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Rule of Scramble  作者: こーたろー
第二編  陰陽の死角
32/220

第二章 怪談・字音  2.死体ごっこ

 それからは特に何をする訳でもなく時間が過ぎ、疲れきった五人は自室で休憩することにした。それは友介も例に漏れず。今日は朝が早かった上、無駄な全力疾走、軽い山登り、そして殺人事件と、様々なことがあり過ぎた。


 クローゼットに閉まってあった来客用の寝間着に着替え、友介はベッドにどさりと横になる。

 ゆっくりと息を吐き、呼吸を整えた。

 夕食は摂っていない。あんなモノを見せられた後に、何かを口に運ぼうなどと思う人間はいないだろう。想像しただけで吐き気がしてきた。だから、平然と今夜の夕食を楽しみにしていたカルラと千矢には軽い嫌悪感を覚えたものだ。あの二人は現在、事件について話し合った食事場で美味しいディナーを頬張っている頃だろう。その神経の太さを、ある意味羨ましいと思った。


「うぷ……思い出しただけで気持ち悪くなってきた」


 隣のベッドで草次が呻くように呟いた。彼もまた友介と同じくまともな神経の持ち主だったようで、豪勢なディナーを遠慮していた。

 友介はそれには答えない。草次も返事を返して欲しかった訳ではなかったらしく、友介のことなど放っておいて、未だ一人でブツブツと何事かを呟いている。


「そういえばよ」

「ん? どしたん?」

「今晩はどうすんだ? まさか馬鹿みたいに熟睡するつもりはねえよな。この館には確実に殺人鬼がいるんだぞ」


 友介の簡単な疑問。というよりも、普通の人間なら絶対に抱くであろう疑問だった。

 凄惨な事件が起きた。犯人が誰なのか特定できていない。そんな状況で、何の警戒も無しに一夜を寝て明かすなど不用心どころの話ではないだろう。そんな奴はもはや自殺志願者だ。

 草次もそれは考えていたらしく、


「そうだよねー。やっぱり、三人で交代しながら怪しい人がやって来ないか、部屋の中で見張っておくのが無難かな。まあ、この場合は見張るって言うよりも、聞き耳を立てるの方が無難かもしれないけど」


 彼の意見に友介も賛成だった。こんな時に、何の保険も無しに熟睡することなど考えられなり。だがそうすると、一つだけ問題が存在する。


「もし、俺たちの中に犯人がいた場合はどうするんだよ」


 そうだ。現在、容疑者の候補は今この場にいる全ての人間なのだ。誰も彼もが己の身の潔白を証明する手段を持たない。全ての人物が瀬川ミユを殺害できる立場にいた。そして例えば、犯人が安堵友介、草加草次、川上千矢のうちの誰かであった場合、草次の案は己に牙を剥く。


「でも現状、これくらいしか打つ手はなくね? それに、もしこの場にいる誰かが犯人だとしても、今夜俺たちの誰かが殺されるってことはないと思うけど」

「ま、一発でバレるしな」


 結局、犯人がこの中に紛れていたとしても大きな動きは見せないだろうという推測のもと、今夜は交代制で見張りをすることになった。

 話が落ち着いたちょうどそのタイミングで、千矢が夕食から帰ってきた。


「ただいま」

「おー! おかえり!」


 草次が挨拶を返し、そのまま先ほど友介と話し合って決めた事を告げた。千矢はそれを嫌な顔一つすることなく聞き、適当に頷いている。


 そんな二人を眺めながら、友介は何となく先ほどの草次との会話を思い出してみた。


 先の会話で、友介も草次も互いが互いを容疑者として考えることに何の躊躇いもなかった。信じるとか、背中を預けるとか、そう言った確固たる絆は存在しなかった。だからと言って互いに激しく拒絶し合っている訳ではない。ただ単に、他人だとしか考えていないのだ。

 もっとも、まだ出会って数日しか経っていないのだから当然と言えば当然だ。壁があってもおかしくはない。


 いや、壁というほどのモノではないのかもしれない。大体、すでに五人が互いに気を使っている様子は全く無いのだから。だからそれは、壁ではない。

 例えるならば、そう——小さな(へだ)たりのようなモノでしかないのかもしれない。あるいは、線引きか。


(まあ、仕事に支障はねえんだし、それでも良いと思うけどな)


