第一章 明るい彼らのバカな日常 1.友介と杏里
六月四日の土曜日。
安堵友介は自宅で拷問を受けていた。
大げさな言い回しかもしれない。だが、この苦行を拷問と呼ばずして何と呼ぶのだ。
隣には友介と同じ姿勢で同じ拷問を受けている妹がいた。
河合杏里。友介と三つ歳の離れた、血のつながっていない妹だ。彼女は額に珠のような汗を浮かべ、目尻には透明な雫まで溜めていた。
辛いのだろう。
だが、友介にはどうすることも出来ない。彼にやれることなんて何もない。だって友介だって彼女と同じ拷問を受けているのだから。
それにここで動けば目の前『彼女』に何をされるか分かったもんじゃない。動くなと言われた。一時間そのままの姿勢で私の言うことを聞けと。強い口調で放たれたその言葉に、どうして反論することが出来ようか。
彼らの前に立つ女性——河合夕子が、近くに置いてあった紙束を掴んで二人の前に放った。空気の抵抗を受けてひらひらと舞い落ちるその紙束を眺める。
「見なさい」
有無を言わさぬ声。この声を聞けば、魔術師に勝るとも劣らない方威圧感が二人の肌をビリビリと震わせた。
「見なさいと言っている」
「は、はい……」
恐怖に後押しされるように、友介は無意識の間に紙束の内の一枚を手に取っていた。
内容は以下のようなもの。
『一年 数学A 中間テスト 七組 安堵友介 四二点』
「………………………………」
「ねえ友介ちゃん。これはどういうことかしら?」
「い、いやでも、四十点切ってないし! せ、セーフじゃないかな!?」
「……本当にそう思ってるの?」
「いや待って下さい。そうじゃないです。いえだからね、これは少しドタバタがあったというか、ほら、仕事もあったし、その後入院したし……ほら、めっちゃしょうがないでしょう!」
みっともなく言い訳をする友介に、しかし夕子は一言。
「そういう突然の予定が入ったりするかもしれないから、普段から勉強しときなさいと言っていたはずだけど……?」
「あ、ああ! えっと、それに関しても深い訳があったんですよね、はい!」
「友介ちゃん」
「はい」
言い訳を続けていた友介の背中が、冷や水を掛けられたように凍える。
「勉強しなさいって、言ったわよね?」
「すいませんでしたぁ!!」
自分でも驚くほど綺麗なフォームで頭を床に叩き付け、友介はその場でテストのやり直しを行う。
「次、杏里」
ビクッ! と。名前を呼ばれた杏里が肩を震わせた。
夕子は自分が放ったテストの答案用紙のウチ一枚を手に取って杏里の目の前に突きつける。
「なに? この点数は」
「………………っ」
杏里は答えない。否、答えられないのだ。
『一年 理科A 中間テスト 二組 河合杏里 十五点』
「じゅう、ごてん……」
隣で黙々とテストのやり直しを行っていた友介が、視界の端に映ったその数字を見て低く呻いた。
だがそれも当然だろう。
友介とは違い、杏里はまだ中学一年生だ。中一の中間テストなんて、あまり勉強が出来ない奴でも高得点を取れるほど簡単な内容だ。にもかかわらず、杏里は驚異的な数字を叩き出したのだ。
十五点。
頭のよろしくない友介でも、さすがにその数字はないだろうと言いたい。
「さて杏里、この点数は何かしら?」
凍てつく声に気圧され苦笑いを浮かべながら杏里は口を開く。
「いや、このテスト本気じゃなかったから。次は余裕だから。明日から本気出す」
直後に。
友介の真横に雷が落ちた。
☆ ☆ ☆
「うぅ……、あそこまで怒らなくても……」
半べそをかきながら朝食の準備を進める杏里は、目元を真っ赤に腫れさせていた。テストで悪い点数を取った後の母親が恐いのは、きっとどこの家庭も同じに違いない。
友介は杏里を気の毒そうな瞳で眺めながら、そっと自分の頭頂部を撫でた。夕子に拳骨で殴られてから今までずっと、ジンジンと鈍い痛みを発している。
杏里と友介は食パンにマヨネーズを塗りたくり、その上へコーンをまぶしてグリルの中へ突っ込んだ。三分半に設定して、二人は席に着いて朝のニュースを眺めていた。
