第二章 ささやかな非日常と彼の生活 2.しっぽ
「うんっまーいっ!!」
渋谷のとあるショッピングモールのスイートランドにて、空夜唯可が心底幸せそうな声を上げた。彼女の前には、小さなショートケーキがあり、それをもぐもぐと食していた。
「良かったですね。これも美味しいんですよ」
そう言って対面に座るナタリーが、自分の皿の上に乗った八個のブリュレの内の一つを唯可に譲った。
「いや、ナタリーそれは食べ過ぎじゃあ……」
「良いから食べてみて欲しいんです。やめられなくなるんです、よ」
「本当に? じゃあ一個だけーっ」
そう言うと、唯可はお言葉に甘えてブリュレを口に運ぶ。
「うおお……! これは……っ」
瞬間、唯可は感嘆と驚顎の入り交じった声を上げた。
「凄い……表面のカラメルのパリパリとした食感と、中のプリンの柔らかみがとてもマッチしてる。カラメルとプリンで甘みの違いも出てるし、二度楽しめる……。例えるならそう……ぶっきらぼうな友介の後に王子様スマイルの友介が顔を出すみたいな感じ……!!」
「ごめんなさいです、姫。その感想は分からないんです」
一人ワナワナと身を震わして戦慄する唯可を若干引き気味に見つめるナタリー。絶対の忠誠も、主の気持ち悪さを前にしては少しだけ揺らいでしまうらしい。
とりあえず、気持ちの悪い主の姿をナタリーフィルターによって美化しておく。ある程度威厳を保てるほど美化された所で、ナタリーは口を開いた。
「それで姫、いつまで道草を食っているつもりなんですか……?」
「うん? いやいや、別に道草喰ってないよ?」
口の中をスイーツで一杯にしながら、唯可は間違いを正す。
「初日はナタリーと楽しむって決めたしー」
「ですが姫、安堵友介を探すことが今回の目的なんでは……?」
それに対し、唯可はただでさいパンパンな頬をさらにリスのように膨らませて、
「あのね、ナタリー。確かに一番の目的は友介を見つけてちゅっちゅすることだけどね」
「ちゅっちゅ……?」
「イチャイチャしたり、エッチなことをするって意味だよっ」
「え、エッチな……っ」
顔を若干赤らめるナタリーを無視して、唯可はさらに続ける。
「旅行そのものをナタリーと楽しむことだって私に取っては重要だよっ」
「姫……」
「だからナタリー、今は余計な心配なんかしないで一緒に楽しもうよ」
「はい……っ」
真正面で顔を赤らめるナタリーには気付かず、唯可は幸せそうにスイーツを頬張るのだった。
☆☆☆
光鳥から教えられた場所へ向かった友介とカルラ。彼らは現場であるマンションの一室に入るなりすぐに顔をしかめた。
「臭いが消えてねえな……」
「臓物も糞尿も関係なく撒き散らしたんでしょうね」
ウンザリし対応に呟く二人に、警察官らしき人間が近付いてきた。友介がどうやって説明しようと悩んでいると、彼は何を言うでもなく通してくれた。先に光鳥から話が通っていたのかもしれない。
「と、とにかく入るぞ……うぇっ」
「そうね」
二人して鼻をつまんで中へ。
「なんかジメジメしてるわね」
呟くカルラを無視して、友介は現場の部屋へ入る。
はっきり言って異常だった。決して少ない量の真っ赤な血が床、壁、天井……部屋の至る所に飛び散っていた。まだ掃除しきれていないのだろうか、そこら中に肉片がこびり付いていた。
「相当派手にしねえとこうはならねえぞ」
「ランチャーでもぶっ放したのかしら」
「それはねえな。だとしたら部屋の中が焦げてるはずだ。この部屋には焦げた後どころか臭いすらねえ」
「てことは……」
「銃火器の類じゃねえな……。最悪だ。まさかまた魔術師か……?」
友介の額に汗が滲む。
「冗談じゃねえ。あんな化物をポンポン中に入れやがって……」
「ま、文句を言ってても仕方ないわ。さっさと謎を解きあかして、あわよくば奇襲を仕掛けて無傷で殺すわよ」
