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Rule of Scramble  作者: こーたろー
第八編 狂騒の理想都市
218/220

DAY1――Ⅱ Wriggles Atlantis 3.Skirmish

「はっ、はあっ! ぐ、……!」

「ひぃっ、ま、撒いたか!?」

「知らねえよくそ! 何でクリティアスみてえな大物が俺たちを追うんだよ こんなに危険だなって聞いてねえぞこっちは!」


 アトランティスの光が届かない路地裏を走る三つの影が口々に文句を吐き散らす。自身たちを襲った理不尽に対し怒りよりも恐怖が先に来ているようで。その声音や仕草にも背後から迫る見えない何者かにおびえているようであった。


 簡単な仕事なはずだった。

 中枢領にある研究機関から指定されたものを受け取り、それを医学領の別の研究機関に届けるという、それだけの任務だった。

 それだけで、向こう三年は遊んで暮らせるほどの金が手に入ると聞かされていたのだ。

 それがこんなことになるとは一つとして聞かされていなかったし、当然全く予想もしていなかった。


 だが、冷静に一歩立ち止まって考えてみればわかることでもあった。あれほどまでに都合のいい話が転がっているはずがないではないか。

 少し考えればわかることだった。ほんの少し想像を巡らせてみれば、裏があることなどすぐに気付けただろうに。


「ちく、しょう……っ!」


 クリティアスに襲撃された際、中に取り残された仲間が一人死んだ。どうせ替えの利く人員なので彼を失ったことに対する悲しみや怒りは存在しないが、軽い仕事だと油断していただけに死人が出たというその事象そのものに対する恐怖や嫌悪感が、いつもの仕事とは比較にならない。


「お、おい! もうそんなもん捨てちまえよ!」

「そうだぜ。持ってるから追われるんだろぉ!?」


 後ろからついてくる仲間が耳障りなことを喚き散らしてくる。それがあまりにも気に入らなくて、男は知らぬ間に怒鳴っていた。


「黙ってろ! 今さら捨てたところであいつらが俺らを見逃すとは限らねえだろ! 逃げたきゃ一人で逃げてろ!」


 どうせクリティアスに悪認定された時点でほとんど詰んでいることに変わりはない。たとえコレを捨てたところで、闇に浸っているというだけで殺されてもおかしくはなく、捨てた場所を吐かせるために拷問されることを考えれば、少しでも勝ちを取るための努力をするべきだ。


「生きたきゃ走るんだなっ! どっちにしろ任務を完了すればあのクソ野郎に言って俺たちの生活を保障してもらう!」


 そうだ。確かにほとんど詰んでいるが、何も逃げ道や突破口が存在しないわけではないのだ。

 諦めるにはまだ早い。希望などかけらも存在しないこの世界で生きるためには、生きる意志を持たねばならない。逆境、窮地は日常茶飯事。ならばこそ、生き抜くために意志を保ち、考えることをやめてはいけない。