 遠巻きから草次と千矢の二人の会話を眺めた。

 その表情が——嘘ではない、本心からの笑顔が、どこか虚しく見えるのは、友介の気のせいではないと思う。


「それじゃあ、今日はもう寝ようか」


 千矢の言葉を受け、草次が部屋の灯りを消した。

 最初の見張りは草次から。

 長く、暗い夜が始まる。

 友介はベッドに潜りしばらく何事かを思案していたが、やがて今日一日の疲れがどっと押し寄せ、友介の意識は深い闇の底へと落ちて行った。


☆ ☆ ☆


 燃え盛る街。燃える。もえる。モエル。燃えル。燃エる。燃エル。燃える。

 地獄の中で、一人の少年がこちらを向いていた。

 半身を焼き焦がされた、友介の級友。友介にまとわりつく亡霊。あの日の記憶。全ての根源。少年の罪の形そのもの。少年を縛るもの。


 いつまでこちらを見ているのだろうか。いつまで安堵友介を苦しめ続けるのだろうか。いつになったら解放してくれるのか。

 地獄の中、向き合う二人。

 そこに。



 一条の光が射し込んだ。



 それは、あるいは『希望』と呼べるもの。

 それは、すなわち『救い』と呼べるもの。


 暗黒と紅蓮に満たされた少年の世界に、純白の光が射し込んだ。斜光はゆっくりと分解され、光の粒子となる。一度バラバラとなった光子はさらに形を変え、一人の少女の形を作った。


『唯可……』


 かつて友介が通っていた中学校の制服を身に纏い、頭には不釣り合いなほど大きな魔女帽子をかぶった少女。

 いつか、少年が守りたいと想い、そして今、どうしても再会したい少女。あるいは、戦う理由そのもの。


 彼女に触れたい——その一心で、二年前の姿をした安堵友介は手を伸ばす。けれど、その手が彼女に触れる直前、愛しい少女は無数の光の粒となって虚空へと消えていった。

 少年の手は、行き場を失ったようにだらりと宙に浮いていた。


 ——ああ。また届かなかった。


☆ ☆ ☆


「おい。何をしているんだ。次は安堵の番だ」

「は……?」


 名を呼ばれ、友介は目を覚ました。焦点が合わず、視界がぼやけている。寝ぼけ眼で隣を見ると、眼鏡を掛けた少年がこちらを覗き込んでいた。


「どうした? 手なんか伸ばして。夢でも見てたか?」

「…………」


 友介は答えない。

 最近よく見る夢だった。二年前唯可を守りきれなかったことに起因しているのだろう。夢の最後で、彼女は必ず友介の前から消えてしまう。


「まあ別に良いが。それよりも、早く変わってくれ。交代の時間だ」

「え、あ、おお……。悪い、すぐ起きる」


 ノロノロとした動作で起き上がり、友介はベッドから起きた。それと入れ替わるように、千矢が己のベッドに潜り込んだ。友介はそちらを見ず、一度窓の外の景色を眺めた。森の中に立てられた洋館。そこから、群馬県の街の景色が見えていた。光が散らされた夜景を見て、友介は今さらながらここが科学圏であることを思い出した。


 部屋へ向き直ると、すでに千矢は寝息を立てて眠っていた。友介のベッドを挟んでその奥では、草次がうるさいイビキをかきながら眠っていた。これでは廊下から誰かがやって来た時に足音が聞こえないのではないだろうか。

 友介は若干顔をしかめ、草次を恨めしそうな瞳で見ると、扉の前まで歩いた。すでに置かれていた椅子に座り、友介は聞き耳を立てる。誰かが来た時にすぐ対応できるよう、集中を切らさない。


 とは言え、特段何か変わった様子はない。外から変な音が聞こえてくることは無いし、部屋にいる誰かが突然起き上がって襲いかかってくるような気配もない。

 そう断じ、少し気を休めようとしたその時だった。



 カタン、と。

 まるで、包丁で何かを切るかのような音が耳に届いてきた。



 カタン。カタン。

 まな板を叩く包丁の音は途切れる様子がない。


「…………?」


 不審に思い、友介は耳を扉に当ててより注意深くその音を聞こうとする。音は消えない。断続的に響く怪音がジワジワと友介の神経を(あぶ)る。


「…………っ」


 一つ唾を飲み込み、友介は音を立てないようゆっくりと扉のノブに手をかける。緩慢な動きでノブを回す。近くに置いてあったルームキーを手に取り、扉を開いた。


「……あれ、友介くんどっか行くん?」


 背後から突然放たれた言葉に、どくん! と一つ鼓動が跳ねた。振り返ると、草次が寝ぼけた様子でこちらを見ていた。


「いや、別に。ちょっと気になることがあってな……」


 友介は適当にごまかした。その間もずっと、カタン、カタン、と音が響いていた。草次は寝ぼけていて聞こえないのかもしれない。いちいち起こすのも悪いので、友介は彼に寝るように言って一人廊下へ出た。


