表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Rule of Scramble  作者: こーたろー
第三編 鬼の影
60/220

第四章 日常崩壊://狂乱 2.開演

 安堵友介と風代カルラの二人も、草次達三人と同じように現場へ向かっていた。彼らがいるのは『惨殺事件』の三人目の被害者が暮らしていた一軒家だ。

 庭が必要以上に巨大な大豪邸だった。


「被害者は科学圏の重鎮だったけな……」

「まああの女狐が言うには『ここで』殺された人は取るに足らない人材だったらしいけど」


 捜査なのか雑談なのかよく分からない内容の話を続ける二人。だが、気楽そうにしているがその裏で、それなりに危機を感じていたりもした。

 否。

 安堵友介も風代カルラも、既に気付いている。



 これは、ただの殺人事件などではない。



 きっかけは当然千矢の発言だ。

 だが、それ以上にもっと大きな要因がある。それは先ほど光鳥から送られてきた被害者のプロフィール。七人全ての被害者の個人情報が纏めて送られてきたものだ。

 先日カルラが頼んでいたらしく、道中それを見せてもらったのだ。


「やっぱ偶然じゃねえ、よな……」


 再度カルラにそれらの情報を見せてもらいながら、友介が何かを飲み下すように呟く。


 一人目——毒殺事件最初の被害者は東日本国政府農水副大臣で、自宅マンションにて白目を剥いて殺害されていた。外傷はなし。エントランスホールには犯人である魔術師が残したであろう迎撃魔術が仕掛けられていた。実はこの被害者、魔術圏と交流があるのではという噂があった。が、今となっては分からずじまいとなってしまった。


 二人目——惨殺事件最初の被害者は一般人で、自宅マンションで殺された。遺体の損傷は酷く、実に身体の七割以上を欠損していた。現場近くでの妨害はなかった。


 三人目——警視庁長官の息子で、何かとたちの悪い組織と絡んでいるという噂が絶えない人間だった。


 四人目——東日本国首相の秘書。首相の仕事には口を出さないが、彼女がいるといないとでは仕事の効率が格段に変わるほどの凄腕秘書。ただし首相との不貞の疑いがあった。


 五人目——防衛省所属のエリート官僚だ。キャリア組とし勤めていた。出世のために魔術に手を出そうかと考えているという噂も、もうすでに魔術に手を染めていると言う噂もある。


 六人目——防衛省の対魔術圏庁の重役だ。部下からの信頼も厚く、光鳥をして『失うのが惜しい人間』とまで言わせるほどの人物。


 七人目——中央銀行である東日本銀行の会長。黒い噂が上がったことは一度もないが、それと同時に表沙汰になるような功績を残すこともなかった。ただ、首相と何らかの個人的な交流があったことだけは分かっており、首相の秘書の件も含めて今光鳥が情報を整理している所だ。


 これが今分かっている被害者の情報の全てだ。全体から見ればほんの小さな情報でしかないだろうが、それでも昨日までのような何も状況よりはマだ。


「やっぱり二人目と七人目が気になるよな」

「そうね。ほとんどがこの国の国政を担っていたり、行政の中心にいたりするのに、二人目だけはただの一般人っていうのが気になるわね。それと……」

「七人目」


 カルラの言葉を友介が受ける。彼はそのまま続ける。


「二人目を除いた——つまり科学圏の中枢にいる被害者達は誰も彼もが後ろ暗い事情を抱えていたり、魔術圏と接触する手段があったりするっていうのに、こいつだけは違う。ただ首相と交流を持っているというだけ。大した功績すら残していねえ」


 何も残していないという事実。何一つとして成し遂げていないこと。それが、なぜか友介の胸の奥をつつくのだ。

 まるで返しの付いた釣り針が引っ掛かっているような感覚。


「とは言っても、今の情報じゃ推測しか立てられないわ。分からないことは後回しにして、分かることから片付けていくわよ」

「だな」


 釈然としないが、かと言ってやるべきことを見失うわけにはいかない。小さな手掛かりから真相へ近付いていくしかないのだ。


「つっても、俺たちに今出来んのは、現場に残されてた指紋が、科学圏が把握している魔術師のリストの中に存在してるかどうかくらいだけどな」


 言い終わった所で、まるで示し合わせたかのようにカルラのスマホが震えた。


「来たわよ」


 迷うことなく通話ボタンを押した。




 謎の魔術師による襲撃を受け、唯可とナタリーは友介の捜索に全力を出すこととなった。

 先ほどの魔術師が何者なのかが分からない。

 だが。


(異端殺し……)