「まずはどこかに身を隠すぞ。敵の監視から逃れたら、昼に人ごみに紛れて行動だ。幸い俺らは奴らに顔を見られてない。おかしな行動をしなきゃばれねえよ」

「ほ、ほんとか……?」

「ああ」


〝聖遺物“とやらが手のひらサイズの箱に包まれていることも幸いした。

 これならばまだ一縷の望みはある。


「よし、じゃあまずは身をかクSo……o?」




 言葉は最後まで続かなかった。

 男の体に縦一本朱線が入り、ずるりと左右に分かたれ絶命したからだ。




「は……?」

「え、なっ……」


 絶句する二人をよそに、リーダー格の男の体が左右に開き、鮮血をまき散らして崩れ落ちた。

 そして――




「ォォォ……オオッ――ォォォォォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■!」




 明らかに人の絶叫でありながら、理性を持つ人間では絶対に出すことのできない獣の咆哮が轟いた。

 分かたれた男の向こう側で刀を振り下ろした状態で地に膝をつける漆黒の騎士。

 兜、鎧、ブーツ、双剣……そのどれもが暗黒で塗り固められた狂騎士が、〝聖遺物〟の前に姿を現す。

悪夢(ルーザー)』――科学圏が抱える深淵の闇、その一つ。

 魔術結社『蒼穹の曙光』の長を務めるリリス・クロウリーに奪われた人間兵器が、今この理想都市で牙を剥いて闇を食らう。


「なっ、おまっ! やめ、ひぎゃぁぁぁああああああああああああっ!?」

「待って、いらない! 聖遺物は渡すから許しでヴぇぎゃぁああ!?」


 逃げようとする残り二人を順番に屠った後、黒騎士はそちらには見向きもせず手のひらサイズの小箱を拾い上げた。


「…………ゥ。ゥウウっ」

 別にこの〝聖遺物〟とやらにこだわりがあるわけではなく、これを使って何かをしようという気も起らない。

 だが、ただ一つわかっていることがある。

 これを持っていれば、あの男は近づいてくるらしい。


 憎んで憎んで憎んで憎んで憎んで憎んで憎んで憎んで憎んで憎んで憎んで憎んで憎んで憎んで憎んで憎んで憎んで憎んで憎んで憎んで憎んで憎んで憎んで憎んで憎んで憎んで憎んで憎んで憎んで憎んで憎んで憎んで憎んで憎んで憎んで憎んで憎んで憎んで憎んで憎んで憎んで憎んで憎んで憎んで憎み切ってもまだ足りないほど憎んでいるあの男が。


 かの仇敵を己の前に引き摺り出し、手足を捥ぎ、臓物を掻き混ぜて、彼の大切なものをすべて破壊してもまだ足りない。

 痛い、痛い、疼くのだ。

 あの時の炎が。

 赤いあの色彩が、今もこの身を苛んでいる。

 兜の下に隠した爛れた顔が痛い。

 全身に刻まれた火傷が痛い。


 凶念を宿した瞳は今さっき己が殺した命のことなど見ていない。

 真実、ただ一人――安堵友介という男だけが焼き付いている。

 許さない、許さない、必ず殺すぞ待っていろ。


「ォォォォォォぉああああああああああああああああああああああアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッッッ!」


 彼の憎悪はとどまることを知らない。

 どす黒い怒りの咆哮が空しく天に轟く。

 黒騎士はその怒りを原動力にして地を蹴った。

 ただの跳躍で十メートル近く上昇した黒騎士は、そのまま屋上に着地しようとして――




「男のくせに喚くなよ、女々しいぞ」


 侮蔑のこもった知らない女の声が耳朶を叩くと同時、鋼鉄のごとき硬度を誇る拳に兜を割られた。




「ギガッ……!?」


 兜を破壊され頬にまで届いた鉄拳は、黒騎士の頬をしたたかに打ち据えると、口内の歯を三本、容易く割り砕いた。


「ギィィィイイイイッ!? ゴァ!?」


 鉄拳の威力は人間の膂力を遥かに超えており、殴られた黒騎士は屋上に着地することはかなわず地面に叩き付けられる。バガンッ! という金属が砕け散る音が鳴り響き、黒い破片が夜の闇に舞った。

 衝撃と激痛によってかしばらく動けずにいる黒騎士は、それでも怒りの咆哮を止めることはなく、下手人へと憎悪の視線を向けていた。

 対して――


「ふん。これが『狂神種創造計画』と『騎士団計画』のハイブリッドとやらか。存外につまらん出来だな」


 青色をベースに赤の模様を織り交ぜた派手なフランス軍服を身にまとった女だった。黒髪は短く切られ、その上からスラッシュの入ったこれまた青と赤の帽子を被る妙齢の女性。

 固く握られた拳は、鉄を割り砕いたにもかかわらず血の一滴も滲んでいない。

 軽蔑の色を隠しもしない怜悧な視線を落としながら、それでも礼儀を重んじる女は自己紹介を始めた。


「私はローランス・ギース。三権人の一角を任される者だ。貴様に聞きたいことがある」


 三権人――すなわち、魔術圏統合同盟『九界の調停局(エニエスグラム・オピニオン)』における軍事担当機関『美麗賛歌(ブリーザ)』の大幹部が、科学圏の闇が生み出した奇形児へと言葉を投げる。


「貴様、今〝聖遺物〟を持っているな? それをこちらに渡してもらおうか」

「――――」

「なに、渡せばこれ以上の危害は加えん。私としても、貴様のような小物にかかずらっているほど暇ではない。だが、拒否するのならばやむを得ん。ここで全身の骨を砕かせてもらおう」


