第五章 災厄と最悪の襲来 2.もう一つの戦端
「魔術的な被害を受けているため治療は不可能ですが、進行を遅らせるくらいのことなら可能かと。もうお一方は輸血さえ完了すればじき意識を取り戻すでしょうが……」
「いえ、ありがとうございます。杏里は俺が何とかしてみせるんで、どうか時間稼ぎをお願いします」
今にも爆発せんとする激情を抑えた声で、安堵友介は深々と頭を下げた。
踵を返し出口を向かう友介の口元には血が滲んでいた。
「ふざけやがって……」
小さく呟くその声は誰にも届かない。
「くは、」
金色の髪が月光に照らされ淡く映える。黒の着物と血色の羽織を纏うその少年は、右腕を失っていた。彼は左の腰に差した野太刀の柄をそっと撫でながら、サングラスの奥の瞳を嗜虐に光らせ、酷薄な笑みを浮かべて壁に背を預けている。
「ほら、来い。来い来い来い。楽しみに待ってるこっちの身にもなれってんだ。なあ……?」
そうして彼は柄に沿わせていただけだった左手に力を込めるや否や――、
「『異端殺し』――安堵友介ェッッ!」
刹那の内に引き抜くや、左足を軸に己が身を独楽に見立て、遠心力を乗せた一閃を、至近の扉から出てきたオッドアイの少年へと見舞った。
「――は、」
間の抜けた声を上げたオッドアイの少年・安堵友介は、視界の端に煌めく鈍色の剣閃を知覚すると、自ら足を地面に躓かせバランスを崩すことで姿勢を低くする。
月光を浴びて淡く光る刃が友介の髪さき数センチを切り裂く。間一髪。対応がコンマ数秒遅れていれば安堵友介の首が無残に斬り裂かれ、頭と胴が分離していたに違いない。
「ぐおっ!」
うめき声を上げながらも上手く受け身を取るなりすぐさま立ち上がり、安堵友介は襲撃者を見据えた。
「キハハっ、きはっ! さすがは五感拡張計画の被験者。反応速度が違うねえ」
「テメエ誰だ」
低く殺意を乗せた声で友介が問う。侮蔑や嫌悪、憎悪もない、ただ純粋な殺意のみが乗った鋭い殺意だ。
安堵友介は僅かに腰を下げじっくり敵を観察する。
短い髪は過剰なほど金色に染め上げられており、目元はサングラスで隠されていた。
左手に握る野太刀は少年の背丈には合っていない。何より、右手のない人間があれほどの長物を扱えるのであろうか。
「誰だって聞いたな?」
サングラスの奥の瞳を酷薄に歪めながら、金髪の少年は軽薄そのものの声で自らの名を告げる。
「俺の名は土御門狩真。西日本帝国最小にして最強の魔術結社『土御門家』その三男。『童子纏い』の異名で名が通ってんだけど…….ありゃ、これさっきテメエにしてやらなかったかァ?」
「――――っ」
刹那、友介の表情から一切の感情が消えた。頬も瞳も口元も、何ら感情を映すことはなく、それはさながら波紋の立たぬ水面のよう。しかし、友介の胸中は明鏡止水のそれに非ず。心の臓――その奥で脈動する焦熱が如き激情は紅蓮の地獄の如きなり。
「――ああ、そうか」
友介は静かに、あくまで穏やかな口調で語りかける。己の敵へ。殺すべき悪へ。斃すべき障害へ。
「なるほど、おちょくりに来たわけか」
「うん、そうそう。妹とせっかく自分が助けた女の子をあんな目に遭わされて、優しい異端殺し君はどんな反応を見せてくれるのかってなァ」
隠しもしないその愉悦に、しかし友介は怒り狂うことはなかった。
「なるほどな――、」
ただ、
「――ただの自殺か」
沸騰した怒りが既に気体と化していただけ。沸点など当に越していて、見かけ上は何一つ変化がないように見えているに過ぎなかった。
あるいは。
「そうそう、そォこなっくちゃなァッッッ! ギヒヒヒヒヒッ!」
この下卑た哄笑を上げるこの男は最初から気付いていたのかもしれなかった。
友介はベルトに差していた二丁の拳銃を抜き去るや否やすぐさま発砲。狙いを定めず当てずっぽうに放たれたかのように見えた銃弾は、しかし完璧な軌道でもって狩真の眉間と喉仏へと飛翔する。
「キハハっ、容赦なくておもしろいねテメエ。大好きだぜ。美味そうだッ!」
一閃。
左手に持つ野太刀を軽く振るう。あまりに大雑把。型も技もない雑な一太刀。たったそれだけで放たれた二つの鉛玉がそれぞれ中線で分断された。
「ちっ」
舌打ち一つ。安堵友介は五感拡張計画により手に入れた『眼』を駆使して狩真の動きを読み、一寸先の未来の彼へと銃弾をばら撒く。常人では回避し得ない弾幕を、しかし土御門狩真はいとも簡単に潜り抜けて友介の懐まで入り込んだ。
「あァっッ?」
「ハハっ、まぁさかこんな簡単に懐に入られるとは思わなかったか?」
狩真は友介の胴を横一文字に斬り裂かんと左腕を大きく振るった。風を斬るのではなく巻き込みながら轟と迫るその刃を見据え、友介は刹那の空隙に思考する。
――回避か?