☆ ☆ ☆


 この洋館が森の中に建てられているからか、はたまた得体の知れない悪寒を感じているからか、全身を鳥肌が包んでいた。友介は両腕で体を抱くような格好で廊下を進んでいく。

 廊下に出ても、不気味な音が消えることはなかった。


 カタン、カタン。

 音は相変わらず鳴り続けており、友介の心をゆっくりと恐怖で蝕んでいく。恐怖による錯覚か、異臭が鼻につくような気がする。

 足音を殺し、呼吸を潜め、周囲の警戒を怠らないようにして進む。絨毯敷の床が今はとてもありがたい。


 廊下に灯りはない。電灯があったはずだが、どういうわけか電源が入れられていない。

 率直に言って、不気味だった。

 一寸先は闇。目の前の闇から何かが飛び出してきそうな気がした。化物が潜んでいるかのような暗黒。


(どうなってやがる……)


 違和感が友介を襲う。昼間とは印象がガラリと変わった廊下。歩くたびに響いてくる硬い音が大きくなる。音源に近付いている証拠だ。

 動悸が速くなる。呼吸だけは落ち着けようと努め、友介はさらに進む。


 やがて彼が辿り着いたのは、大きな部屋だった。さきほどカルラ達と共に事件について話し合った食事場だ。

 友介はポケットからスマートフォンを取り出し、ライトを点けて部屋の中を照らした。最初は中央のテーブル。それから部屋の隅々まで調べた。しきりにライトを振り、暗闇にいる何者かを捜す。だが、どこを照らしても、音の原因になりそうなものは見当たらなかった。ただ、音だけが大きくなっていく。


 カタン。カタン。カタン。


「どう……なってんだよ……」


 意味が分からなかった。疑問が頭の中をぐるぐると回る。恐怖が全身を絡めとり、その場から動こうとするのを許してはくれなかった。


「…………っ」


 カタン。カタン。カタン。

 部屋を見渡す。けれど、誰もいない。

 ————と。

 冷静に部屋を見渡して、ようやく気付いた。廊下から食事場へと入る出入り口。その反対側の壁に扉が設置されていることに。


 それは、厨房へと繋がっている。

 友介は恐る恐る、厨房へ繋がる扉に近付いていった。


 カタン! と。

 音が一際大きくなった気がした。

 カタン! カタン! カタン!


 今まで気付かなかったが、意外にも強い力で包丁を使っているらしく、まるでこちらに警告してくるかのようだった。

 近付くたびに、音が大きくなっているような気がする。


(……いや、違う……?)


 小さな違和感が少年の中に生まれる。

 音は近付くたびに大きくなっている。それに間違いはない。だがそれは、ただ単に距離が近付いたことだけが原因なのか? それ以上の要因があるような気がしてならない。

 一歩、二歩、三歩。

 ゆったりとした歩調で、友介は厨房へと続く扉へ近付いていく。


 カタン! カタン! ガタン!!

 さらに音が大きくなる。音と音の間隔もまた狭まり始めていた。


(気のせいなんかじゃない……絶対に、音が大きくなってる)


 ガタン!! ガタン!! ガタン!! ガタン!! ガタン!!

