術。
『開裂と結合』
原子レベルの分解と再結合を司る魔術。
インド神話の最高神の一角、破壊神シヴァをモチーフにした神話級魔術だ。シヴァは世界を破壊した後に新たな世界を作る。これはその『破壊と再生』の部分のみを抽出し、凝縮し、濃縮した世界最強レベルの魔術である。
戦闘となると未知数であるが、こと破壊力に関して言えばあの『異端』ヴァイス=テンプラートすらも片手で捻り潰せるほどの力を持つ。世界最強と言っても過言ではない。少なくとも五本の指には入るであろうその実力。
かつて守ると決めた少女であるが、しかし戦慄せずにはいられない。
被害の程が尋常ではないが、しかしあの辺りはジブリルフォードが結界を張っていたため人死には出ていないはずだ。
問題はジブリルフォードの方。
斃せたかどうは問題ではない。
生きているのかどうかだ。
先ほどまで激昂していたとは言え唯可の性根は心優しい少女である。彼女の願いはあの地獄の日から変わらずあらゆる人々を守ること。救うこと。助けることだ。
敵である魔術師を戦闘不能に陥らせることはすれど、彼女は相手が死ぬことまでは望まない。否、そんなものは許さない。
「……ああ、もう!」
大丈夫、だとは思う。ナタリーが破格の存在と言えどあの男もまた神話級。そう簡単に死にはしないだろう。
だが、唯可にとってそのような些事は関係がない。
生きているかどうかこの目で確かめる。死にかけていれば助ける。彼女はそういう生き方を選んだのだ。
「すぐに、助ける……っ!」
ナタリーを抱え直し、風の力を操って氷山の刺さったスクランブル交差点へ向かおうとした、その矢先のことであった。
どろり、と。
淡く輝く氷山の表面から光沢が失われ、唯可の見ている前で一分とせぬ内にその巨大な山は元の三分の一程度の大きさまで縮小した。
やがて十秒と経たず氷山は消え去ってしまう。分子間の結合力が小さくなり個体は全て液体となった。
海神の魔術師は生きている。無傷とはいかぬだろうが戦闘を続けられる状態にあることは変わりないに違いない。
大量の水を巧みに操り、街のあちこちに上がった火の手の鎮火作業に勤しむその様子を見るに、未だ精神面も健在に違いない。
唯可は数秒黙考する。
――戦うか、逃げるか。
答えは、抱えるナタリーのうめき声を聞いた瞬間に決まった。
「……とにかくナタリーを病院に連れて行かなきゃ……っ」
自力で止血までは終えたらしいが、消耗が激しい。
敵よりも友を取った唯可は、水が龍の如く踊り回るスクランブル交差点へ背を向けると、ここから見える小さな病院へ急行した。