否。もはやそれは叶わない距離にまで迫られている。
――迎撃か?
それも否だ。近距離ゆえ、動いている薄刃といえど『眼』を持つ友介ならば当てるのは容易い。だがその跳弾の行く末まで演算するほどの時間は存在しない。
ゆえ、ここで友介が取った行動は――、
崩呪の眼により地面に急所を生み出し、それを蹴りつけ地面を破壊することで足場を崩すというものだった。
轟音が席巻し、周囲数メートルが陥没。
目論見通り狩真はバランスを崩し、友介はその間に剣の間合いから逃れた。
振るわれた刃は虚空を切り、風を斬る虚しい音が狩真の耳に届いた。
「キヒっ」
必殺かと思われた一閃を見事見事躱されておきながら、しかし狩真は口元を歪め醜く笑う。
「気味悪いんだよ、DQN野郎」
「おいおい、人の笑い方を気持ち悪いとか言うんじゃねェよ。お母さんに習わなかったか?」
「生憎と物心ついたときから母親なんざいなかったよ」
牽制の意味を込めて銃弾をばら撒く。これを狩真は当然の如く総て躱し、再度友介の懐に入り込まんと踏み出した。だが――、
鉄塊が地面に落ちる軽い音が響いた。形状から推測されるその兵器の名は手榴弾。
「さて、どっちだろうな」
ピンを口で挟む友介が大きく後ろへ下がって問いを投げた。
「ちっ、小癪なマネしやがって」
対する土御門狩真の方は、舌打ちを打つも、やはりその表情は笑顔であった。
(ハハっ、どっちだ? スタングレネードの方か、あるいは殺傷用か……)
爆発まで猶予がある。それまでに対策を練る。
そんな狩真の甘い考えを、一つ発砲音が無残にも吹き飛ばした。
友介の右手に握る漆黒の拳銃から放たれた鉛玉が無ごと手榴弾に命中し、直後――、
閃光が瞬き鉄片が炸裂した。
あらかじめ距離を取っていた友介は持ち前の『眼』でそれら総てを銃で迎撃あるいは回避する。
だが、不意を突かれた狩真はそうもいかない。
無防備な状態であった彼は、回避も防御も出来ぬまま鉄の嵐に晒された。
「ぐ、ぉおッ!」
ここに来て初めて余裕のない声を上げた狩真に、友介は更なる追い打ちをかける。両手に握った拳銃、その両方の弾倉が空になるまで引き金を引き続け土御門狩真を追い詰める。出し惜しみはしない。余裕を保っていた土御門狩真が初めて崩れた瞬間なのだ。総ての銃弾が避けられて末、こちらが無防備になるという最悪の結果さえも覚悟の上で、彼は殲滅にかかる。
「殺しゃしねえよ。杏里の呪いを解いてもらわねえといけねえからなぁッ!」
この戦闘でようやく分かりやすい怒りの叫びをあげる友介。
放たれた二十を超える銃弾が粉塵を切り裂いて土御門狩真へ殺到する。
たとえ土御門狩真が驚異的な戦闘センスを有していようと、カルラのような特別製でない限り、この量の弾丸をさばききることは不可能だ。ましてや土御門狩真は片腕を持たない。通常ならばここで戦闘は終了であろう。
そう、通常ならば。
だが違う。
今、安堵友介が相対している存在はただの非力な人間などでは決してない。
人の身で人知を超越した魔術を扱う異形――。
ゆえ、これは異常な結果などではなく。
至極当然な、ルールを外れた定石通りの展開だ。
「『励起』――」
まるで黒板を爪で引っ掻いたような異音。人の神経を不快に撫でる不協和音が友介の耳に届いた。
「『顕現・茨木童子』」
それは、友介の放った最初の銃弾が土御門狩真の右の腿に命中する、ほんの数ミリ手前にて起きた現象であった。
粉塵がとぐろを巻き始めるや、一瞬にして体調五メートルは下らないほど巨大な『鬼』がこの世に顕現した。
漆黒の体表と鋼のような筋肉、不動明王を連想させるかのような鬼の貌が特徴的だ。茫漠とした漆黒の瞳に赤い点が宿り、右の手には無骨な大剣が握られていた。斬るためではなく破壊するためにあるかのようなその大剣には、当然柄も鍔も意匠もない。殺害――否、破壊だけを目的にしたかのようなその得物であった。
『■■■■■■■■■――――ッッッ!』
顕現するなり、漆黒の鬼は咆哮を上げた。そしてそれは、友介の放った弾丸を総て撃ち落とすことになる。
「――なっ、んだと……ッ!」
戦闘が開始して初めての驚愕、動揺。声一つで銃撃に対抗するなどというデタラメな事態を前に友介の思考がほんの一瞬停止した。
「キハハっ、王手だ」
刹那の空白。
それが命取りとなった。
すでに土御門狩真は友介の懐深くに潜り込んでおり、酷薄に笑みを引き裂きながら野太刀を振るっていた。
「血を啜れ――外道丸」
愛刀の名を囁き、友介の頸を狙う。
回避は不可能。迎撃も然り。崩呪の眼による足場崩しも、もはや一度経験した彼には通用しないだろう。
まさに詰んだと言わざるを得ない状況。
(ふざっけんな……俺は、こんなところで――ッ!)