 あの謎の魔術師は確かにそう言っていた。魔女に近付けば『異端殺し』に近付けると思っていた、と。

 異端殺し——そう呼称される人間が何者なのか、空夜唯可は愛おしいほどに知ってしまっていた。


「くそっ!」


 らしくもなく悪態をつきながら、空夜唯可は渋谷の街をひた走る。もう情報収集をしているような暇は無い。一刻も早く安堵友介に合流し、彼に危機を伝えなければならない。伝えて、逃げて————



 この箱庭から連れ出さなければならない。



 唯可は『ガラケー』型の魔術媒介を通してナタリーと連絡を取る。


「ナタリー! そっちは何か手掛かりがあった!?」

『いえ! 何も見つからないんです! そちらは!?』

「だめっ。陰も形も見当たらない!」


 時が刻一刻と過ぎるたびに、唯可の胸中の焦りが大きくなる。今はまだ燻っているだけの不安が今にも爆発しそうだった。


(どうしよう……どうしようどうしよう!)


 走って走って走って——気が付けば唯可は渋谷駅の近くまで戻ってきてしまっていた。


「ああもう!!」


 彼女にしては珍しく苛立ちを露にして地団駄を踏む。

 どうしてこうも見つからないのか。事態は一刻を争うのに。

『呪い』に掛かったあの少女が友介の前へ姿を現したとき、彼にあの少女を殺せるとは思えない。

 唯可と同じく罪に恐れる人生を送っている彼は、絶対に『秋田みな』の友達であった四宮凛の言葉を、戯言だと流すことが出来ない。


(だから、とにかく一刻も早く——)

「姫!」


 さらに走り、スクランブル交差点に差し掛かった所で背後から声を掛けられた。

 息を切らし膝に手を突くのはナタリー=サーカス。手分けして友介を探していたはずだが、彼女も走り回っているうちに渋谷駅へ戻ってきてしまったのだろう。

 二人して間抜けなものだと呑気に考える。


「そっちはどうだった?」

「ダメです……っ。次はどっちへ行くんですか?」

「どうしよっか……」


 周囲に人がいないこともあって、よく声が通る。思考がまとまりやすい。

 そしてようやく気付いた。

 その異常に。




 スピーカーモードにしたスマホから、声に若干だけ焦りの色を乗せた光鳥感那の声が聞こえてくる。


『やあやあ、良かったよ。すぐに繋がった』

「何よそんなに慌てて。らしくないわね」

『まあね。僕だって人間だから予想外の事態にはうろたえもするさ』


 割と本気でテンパっているのか、光鳥感那はらしくもなく弱気な言葉を吐いてくる。

 あの女狐が焦るほどの事態。一体何があると言うのか。


「おい、何があった。指紋検証の結果を教えるだけの電話だと思ってたんだが、まさか衝撃の新事実でも判明したか?」

『いやいや、そんな都合の良い話じゃないよ。君の言う通り、この電話はただ指紋の件での報告をするだけのつもりだった』

「あん? 妙な言い回しだな。もったいぶってねえで早く言いやがれ」

『ああそうだよね。先にそうするべきだった。だけどその前に一つ、君たちに謝らせて欲しい』

「はあ? いいからさっさと——」



『ごめん、僕の推測は間違っていた。これは同一犯による犯行なんかじゃなかった。二人の人間が起こした、全く異なる事件だったんだ。二つの事件はそれぞれ独立していた』



「————っ」


 一瞬。思考が空白へと追いやられた。何を言っているのか全く分からない。現実の言葉として認識出来ない。


(どういう……ことだ……?)