ここ最近起きている二つの連続殺人事件や、群馬県のとある山の土砂崩れの情報、世界各国で起きている戦闘の結果など様々に渡る。
とはいえ、別にニュースで流れる情報は暗いものばかりではない。科学圏で新たな農作物育成方法が発見されたことが報じられているし、CM前に星占いみたいなこともしていた。
(……星占いって……)
こういう、オカルトなのかインチキなのかよく分からないものに突っ込むことにあまり意味はない。ああいうのは、年頃の女の子が気休め程度に見るものなのだ。
「あ、今日あたし一位だ」
「ホントだな。この時点でこの占いがどんだけ当てにならないかが分かるわ」
少しだけ声を弾ませて言う杏里に、友介は適当な調子で返した。
「ただでも、あたし恋愛運が凄いことになってる」
「————っ」
その台詞に、友介の肩がピクリと震えた。
「おい、待て」
「ん? どうしたのよ?」
「お前、まさか彼氏でもいんのか……?」
瞬間、杏里はその顔にニタリと意地の悪い笑みを浮かべた。
「あれ、もしかして友介はいて欲しくないのかな? 妹に彼氏が出来るのが許せないシスコンだったりしてー」
「は!? 俺がシスコんだと!! そ、そそそそんなわけねえだろうがっ!」
「友介かーわーいーいーっ!」
「おいこらいい加減にしないと怒るからな」
「とか言って? 本当は?」
ズイ、ズイ、と椅子ごと近付いてくる杏里に、友介が露骨に顔をしかめた。杏里が近付いて来た分だけの距離を離れようと椅子を移動する。だが杏里はその可愛らしい顔と愛らしい矮躯、そしてたゆんと揺れる二つの果実を武器に友介との距離をさらに詰めた。
「ほれほれー。言いなさいよー」
腕に絡んでくる杏里。友介は軽く青筋を浮かべながら杏里の頬を両手でつねった。
「いで、いでででででで!」
「女の子がそういうことするな。特に男にはな。お前、そんなことしてたら襲われるぞ」
「うぎ……痛いよお。分かった分かった。でもこんなことするのは、友介だけよ?」
「言っとくけどお小遣いはないからな」
「そんなあ……本心なのに。お兄ちゃん☆」
「ダメ」
「にいに♡」
「合格」
「いや友介、それはキモいわ」
急に素に戻った杏里からの言葉が軽く友介の心を抉ったが、気にしない。
そんな風に下らない事をしていると、小気味良い音が聞こえてきた。お案が焼けたのだ。
「取ってくるから座ってろ」
立ち上がろうとした杏里を制して友介が皿を二枚持って台所へ向かう。グリルのふたを開けると、中からマヨネーズとコーンの香ばしい香りが漂ってきた。
「ほらよ、出来たぞ」
「お、あざす」
「お礼はしっかりしろよ」
「はーい。ありがとー」
「どうも」
友介が席に着くのを待って、杏里は両手を合わせた。友介もそれに倣い、二人して「いただきます」と食べ物へ感謝の気持ちを伝えた。
☆ ☆ ☆
あの『事件』が起きて、東京はほぼ壊滅状態となってしまった。
魔術師は人という人を殺し、街という街を破壊し尽くした。徹底的に、叩き潰した。
後にとある復讐者が作り出した竜巻や、遅れてやって来た科学圏の最新鋭無人兵器部隊によって魔術師達を一旦退けはしたものの、それは勝利と呼ぶにはほど遠いものだった。
得られたものは何もない。そのくせ、奪われたものは計り知れない。
四肢を失った者、意識を失った者、命を失った者、家族を失った者、誇りを失った者、笑顔を失った者。
悲劇なんて言葉すら生ぬるい。
少年があの日見た地獄にも似た世界。
それでも人々は、生きることを諦めなかった。先に逝ってしまった者達の分まで必死に生きた。
みんなの思いはただ一つだった。
幸せになる。
そのために、人々は手と手を取り合った。
その結果が、今目の前に広がる日常だ。
「もう二年なのよね」
「だな」
初夏の晴れた日。じめじめとした湿気が体に纏わり付くような感覚に唸らされながら、友介は杏里の短い言葉に返した。
「ま、この復興の速さを見れば『まだ』って言い方も出来るけどな」
「そう? あたしからしたらつい最近のことに感じるんだけどね」
梅雨入り前の蒸しこの暑さも隣の少女にはあまり苦痛ではないようで、涼しい顔をしながら友介と並んで歩いて行く。
