第二章 怪談・字音 1.考察開始
糞尿の匂いが鼻につく。視覚と嗅覚の双方からの衝撃で、友介の脳がグラグラと揺れる。
ポタリ。ポタリ。
全身から滲む体液が足下の水たまりに落ちる音もまた、この場の人間の神経をゆっくりと擦り減らしていっているように思えた。
「なんで……何でこんな……酷すぎる」
「……」
洗面台に胃の中の物を全てぶちまけた草次が、ぐったりとした様子で呟いた。それに、部屋の外にいた蜜希も僅かに頷いて答える。
死体なら見慣れたはずの友介もまた、その光景に圧倒されていた。
「そうだ、涼太様!」
しばらく続いた沈黙。それを破ったのは、ここでメイドとして働いている赤川みかこだった。彼女は青い顔に焦りの色を滲ませて、その場でキョロキョロと部屋の中を見渡す。
だが、誰もいない。
あの文章が正しいのなら、おそらく土御門字音の手によってどこかへと連れ去れてしまったのだろう。
「……一体、何が……?」
得体の知れない狂気がジワジワと侵蝕を始める。
するすると緩い坂を転がるように、日常が崩壊する音が響いていく。
「土御門字音……」
姿を見せず、痕跡も残さず、気配すら消してこれほどの惨状を生み出した存在。
これから自分たちの対峙する敵への印象がガラッと変わってしまった。
大した驚異ではないと高を括っていた。適当にやっていれば勝手に向こうから出てきてくれるだろうと根拠のない期待を心のどこかに住まわせていた。
その結果が、これ。
一歩間違えれば、友介自身があの白い紐に捕われていたかもしれないのだ。
(紐……?)
ふと、友介は何かに気付き、右目を眇めた。
ゆっくりと死体へ近付く。
「ちょ、友介君!?」
草次の慌てふためく声が背にかかるが、それを無視して歩を進める。死体の前まで歩き、ゆっくりと片手で紐を掴んだ。
「これは……」
紐というよりは、無数の糸がただ無造作に束ねられているだけのような感触だった。ただ、帽子や髪の毛の房のように簡単に糸をバラバラにすることは出来そうにない。糸そのものに粘着力があり、それによりそれぞれの糸が強固に結びつけられているのだ。
試しに一本、剥がしてみた。ペリ、と軽い音が鳴る。糸は半ばで千切れ、友介の手元にあるそれは五センチメートルにも満たない。だが、それで十分だった。
「この糸……」
軽く左手に垂らしてみた。手の甲にまとわりつくその不快な感触に、友介は心当たりがある。というよりも、それは、最初に抱いた印象と全く同じものだった。
「蜘蛛の糸だ……」
☆ ☆ ☆
その後、カルラと千矢の二人も現場に駆けつけた。
千矢は遺体の惨状を見ても何の反応も示さなかったのに対し、カルラは痛ましい表情を浮かべて黙祷を捧げた。
死体はそれ自体で証拠として残るためそのままにしておくべきだという事になり、一端放置するという方針に六人全員が合意した。
「まあでも、ここにいてもなんも始まらねえしな。とりあえず食事室で今後の方針についてしっかり話し合った方が良いだろ。ここにいてもなんも出来ねえ」
「そうね」
千矢の提案にカルラが合意し、続けて友介達も静かに頷いた。
☆ ☆ ☆
食事場の真ん中に置かれたテーブルを囲むようにして六人が席に着く。
「それで」
友介が少し不機嫌そうな声色で話を切り出した。
「ここまで来て、一体何を話し合うんだよ。各々推測を述べた所で、何の物証も出てないんだから、全部憶測に過ぎないだろうが。ここでこうやって集まることに何の意味があんだよ」
「馬鹿ね。とりあえずアリバイだけは聞くべきでしょ。誰がどこで何をしていたか。当人の言葉に矛盾があれば、そいつが怪しくなる」
「だからその行為に意味がねえだろうが」
「どうしてよ」
「俺ら五人はずっと一人で土御門字音の探索をしていたんだ。ここにいる誰一人としてアリバイを持っている人間はいない。赤川さんも含めてな」
カルラは顎に手をやり、ふむと考える。アリバイの線から考えるのは無駄となってしまった。全ての人間が単独行動をしてしまっていては、アリバイもクソも無い。裏付けが取れないのならば意味が無い。