 やがて少しずつ時が回り始める。その間にも光鳥が続けていった。


『犯人は二人いた。いや、違う。そもそも、ここでは……この東日本国の東京では、二つの殺人事件が起きていたんだ。全く同時期にね……』

「何で二つも一気に起きるんだよ……っ」

『さあ、知ったことじゃないよ。ただそれが事実だ』

「意味が分からねえ!! まず根拠を……!!」


 そこまで言いかけて。

 安堵友介はようやく気付いた。

 彼女は言っていたではないか。これは指紋検証の結果報告でしかないと。ということはつまり……


「全く別の指紋が出てきたのか……?」

『そういうこと。二つの事件の指紋を念のため程度のつもりで調べたら、これがびっくり、全く合致しなかった。最悪だよ。僕が最初に言った情報から間違っていた』


 そもそもの前提条件から間違っていた。

 そしてそれは、今までの全ての推理が水泡に帰した瞬間でもあった。

 衝撃に脳を揺さぶられる友介に変わって、風代カルラが光鳥感那へ問う。


「で、その指紋検証の結果で分かったことは他にないの?」

『あるよ。ああ、あるとも。くそっ……、まさかあんな奴が来てるなんてね』

「まだ……何かあるのか……?」

『ああ、あるとも。むしろこちらが本題だ。指紋鑑定の結果、惨殺事件の犯人の特定が出来た。ウチのリストに載ってた魔術師だったんだ』

「ホントか!? そいつは今どこに!?」

『……やめた方が良い。この件からは手を引くんだ』

「はあ!? いきなり何言ってやがんだ!? せっかく殺人犯の一人が見つかったんだぞ! だったら——」

『大人しく僕の言うことを聞くんだ。今すぐ家に帰って、妹や居候を守れ』


 有無を言わせぬ口調。何度か聞いた事のある声音だ。

 そして彼女は告げた。

 その決定的な一言を。



『犯人の名は土御門狩真。西日本帝国最小にして最強の魔術結社『土御門家』の家の陰陽師だよ』



「その名前——」


 聞いた事がある。

 ——そう、告げようとした所で。

 友介スラックスのポケットで、けたたましい電子音が鳴り響いた。

 嫌な、予感がした。

 どうしようもない嫌悪感があった。

 この電話に出ることに、途轍も無い忌避感を覚える。

 恐る恐る画面を見る。

 発信者は河合杏里とあった。


「あん、り……?」


 無意識のうちに声を出していた。ただ喉が震えただけのような、そんな擦れた声。

 単調な電子音を鳴り響き続ける。

 指が動かない。

 出るべきだなんてこと分かっている。なのに出られない。

 その場で何も出来ずに立ち尽くし続けていると、やがて電子音が止んでしまった。

 あれだけ友介の心を縛って話さなかったピリリリという音が、もう聞こえない。


「…………っ」


 空いた口が塞がらず、彼は何か口を開こうとして——また、スマホが鳴った。

 発信者は————河合杏里。

 ピリリリリ。

 ピリリリリ。

 ピリリリリ。

 ピリリリリ。

 全く同じ音が、何度も何度も友介の耳を打つ。

 出られずにいると、また途切れた。


 けれど。

 また、鳴った。

 電話の相手は、何があっても友介と話がしたいらしい。


 ————出るな。


 頭の中で鳴り響く警鐘を必死に振り払う。


 ————出るな。


 ゆっくりと、親指の先が通話ボタンへと伸びる。


 ————出るな。


 杏里との回線が繋がる。耳に当てる。

 そして————。



「…………っ……」


 何も、聞こえない。

 微かに、少女の息づかいのようなものが聞こえた。

 緊張しているような。

 何かに怯えているかのような。

 そんな呼吸。


「誰……だ……っ」


 声が震える。

 考え過ぎだということは分かっている。今さっき光鳥から聞いた事実の中に、友介やその周りの人間が襲われることが示唆された情報なんて一つも無かった。

 だから、だから……。


『あんど、ゆうすけ……』

「その声……土御門か。どうした」

『……っ』


 スピーカーから聞こえてきたのは、居候の土御門字音の声だった。

 ただ、いつもの無感情な声とは違う。明らかな動揺が聞いて取れた。


『どうしよう……』


 小さな声。震え、擦れた声。


『どうしよう……どうしようどうしよう! わたっ私のせいで……私のせいで……!!』

「おい何があった!? 教えろ! 何でお前が杏里の電話を使ってんだ!? 杏里は!! 杏里はどこだ!!」

『あんり、ちゃんはすぐそこで……』

