第三章 少女・字音 3再びの追いかけっこ
飛び掛かってきたゾンビから逃げるため、字音は体を反転させて一目散に逃げ出した。そちらには当然、さきほど涼太に吹き飛ばされた安堵友介が息を荒げながら立っている。彼は己目掛けて駆けてくる字音と、その背後から全速力で迫ってくるゾンビを見てギョッとした顔になると、字音のことなど無視して後ろへ駆け出した。
「おい、何でこっちに来るんだよッ!」
「そ、そんなの仕方ない!」
「仕方ないじゃねえ! 俺まで巻き添えにすんなよ!!」
「元はと言えば君が悪いんじゃないかー! 君が床をぶち抜いたりしなければ涼太に見つからなかったのに!」
「知るか! 俺は濡れ衣を着せられたからここまで逃げて来ただけだ」
ぎゃーぎゃー言い合いながら走る友介と字音。とはいえ、文句を言っているだけでは状況は好転しない。まずは追いかけて来る屍人達を返り討ちにするのが先決だろう。友介は腰に手を伸ばし拳銃のグリップを探した。だが……
「ない……ない! しまった。寝起きのままここに落ちて来たから得物を何も用意してなかったッ!」
「役立たずッ!!」
「うるせえッ!!」
痛い所を疲れ思わず喚く友介。背後を振り返っても、ゾンビ達との距離が開いている様子はなかった。
(くそ……これじゃあ昨日と同じだ……ッ!! 何か手を考えねえと!)
ポケットなどを探って何か付けるものがないか探す友介。しかし、期待に反して何も見つからない。何も対策を打てなければ、このまま追い込まれて終わりだ。二階に上がるか、一階に留まり続けるかと考えていた友介だったが、そこであることに気付いた。
「おい土御門字音!」
「な、なに!」
「お前魔術師だろ!? だったらあいつらもなんとかなるんじゃねえのか!」
「…………」
友介の言葉に、しかし字音は顔を伏せて辛そうな顔をするだけだった。それだけで答えは分かったが、それでも一縷の希望を乗せて友介は再度問う。
「おいどうなんだ! 答えてくれ!」
「ごめん……無理なんだ……ごめん……ッ!!」
それは、とても悲痛な声だった。迫り来る恐怖に対して何も出来ないのが辛いのではない。己に力がないことがこれ以上なく悔しい——そんな声色だった。
友介は口の中だけで小さく舌打ちを打つと、人の大切な部分に土足で上がった自分を恥じた。
「すまねえ。ならとりあえず、今はこのまま逃げるしかねえな」
「……」
こくりと、字音が頷くのを見て、友介はさらに走る速度を上げた。
「とりあえず二階へ上がるぞ! あっちには俺と一緒に来た連中もいる! あいつらに協力を頼もう!」
行き先を明確に設定し、友介はロビーへ向かうことに。
残念ながら友介は一階の構造を把握していない。道案内は字音に任せるしかなかった。角を曲がり、直進。さらに角を曲がった所で、先回りしていたゾンビの一匹とかち合った。
「ちょっ、うおわ!」
友介はとっさに身を屈め、字音もそれに続く。走る勢いを殺さないままゾンビの横を前転して抜け、友介はその背に拳を叩き入れた。
ゴキン! といとも簡単に死体の背骨が砕け、地面に崩れ落ちた。友介は、前転に失敗して近くで転がっている字音の手を引いて立ち上がらせると、もう一度走り出す。
「に、二階に上がって、その後はどうするの!?」
「言っただろ! あいつらに協力を求める!」
「そ、そうじゃなくて、私はその人達に命を狙われてるんでしょ? だったら私は会いたくないんだけど」
「…………」
友介はしばらく押し黙り……そして方向転換。近くにあった扉を適当に開け、字音と共に身を中へ身を投じた。
扉を閉め、鍵がかかっていることを確認すると深く息を吐いた。
「はぁー……っ」
「私の無害をその人達に証明する言葉が思い付かなかった?」
「うるせえ。俺は悪くねえよ」
「そうだね。君の力量不足ではあるけど。ていうか、今は君も疑われてるんだよね。だったら何を言ったって信じてもらえる訳がないよね」