「だな」
短く返して現場の検分に入る。右眼の機能を全開にする。
「第一……ああいや、全部が同じ事件だと考えれば、これは第二の事件になんのか。とにかく、ここで殺された被害者・粟井広太は他の被害者とは違って、科学圏の重要人物じゃねえんだよな。ただの一般人」
「どういうつもりなのかしらね。なぜここの被害者だけは一般人だったのかしら」
「さあな。その辺の事情はあの女狐に調べさせれば良い」
話しながら、友介は右眼で現場を走査した。だがざっと見た感じ、おかしな所は何もなかった。強いて言えば窓ガラスが派手に割られているくらいだが、それも、犯人の侵入経路を教えてくれるだけで、犯人そのものに繋がる証拠足り得ない。
結論から言えば、現場からは何も得られなかった。指紋もないようだ。
「だめだなこりゃ。とりあえず鑑識に死体と、この部屋の指紋を調べてもらうしかねえ。行くぞ。ここには何もねえよ」
言って友介は部屋から出た。それにカルラも続く。
「どうせもう、指紋やら死体の検分やらは終わってるだろうし、明日直接合う時に情報貰っとけば良いだろ。もう今日はしんどいし、俺は帰る」
「そうね。私も昼間から笑い疲れたから寝たいわ」
「それはお前が悪い」
軽口を叩いて二人は帰路についた。
☆☆☆
カルラ達とは別行動を取っていた草次、蜜希、千矢の三人もまた、第一の事件の殺害現場に到着していた。
「これが……!」
「お、おお、大きいね……」
目の前にそびえ立つは三十階立ての高層マンション。外から見ただけでも、一部屋数千万はするだろうことが分かる。国民は二年前の狂乱のせいで苦しい生活を送っているというのに、お偉い様方は大変良い暮らしをしているようだ。
感嘆の声を上げる二人に対して、千矢の表情は厳しいものだった。とは言えそれは、別に良い暮らしをしている権力者達に対する嫉妬によるものではない。
「あれ、千矢くんどしたん? お腹でも痛い?」
「いいや、そういうわけじゃねえよ。ただな……」
「ただ?」
不思議そうに見つめてくる草次。千矢は己が感じていることを告げようか一瞬考えたが、
「いや、何でもねえ。気のせいだ」
そう誤摩化した。
「とりあえず中に入るか」
二人を促して、千矢は一足先にマンションの中に足を踏み入れた。中に二人が入ってきたのを待って、さらに奥へ。そして五歩ほど進んだ所で。
ゾワリ、と。
全身を刺すような悪寒が三人を襲った。
「え、な、なに……?」
「————っ」
あのおちゃらけた草次ですらも顔を恐怖に歪めている。それは千矢も例外ではない。否、この業界を良く知る千矢が、この中で最も恐怖に捕われていた。
何か、とんでもなく巨大な影に見られているかのような感覚。
(これは……マズい……)
常に飄々としている千矢だが、恐怖で顔が若干引き攣っていた。今回ばかりは相手が悪い。——そう判断して、すぐさま引き返す。出口へ。今さっき入ってきたばかりのスライド式の扉へ歩き出す。
「出るぞ。ここには何もない」
「え、いや、さすがにそれはないっしょー。いや、恐いのは分かるけど、だからって何もしないってのも……」
「良いから従え。今日はやめる。違う場所へ行くぞ」
「それも面倒じゃね? 確かに、その、気持ち悪い感じはあるけどさー、だからって今ここに殺人犯がいるわけでもないっしょ? この変な視線? みたいなものも、多分遠くから監視カメラで見られている程度だろうし、いきなり襲われることはないっしょ」
なおも草次は食い下がる。そうしている間にも、千矢は総身に刺すような、殺意のこもった視線を受けている。草次達とは比べ物にならないほど明確に。まるで喉元に刃物でも突きつけられているかのような気分だった。
(……良いから従えって言ってんのに……!)