 やがて、扉の前まで辿り着いた。ドアは僅かだけ開いており、隙間から中の様子を覗き見ることが出来る。

 中を覗こうと、体を小さく動かす。隙間へ視線を送る——その直前。友介は一度だけ逡巡した。


 ————見るべきではない。

 ————中を見てしまえば、おそらく決定的な一線を越えてしまう。


 そんな、予感——否、確信があった。

 見るべきではない。今すぐにでも引き返すべきだ。体を一八〇度回転させ、音を立てずに自室へ戻るべきだ。


 頭では分かっている。けれど、体が言うことを聞いてくれなかった。どうしても音の正体を確かめたくなってしまった。不明なことをそのままにしておくことが、堪らなく恐い。嫌だ。原因を確かめて、出来るならばそれを排除したい。


 結局。

 友介は厨房を覗いてしまう。

 ガタン!! ガタン!! と。

 断続的に続く音は、まるで友介の体を操っているかのようだ。幽鬼のように緩慢な動きで扉へ近付く。隙間から中を(うかが)い見る。


 光源は、キッチンの端に置かれた小さなランプだけ。それに照らされながら、禿げ散らかした一人の老人が熱心に何かを切り刻んでいた。ボロボロの布を身に纏い、体がぬめりとした光沢のある液体に(まみ)れた老人が切っているのは……チーズか何かだろうか。トマトソースでもかけられているのか、赤い液体を塗りたくられた薄黄色の物体を、一心不乱に切り刻み続けている。


 何度も。何度も。


 右手に握った包丁を高く上げ、目一杯力を込めてそれをチーズへ叩き込む。ベキッ! と硬い物が割れるような音と共にチーズが乱暴に切断された。一瞬、何か赤い液体が噴水のように飛び散った。発酵し過ぎたのか、あるいはもともと(にお)いの強い製品なのか、強烈な腐臭が友介の鼻孔を刺激した。思わず呻きそうになるのを我慢しながら、しばらく老人を観察し続けた。


(……………………ッ)


 そのまま息を殺して五秒ほど。闇に慣れきった目がより鮮明に厨房の光景を網膜に映す。

 刹那。背筋に無数のウジ虫が湧いたかのような悪寒が総身を覆った。


(違う……違う違う違う! 何だこれ……ダメだ、違う。そうじゃないッ!)


 チーズだと? 何を馬鹿な。それはチーズなどではない。

 あれは……、


(し、たい……だ。死人の体を切ってやがる!?)


 今すぐにでも叫び出したくなる衝動を抑えた。とっさに口を押さえ、呼吸すら止めようとする。

 だが、ダメだった。恐怖によって速まる動悸。それによって自然、呼吸が荒くなってしまった。呼吸を止めていた時間は三秒にも満たず、塞いだ両手の間から焦燥に(まみ)れた息が漏れ出てしまう。


 ピタリ、と。

 包丁を握る右手が高く掲げられたまま、その場で静止した。



 ぎぎぎぎ、ギギ、ぎギギぎぎ、と。

 首が、錆び付いた玩具のような動きでこちらへ曲げられる。



 グズグズに腐りきった顔面。左の眼窩には眼球が収まっていない。辛うじて眼の形をしている右目も、眼球が飛び出るのではないかというほど膨張していた。鼻は形を失い、口からは緑色の液体と、真っ白な汚れが乗った舌がだらしなく垂らされていた。痩せているどころか、もはや皮と骨しか残っていない総身からは、弱さよりも違和感を友介に与えてきた。


「————ッ!?」


 緑色に変色した右の眼球がこちらを見る。射竦められる友介。悪寒が恐怖へ変わり、恐怖が全身を雁字搦めにした。その場から一歩も動けなくなる。金縛りにあったように体が言うことを聞かない。額に脂汗が浮かび、背筋を一筋の汗が伝い落ちる。


(目が……合った)


 喉がひくついた。まともに呼吸が出来ない。指先を火で炙られているかのような感覚があった。うなじの辺りがすぅーっ、と冷えていく。

 取り返しのつかないことをした。

 そんな予感が友介の中にあった。


 ぎり、ぎり、と壊れたゼンマイ人形のように屍人がゆっくりと足を踏み出した。それにつられて、友介の右足が一歩後ろへ下がる。それが引き金になり、二歩、三歩と後ずさる。反転し、全力で駆け出した。


「ぅ、ぁ……? あ……うわあああああああああああああああああああああああああああああッ!」


 情けない叫び声を上げながら、自室を目指して全力疾走する。

 友介の叫びに呼応するように、屍人が血に濡れた包丁を掲げながら友介を追い始めた。その痩せぎすの体躯からは想像も出来ないほどの力強さで駆ける。口元を僅かにだけ笑みの形に引き裂きながら、かつて人だったはずの何かが生者を追う。


 死体からの明確な殺意を背中に受けながら、友介は腰に手をやった。いつもな

ら拳銃がベルトに挿されているはずだが、今の友介は寝間着姿。そこに硬い兵器の感触はなかった。


「ない……無い無い……無い! な、なんで、なんで無いんだよ! クソぉ! いつもならここにあるのにッッッ!!」


 喚き散らしたところで状況が好転するはずもない。転がるように廊下を疾走した。


(どうする!? 迎え打つかッ? 見た目はキモイが、身体能力は一般人とそう変わらないように見える。だとすれば、得物がなくても一人でなんとかできるかもしれない……。だったら!)