「うぐ……っ」
ぐうの音も出ない。
「それに、君ってコミュニケーション苦手そうだしね」
「ぐぐぐ……っ」
唸ってから、軽く部屋の中を見渡した。だが、何も見えない。部屋には窓がなく、外からの光を完全に遮断していた。生ゴミでも置いている部屋なのか、異臭が漂っている。友介は顔をしかめ、目が慣れるまで懸命に部屋の構造を把握しようとする。
背後ではゾンビ達が乱暴に扉を叩く音が響いている。
いつまでもここに閉じこもっておくことも出来ない。タイミングを見計らって逃げ出す必要がある。
(どうする)
この部屋に何かあれば良いが——そう思い、右眼の機能をフルに使って暗闇を観察した。
次第に少しずつ目が慣れてくる。光一つない真っ暗闇が薄く払拭されていく。徐々に、ゆっくりとピントを合わせるように景色が鮮明になっていく。
そうして、ようやく。
この部屋にあったモノの正体を知った。
「あ……」
間に抜けた声が少年の喉から漏れた。『それ』に視線が釘付けになってしまう。彼の視線を追うように、ずっと下を向いていた字音も顔を上げた。その端正な顔が蒼白になっていくのが横目でも分かった。
「あ、ああ……」
彼らが忍び込んだ部屋。
生ゴミが置かれているのかと思っていた。異臭は、長い間密閉された空間に、腐りきった食料などを置いているからだと思っていた。
けれど実際にそこにあったのは。
「あ、ああああっ!?」
大量の、腐り切った肉塊だった。
「はあ!? な、なんだよこれ! おい! 土御門!! 答えろ!!」
「し、知らないよ、こんなの! なんで? 何でこんなにあるの!?」
「こんなに……? ちょっと待て。まさか、他にもこんなものが?」
「君はさっき何を見てたの!? 私達を追ってきていたゾンビが、人体模型にでも見えてたの!?」
「じゃあなんだよ! ここにあるのは全部……人間の死体? 一体いくつあんだよ!!」
荒い息が漏れる。心臓が早鐘を打つ。焦点が定まらない。腐敗した死体から漂ってくる甘ったるい香りが友介の脳を侵蝕していくような気がした。
「…………っ。お前言ってたよな……? この館ではたびたび殺人事件が起きていたって。安倍涼太がお前の捜索と自分の趣味のために人を殺していたって。あいつはこんなに殺してたのか? こんな……なんで百近くもあるんだよ!?」
「分からないよ! でもこんなに殺してるはずがない。こんなに多くの人間をあの子は招待していない。ここに逃げてきた私を追ってきた涼太が住み付いてから、あの子が客人として招いた人達の人数は、君たちを除いて三十人ぐらいしかいなかったはず。殺された人はその半分ぐらいだったはずなのに!」
「じゃあ!!」
「私に聞かないで! 私だって知らないよ!!」
喚き散らす友介と字音。今すぐにでもこの部屋から出たいという衝動に襲われる。だが今出ても、またあのゾンビ共から逃げ続ける羽目になるだけだ。状況は好転しない。なんとかしてここから逃げる算段をつける必要がある。それなのに、目の前に広がる猟奇的な光景が友介と字音に正常な判断を取らせてくれない。何をすれば良いのか具体的な案が何も浮かばない。ただ時間だけが過ぎ去っていく。
空回りする脳をさらに回転させるという愚行を繰り返しているうちに、友介は目の前の光景に少しずつ変化が起き始めていることに気が付いた。
もぞり。
もぞり。もぞり。
まるで、床が生きた怪物のように蠢き始めたのだ。
いいや、違う。分かっている。蠢いたのは床ではなく。
ゴミのように捨てられていた、大量の肉塊達の方だった。
皮膚組織が腐り落ちているだけのモノ。
まだ辛うじて人の形を保っているモノ。
すでに原型を留めないくらいに破壊されているモノ。
白骨化し、骨だけになってしまったモノ。
ここにあった死体の全てが、まるで息を吹き返すようにもぞりと起き上がったのだ。
(ぁああ……!? な、何だこれ……!! なんでこんなことに!?)