「だったら変われ! 杏里自身から事情を聞く。パニクってるお前から話を聞いても何も——」

『無理』


 だが、友介のその提案を、土御門字音の弱々しい声が一言で断じた。


『私、知らなかった。まさかここまで来るなんて……っ、あの子が、あんなに執念深かったなんて。だから、私は……』

「だから状況を説明しろって!! 話は後で聞いてやる! だから——」

「無理なの!」

「だから何で————」


 友介が何か言葉を紡ごうとした、ちょうどその瞬間だった。



『ァッ、ァぁぁぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッ!?』



 耳をつんざくような悲鳴がスピーカーの向こうから聞こえてきた。


(今のは……っ)


 悲鳴は、いつまでもいつまでも友介の耳の中に残り続けた。

 知っている。聞き慣れた声だ。いつも。ほぼ毎日。聞かなかった日などない。

 優しい声。

 妹のくせに、姉のように安堵友介を心配してくる少女。


「あ、あああ……ああああっ!?」


 信じたくなかった。

 河合杏里の声が。

 どこまでも優しい少女の声が。

 大気を引き裂く、ただの金切り音と化してしまっていた。

 気付けば友介も絶叫していた。

 どうしようもない負の感情が胸の中で暴れ回った。恐怖のようにも、怒りのようにも、憎しみのようにも、悲しみのようにも思えるような『何か』が。

 まるで杏里の悲鳴に重ねるように喚き散らした。


 だが、ふと。

 ずっと杏里の絶叫を聞いていた耳が、異音を捉えた。

 それが何者かの『声』だと認識出来たのは、まだ友介の脳が正常に働いていたからか。

 声の主は字音からスマホを奪い取ると、マイクに口を近付けてこう言ってきたのだ。


『よお、異端殺し。調子はどうだぁ? こっちは絶好調だぜぇ!! ぎゃはははははッ!!』




 空夜唯可はようやく異常に気が付いた。


(おかしい……)


 そう、おかしい。

 ありえない。



 渋谷駅から人がいなくなるなんて事態は、絶対にありえない。



 それも日曜日の夕方だ。本来なら駅周辺は大量の人でごった返していなければおかしい。


「なんで? なんで誰もいないのっ?」

「姫……これは……」


 焦る声を放つ唯可の近くからナタリーが生唾を呑み込む音が聞こえた。彼女にも予想出来なかった事態なのだろう。

 魔女である空夜唯可にも、神話級魔術師であるナタリー=サーカスにも知覚されずに、『人払い』を使って渋谷駅前から大量の人間を消すその技量。恐怖を通り越して畏怖すら抱く。

 敵は確実に神話級魔術師だろう。それも、並大抵の神話級ではない。これほどの規模の『人払い』を気付かれずに展開したのだから。

 戦えば、確実に相応の代償を伴う——命すらも懸ける必要がある。

 そして。



 カツン、と。

 革靴がアスファルトを踏む音が背後から響いてきた。



 唯可とナタリーがゆっくりと背後を振り返った。

 遥か向こう、誰もいない歩道にそいつは立っていた。唯可やナタリーがいる歩道の交差点を挟んでちょうど反対岸。黒いシャツの上に青色の背広を羽織った、どこか貴族然とした風貌を持つ男だ。頭髪の色は黒で、両目は淡い緑色。歳は二十代前半から三十代後半ぐらいだろうが、男から年齢相応の疲れや眠気といったものは全く感じられなかった。顔に浮かべた柔和な笑みも相まって、穏やかな印象を与えてきた。


 男は遠くから唯可達を見つめ続ける。やがて笑みをそのままにゆっくりと唯可達へ歩み寄ってきた。唯可とナタリーがそれぞれ構え、男の全身を注視する。

 敵意の視線を向けられてなお柔和な笑みを崩さない男がが、ゆっくりと口を開いた。



「——やあ」



 その声を聞いた瞬間、唯可の背中をどうしようもない恐怖が走り抜けた。二年前にヴァイス=テンプレートから感じたあのねっとりとした粘着質な恐怖とはまた違う。

 刺すような、冷気の如く鋭い恐怖だ。

 唯可の背中を冷や汗が伝う。

 それを知ってか知らずか、青色の背広を纏う男がゆっくりと右手を掲げた。ビクリと肩を振るわせた唯可に、男は気が付いただろうか。

 彼は柔和な笑みを崩さないまま、さらにこう切り出した。


「私は『教会』の十の枢機卿(すうききょう)が一人、『第九神父(ノーヴェ・カルディナーレ)』ライアン・イェソド・ジブリルフォード。そちらは『魔女』空夜唯可と『破壊技師アルケミスタ』ナタリー=サーカスとお見受けする』