 毛ほどのためらいも感じさせない声音で、ローランスは決定事項を告げた。

 ビルの屋上から身を投げ出し、黒騎士の眼前へ華麗に着地する。その間、彼は何をすることもできず、ただただ敵の接近を許してしまうことになる。

 黒騎士はまだ立たない。ダメージが回復していないのか、反撃の期を伺っているのか、あるいは心が折れたのか。

 だがたとえどれであろうとも、ローランスには関係のないことだ。やることは変わらない。

 命じられた通り〝聖遺物〟を奪う。


「それで、返答は?」


 考える暇など与えず、今すぐに答えを要求する。たとえ殺し合いになったところで勝つのはローランスだ。ならば長引かせる必要はない。路地の出口には残りの三権人も待機しており、すでに詰みの形は完成している。


「答えろ」


 硬く、重く、拳を握る。

 それを振りかぶり――


「ノー、ということでいいな」

「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■――――ッッッ!」


 拳が振り下ろされるよりも遥かに速く鋭く、黒騎士が爆発するように飛び掛かった。

 女の首へ黒剣を滑り込ませて、筋繊維千切れるほどの膂力で力任せに降り抜いた。

 致死の一刀。回避は不可能だった。

 だが――


「貴様、何を見ていた?」


 甲高い音が鳴り響き、漆黒の刃が月光を浴びてくるくると舞い上がった。

 ひゅんひゅんと風を切る音を聞きながら、黒騎士はあり得ないものを見るかのようにローランスの首を見た。一秒前と変わらず頭と胴を繋げる、傷一つない女の首を。


「何を驚くことがある。これは私の染色だ。貴様ごとき小物の刃で傷つけられるほど、私の皮膚(じゅんけつ)はやわではない。それにしても――」


 黒騎士は動けない。驚愕に身を竦められ、致命的な隙を晒していた。


「なんだ、獣のふりをしていても理性は残っているということか。ありえない事象を前に困惑を隠さぬなど、かわいいところもあるらしい」


 鉄拳。

 重く硬い拳は、今度は鎧を砕いて水月へと叩き込まれる。

 金属の破砕音に続いて鈍い音が炸裂し、黒騎士の体がくの字に曲がる。


「『鋼の心根は不浄を砕く(フルゴーニュ・コントラタク)』――――私の染色でな、要は皮膚の硬度を鋼のごとく硬くするという、ただそれだけの力さ」


 微笑すら浮かべぬまま己の力の正体を明かすローランスは、さらに拳を握り降り抜いた。

 今度は胸。予定調和のごとく鎧を砕き、心臓を守る胸骨へと吸い込まれていく。


「――っ!」


 死の危険を感じたらしい黒騎士が寸でのところで後方へ下がり、心臓と胸骨の破壊だけは逃れた。

 しかし、打撃そのものを回避することはできず、無様に後方へと吹き飛ばされる。地面を転がり壁に激突した黒騎士が苦しげな咳を繰り返すも、敵対するローランスにしてみれば隙以外の何物でもない。

 すかさず距離を詰め、さらに黒騎士を殴り飛ばそうと一歩を踏み出した。

 だがその瞬間、彼女の前に三枚のカードが落ちた。


「――――」


 無視することもできたが、あえて踏みとどまったローランスの耳に、その詠唱は流れ込んできた。



「〝コクマーよりアレフを繋ぎ、ビナーよりベートを繋ぎ、ティファレトよりプリエステスを繋ぐ〟


 〝知恵と理解と美より(いず)る愚者・魔術師・女司祭のアテュ〟


 〝それら三本の小径の終端に至るセフィラの守護者〟


 〝至高にして原初の王冠へ至る道より、天の書記たる汝が神威を俗界へ降ろすことを許したまえ〟


 〝その(かんばせ)は日輪の輝きを塗り潰す光を放ち、その火の柱をもって愛子(いとしご)らを守るが務めならば〟


 〝36対の翼と36万5000の目をもって我が敵(かの罪)を裁かんと決定せよ〟


 〝立ち昇れ契約の天使、小さきYHWHよ――――守護天使、限定顕現『メタトロン』〟」



 詠が終わると同時、ローランスの足元に落ちた三枚の特殊なタロットカードが発火した。


「――ッ」


 悪寒を感じたローランスは咄嗟に後方へ跳躍。遅れて、発生した炎が勢いを増し、天を突くかのごとく立ち昇る。


 煌々と燃える巨大な柱。


 ローランスはそれを忌々しげに眺めた後、視線を背後のビルの屋上へと投げた。

 そこに浮かぶ小さなシルエット。黒いゴスロリドレスを纏う十二歳程度の幼女が、口元に凄惨な笑みを浮かべながらこちらを眺めている。


「物理攻撃無効化の力だと思っていたが、そうでもないのか? 炎に弱いのか? 熱に弱いのか? それとも打撃以外は無効化できんのか? いまだ皆目見当もつかないが、少なくともメタトロンの火の柱を前にしては、お前の絶対防御もすり抜けられるというわけか」