「でもまあとりあえず、みんなどこで何をしてたかを話してみればいいんじゃない? 調査の進捗情報もちょうど聞きたかったし」
「確かにその通りだな! さすがカルラちゃん!」
「うるさい。黙れ」
カルラににべもなく切り捨てられる草次を放って、友介はため息を一つ吐くと、捜索中の出来事を淡々と述べた。
「じゃあ俺から。俺は屋敷を調べて回るだけじゃなくて、赤川さんと安倍涼太にもそれとなく探りを入れてみたんだ」
ちなみに成果はゼロだった。
「被害者の瀬川ミユは?」
「会ってない。あの人なら色々知ってそうだったんだけど、どこを探してもいなかった。部屋にも鍵がかかってたしな。多分自室でくつろいでたか……」
「その時にはすでに殺されてたか」
余計な一言をぶち込んできたのは、川上千矢だ。
友介はそれを無視して、ロビーでの会話を思い出す。彼女はまるで、友介のことを知っているかのような口ぶりだった。もっとも、『異端』ヴァイス=テンプレートを撃破したという功績があるので、魔術圏の深い所にいる人間ならば知っていてもおかしくはないのだが……
(ただ、あいつはちょっと違ったんだよな)
伝聞として友介の偉業を知っているというよりも、確固とした情報として安堵友介について知っているという感じだった。彼自身の秘密について知っていると言った方が良いかもしれない。友介自身は己に何か秘密があるなどとは全く思ってはいないが、彼ら魔術師からすれば、友介は秘密の宝庫なのかもしれない。
(いいや)
頭の中に浮かんだ甘えた考えを、友介をすぐに否定した。安堵友介に秘密が無い? ——そんなわけが無かった。
左目。
この左の眼窩に収められている青い瞳の眼球。光鳥感那が『崩呪の眼』と呼んだ魔眼。このイレギュラーの正体を、光鳥感那も、河合杏里も、ヴァイス=テンプレートも、そして安堵友介自身も知らない。これを秘密と——謎と呼ばずして何と呼ぶのか。
そして彼女は、まるで友介の魔眼について知っているかのような事を言っていた。
『カラコン、入れといた方が良いよ』
あれはきっと、魔眼の持ち主であることが何者かにバレるぞ、という警告だったのではないだろうか。彼女はきっと、何かを知っていた。
「ていうか、アンタ。被害者と話したことがあったの?」
「……、あ。ああ。言ってなかったな。そうだ。俺はあいつと軽い会話をした」
一人思考の海に沈んでいた友介を、カルラの質問が現実に引き戻した。
「とは言っても、その時はホントに雑談しかしてねえよ。ただ……」
「ただ?」
「あいつは、自分を魔術師だと名乗った」
「……ッ」
場に緊張が走る。科学圏の人間にとって、魔術師というのは恐怖の象徴であるのだ。あのカルラや千矢でさえも、顔から余裕を失っていた。
「それはまた……驚いた。魔術師がいるとも知らずに、俺たちは部屋でくつろいでいたのか」
「まあでも、害意は無さそうだったけどな」
「ていうか、殺されただろ」
どうやら千矢は、基本的に余計な一言を口走ってしまう傾向にあるらしい。友達には絶対したくないタイプだな、と内心感想を抱く。
その後、カルラや蜜希、草次と千矢がアリバイを主張したが、誰も彼もほとんどずっと一人でいたらしかった。ミユが自室に閉じこもってからは、ここにいる六人全員、無実を証明するためのアリバイが存在しない。つまり、この場の誰もが容疑者ということだ。
「じゃあ最後に、赤川さん」
カルラがみかこに、瀬川ミユが自室にこもっていた時間に何をしていたか尋ねる。問いかけられた彼女は、俯いたまましばらく反応を返さなかった。
「赤川さん?」
カルラが再度呼びかけ、ようやく下げていた顔をハッとしたように上げた。彼女は驚きからか少しだけ口ごもりながら、ポツポツと自分のアリバイを話し始めた。
「私は、その……ずっと涼太様のお部屋の掃除をしていました。ただ……」
「ただ?」
カルラが問う。