 相手が年端も行かない子供ということを踏まえた上で、それでもジブリルフォードは唯可とナタリーへ敬意の念を持つことを忘れなかった。

 価値を認められている。そうするべき人間だと認識されている。


「そうですけど……ジブリルフォードさん、これはどういうつもりですか?」


 故に。

 自然、声が固くなってしまう。

 それがなくとも、これほどの大規模な『人払い』を展開した魔術師だ。彼に対して警戒心を抱かない方がおかしい。そして『人払い』を行ったからには、一般人には見せられない何かをするつもりなのだろう。

 だからこそ、唯可は油断しない。

 そう。

 油断はしていなかった。していなかったのに——。


「これはちょっとした寄り道なんだが」


 気が付けばスクランブル交差点は。


「二人は私が拘束させてもらう。『奴ら』にとっては、君たちもまた計画の『根幹』に位置する人間だろうからね」


 大海と化していた。

 ジブリルフォードは微笑を称えたまま、掲げた右手をゆるりと振り下ろす。その動きに合わせたるかのように大海がぞろりと蠢くと、交差点の真ん中で、たちまち巨大な水壁が隆起した。端から端まで続く壁が、唯可達とジブリルフォードを完全に隔ててしまう。


(何を……?)


 行動の意味が分からず立ち尽くしてしまう唯可を放って、魔術師はさらに行動を起こした。小さな、口を少しだけ動かす動作。

 唱えた言葉は。


「飲み込め」


 言い終わると同時、腹の底に響くような轟音と共に水壁が凄まじい速度で迫った。

 スクランブル交差点に突如発生した津波が二人の規格外の少女達を飲み込む。


「”我はこいねがう”――爆裂せよ」


 さらなる言葉と同時。

 スクランブル交差点を埋め尽くしていた大量の水が、刹那の内に蒸発した。

 圧倒的な熱が全てを吹き飛ばす。




『よお、異端殺し。調子はどうだあ? こっちは絶好調だぜぇ。ぎゃはははははッ!!』


 黒板を爪で引っ掻いたかのような不快な声だった。

 例えるなら、そう。

 安堵友介に並々ならぬ憎しみを抱いていたヴァイス=テンプレートとよく似た声色。

 だが決定的に違う点がある。

 ヴァイスは友介に対して憎しみ以外の感情を抱いていなかったのに対して、電話の向こうにいる少年は、友介に対して何らかの親しみを持っている様子だった。


「だれ、だ……」


 だが友介はこんな奴知らない。声が自然と強張ってしまう。


「お前は誰だ! 土御門はどうなった!! 杏里は……杏里はどうしてんだ!?」

『ぎゃははははっ!! そういきり立つなってよお。異端殺しの名が泣くぞぉ? 二人とも無事だよ。どっちも死んじゃいねぇよ。ただ、字音姉ちゃんにはちょおぉっと黙ってて欲しかったから寝ててもらってるが』

「どういう……意味だ……」

『斬った。半日以内に手当てしなきゃ死ぬなこりゃあ。ま、いいや』

「————っ」

『どうしたよ、黙り込んじゃってさあ。せっかく異端殺し様と会話するチャンスが出来たってのに——』


 ベラベラと喋るこの男は何者だ?

 字音は? 杏里はどうなった?

 さっきの悲鳴は何だ? 字音が斬られた?