 影に覆われその面貌を完全に拝むことはできないが、声と口調、仕草に魔術から、こちらを見下ろす幼女が誰なのか、ローランスはすでに検討をつけていた。


「リリス・クロウリー」

「ふん、私のことを知っていたか。上手くジジイどもの陰に隠れていたつもりだったが、あの気狂い女の目は誤魔化せんか」

「口が過ぎるぞ変人の落とし子。誰の恩情で貴様の自由が許されていたと思う」

「知るかよ。見逃してくれと頼んだ覚えはない。奴が勝手にやったことだろう。いちいちあんなイカレ女に感謝してやれるほど私の器は大きくない。何しろ可愛い可愛い幼女だからな」


 適当な調子で言い捨てるリリス。ひらひらと片手を振ってよそ見をするリリスに、ローランスの瞳が険しくなる。敵意や怒り、そうしたものがリリスへと注がれる。

 だが、対する幼女に物怖じしている様子はない。自分よりも二十近く年の離れた女に対し、あくまでもなめ腐った態度で対応する。


「それにしても、まさか三権人まで出張ってくるとはな。〝聖遺物〟とやら、眉唾だと思っていたが、そうでもないのか?」

「貴様に応える義理はない」

「知らんだろうがお前も。賢ぶるなよ、年増」

「……――」


 明らかな挑発。しかしながら、ローランスは怒りに身を任せることもなく、冷静に現状と敵の胸中を分析していた。

 リリスが何を成そうとしているのかは知らんが、彼女の立場やこの街での今後を思えば、この場で露骨にローランスと敵対することは得策ではないはずだ。

 彼女は調停局に存在を特定されることを嫌がり、常に科学圏ノースブリテンのブレインとして闇に潜み続けた。それはひとえに、自らの存在が露見することを嫌ったからであるはずだ。魔術圏にいれば、否が応でも調停局の目に触れる。反して、科学圏に潜んでいれば、露見した時の調停局からの攻撃は苛烈なものになるだろうが、見つかる可能性は低くなる。

 それが、今こうして目の前に姿を現しているとはどういうことか。


「貴様の目的達成はすぐそこまで来ているということか?」

「ふん、人が話しているときに別のことを考えていたのか? マナーがなっていないな。だがまあ、特別に教えてやろう。……その通りさ。私の当面の目的は達成できそうだよ。それに、いい兵器も見つかったことだしな」

「あの狂犬のことか。まさか私が逃がすことを許すと思うのか?」

「お前こそ想像を巡らせろ。どうして私がお前と悪夢(ルーザー)を分断させるように火柱を創造したと思う」

「――ッ」

「ようやく気付いたか、阿呆」


 いたずらが成功した子供のように愉快そうに笑い、右腕を一振りする。すると炎はたちまち消えてなくなる。そして、本来その向こうにあるはずの黒騎士の姿は影も形も存在しなくなっている。


