第四章 少年・涼太 3.草加草次の本気
土御門字音は弱い。
それは、ただ陰陽師としての技量が低いという話ではない。そんな低次元の話をしている訳ではない。
動けない。
立ち上がれない。
手の届く位置で悲劇が起きようとしているのに。
全ての元凶であるというのに。
殺されるべきは自分だ。これは土御門字音と安倍涼太の問題であって、目の前で土蜘蛛に悠然と立ち向かう少年や、涼太に人質として捕らえられている少女は無関係なはずだ。彼らは傷付くべきではない。そもそもこんな血生臭い舞台上に立っていることすらおかしいのだ。
たった一言。
あるいは、立ち上がるだけでも良い。
それだけで、何の関係も無い少年達は日常に戻ることが出来る。
なのに。
それなのに。
(どうして……?)
歯の根が合わない。
子鹿のように足が震える。
手がかじかみ、握っていた拳から力が抜けていく。
あの化物に睨まれただけで動けなくなってしまう。
「ん……」
俯くことしか出来ずにいる字音の耳に、聞き覚えのない少女の声が届いてきた。
顔を上げれば、字音を喰おうと睨んでくる土蜘蛛の向こう側で寝かされていた蜜希が目を覚ましたらしかった。
寝ぼけているのか、自分が蜘蛛の大群の上に寝かされていたことに気付いていないようだ。
彼女は蜘蛛をブチブチと潰しながら床に手を突くと、ゆっくりと起き上がった。己の掌に帰ってくる感触に違和感を覚え、床に突けた手を持ち上げて顔の前に持っていった。
「……って、ひっ! 何これ!? いやっ!!」
顔を引き攣らせ、一瞬の内に双眸に涙を浮かべた。
当然だろう。あんな大量の虫に囲まれた状態で目を覚ませば誰だってパニックに陥る。
しかも、眼前には全長五メートルにも及ぶ化け蜘蛛がいるのだ。
「なん、で……い、いい、一体私、が、なにした……の」
「蜜希ちゃん! すぐ助けるから待ってて!」
草次が叫び、駆け出した。
(待って!!)
字音は声を上げて草次を止めようとした。けれど、声を上げることが出来なかった。
いいや、違う。
出来なかったのではない。しなかったのだ。
恐かったから。殺されたくなかったから。声を上げずに待っていれば、勝手に助けてくれると思ったから。
こうして隅っこで縮こまっていれば誰かが勝手に事件を解決してくれる。
だから。
もう————
彼女は努力家だった。
幼い頃から好きなものにはとことん没頭する癖があったが、それが顕著に表れ始めたのが五歳の頃。つまり陰陽術に興味を持ち始めた時だった。
きっかけは些細なもの。
とあるバラエティ番組で、胡散臭い占い師が芸能人の未来を占っていた。語られた自分の未来が輝かしいものだったのか、その芸能人はとても良い笑顔でその胡散臭い占い師に感謝の気持ちを伝えていた。
憧れた。
その胡散臭い占い師に、少女は憧れてしまった。
人の未来を占ったことそのものに対しての興味はあまりなかった。ただ、その占いによって人に笑顔を与えられることはとても素晴らしいことだと思ったのだ。
『ねえお兄ちゃん、占い師ってどうやったらなれるの?』
『うん? そうだな。字音がたくさん勉強したらなれるぞ』
くしゃくしゃと頭を撫でてくれた兄の掌の感覚を今も覚えている。
それからというもの、少女は友達と遊ぶ時間やゲームをする時間すら潰して『星読み』の勉強に明け暮れた。
けれど。
あらゆる努力は徒労に終わった。無為に過ごした十年の時は返ってこない。希望を見いだせぬままこれからの人生を過ごさなければならない。
そんなのには耐えられなかった。
だから、彼女は。
そんな未来を認めたくなかったから。
そんな事実から目を逸らしたかったから。
だから、無駄な努力をやめなかった。最初から大成するだなんて思っていなかった。
自分に才能が無いことは世界のせいなどではない。
それは、ただの事実でしかない。あらゆる結果の末分かった真実だ。ただそれだけのことだ。責める相手などいない。
そんなこと始めから分かっていた。
けれど、そんなの仕方がないだろう?