 脳が状況に追い付かない。

 そうする間にも、電話の向こうにいる少年がどうでも良いことを話し続けた。


『そだ、自己紹介がまだだったなあ。俺の名前は土御門狩真。字音姉ちゃんの可愛い可愛い弟さんだ。ああお前は名乗らなくても良いぜ。知ってるからよお。安堵友介。神話級魔術師にして『三権人』の一人、『異端』ヴァイス=テンプレートをぶっ殺した「異端殺し」の例外野郎。「崩呪の眼」とかいう魔眼を左目に宿した少年だろぉ? 知ってる知ってる』

「お前の話なんか聞いてねえんだよ。土御門と杏里はどうなった!?」


 スマホを耳から離しマイクに叩き付けるように叫ぶ友介へ、しかし狩真と名乗った男は軽薄な調子で言葉を重ねた。


『いやっはっはっはー。人の話はちゃんと聞こぉねえ!! 字音姉ちゃんなら死にかけてるって!! 杏里ってのはこのロリ巨乳のことか? だったらスピーカーにしてみろって。エッロイ喘ぎ声が鳴り響くだろぉぜ』


 ぶぢん!! と友介の頭の中で何かが切れる音がした。

 挑発のままにスピーカーモードにする。

 次の瞬間。



『ァ、ぁあ、ァあああああああああああああああああああ!! 痛い、痛い痛い! 助けて!! 助けて友介助けテェェエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエッッ!!』



 先ほどとは比べ物にならないほどの絶叫が友介の脳を揺さぶった。


『どう? どうどうどう!? 良いだろこの声。エロいよなあ。聞いてるだけでイッちまいそうだぁ。ぎゃははははははッ!! おいシスコン野郎、テメエもそう思うだろぉ? この声、聞いてるだけで幸せな気分にならねえかあ?』


 絶叫の中に、ぐちょり、ぐちょり、という念質な音が混じっているのが分かる。それが何の音なのか、想像するのもおぞましかった。

 そして遂に。

 友介の許容量を超えた。

 胸の真ん中で燻っていた負の感情が制御を離れて暴れ回った。行き場失った嫌悪感は喉を通って外界へ吐き出された。


「ゔぉげ……ッ!! えぅ!!」

『おいおいおいおい!! 吐いたのか!? あの異端殺し様ともあろうお方が!! たったこれだけのことで!? ぎゃはははははははははははは!! こりゃ傑作だなあ!! くっそー、その顔拝みたかったぜぇ!!』

「や、めろ……」

『え、なんだって? ぼく鈍感ハーレム男だから聞こえなーい、なんて。なんちゃってー!!』

「やめろ!!」

『あ、もっとやれって言ったかぁ?」

「ちが……!!」

『でもなあ、もうすでに「呪い」掛けちゃってるからご期待には添えないかなあ。ごめんねえ、ゆ・う・す・け♡』

「てんめェえええええええええええええええええええええええええええええええええッ!!」

『ぎゃははははは!! なんだそりゃ。何の声だ? 小指をタンスにぶつけでもした?』

 スピーカーからは相変わらず杏里の絶叫が響き渡っていた。

 ぐちょり、ぐちょりという粘質な音も。

 河合杏里の苦痛に塗れた絶叫も。


「テメエ今どこにいやがる!! 今すぐ行って殺してやる!!」

『ぎゃはははははは!! テメエが住んでるマンションの近くだよ。早く来いよ。哀れな子猫ちゃん達はちゃんと家に戻しといてやるからよお。ま、命の保証は出来ねえけど』


 瞬間、友介はスマホをどこかへ放って走り出した。


「ちょっと!」


 カルラが友介を引き止めようと声を上げたが、そもそも彼には聞こえてすらいない。


「クソ……クソ! クソクソクソ!! クソぉっ!!」


 怒りが込み上げくる。

 黒い、どこまでもドス黒い激情が、腹の中でぐつぐつと煮えくり返っていた。

 走った。走って走って走った。

 色んな人間に肩をぶつけながら、安堵友介は人の波に逆らって走り続ける。


(なんで……何でこんなことに!! おかしいだろ!! そんな兆しどこにもなかっただろうが!!)


 混乱で脳がパンクしそうだった。

 走ることで考えることをやめようとしたが、無理だった。体を限界に追い込もうが何をしようが、胸の中に(わだかま)るモヤモヤが消えてくれる気配はなかった。


(杏里……杏里、杏里!! クソ、無事でいてくれ!!)