「……貴様」

「ははっ、そう怒るな。使うにしてもお前たちの悪いようにはしないさ。そもそも私は、法則戦争なんていう小さな枠には興味がない」


 ローランスの怒りを受けさらに上機嫌になるリリス。ただしそれは、彼女への侮蔑の念が多分に占めたものだった。

 どいつもこいつも愚か者ばかり。

 法則戦争? 科学圏? 魔術圏? 阿呆か貴様ら、小さい小さい。もっと先に滅ぼさなければならない敵がいるだろうに、そんなこともわからないのだろうか。

 見ているものがまるで違う。見据える敵が小さすぎる。ブリテンの一件を目にしてなおこれとは、あまりに救い難い。


 楽しい時間ではあるが、しかしこれ以上あれに関わっているほど暇でもない。

 ほんの一瞬迷った末、リリスはくっと笑って、


「というわけで私は行くよ」

「行かせると思うのか? そもそもここから逃げられると思わんことだな。あの黒騎士にしたところで、他の三権人が止めているさ」

「それはそのお仲間のところへあれが行っていたらの話だろう? 建物の壁を斬り尽くし、全く異なる場所に出れば、貴様のお仲間といえど捕まえられまい」

「ならば貴様だけでも捕らえるだけだ」

「それは困るな」


 薄笑いを浮かべる少女と、鉄のごとく揺るがない女。

 両者ともに譲り合う気配はなく、互いに臨戦態勢に入る。

 ローランスは変わらず拳を握り締めて。

 リリスはトートタロットの大アルカナに当たるアテュを三枚手に取って。


「砕けるがいい、二十世紀の忘れ形見」

「お前こそ歴史の重みを理解しろよ」


 ローランスが駆け出し、リリスがカードをばら撒いた。

 その、瞬間のことだった――




「も、申し訳ありませんリリス様っ! 報告しますッ。東海岸でガス漏れがあったらしく、数百単位で死者が出たとのことです!」




 激突の直前に差し込まれたその一言によって、リリスの魔術は不発に終わり、ローランスの拳も途中で止まった。


「な、に……?」

「……どういう、ことだ……?」


























「こういうことだ」


 そこに、紫煙を(くゆ)らせる伊弉冉(イザナミ)の使いがいた。

























[October 27, 20 : 45 : 18 at 〝Engineering〟 in Atlantis]



 夜の道を歩く友介の心は、これまで感じたことのない種類の苛立ちに襲われていた。

 枢機卿や葬禍王を前にしたとき、許しがたい理不尽を目にしたときとは全く異なる苛立ち、怒り。


「…………っ」


 原因はわかっている。


 あの女だ。

 安堵友介の母を自称した安堵悔奈という名の女。

 頬をほころばせもしない、氷の彫像の如き無表情。

 ぬくもりを感じさせない、冷たい刃のような視線。


 何もかもが気に食わなかった。

 物心つく前に自分を捨てて放ったらかしにしておいたくせに、再会した途端に母親面をするところも癇に障る。


 何のために接触してきたのかは不明だが、はっきり言っていい迷惑だ。

 今さら実母の存在など求めていない。義母も義妹も、つい先日新しい家族になった少女も、皆友介に愛情を注いでくれている。

 前者二人――河合夕子と河合杏里――は戦いに巻き込まれ、闇に塞ぎこみ閉じこもった友介を支え続けてくれた。そのおかげでここまで道を間違えずに来ることもできた。

 そして後者――風代カルラ――は、安堵友介が自分で守ると決めた少女だ。ずっと守り続ける。あの赤髪の少女が自分を許せるその日まで、ずっと隣に居続けるとそう決めた。


 もう、あの女が割り込む余地はないのだ。

『母親』とやらの出番は、安堵友介の人生の中においては存在しない。

 いない存在だった。いらない存在のまま、今もその認識は変わってもいないはずだ。


 だというのに、なぜ――


 なぜ、こんなに腹が立つのだろうか。

 あんな女のことは忘れてしまえばいい。

 自分を捨てて、十年以上会おうともしなかった『母親』だ。たとえ腹を痛めて産んだのだとしても、もはや他人なのだ。

 だから、だから――


「ッ、クソが」


 にもかかわらず、どうしてもあの女の顔が消えてくれない。粗暴な態度を窘める声が耳にこびりついて離れない。

 そして――


「うぜぇ、うぜぇんだよ……ッ」


 暴言を捨て台詞のように残し、逃げるようにあの場から立ち去った自分にもまた腹が立つ。

 そしてその理由がわからないこともまた、苛立ちと怒りに拍車をかける。

 順当に考えれば、子供のように怒りを吐き散らしてあの場から去ったことに対する自己嫌悪なのだろうが、それもどこかしっくりこない。


 理由がわからない。

 どうしてこんなにも自分に苛立っているのか。

 ともすれば、今の友介の自己嫌悪は、悔奈への怒り以上に彼の心に波を立てていた。

 まとまらない苛立ちに振り回されて歩いているうちに、抜け出したホテルが見えてきた。まだ自由時間内ゆえ点呼もされていないだろうし、勝手に外へ出ていることはバレていないだろう。