二人が通う学校の校門はすでに見えている。
私立愛岳学園。東京でも有数の進学校で、渋谷事変後に出来た学園だ。中等部と高等部が存在し、特に高等部には『特進科』『理数科』『普通科』の三つの学科がある。頭のよろしくない友介は当然普通科。おそらく杏里も友介と同じ道を辿ることだろう。
校門を過ぎると左右に小道が続き、目の前に広大なグラウンドがある。小道はそれぞれ、グラウンドの円周に沿うようにして続いており、右へ進めば高等部へ、左へ進めば中等部の校舎へと続く。
「んじゃ、また帰りにな」
「はーい。いじめとかに遭ったらいつでも言うのよー。いつでもそっちにすっ飛んでいくから」
「だから大丈夫だっての」
友介の返答に満足したのか、ニヘラとだらしのない笑顔を向けると、トンと友介の胸を拳で軽く叩いた。
「行ってきます」
「おう、いってら。俺も行ってくるわ」
互いに手を触り合い、二人は別々の道を歩き始めた。
☆ ☆ ☆
教室に向かって歩いている途中、友介の周りではこそこそとした内緒話が絶えることはない。チラチラと向けられる遠慮のない軽蔑の眼差しは、四月にこの学校に入学してから何一つとして変わってはいなかった。
「うわっ、出た……」
「確か録命の安堵だよね……。よくもまあ平然としてられるよね」
「気持ちわるっ」
「ねえねえリン、告ってきてよ。あいつチョロそうだからすぐ騙せるよ」
どれもこれも、友介に聞こえるようにわざと声を調節している。
友介はそれら全ての声を聞きながら、ふうと一つ息を吐く。
(やっぱり慣れねえな……)
正直キツい。かなり傷付く。今だって、ちょっとでも油断すれば目尻に涙が溜まってもおかしくないくらいだ。胸を締め付けられるような感覚がある。
口の中で小さく舌打ちを打つ。こちらを見てくる奴ら全員をこの場で皆殺しにしてやりたい気分だが、そんなことをすればブタ箱行きだ。妹である杏里だってどんな目に遭うか分からない。だから友介は、胸の中で蟠る黒い感情をそっと抑えつけて声尾を振り切るようにして歩く。こちらから何もしなければ、彼らは直接的な手段に取ってくることはない。
だが……、
「よお安堵!」
野太い、それでいて人の癇に障るような声が聞こえてきた。
瞬間、友介は露骨に顔をしかめ、恨めしげな視線をその大男に向けた。
「なんだなんだその目は。まさか俺様を殺そうってのか!? やっぱりクラスメイトやセンコーの首を棚に並べちまう異常者は目つきからして違うなー! がははは! なあ、テメエらもそう思うだろ!?」
すると彼の周りにいた頭の悪そうな少年達がゲラゲラと下卑た笑い声を上げた。
「もう視線だけで人を殺せるんじゃねえのっ?」
「恐い恐いー!」
「こういう奴には粛正が必要だよな。粛正が!」
誰かが放った言葉が引き金になったのか、友介の後頭部に鈍い衝撃が走った。
「が……っ!」
ビタンと馬鹿みたいに床に転がされ、友介はそちらを見た。
立っていたのは、どこからどう見ても人畜無害そうな人間だった。ネクタイをきっちりと締め、髪の毛も丁寧にセットされている。女子からの人気も高いカースト上位にいる普通の少年だ。目の前の馬鹿共とは何の面識もない善良な少年。そんな彼が、拳を震えるほど握りながら、口元にうっすらと笑みを浮かべていた。
「お前は悪人だ……っ! だからお前は何をされても文句を言うな!」
どこかで似たような言葉を吐き出しながら、彼は右足を振り抜いた。
爪先が寸分狂わず友介の鳩尾を叩く。次いで頭に衝撃。
それからの五分間は痛みしか感じられなかった。まさしくタコ殴り。周囲に立っていた生徒達が何の躊躇いもなく友介へ暴力を加える。
そこへ。
「おい、お前らこんな所で何してるんだ!!」
男の声が聞こえた。中年くらいの男子教諭だ。彼は友介を痛めつけている生徒達にこう怒鳴り散らした。
「いつまでも遊んでいるんじゃない! もうすぐホームルームだ! 休み時間にやらんか!!」
そして今日も、このクソの掃き溜めのような学園で一日が始まる。