 どれくらい走っただろうか。

 どこをどう走ったかも覚えていない。気が付けば友介が住んでいるマンションの入り口までやって来ていた。扉を開けるのも億劫になり、安堵友介は魔眼を使って屋内へ。

 階段を駆け上がり、自室の前で急停止した。

 そして息を整える間もなく扉に手を掛けようとした、その瞬間。



『あ、あっあっあっ!! あ、ァァぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッ!!』


 扉越しからでも杏里の絶叫が響いてきていた。

 友介は両目に涙を溜めながら、意味のなさない言葉を絶叫して扉を思い切り引いた。だが、扉はビクともしない。

 そこでようやく思い出す。


『犯人の名は土御門狩真。西日本帝国最小にして最大の魔術結社『土御門家』の本家の陰陽術師だよ』


 土御門狩真。

 そう。杏里のスマホから電話がかかってきた後からの一連の流れのせいで忘れていたが、光鳥感那から聞いた話では、土御門狩真と呼ばれる男が——すなわち電話の向こうにいる魔術師が『惨殺事件』を引き起こした。


(クソッ! そう言えば惨殺事件の現場はどれも窓から侵入されていた! つまり今回も窓から……!!)


 つまりそれは、ドアには鍵がかけられているということ。


「クソがぁ!!」


 こうしている今でも扉一枚隔てた向こうからは妹の絶叫が漏れ出ていた。

 考えている暇など最初から無い。

 友介は左目の『崩呪の眼』を発動。扉に『急所』を作り出し、拳でぶち抜いてドアを木っ端微塵に破壊した。


「杏里!!」


 転がるように室内へ。靴を脱ぐことも忘れて土足で踏み込んだ。


「痛い! 痛い痛い痛い! ぎ、い……ッ!? いやぁああああああああああああああああああああああああああああああああああッ!!」

「……ッ!!」


 焦りのあまり廊下で転げてしまう。床を立ち上がる間も惜しいと言わんばかりに這うようにしてリビングへ転がり込んだ。


「は、ぁ……っ!!」


 飛び込んできた光景は。

 友介が想像していた最悪をさらに越えていた。

 部屋の中は本来の内装を忘れるほどメチャクチャに荒らされていた。

 ソファの上に乱暴に横たえられた土御門字音は、横一文字に斬り裂かれた腹から未だ出血を続けていた。即死していないことからそこまで傷が深くはないことが窺えたが、これ以上放っておけば確実に命を落とすだろう。


 そして特筆すべきはやはり、河合杏里だった。

 彼女は全身をベルトで固定されていた。腕と脚はもちろん、後ろで手首も固定されている。

 だがその程度のことは、彼女の顔面に浮かび上がった異常に比べれば何てことは無かった。

 友介は大口を開けて喚き続ける杏里の顔を、引き攣った笑みで見ていた。


「は、はは……」


 乾いた笑いが漏れる。

 こめかみを伝う汗がいやに鮮明に知覚出来た。

 これまで想像していた全てが、妄想の限りが、お些末で矮小なものだったことをいやが応にも叩き付けられた。


 河合杏里の顔面。

 安堵友介の大切な、大切な妹の顔の右半分。

 そこにあったのは。



 人間の顔ではなかった。

 醜く歪んだ、邪悪だけを感じさせる醜悪な『鬼』の(つら)だったのだ。



「へ、へはは……はははは……」


 笑いが込み上げてきた。

 顔面が不気味に蠢く。


「へはははははははははははっ!! ははははははははははは!!」


 何だこれは? これは、一体どういうことなのだ?