 正面の駐車場入り口から敷地内に入り、そのまま玄関へと進もうとしたところで――




「おい、安堵」




 聞き覚えのある声が、横合いから聞こえてきた。

 それも、とびっきりに嫌な声。いつ聞くだけでも耳障りだというのに、どうして今なのだろうか。


 剛野良樹。

 一学期、安堵友介がクラス全員から虐げられていた時、必ずその先頭に立っていた少年だ。

 悪い噂が流れていたことをいいことに、それを武器にして数を味方につけて攻撃してきた、極めて器の小さい人物というのが妥当な評価だろうか。


 もっとも、友介からしてみれば、何も知らないだけのただの一般人の枠を超えない。少し調子に乗る癖が酷く、その矛先が自分に向いているというだけだ。

 別段、害になる要素などは特にない。


 ただし、だからといってこの少年を好けるかどうかというのは別問題。

 今でこそ、凛や字音といった味方の少女たちのおかげでかつてのような仕打ちは受けなくなった。だが、彼が自身に対して良い感情を抱いていないのに変わりはなく、隙があればこちらにちょっかいをかけようとしてくる。

 それに、杏里が作ってくれた弁当を叩き落としたこともある。

 個人的な感情としては、相当嫌いな部類には入るのだった。


「なあ、お前、」

「おい」


 話しかけようとした剛野の言葉を冷たい声で遮る。剛野は顔に苛立ちを滲ませたが、それに気を割く余裕は今の友介にはなかった。

 こんな小物めいた真似はしたくない。情けないにもほどがある。

 だが、どうしても。

 今だけは、どうしてもこうするしかなかった。


「全身の骨を折られて日本に強制送還されたくなかったら、今すぐ俺の前から消えろ」


 ここまで心が苛立っている状態で余計なちょっかいを出されたら、一般人であろうと殴り殺してしまうかもしれない。

 誰かを守るために戦わねばならない身分で、力も罪もない、少し意地が悪いだけの少年に暴力を振るうなど許されない。ただ気分を晴らすために弱い者に八つ当たりをするなど、彼が嫌う理不尽以外の何物でもない。


 彼には関係ないのだ。

 本来なら、こうして脅される理由すらないのだ。

 そんなことはわかっている。わかっているのだ。

 それでも、弱者を嬲って気分を晴らすクソ野郎にだけはなりたくなかったから。


「……頼む。今は、構わねえでくれ」

「…………チっ。調子乗りやがって」


 友介の脅しに何かを感じ取ったようには思えない。殺気や怒りというものを感じ取れるほど敏い感性はしていないだろう。剛野良樹はいつも通り、友介を見下したままの調子でそんなことを言って去ったのだった。


「……はぁ」


 玄関からホテルに入り角を曲がると、その背中が見えなくなる。

 そこでようやく友介は一息つき、肩の力を抜いた。

 そして、再度襲い掛かる自己嫌悪。

 どこまで自分は小さい存在なのだろうか――口には出さないが、胸の内ではそんな思いがぐるぐると回っていた。

 髪を片手でガシガシと掻きむしる。が、当然そんなことをしても苛立ちは収まらないし、あの女の顔が消えてなくなってくれることもなかった。


「戻るか……」


 小さく呟き、友介は歩き出した。


[October 27, 21 : 17 : 10 at 〝Information〟 in Atlantis]









 土御門率也を前にしたリリス・クロウリーは、たった一秒で敗走を余儀なくされた。









「クソっ、クソ! クソ、くそくそくそくそ、くそったれがぁああああああああああああああああああ――――ッ!? が、がふぃア!? あぐ、ぎぃ、ぃぃぃいいいいああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!? がぅっ!? げふっっッッ! ごぼはぁあっ! げ、おげぇええ! ぎ、ぎぎ……いぎ、ギャっ、ぎっ!? ガぁぁぁぁぁっぁぁああああああああああああああああああああああああああああああああああぁぁあぁああああああああああああああああぁぁぁぁっぁぁあああぁっぁあぁぁぁっぁぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッッ!?」