 そうと決まれば早かった。暴れる心臓を押さえ、友介は反転して屍人と相対した。

 闇を切って走ってくる老人の死体を視界に収める。右の『眼』を起動させた。敵の動きを確実に把握し、未来さえ見通して敵を仕留めてみせる。

 右足を半歩下げ、動きやすい構えを取った——その瞬間に、視界の端で何かが動く気配を感じた。


「っ!?」


 とっさにそちらを向く。友介の右後ろ。ほんの一メートルほどしか離れていない所に、大口を開けたゾンビが立っていた。

 冗談抜きで鼓動が止まった。例えでもなんでもなく、厳然たる事実として、ほんの一瞬心臓の動きが停止した。

 ぽっかりと空いた闇から強烈な悪臭が漂ってきた。闇が徐々に大きくなっていく。

 喰われる——!!

 そう本能で悟った。


「ぁぁあああああああああああああああああああああああああああああああッッ!?」


 二度目の絶叫を上げ、右腕をめちゃくちゃに振り抜いた。技も何もない、無我夢中の一撃。手の甲に衝撃が走り、屍人が横に揺れる。追い討ちをかけるように、バランスを崩したゾンビの腹に右足を叩き込んだ。

 派手な音を一つ立て、腐った体は壁に激突した。


 だが一息吐()く間もない。何者かが友介の右手をがっちりと握ったのだ。

 もはやそちらを見もしなかった。

 訳の分からない叫び声を上げながら、手を握ってきたそいつを背負って投げ飛ばした。バキリ、という嫌な音が友介の耳朶を叩いた。骨が折れたのだ。背中から叩き付けたはずなので、折れたのは背骨か。


 とにかくこれで動けなくなったはずだ。問題はもう一人の方。

 ここに来てようやく、なぜ死体が動いているのか、という根本的な疑問が芽生え始めたが、今はまだ考えている余裕はなかった。一刻も早くこの理解不能な状況から抜け出さなければならない。

 友介はさきほど蹴り飛ばした方のゾンビへ向き直ろうとした。

 だが。

 その動きが途中で止まる。



 ぎぎ。ギギぎ、ギギぎぎぎぎギぎ、と。

 背骨を折られたはずの屍人が立ち上がった。



 まるで操り人形のような挙動。自らの意志で動いているようには思えない。悪い冗談のようだった。死体が動いているだけでも十分ありえない現象であるというのに、背骨を折っても立ち上がるときた。こんなもの、どうやって倒せというのだ。


「なん、なんだよ……」


 理解し難い現実を前に、友介の口から呟きが漏れた。


「何なんだよこれはぁ!!」


 叫び、再度の逃走。殺して止まらないのならば、戦うことに意味はない。そもそもすでに死んでいるのだから、致命傷を負わせたからといって止まる道理はなかったのだ。


 二体のゾンビが友介を追ってくる。


☆ ☆ ☆


「かはっ……! はあっ、はあっ、はあっ、はあっ! ……くそ。あいつら……体力にも限界がねえのか!?」


 かれこれ、十分以上は走り続けていた。休憩など取る暇も無い。足を止めれば追い付かれる。

 角を右へ左へ曲がり、階段を上り下りし、同じ所へ何度も戻ってきたりしながら。


 逃げ切れるとは思っていなかった。あちらの体力が切れることがないだろうということも予想できたことだった。ようは時間稼ぎ。走っている間に何か良い案が浮かべば良いぐらいの気持ちで走っていた。しかし、結局何一つとして有効な作戦は思い付かない。時間が経ち、体力が削られ、距離を詰められるたびに己の寿命が縮んでいるのだという確信が大きくなっていた。