しかし友介は諦めない。ここで死ねば杏里はどうする。敗北の先には愛する妹の死が待っているのだ。
「そんな……」
その光景を想起して、友介の脳は沸騰した。
「んなもん認められるかクソがぁッ!」
しかし。
現実は無情だった。
狩真の野太刀は吸い込まれるかのように友介の頸へと流れていき――、
そして皮膚と刃が触れる、その直前。
さらなる斬撃が割って入り、友介を狂人から守り抜いた。
こだまする鋼の激突音。
「は、あァ?」
狩真のすっとぼけた声が夜の病院に響いて消えた。
「――ふっ」
対して、唐突に現れた乱入者は鋭く呼気を吐き出すと、地面を強く蹴って狩真との距離を瞬時に詰めた。
「な、――くっ!」
乱暴に振るわれた野太刀が、乱入者の持つ、人の身長ほどある長刀と真っ向からぶつかった――かのように見えた。
だが違う。交錯の瞬間、乱入者は刀に込める力の向きを変えることにより狩真の外道丸を受け流していた。
斬撃のベクトルを逸らされバランスを崩された狩真の胴は今やガラ空き。
乱入者が長刀を振りかぶる。
「茨木童子ッ!」
死を察知した狩真は己の式神の名を呼ぶと、乱入者を攻撃させた。
「ちっ」
舌打ち一つ。
乱入者は後ろへ大きく飛んで茨木童子の一撃を難なく回避すると、友介の隣に並び立った。
「まったく、ほんとダッサイわよね、アンタって。弱すぎてお話にならないわ。まあでも、なんかビビってたのはすごく笑えたけれど」
右手に持つ全長百五十センチはあるだろうという長刀の刃が月光を受けて淡く光り、友介の目を奪っていた。
灼熱の炎のように赤い長髪が夜風に靡き、金色の瞳が安堵友介を捉えていた。その瞳の中にある感情は『うわダサ、バッカじゃない?』である。
風代カルラ。
安堵友介が所属する部隊の一番槍であり、友介と犬猿の仲である少女だ。
友介はカルラが大嫌いで、カルラは友介が大嫌いなのである。
「ま、アンタはそこで大人しく守られてるのがお似合いじゃない? クラスメイトにも虐められてるし」
「おいこら、イジメはいま関係ねえだろうがぶん殴るぞ」
「あれ、女の子を殴るの? だからイジメられんのよ」
「ああそうだな。だがな、おっぱいのない女は女じゃねえんだよ。そいつは男だ」
「お前それもう一回言ってみろ。男でも女でもしてやるからな」
「あのスイマセン調子乗りました」
銀色の刃を煌めかせ、絶対零度の瞳を向けてくるカルラに頭を下げて謝罪をすると、友介とカルラは互いに前を向いた。
視線の先には、陰陽師・土御門狩真。
そしてその後ろには、狩真に付き従うかのように立ち、まざまざとその邪悪な「威容を友介たちに見せつける平安の鬼『茨木童子』がいた。
「風代、どっちやる」
「そうね、アンタってどっちの方がやりやすい?」
カルラの問いに友介はしばし黙考し、
「茨木童子。……けど、」
「じゃあ土御門狩真をお願い。私が鬼とやるわ」
「おいまだ全部言ってな、」
「うるさい。どうせあの陰陽師と戦いって言うんでしょ? 詳しくは知らないけど、相当切羽詰まってる感じじゃない。アンタのことは嫌いだけどそれくらいは手伝ってあげるわ」
嘆息と共に吐き出された言葉には、しかし確かな思いやりと心配の色があった。
友介はふと、数週間前のとある屋敷での出来事を思い出していた。
力尽き、ゾンビの群れに食われそうになったあの時――風代カルラはこの世の絶望でも目にしたかのような悲壮な表情を浮かべていた。
接した月日は数日にも満たず、顔を合わせれば罵り合う関係でしかなかったにもかかわらず、彼女は友介の死を必死に止めようと手を伸ばしていた。
風代カルラは、優しいのだ。
(ま、俺の苛めを笑ったけどな)
友介はカルラから視線を映し、ニヤニヤと喜悦の表情を浮かべる陰陽師を睨んだ。
「お前ほんと性格悪いよな」
「急に何よ」
むっとした表情で睨むカルラの視線を受け流して、友介はスッと目を細める
「――んじゃ、頼んだぞ」
「ええ、任せなさい」
瞬間、友介とカルラが同時に飛び出す。
両の手に銃を携えた少年と、身の丈を超す長刀を手にした少女を正面から迎え討たんと、土御門狩真は傍らの鬼へ言葉を投げる。
「喰い尽くすぞ、茨木童子」
絶叫が夜の病院を揺らし、ここに第二戦の火ぶたが切って落とされた。