 痛い、痒い、気持ち悪い。嘔吐が下痢が血液の沸騰が止まらない。指先が虫に食われているかのような異様な感覚に襲われている。激痛が神経経路を隅々まで犯して細菌が眼球を食い散らかし烈火が脳を焦がしている。爪が全て剥がれ落ちたかのような痛痒が蕁麻疹のように全身に広がって足首から膝までが浮遊するかのようで高熱にうなされながらも激痛が意識を手放すことを許してくれずさりとて巨人のごとき睡魔が瞼を腐らせて脳に煙をまき散らす耳の奥で無数の羽虫が痴態のダンスを踊り続けて暴発しているから耳を塞いでも不快な音は止まらず心のかけらが分離してから再結合絶叫は止まらない自分の声が知らない誰かの声みたいで現実感がないのは熱にうなされているからかそれとも全てが夢なのかわかることはただの一つもなくて自分の死期が急激に近づいていることだけが少女の脆い心をへし折りにかかってきてしまった箍が外れたように滂沱と流れる涙に濡れる頬の感触すらなくてだけどふとした瞬間に引き裂かれるような激痛が津波のように押し寄せてきては絶叫を上げて痛みが引いたら痒くなってくるから頭がおかしくなりそうで痒いところを掻いても掻いてもどうにもできないからまずは痒い所を削いでいこうと頬を引き裂き肌を掻きむしり指を噛み千切って絶叫で喉を痛めたら「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっっ! ふざ、けるな。ふざけるなふざけるなふざけるなよ楽園教会ィィィィィィィィィィィイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイッ! 私の、心まで、折ろうだなどとッ! おめでたい勘違いをするなよ下劣畜生どもがああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ! 枢機卿ぉッ! ォォォあああああああああああああああああああああああッ! くそ、絶対に許さない……ッ、土御門ォォォォ……ッッッ、率、也ぁぁぁっぁあぁぁぁあああああああっああっっああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッッ!?」


 もう撒いただろうか? 逃げ切ったか? いいや来るなら来い、今すぐ私が殺してやる。

 だが、そんな少女の覚悟や心意気、強気な姿勢は総じて塵にも届かぬ虚勢に過ぎない。

肉体は死に体。眼窩から血涙を流し、口からは赤黒い塊を絶えず吐き続け、鼻と耳からも止めどなくどろりとした液体がこぼれていた。

 精神も致命的だ。常の人を小馬鹿にした態度などどこに置いてきたのか、必死になって自分を負かした怨敵に呪詛を吐き続けるその様は、折れた心に目を背けているようにしか見えない。事実、少女の体の中心が、身を犯す痛痒とは全く異なる種類の震えに襲われているのだから。


「屑め、屑め、屑め、屑め屑め屑め屑め屑め屑め屑め屑め屑め屑め……屑、がぁぁっぁぁぁぁああああああああああああああああああああああああああっ!」


 このままでは何もかもが台無しになってしまう。ここまで積み上げてきたもの全て、あの陰気な男の煙管の紫煙を一秒吸っただけで滅茶苦茶にされてしまう。

 彼女が成そうとした夢が、泡のように弾けて消える。

 許さない、許されない。

 取り返すのだ、自分の生を。晴らすのだ、父の無念を、憎悪の決着を。

 だから、たかが左腕が消し飛んだだけでごちゃごちゃ何かを言っている場合ではない。


 ああするしかほか無かった。


 充満する紫煙を爆風で吹き飛ばし、その威力を利用して自身の体を吹っ飛ばすことで強制的に離脱するしか、生き残る道はなかったのだ。

 むしろ腕一本で済んだことがまず奇跡だろう。そもそも判断が遅れていれば黄泉の香に隅々まで犯されて即死していただろうから。


 未だ『痛い』や『痒い』の感覚があるのは、ひとえにリリスが未だ死に瀕していないから。ほぼ死に体ではあるが、それでもまだ意志は消えておらず肉体も駆動している証だった。

 率也に対する敵対心はほぼ折れているが、まだ生きることに対する意志も、教会のアキレス腱をぶった切るという目的へ邁進する意志も残っているのだ。


 だから――


「リリス様!?」

「な、なんですかこれは!」

「おい、誰か救護を! 治癒の魔術を使えるものは!?」

「リリス様、すぐに治療いたしますのでもうしばらくお待ちください!」

「正道さんは!? すぐに伝えろっ!」


 いつの間にか拠点にしている隠れ家についていたらしい。瀕死の状態のリリスを目撃した団員たちが顔面を蒼白にし、泡を食ったように走り回った。

 リリスはそれらのどれにも反応を返すことなく、掠れた声で絶叫を上げた。


「明日、だァァ……ッッッ!」


 血を吐きながら、今にもここにはいない敵を呪い殺しかねないドス黒い声で、そう絞り出した。困惑する団員など眼中にも止めず、まだ生まれて十二年しか経っていない少女は、周囲のものに掴まっては転倒するという行為を繰り返しながら、壁に貼り付けた一人の少年の写真を睨み尽くす。