「何なんだよぉ!!」
情けない叫びが空間を震わせた。
「なんだよチクショウ!! 魔術師は死人を生き返らせることなんて出来ないんじゃないのかよ!! 何でこいつらは動いてんだよぉッ!」
恐怖からか、その威容な光景からか、あるいは脳を侵すような腐臭が漂っているからか。友介の腹の中で不快な嘔吐感が暴れ回った。口を押さえてそれらをなんとか押しとどめながら、友介は死体以外のものを観察した。
何もない部屋だった。本当に、死体を捨てておくだけの部屋だったのだ。それなりに広い部屋には、家具や家電の類は何一つ置かれていない。近くの壁までの距離は、走れば二秒もかからないだろうが、そもそも足に力が入らなくなっていた。
(そうだ。壁をぶち抜けば……左目の力で壁をぶち抜いてそこから脱出すれば!)
思いついてから行動へ移すまでの時間は早かった。
彼は何も言わず字音の手を引くと、起き上がる屍人達を視界の隅に入れながら、近くの壁へ全力で駆け出した。魔眼の力で壁に『急所』を作り出し、それを足で蹴り抜くと、壁に放射状のヒビが走り、割れた。獣の口のような大穴がぽっかりと開き、そこを字音と共に走り抜けた。
だが。
「く、そォ!!」
立ち止まり、目の前の光景に絶望した。
こちらの部屋でも百を越える死体が、起き上がっていた。ゆらり、ゆらりと一人ずつ。気だるそうに立ち上がっていた。
「こっちはダメだ!!」
反転。だが、先ほど開けた大穴は、ついさっき起き上がったゾンビ達に埋め尽くされてしまいもう使えない。挟み撃ちになり、身動きが取れなくなる。
(どこでも良い。とにかく外へ!)
とっさに、さっきカルラ達に追い込まれた時のように床を踏み抜こうかとも考えたが、ダメだ。床の下は基礎があるだけなので逃げ道はない。足場が悪くなって逃げられなくなるのがオチだ。
(なら、一か八か!)
友介はちらりと横へ視線を向けた。そちらには、扉。先ほど友介達を追ってきていた五体ほどのゾンビが徘徊している危険地帯だ。
だが、迷わなかった。
こんな狭い空間で二〇〇体の屍人に囲まれていては、逃げ場などない。
ならば道は一つ。
二〇〇体が二〇五体に増えた所で問題は無い。退路を確保する方が先決だ。
友介は一秒も迷いもなく手近な壁をぶち抜いた。破砕音が炸裂し、瓦礫が崩落する。パラパラと建材が落ちる穴を抜け、一気に廊下へ。
光が友介の目を焼くが、すぐに順応した。
開けた視界の先。
廊下を埋め尽くすように大量の屍人がゆらゆらと徘徊していた。
「うわぁあああああああああああああッ!?」
「どうするの!? こんなの逃げれっこない!」
「知るかよクソが!! こんなもん強行突破しかないだろうが!! あいつらの間を縫って進む。どんな病気を持ってるか分からねえ。絶対に傷を付けられるな!!」
切羽詰まった声。喉は震え、目にはうっすらと透明な液体が浮かんでいた。
(恐い。恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い!!)