その時には既に後戻りなど出来ない所まで来てしまっていたのだから。すでに『土御門家』の本質を知り、世界の暗部の一端を見てしまっていたのだから。
何よりも。
諦められなかったのだから。
しかし、そんな彼女のちっぽけな願いが聞き届けられるわけもなかった。
誰も彼もが、少女の努力を否定した。
兄も、姉も、弟も、そして幼馴染みであった安倍涼太でさえも。しかもそれは、彼女を案じて放たれた言葉だった。
————違う。そうじゃない。私が欲しいのは、その言葉じゃない。
少女の心の叫びは誰にも届かなかった。
たった一言で良かった。
それ以外のものなんていらなかった。
頑張れ————と。
他人事でも何でも良いから、その言葉が欲しかったのだ。誰だって良い。とにかく、彼女の努力を意味あるものにして欲しかった。
だけど、それを分かってくれる人はどこにもいなかった。
やがて彼女は、自然と自分の本心を隠すようになった。この心の叫びを誰かに解って欲しかったから。自分の思いを理解してくれる王子様が欲しかった。何も言わずとも手を差し伸べてくれる人がいると信じて。そんなメルヘンチックな思想を持つようになった。
そんなある日だった。
いつものように涼太と買い物をした帰り。
あの現場に出くわしてしまった。
彼は言った。
『姉ちゃんもそろそろ自分の才能に絶望し始めた時期だったろ? だからその苦しみから解放してやる』
そんなこと無かった。
確かに未来に希望を見いだせずにいたけれど、それでも目標はあった。たとえ強がりから来るものであっても、それでも確かな夢があった。
けれど彼は聞く耳を持とうとはしなかった。
圧倒的な力が彼女を襲った。涼太の助けがあって命からがら逃げ切った字音は、その足で群馬県まで逃げた。そこには、かつて父達が建てた土御門家の別荘がある。こんな分かりやすい所に逃げればすぐに気付かれるだろう。だが、ここ以外にどこに逃げれば良いのかなど分からなかった。
死にたくなんてなかった。
絶望なんてしていない。
まだやり残したことがある。だから、死にたくない。
何度も、何度も。
孤独な夜に、涙を流しながらそう呟いていた。
☆ ☆ ☆
鈍く強烈な打撃音が、過去へ夢想していた字音の意識を現実へと引き戻した。
すぐ真横を一人の少年が猛スピードで突っ切った。大きな、ロープのように頑丈な糸で出来た白色の蜘蛛の巣をぶちぶちとぶち抜きながら低空を十メートル以上も滑空した。さらに数メートル体を打ちつけられながら床を転がって。吹っ飛ばされた草加草次はその勢いを止めた。
「あ、ぎぁ……っ!! ご、ぶ!!」
口に溜まった血反吐を吐き出し、喉を押さえて呼吸を整える。ふらふらと覚束ない足取りで立ち上がりながら、霞む視界に佇む一匹の化物を睨んでいた。
その双眸に絶望の色があるようには思えない。
そんな少年の姿を見ても、それでも彼女は何も言えずにいた。
止めなければならない。助けなければならない。
分かっているのに、声が出ない。
「さあてさて。そろそろフィナーレが近くなってきたかぁ?」
「……」
「土蜘蛛もお腹が減って大変みたいだしな。使役している以上、何かしら餌はやってやりたいのよ」
暗い表情を浮かべる涼太が、一歩こちらに近付いてくる。
土蜘蛛もまた、一歩踏み出す。その最中、ちらりと字音の方を一瞥した。
それを見た草次の顔が一瞬青く染まる。
(ま、ずい……ッ!!)
土蜘蛛からの距離は、草次よりも字音の方が近い。つまり安倍涼太の気分次第では、草次を殺すより先に字音に手を下す可能性もあるのだ。
草次は、先ほどあの棍棒のような足で殴られた腹をさすってみた。案の定触れただけで激痛が走り、その痛みに顔を歪めた。
(でも、まだ走れるぞ)
すると一転、苦痛に歪めていた表情を引き締めて、強く大きな一歩を踏み出した。そのまま加速し、化物へと一直線に突っ込んで行く。
「バァカ! 無策で突っ込んでくる奴がどこにいんだよぉ!!」
闇が蟠る土蜘蛛の大口から白いロープのようなものが射出された。
草次はそれを紙一重で躱しながら、速度を落とすことなく突っ込んで行く。廊下に張り巡らせられた『巣』が若干邪魔だったので、ライフルで撃ち抜きながら進んだ。
(弱点は分かっているんだ! ただ……)
隙がない。
だからライフルの銃撃で術者である安倍涼太を狙ったりして揺さぶっているのだが、相手はそれに動じる様子がない。
(クソッ! ならもう仕方ない! 一か八か、やるしかない!!)