「明日、安堵友介を、消す……ッ! 空夜唯可も、風代カルラも……楽園教会が、重要視する全てを、消す……ッ! 正道に、伝えろ……殺せと」


 屍人(ゾンビ)のように床を這いつくばって進む少女は、汚物にまみれて見るに堪えない姿になっている。

 だが、どうしてか、この場にいる誰も彼女から目を背けることができなかった。


悪夢(ルーザー)にも、……つたぇ、ぎ、ぃうああッ!? ぐ。ぐぅぅうううああああああッ! ……はぁ、はあ……っ、つた、えろ……ッ! 最悪の場合は、お前に、託すと……! 殺して、いい。本懐を、果たせェ……ッッ! 復讐しろ、あの日の恨みを叩き返してやればいいッッ! お前は、そのための、機械だろうと。自分を、見捨てたことを、奴が今ものうのうと生きていることを、後悔させてやればいいと、そう、伝えろぉおおおおおおッッ!」


 もはや少女は自分が何を言っているのかわかっていない。

 ほんの十数分前まで思い浮かべていたプランが全て瓦解した影響だろう、冷静さなどかけらも持ち合わせていない。


 初志を大きく逸脱したこの瞬間、両者の戦いは泥沼の殺し合いへと発展することが決定した。

 安堵友介とリリス・クロウリー、二人の和解の道はほぼ絶たれた。もはやリリスに友介を生かす道は選べない。そんな余裕はない。そんな力はない。


 よしんばそれができたとしても、悪夢(ルーザー)をけしかけた時点でもはや結末は決まっている。

 安堵友介に対して凄まじいまでの憎悪を燃やし続けるあれは、鎖を外された以上止まっている道理はないからだ。

 長い時間をかけてその憎悪を腐らせぬよう教育を施された戦闘人形(オートマタ)

 安堵友介という個人へと送られる悪趣味なプレゼント。


 最悪のカードが切られた。彼のあずかり知らないところで、陰謀は静かに回り始める。


 夜の闇は深まり、アトランティスに最初の狂騒が近づく。


 尽きせぬ悲鳴とも取れる絶叫が、地獄を生み出す覚悟を物語っていた。


[October 27, 21 : 32 : 48 at 〝Information〟 in Atlantis]


 土御門率也(りつや)にとって、リリス・クロウリーの排除は優先事項ではなかった。

 所詮は格下、どれだけ足搔こうとも彼のシナリオにおいて重要な位置に食い込むことはできない雑魚でしかなかった。

 それがこうして標的とされ、小さな少女が死に瀕しているのはどういうことか。


「……これで邪魔者が一人消えたか。三権人の女とよくわからん騎士は逃げたらしいが……まあ、別にいい。所詮、近くを通りがかった(・・・・・・・・・)ついでだ(・・・・)


 つまりはそういうことだった。

 歩いていたら目障りなハエがいたから、とりあえず持っていた物で叩き落とすか……その程度の認識でしかないのだ。

 言ってしまえば、土御門率也はリリス・クロウリーの赫怒と覚悟の絶叫などまるで眼中にない。


 死の香漂う路地裏で、黄泉の使いはただ一人――このアトランティスで渦巻く陰謀の中心に立っている。


「……聖遺物の確保、愛花の愛情と、アレの作成も順調。……器はすでに完成しており、聖遺物を流し込めば起動の準備は整うか……。後はアンゲロスを天位の似網(アイズ・オブ・アトランティス)から引き剥がすという難題が残っているが、それは奴の領分だ」


 万事順調。そしてこれは当然の結果であるゆえ、驕りも歓喜もありはしない。


「あとは収穫祭を待つだけだな」


 そう言って彼はその場を立ち去る。




 ――すでに、先ほど逃げた三者のことなど意識にない。


 否、この世の全ての生者が、彼にとってはどうでもいい蠅にも劣る存在だった。


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