 友介の脳を揺さぶる妹の絶叫が遠くに感じる。

 もう一度杏里の顔を見た。

 口の端から涎を垂らし、目玉が飛び出さんばかりの勢いで目をひん剥く見慣れた妹の顔。そして醜悪な鬼となってしまった右半分の顔。


 さらに救いようがないことに、その『鬼の顔』は、ぐちょり、ぐちょり、と杏里の人間としての顔を現在進行形で侵蝕していた。

 ぐちょり、ぐちょり、と。


 電話の向こうから聞こえてきていたのは、この音だったのだ。

 杏里は痛みに悶えているのか、陸に打ち上げられた魚のように、縛られた体をビクンビクンと跳ねさせていた。

 まるで体の支配権を奪われているかのように何も映さない瞳は、彼女の脳までもが『鬼』に侵蝕され始めていることを暗示している。


「なん、で……」


 再三口にした言葉が、また喉から漏れ出た。

 だけどそう言う他なかったのだ。

 もはや吐く気すら起きない。嘔吐感など衝撃でどこかへ吹き飛んでしまった。

 喉が引き裂かれんばかりの勢いの絶叫は途切れる気配がない。

 眼球の奥から血が滲み始めた。

 徐々に喉が枯れ始めた。

 だがそれでも、少女は——少女だったものは、安堵友介の精神をドロドロと溶かし続けていく。

 ふいに杏里と目が合った。


「あん」


 り——そう呼びかけようとした所で、脛の当たりに鋭い痛みが走った。


「な、ぁあ!?」

「がぅあっ!!」


 視線を下に向ければ、杏里が友介の足を噛んでいた。それもとんでもない強さで。何度も、何度も。まるで噛み切れない肉を無理矢理引き千切ろうとするかのように。


「お、ぁ——っ!? あ、杏里、やめっ!!」


 だが言い終わる前に、杏里が友介の足の肉を噛みちぎった。

 激痛が迸り、もう一つの絶叫が響き渡った。

 そして一度感情が外へ出てしまえば、友介が望む望まずにかかわらず次々と真っ黒な激情が喉から悲鳴となって吐き出された。


「ァあああああああああああああああああああああああああああああああああッ!? 何だよこれ……何だよこれぇ!! 誰だ! 誰がやった答えろおい誰か答えろよぉ!!」


 友介の脛の肉を粗食し始めた杏里の口へ無理矢理手を突っ込み、その肉を取り出した。指を噛みちぎらんばかりの勢いで抵抗されたが、一度彼女の喉の奥へ手を突っ込むと、軽くえずいて自ら友介の手を吐き出した。

 手に持った己の肉をその辺に放り捨て、友介はようやく己のやるべきことを思い出す。


「そ、そうだ……救急車! 救急車を呼ばねえと!!」


 すでに両目から大粒の涙を流す友介に、体面を取り繕う余裕など微塵もない。

 救急番号を正確に押し、受話器に叩き付けるようにして叫んだ。


「頼む早く来てくれ! 一人が腹を裂かれて死にそうだ!! もう一人は魔術に掛けられてヤバイことになってる!! 頼む早く来てくれ!!」

『も、申し訳ございません。もう少し正確に状況を——』

「言いから早くしろってんだ!! 人が二人死にかけてんだよ!! 先に来いよ!!」


 そう言うと、友介は住所を言って受話器を放り捨てた。


(そうだ、土御門は!!)


 杏里も気になるが、先に字音の応急処置をする必要がある。

 ソファでぐったりと眠る字音は、顔中にびっしりと嫌な汗をかいていた。


(良かった……っ、まだ生きてる)


 友介は上着を脱いで字音の腹に押し当てた。背後でキツく縛り、簡単に止血する。


「あとちょっとの辛抱だからな。治るから……絶対死なねえから安心しろ!」


 次いで杏里の元へ。

 近くに置いてあったタオルを杏里の口に挟むと、さるぐつわのようにして黙らせた。これ以上叫び続ければ、喉がイカレてしまうかもしれない。

 友介は心の中で謝罪の言葉を繰り返しながら杏里の口を縛った。

 ざっと見た所、杏里の身体に外傷は見られなかった。顔の右半分を覆い尽くす鬼の部位以外は比較的まともなようだった。


「よくも……ッ!!」


 だが、だからと言って友介の腹の虫が収まるはずがない。

 グツグツと腹の奥底で煮えくり返る激情を押しとどめながら、安堵友介は救急車を待った。


「殺してやるぞ……土御門狩真……!!」



 こうして各々の日常は崩れ、舞台は狂乱へと姿を変える。

 地獄から二年の時を経た渋谷という街が、再び戦場と化す。



 科学圏の超兵器群。

 魔術圏の高位魔術師。



 正真正銘の戦争が勃発する。



 人々が忘れていた恐怖が姿を現す。



 法則戦争。

 その意味を今日、世界が再認識することになることだろう。



 この日。






 世界崩壊の歯車が、軋んだ悲鳴を上げて蠢き出した。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