どこから見られているのかも分からない。すぐ近くから見られているのか、何か媒体を通して監視されているのか……。草次はああ言っているが、正直な所、千矢はどちらでも危険なことに変わりはないと判断していた。これほどの使い手ならば、この場にいなくても自分たち三人を殺害することなど可能だろうから。
「だからさ、な? 行こって!」
聞き分けの悪い草次に、とうとう我慢の限界が訪れた千矢が掴み掛かった。
「おい……! じゃあここで死ぬか? 無様に、訳も分からないまま死ぬつもりか? もしそうならここに残れば良い」
「か、川上くん……お、おおお、おち、落ちつい、て……」
突然の暴挙に目を丸くした蜜希が千矢を宥めようとする。だが、千矢には聞こえていない。
「どうすんだ!? 死ぬか?」
「そういうわけじゃないけど……」
「だったら従え! たった五歩の距離だけど、一人いるのといないのとでは大違いなんだ。ここは……っ!!」
だが、言葉は最後まで続かなかった。
滝のような音と共に。
二十を越える水の人形が地面から生えてきたからだ。
「は……っ?」
「な、ななななな、な、なに、なにこれ……!?」
「クソッ!! もう出やがった!!」
突然の事態に驚愕する二人をよそに、千矢が顔中に脂汗を浮かばせて喚いていた。
「走れ!! こいつらには敵わない!! 死にたくなければ逃げることだけ考えろ!!」
言って、彼は軽く右手を振った。いつの間にかその手にはお札のような物が握られていた。まるで手品。草次も蜜希も彼の起こした現象に付いて行けない。困惑し、立ち尽くす二人を横目で眺めながら、千矢はさらに叫ぶ。
「何してんだよッ! ぼさっと立ってないで動け!! 殺されんぞ!!」
千矢は手に握っていた札を床に叩き付けた。カッ!! と閃光が瞬き、空間を白で埋め尽くす。純白とはほど遠い、光を併せ持った白色。千矢も草次も蜜希も目を潰される。だがそれで良い。千矢は反対の方向に走り出すと、二人の手を取った。すでに頭の中に出口までの図面は浮かんでいる。後ろへ向かって一直線に走れば良い。
彼はさらに右手を振って札を取り出した。後ろへ放り投げ、
「『爆』!!」
轟音と共に灰色の煙が吐き出された。
(ここまでやれば索敵機能も落ちるだろ!! そして……!!)
次いで、彼はポケットから紫紺の指輪を取り出して中指にはめた。
「『隠蔽風景』」
起句を唱えると同時、千矢と、彼が手を握っていた二人の気配が消失した。
気配遮断の魔術。川上千矢が独自に編み出した、己とその皮膚に触れる物体の存在感の一切を消し去る魔術だ。
「千矢くん、君まさか……」
「詳しい話は後だ! とにかくこの場は俺の魔術でやり過ごす!」
一歩、二歩、三歩。
(あと、少し……ッ!!)
だが。
背後で水風船が割れるような音が炸裂し、水の散弾が三人の背を打った。
「…………っ!?」
呼吸が止まる。千矢と蜜希を握っていた手が緩む。二人は千矢の隠蔽風景の恩恵から離れ、その姿が白日の下に晒された。
「ま、ずい……!!」
叫ぶ草次。彼は現在いつも背に背負っているはずのギグケースを持っていない。つまり反撃が出来ないのだ。
「ちぃ!!」
忌々しそうに舌打ちを打つ千矢。一瞬彼らを助けに行くか迷ったが——結局やめた。
(役に立たねえなら囮になっとけ!)
役立たずは置いていく——そんな残酷で、けれど当たり前の判断を下す。
とにかく逃げ切らないと。ここで……ここで死ぬ訳にはいかないのだから。
千矢は止めていた足をもう一度動かした。出口はもう目と鼻の先だ。囮がいるのだから確実に逃げ切れる。
甘かった。
気が付けば、千矢の左右それぞれに四体ずつ、水人形共が平行して走っていた。彼らは皆真っ直ぐ千矢の目を射抜いている。見えないはずの千矢を、完璧に把握していた。
「は……?」
困惑の声を上げる。それに重なるように、腹の辺りで轟音が炸裂した。目を落とせば水の鞭が右の脇腹を捉えていた。
「ぐ……ッ!!」
水の鞭が振り抜かれ、千矢は横合いへ思い切りカッ飛んだ。
「が、ばぁああああああああああああああああああああッ!?」
体をもみくちゃに回転させて、低空を滑空する。勢い衰えぬまま近くの壁へ激突。体の中の空気が全て吐き出され、満足に呼吸も出来なくなる。立ち上がるどころか、意識すらままならない。
「ふ、ざけやがって……!」
壁に背を預けながらのろのろと立ち上がる千矢へさらに四本の鞭が迫る。空気を裂く音が彼の神経を炙る。
「————っ」
千矢は右手を振ってさらに四枚の札を手に取った。書かれている文字は『爆』。シンプルな起爆の魔術だ。
「頼むから吹っ飛んでくれ!」
口に僅かな笑みを浮かべながら札を向かってくる鞭へ叩き付けた。閃光、轟音。迫る水の鞭が軒並み蒸発する。
「草加、痣波! 自由行動だ! 勝手に逃げろ!」
煙の向こうへ叫び、彼もまた駆け出した。
「『隠蔽風景』!」
先ほどの攻撃で解けてしまったステルス魔術を再度発動。今度こそ水の人形から姿を晦ました。
————はずだった。
「ごぼふぉあ!!」
しかし、千矢を追い立てる水の鞭は正確無比に彼の体を打ってくる。三本の鞭が同時に背中へ打撃を加える。
進行方向へ思い切り吹っ飛んだ。
激痛の中で、千矢は一つの疑問に捕われる。
(どうして……)
それは、己の自信を根幹から揺るがす疑問。すなわち——
(どうして俺の姿が見えてるんだ……?)