 二年前を思い出した。

 ヴァイス=テンプレートに追われ、空夜唯可と共に渋谷を走り回った時の恐怖を。

 いい加減走り疲れてきた。止まりたい。座って休憩したい。水が欲しい。だが、止まれない。いっそこのまま捕まった方が楽なのではないかという誘惑が鎌首をもたげてくる。


 そんな甘い考えを振り払い、友介はさらにスピードを上げた。

 しかし敵の視界から消えようと何をしようと、ゾンビ達は絶対に追い(すが)ってくる。


 疲れからか、さっきから全身——特に顔——に気持ちの悪い感覚を覚える。まるで、長い髪の毛を数本顔に被せられたかのような感覚。あるいは、蜘蛛の糸に引っ掛かったような錯覚を覚えた。

 その感覚を振り払おうと、顔を中心に全身を両手で払った。だが、いくら払っても消えない。


 ————と。

 体にまとわりつく糸にばかり気を取られていたためか、足下に注意が行っていなかった。疲労も相まって、友介は何もない所で蹴つまずいた。バランスを崩し、走っていた勢いを殺せないまま凄まじい勢いで地面を転がる。


(まずい......!)


 友介はこけた勢いを殺さないまま、ぐるりと体を縦に回転させて立ち上がろうとした。

 だが、体が思い通りに動いてくれない。友介は再度その場で転倒する。


「がっ!」


 チラと後ろを振り向くと、すでに彼我の距離は五メートルもなかった。これでは追い付かれてしまう。追い付かれれば、殺される。

 彼は手を突いてもう一度立ち上がる。疲労がパンパンに溜まった太腿を叩き、走るための力を込める。

 一歩踏み出し、そのまま疾走。


 だが。

 数瞬の差で敵の方が早かった。

 背骨を折られた方のゾンビが右腕を伸ばして友介の服の襟首を掴んだ。ぐいっ、と引っ張り生者の体を引き寄せる。右手に持った包丁の切っ先を背中へ突く。


「————ッ!!」


 対する友介は、あらん限りの力でもって上半身を捻り、その凶刃を紙一重で回避。刃が寝間着に引っ掛かり、背中の部分が裂けた。友介の地肌が僅かにあらわになる。


 転じて反撃。

 乱暴な蹴りで屍人を押し返した。距離が広まる。

 友介はさらに後退し、体勢を整えようとした。


 しかし。

 もう一人屍人がいるのを失念していた。真横で風を切る音がしたかと思うと、細い腕がしなり友介の顔面へと吸い込まれていく。頬に衝撃を受け吹っ飛ぶ。背中を壁に強打し、体の中の空気が僅かに吐き出された。呼吸がままならず、思考能力も落ちる。


 そしてそれが分かれ道だった。

 止まっていた時間はわずか一秒。だが顔を上げれば、そこには赤い液体が付着した刃を振り上げる屍人が立っていた。

 思考が空白で埋め尽くされる。走馬灯が流れ、その中に愛しい少女の姿を見つけた。


(————ぁ)


 死んだ。

 直感がそう告げる。

 そして。

 風が唸り、空気が裂ける。

 白刃が少年の顔面を貫く。

 友介は目を瞑り、最後の時を待った。

 ......だが、いつまでたってもその時は訪れない。躊躇(ためら)っているのか、はたまた何か別の要因か。おそらく後者だろう。

 いつまでもやって来ない最期の時。それがもどかしくて、友介はおそるおそる目を開けた。


「…………?」


 白刃は、文字通り友介の目と鼻先で静止していた。プルプルと僅かに震動するその様は、何かに強制的に動きを封じられているようにも見える。事実、先ほどまで動き回っていたはずの屍人達は、今や微動だにしない。金縛りというよりは、むしろ電池が切れて動かなくなったと言った方が近いかもしれない。


 一秒、二秒と時間が経ち、しかしそれでも彼らは動かない。

 友介は己に向けられた切っ先から逃れるようにして壁から離れた。依然として彼らが動く気配はない。


(たす……かったのか……?)


 彼らから視線を外さないようにして、ゆっくりと後ろへ下がる。いつ動き出しても対応できるように爪先だけで床を踏む。

 しかし、彼らは動くどころかこちらを向こうともしなかった。


「……ッ!」


 意を決して、友介は背を向けて走り出す。自室を目指す。



 結局、部屋に戻った後も、彼らが追ってくる気配は一向になかった。

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