大口を開け、こちらに近付いてくる屍人達に当たり前の恐怖を抱く友介。それでも、ここで折れるわけにはいかない。ここで折れてしまえば、それは直接死に繋がる。
「ねえ、ここは二手に分かれた方が……」
「黙ってろ!!」
絶叫し、字音の手を引いてゾンビの大軍目掛けて一気に駆け出した。
右眼でゾンビ達の次の動きを予測。敵に触れられる可能性が最も低い位置を算出し、そこへ身を投じていく。屍人達は手を伸ばし、二人の内のどちらかだけでも捕まえようとしてくる。密集しているためか、動作が緩慢になっていたのが幸いだった。友介は時に目の前に立ちはだかる障害を殴り飛ばすなどして完璧なルートを進んでいき、一時の包囲網を抜け出した。勢いを殺すことなくそのままさらに全力で疾走する。
曲がり角を曲がり、そこに安倍涼太が立っていた。
「——ッ!?」
驚顎の声を上げる暇も無かった。彼の近くに控えていた全長三メートルほどもある巨人のような骸骨が、腕を大きく振り抜き友介の腹へ拳を叩き込んだ。
「べ……ぶっばへぁ!?」
走る勢いを殺さず、自分から拳を受けに行くような格好になった。膨大な量の運動量が生まれ、友介の体内へ伝播する。内蔵がシェイクされたかのような感覚が襲う。
真後ろに吹っ飛んだ。
友介は凄まじい勢いで壁に叩き付けられた。体内の空気が口から全て漏れ出る。
地面に落ち、そこでようやく脳が信号を発し、全身に激痛が走り抜けた。
「……っ! か……ッ!! ……ッ!?」
肺が上手に空気を吸い込んでくれない。気管が本来の機能を発揮しない。
喉を何かがせり上がってくる感覚があった。友介はそれに逆らわず、吐き出す。赤い液体が床に花を咲かせた。そこでようやく呼吸に成功する。
「……ぁ……ッ!!」
「安堵友介!?」
誰かが自分を呼ぶ声がするが、分からない。
床に突いていた手から力が抜け、地面に崩れた。そのまま仰向けになり、場違いにも休息を挟もうとする。
「ダメだ、逃げて!!」
部屋を照らしていた照明の色が落ちた。
——否、違う。
何か大きな物体が、光を遮るように友介の真上にあった。骸骨の足だとすぐに気付いた。
「——ッ!!」
友介はとっさに体を横に転がして骸骨に踏みつけられるのを回避。すぐ真横で床が踏み抜かれる。破砕音が友介の鼓膜を震わせた。一歩間違えれば鼓膜は破れていたかもしれないほどの轟音だった。
友介はすぐさま立ち上がり、骸骨へ向き直る。目の前には床を踏み抜き足を引っこ抜こうとしている骸骨。
(——チャンスだ!!)
身動きの取れない骸骨の足に『急所』を作り出す。
「ぉおおおおおッ!!」
蹴り抜く。
枝を割るような音を鳴り響かせながら、骸骨の足が瓦解していく。
「な……ッ!?」
これには、さすがの涼太も驚きを隠せなかったらしい。無意識のうちに半歩だけたじろいでいた。
その隙を逃さない。
友介は激痛を訴えてくる体に鞭打って足を動かすと、呆然とこちらを見ていた字音の手を引いて涼太の横を一気に駆け抜けた。
「あ、おい!」
高い声で放たれる静止の声を振り切って、友介は体力が続く限り全力で走り続けた。
階段を駆け上がり二階へ。
誰も後ろから追ってきていないことを確認して、そこでようやく二人はほっと息をついた。壁に背を預けて、ずるずると床に座り込む。
「なんとか撒いたか……、が、ふッ!」
「ちょ、大丈夫!? 今手当を……」
「いい」
友介は字音の厚意を片手で制して、再びゆっくりと息を吐く。
「あれ?」
そこへ、
「アンタこんな所で何してんの?」
こちらをバカにしたような声。
顔を上げれば、赤髪金眼の少女が呆れるような口調で話しかけてきた。
見間違うはずもない。
風代カルラだった。