隠蔽風景は己の姿、気配、そして自身から発される音の全てを絶つ魔術だ。規格級の魔術と言えど、その効果は絶大。格上相手にも通用するほどの技巧魔術だ。
だが、今はそれが全く通用していない。
動けば一瞬にして己の位置を把握され、攻撃を加えられる。
相手が水人形だから、ではない。水人形だろうが何だろうが、『誰からも認識されない』という妄想を具現化している以上、何人も千矢を捉えることなど不可能なのだ。
では、なぜだ……?
立ち上がって思案する。
周囲の状況を把握する。
煙のせいか、顔には水滴が浮かんでいる。微妙に霧のような匂いも漂っており……、
(……いや、そうか……)
ようやく気付いた。この匂いは煙のそれではない。濃霧の朝に嗅ぐ匂いと全く同じだ。
つまり。
(そういうことか。煙の中に霧を潜ませていたのか!)
正体が分かれば対応は楽だ。最大火力の爆破でもって、煙も霧も吹っ飛ばせば良い。
直後。
凄まじい轟音と共に閃光が瞬き、爆風がエントランスを席巻した。煙も霧も全て晴れて、視界が明瞭になる。
草次と蜜希はすでにドアの近くまで辿り着いており、もうすぐ出ようという所だった。千矢もまた『隠蔽風景』を発動させて己の気配を隠す。
しかし敵もさることながら、その対応は早かった。
千矢が駆け出すと同時に、再度策敵用の霧を散布。千矢の位置を把握しようとする。
「させない!」
だが千矢は、霧が完全に展開される前に五枚の起爆札でもって応戦。霧を吹き飛ばし、出口へ駆ける。その間にも数枚の起爆札をバラ撒いて霧の追跡を許さない。
対する水人形もただ霧を発生させるだけでは無かった。
策敵が不可能と断じた彼らは、その水の肉体を爆破した。水が水蒸気へと瞬時に変じる。蒸発時の熱が千矢の背中を襲った。
「が……ッ!?」
不可視の波状攻撃を受け、彼の体はさらに前方へ。転がるような格好で建物の外へ出た。
「千矢くん!」
夏のジメジメとした熱気が千矢の全身を覆う。その上から草加草次が声を掛けてくる。
「あ、ぐ……」
「千矢くん早く! 手を!!」
言われるがまま、彼は差し出された手を握った。無理矢理引き上げられ、引っ張られるような形で前へ進む。
背後を振り返り、水人形共が追って来ていないか何度も確認した。
「大丈夫っぽい?」
「あ、ああ。そうだな」
千矢達を追い立てていたそれらは皆、出口に見えない壁でもあるかのように立ち尽くしていた。おそらく術者が施した設定が『侵入者の迎撃』だったからだろう。抹殺の命令が施されていたらと思うとゾッとした。
しばらく地べたにへたり込んでいると、やがて溶けるようにその形を失った。
何事もなかったかのような静寂が訪れる。
「なんだったん、今の……」
草次が震える声で尋ねてくるが、千矢はそれに答えられない。
事件の裏側にいる存在を垣間見た気がした千矢は、そんな些末なことを気にする余裕はなかった。
ジワジワと指先を炙られているかのような感覚。
水人形単体の力、そしてあれほどの人形を何十体も生み出す妄想力、そしてそれらを完璧に使いこなす技量。事件の裏には、確実に『神話級』が潜んでいる。
だが————。
(なにか、ある……)
そんなことすら些末なもの。神話級魔術師。それを遥かに超越するほどの『何か』が裏にある。
神話級魔術師がただの気まぐれでやっているだけかもしれない。
だけど、知っている。川上千矢は知っている。
この世界の裏には、神話級魔術師すら霞むほどの闇が跋扈していることを。
神話級魔術師などただの個人。そんなもの、『大きな力』の前では無力なのだ。
(この事件は、ただの殺人なんかじゃない)
魔術師による愉快的な殺人ではない。何か意図があっての殺人だ。現場すら調べさせないというその徹底ぶりが、千矢にそう告げていた。
「手を引いた方が、良いかも、しれない……」
小さな呟きは、初夏の風に溶けて消えた。