「私、しばらく涼太様といたのですが、突然何かを恐れたように虚空を見つめた後、急いでどこかへと駆けられてしまったのです」
「どういうこと?」
「分かりません……ただ一つ、不可解なことがあって」
「不可解なこと?」
カルラが訝しげな瞳をみかこにぶつける。
「ええ。走っていく直前、その……こう言っていたのです」
カルラの鋭い瞳に射抜かれ、みかこは一度だけ体をびくりと震わせてから、ゆっくりと言葉を吐き出していく。
「その、『字音』と……」
「————」
場に再度、緊張が下りた。
十中八九、土御門字音のことだろう。その呼び方から推測するに、もしかしたら安倍涼太と土御門字音は友人関係だったのかもしれない。
(それを確かめる術も今は無い、か……)
「これ、結局どういう意味なんだろ?」
疑問を発したのは草次だった。彼はこめかみを指で揉みながら、
「元々、この館に土御門字音が隠れているっていう情報があった。さらに、ここで起きた殺人事件の現場には、土御門字音が書いたかもしれないメッセージがあって、加えてこの館の主人である涼太君は、その字音って人と顔見知りだったかもしれない……これってどういう偶然なんだ?」
「ぐ、ぐぐ、偶然じゃ、ない……のかも……」
草次の疑問に答えを返したのは、以外にも口数の少ない蜜希だ。彼女はおずおずと右手を挙げて、他五人から発言の許可を得ようと上目遣いで場を見渡した。
「早く」
「あ、は、はい……ごめんなさい! ……えっと。だからつまり、い、いっい、今草次君が言ったことは、た、単なる偶然なんかじゃなくて、全て一つの線で繋がってるんじゃない、かな」
「つまり?」
「この館には土御門字音が隠れて住んでいて、……あのメッセージは土御門字音が自らの存在をアピールするためのモノ、だった。瀬川、ミユさんの殺害には大した意味が……無かった、とか?」
「目的は殺害ではなく、メッセージを残すことだったってことか?」
引き継いだ友介の言葉に、コクリと蜜希が頷く。
土御門字音が自らの存在をアピールすることに何の意味があるのかは分からない。ただ、あれほど強烈な光景と共に残されたメッセージだ。あの文章には何か裏があるのかもしれない。
「まあ、考えても仕方ないわね。とりあえず今日はここまで。ここにいる全員が容疑者になった。そして土御門字音が何か目的を持って暗躍しているかもしれない。こんだけ分かれば十分でしょ」
「あ、おい。ちょっと待て」
「あ?」
「お前ホントいちいち俺に当たり強いよな」
出会ってから二日しか経っていないが、いい加減彼女からの扱いに慣れてきた友介は、注がれる視線を受け流しながら気になっていたことを言った。
「そのよ。安倍涼太はどこに行ったんだよ。あいつが裏で糸を引いてる可能性もあるだろ。てかむしろ、アイツの自作自演と考えるのが一番理にかなってると思うんけどよ」
「それは、ないかと……」
友介の弁に異を唱えたのは、赤川みかこだった。友介は視線だけで、なぜと促す。
「この館では頻繁にある現象が起こるのです」
「ある現象って?」
「神隠しです」
それから、みかこはこの館に伝わるという神隠し伝説について、ポツポツと語り出した。とは言っても、それらは全て涼太から聞かされたものだったらしく、彼女が実際にその目で見たわけではないとのことだった。
「先ほど、安堵様にお話しさせていただきましたよね」
「あん?」
「私は一ヶ月前にここに雇われたばかりだと」
「ああ。言ってたような気もすんな」
「実は、涼太様がこの館に来てからの半年で、すでに六度もメイドを変えているらしいのです。私の前に努めていらっしゃった人達は皆、涼太様が知らぬ間に消えていたとのことです」
「つまり、今回の件では安倍涼太自身が神隠しにあってしまったって訳ね」
「はい。おそらく……もしかすれば、その神隠しすらも——」
「土御門字音の仕業かもしれねえ、ってことか」
結局、何一つとして確固たる真実も得られぬまま、その場は解散となった。




