序章 日常前夜
魔術圏西日本帝国の首都は京都府に存在する。
かつて県庁所在地であった京都市には、西日本が魔術圏となった折、住宅街を撤去して作らせた巨大な屋敷がある。大きな神社くらいの面積を占領するその屋敷が、この国に置いて王がどれほどの権威を持つかを端的に示している。
そんな屋敷————からさらに二キロ程離れた住宅街に、そのおんぼろアパートはあった。
木造建築の二階建てで、築五十年は下らないだろう。塗装はとうの昔に禿げてしまっており、ボロボロになって一部が折れてしまっている手すりや壁は、不用意に触れようとする者にその小さなトゲでもって牙を剥く。
歩くたびにギシギシと軋んだ音を建てる床は、嫌が応でも不安を与えてくる。
そんなおんぼろアパートの一室。畳の床に座り、小さなちゃぶ台を挟んで向かい合う二人の少女がいた。
「……それで、どう思う? どうするのが最善だと思う?」
そう問いかける少女は、お風呂上がりで僅かに濡れた黒い髪をタオルで吹いている。まるで森を流れる小川のように透き通っている、夜空のような漆黒の黒髪。魔術師の中でも『例外』に数えられる『魔女』——空夜唯可だ。
対面に座るは、いつもはツーサイドアップに結んでいる銀髪を、ゴムで適当に纏めてポニーテールにした少女だ。かつてとある少年から目の前の魔女を奪った少女——ナタリー=サーカスである。
彼女達は電気を使うことすら勿体ないとでも言うように、小さな豆電球だけを点けて暗い部屋で話し合っている。
「やっぱり、まずは個人の意識を高めてあげる必要があると思うんです。そのためにも、私達が頑張らないとダメだと思う……ます」
「だよね。それもただがむしゃらに頑張るんじゃない。みんなの仕事に対する思いを刺激してあげるようなやり方が良いよねっ」
「はい」
怪しげな会話。第三者が見れば何かの密会だとしか思えないだろう。
しかし、違う。
この会話は、そんな下らないことではない。
空夜唯可は深く息を吐くと、真剣そのものの眼差しで対面に座る銀髪の少女を見つめながらゆっくりと口を開いた。
「じゃあ、とりあえず今度、店長とチーフと私の三人で話し合ってみるよ。最近、バイトのみんながたるんでいるこの状況をどうやって改善するかを」
「お願いするんです」
「違うよ。お願いします、だよっ」
「お、お願いします」
そう。
彼女達はとても大切な話をしていた。
二人が勤めているお店のバイト達がやる気がない、ということで、どうやってやる気を出させるかを話し合っていたのだ。やる気がないままでは、後々入ってくるであろう後輩達にまでそれが感染してしまう。もしそうなれば、いずれはお客さんにも迷惑がかかってしまうかもしれない。そうなる前に手を打つ必要があった。
「じゃあ、この話は一端ここで終わりっ!」
とは言え、すでに二時間弱はこの話し合いに時間を費やしたのだ。具体的な案もいくらか出てきたし、今日はこの辺でいいだろう。
唯可は一度立ち上がると、近くの台所へ向かい水を入れた。氷を数個落としナタリーに渡してやる。
「とりあえず、はいっ。疲れたでしょ?」
「いえ、大丈夫なんです」
「まーた敬語の使い方間違えてるよ。難しいかもだけど、頑張って覚えないとナタリーが苦労するよ?」
「う……気を付ける、で……気を付けます」
「はいっ、よろしい」
彼女は満足そうに頷くと、小さなワンルームの部屋を見渡した。余計なものは一切ない。生活に必要な家具と家電だけを置いた簡素な部屋だ。
年若い——というよりも幼い——女の子二人が暮らすには危険なアパートに見えるが、実はこの辺の地域は存外治安が良い。よしんば犯罪に巻き込まれたとしても、この二人の少女は並大抵の荒事なら三十分もたたずに解決してしまうだろう。
一通り部屋を見渡した唯可は、次に玄関の近くに置いてある二つのスーツケースを見た。つい先日なけなしの貯金を削って買った贅沢品だ。あの中には、それぞれ二泊三日分の着替えやその他の荷持が詰まっている。
明日から唯可がずっと楽しみにしていた東京旅行だ。
目的はもちろん一つ。
友介に会いたくて仕方がない唯可が、ナタリーに無理を言って資金を確保してもらったのだ。
「いよいよ明日、ですね」
「だねーっ」
踊る心を悟られまいと、いつもと変わりない口調で返したつもりでいる唯可だったが、その実全く隠せていなかった。
顔は勝手ににやけてしまうし、胸の奥で高鳴る鼓動を抑えることなんて出来なかった。友介と再会した時の妄想が留まる所を知らない。
「えへへ……。友介に会えるかなーっ。カッコ良くなってると良いなー……っ。えへへぇ……」
そんなだだ漏れの本音も、彼女は心の中だけで呟いているつもりらしい。