気が進まないが背に腹は変えられない。リスクは大きいがやるしかない。
決断すると、彼は背中に背負っていたギグケースを片手で開き、中に手を突っ込んだ。どこに何があるのかは完全に把握している。いちいち中身を見ずとも、感覚だけで目当てのものを手に取った。
肩に提げていたアサルトライフルをその辺に放ると、彼は体を軽く振ってギグケースを締めた。手に持っていた『それ』を両手に持つ。
その手に握っていたのは、バレットM82——アンチマテリアルライフルだった。いわゆる対物ライフルというやつだ。戦車や土嚢の陰に隠れた兵士を撃ち抜くための大口径狙撃銃。総重量十三キロもある怪物ライフル。
彼はそれを、片手で撃った。
「はあ!?」
これにはさすがの涼太も驚きを隠せなかった。
見る者の目を焼くような閃光と同時に、爆発音にも似た射撃音が炸裂した。しかもその高威力の弾丸は、寸分違わず土蜘蛛の腹へと吸い込まれていく。
小さな面積に多大な力が加わったことにより膨大な圧力が生まれ、化物の腹を抉った。まるでランチャーによる砲撃を受けたかのように、化物の腹には巨大なクレーターが出来ている。粘質な緑色の液体と共に、ボトボトと固形の物体が腹の穴から零れ落ちた。
黒板を爪で引っ掻いたような高く不快な泣き声を上げながら土蜘蛛が地面に崩れ落ちた。
チャンス——だとは思わない。あの妖怪にとって腹は弱点ではない。アレは確かに痛みに悶えているが、そもそも生物ですらない妖怪が自然の摂理に縛られる道理はない。腹に穴が空いた所で、それは致命傷足り得ない。事実、土蜘蛛の腹はすでに回復を始めていた。
化物の腹から溢れ出た固形物が緑色の体液に流されて草次の足にぶつかった。敵から目を逸らすことが許されない状況にもかかわらず、異様な臭いにつられて視線を下げてしまった。
「————ッ!?」
同時、ロープのように太い蜘蛛の糸が草次の左肩を打った。
脆弱な糸の集まりでしかないにもかかわらず、まるで全速力の自転車にぶつかられたかのような衝撃が伝播した。ゴキンッ! という嫌な音が肩から届いてくる。粘着力の強い蜘蛛の糸は草次の肩を捕らえたままさらに数メートル凄まじいスピードで直進。全身を何度も床に打ちつけられ、彼の体内で激痛が暴れ回った。
「あ、ごぁ……ギっ!!」
それに留まらない。土蜘蛛は頭を乱暴に振り、糸の先についた草次を床や壁や天井に叩き付け続けた。外れた肩がさらに痛みを発し、新たに傷と打撲が増える。すでに全身が痣だらけになっていた。
(ま、ずい……)
このままなされるがままになっていれば、いつか首や背中の骨を折りかねない。草次は対物ライフルを肩に付着した蜘蛛の糸に近付け、引き金を引いた。
爆発音にも似た音が炸裂し、草次の耳が軽くいかれた。酷い耳鳴りが左耳の中で反響した。
「づ……ッ!!」
それでも、土蜘蛛の糸から逃れられたのは大きい。空中で拘束から脱した末、彼は受け身も取れずに床へ体を思い切り打ちつけた。
「がはっ!!」
呼吸が出来ない。空気を吸えない。肺は本来の機能を忘れたかのように酸素を吸収してくれない。
「お前のその膂力、実験によるものだな」
無様に地面をのたうち回る草次を離れた所から見下ろしながら、安倍涼太が感心したように言い放った
「対物ライフルなんて地面に固定して使用するもんだ。それをあまつさえ片手で扱うたあな。普通の方法で鍛えてもそんな芸当は出来ねえよ」
「…………っ」
「弱者は大変だなあ。己の体をモルモットとして明け渡さなければ俺たち魔術師に追い付けない。無様に這いつくばることしか出来ない。同情するよ」
草次は立ち上がれない。
総身を覆う激痛が気力と体力を奪っていく。
視界が徐々にぼやけ始め、まぶたが重くなってくる。さっきまで熱のような痛みを発していたはずの傷の感覚が徐々に消えていき、代わりに寒気が爪先から頭頂までを包んだ。
死が近付いているのだと、直感と頭の両方が理解していた。
「おいまだ死ぬな。今から楽しいことをするんだからよお」
そう言うと、凄惨な笑みを浮かべた安倍涼太が近くで小さくなって震えている蜜希へ視線を投げた。
「土蜘蛛、コイツを喰え」




