DAY1――Ⅱ Wriggles Atlantis 1.Darkness leak out...
[October 27, 18 : 37 : 11 at 〝Engineering〟 in Atlantis]
結局、男女ペアのサッカーテニスにおいて優勝を飾ったのは、やはりというか当たり前というか、サッカー部の新谷蹴人のペアだった。
サッカー部ゆえの安定したリフティングテクニックでボールを落とさない彼は、あくまでもペアの女の子を主に前衛に立たせ、自身は彼女が零したボールを拾うサポートの役に徹するという役割分担の末、順当に勝ち上がり優勝したのだ。
あくまでもサポート役なので目立った功績はなかったし、派手なプレイをしたわけでもない。しかし、そのサポートが全て完璧だったことから、その実力の一旦は素人にも垣間見ることができたらしい。男子も女子も、彼がボールを拾うたびに歓声を上げており、ただでさえ高かった彼の人気はさらに上がっていた。
また、あくまでもクラスメイトを楽しませる姿勢を崩さないところや、サッカー部でありながらその技術を勝つために利用せず、あくまでもこのゲームでクラスが盛り上がるために使うところなどから、改めて新谷蹴人という少年の懐の深さを皆実感したようで、今も多くの少年少女に囲まれていた。
……もっとも、決勝戦出はその限りではなかったのだが。
「ケッ」
「うわ何それ僻み? マジだっせぇー。小物? 小物ですかぁ?」
「黙れ凛」
そんな様子を遠巻きに眺めながら下らなさそうに舌打ちする友介を、茶髪の少女がおかしそうにいじっていた。
現在二人はホテルのロビーにある、ふかふかのソファに腰かけていた。大きく開いた空間の端の方にある席で、長方形のガラス製のテーブルを、一人掛けのソファ二つと、二人掛けの二つのソファで取り囲んでいるそれの、二人掛けのソファである。
温泉から上がり、コーヒー牛乳を飲みながら(日本人観光客が多いため、このホテルには大浴場にコーヒー牛乳やイチゴオレを販売している自販機が置いてあるのだ)二人掛けのソファを一人で占拠し、くだぁーとだらしなくくつろいでいたのだが、そこへ同じく温泉上がりの凛がやって来たのだ。
さすがに疲れていた友介は最初、凛を無視してぼうっとしていたのだが、見かねた凛が頬をつねったことで現実へと引き戻された――というわけだ。
凛も友介と同じく風呂上りであるためか、若干顔が赤いように見える。
若干のみずみずしさを感じさせる茶髪のポニーテールは、普段とは異なり根元の部分から荒っぽく広がっていた。格好も普段のおしゃれな装いとは異なり、太ももを惜しげなく晒した短パンとラフなTシャツという、軽くかつ自然体な格好だった。ただそのせいで、先ほどまで水着姿を見ていたというのに――あるいは、見たからか――Tシャツを下から盛り上げる双丘の創造を掻き立てさせてくるせいで、これはこれで目のやり場に困った。
火照った体からはシャンプーの甘い匂いが漂っており、首筋や谷間に浮かぶ汗が普段の五割増しに少女を色っぽく見せていた。
絶妙な角度で友介に首筋や谷間を見せつけつつ、凛は友介をからかう。
「で、何で蹴人を見ながら『ケッ』とか言ってたん? やっぱモテる同級生って複雑なもんなん?」
「んなんじゃねえよ」
「じゃ、なに?」
「……何でもねえって。つか近えよ、離れろ」
ずずいっ、と寄ってくる少女を片手で制する。
しかし凛は諦めず、ニヤァアアと口元に悪い笑みを浮かべて、
「ま、さ、かー」
「…………っ」
「決勝で負けて、ちょっと悔しいんだ?」
「……黙れ。あんな遊びで負けたからって悔しくねえよ」
「えぇー、ほんとにー? あーやしぃー」
「…………、」
「まぁー、なに? 友介以外に本気だったもんね。絶対やる気なんて出さないと思ってたけど、意外に一回戦からガッツリやってたし、やっぱ決勝まで行ったら勝ちてぇー、とか思ったわけ?」
「……違う」
低く、重く、息を吐きながら否定した。
しかし凛の勢いは止まることがなく、ケケケと悪そうな笑みをさらに深くしながら追及を続けた。
「ま、確かに自分一人ならまだしも、ペア戦なら適当にやって負けるわけにもいかないもんね。それにあんだけ楽しそうにしてたら、友介としては勝たせたくなるって感じ?」
「…………」
「そんでそんな感じでやってたら、意外にめっちゃ勝ちまくっちゃってペアの子が本気で楽しそうにしてたから、『ったく、めんどくせぇな。……しゃーねえから勝たせてやるよ』っていういつものツンデレが発動して、ちょっと本気になっちゃったんだ」
「……………………………………………………」
「そしたら、最終的に友介までガチになっちゃった?」
「……………………………………………………………………………………………………………」
友介は何も言わず沈黙を貫いたが、その沈黙こそが肯定の証であることに気付いていない。
というか、実際のところ隠すとかバレる以前の問題で、決勝の友介と蹴人の気合の入りようを見てしまえば、もはや誰の目から見ても二人が本気だったことは明らかだった。
両者ともにあくまでもメインはペアの女子に任せ、自身は指示やサポートが主ではあったが、その実あれは友介と蹴人の戦いだった。
ボールを蹴り、攻撃しているのは確かにペアの女の子だ。しかし、『コートの端に落とせ』だの、『一度後ろへ下がれ』だの、『敵の狙いは堅実さを売りにこちらに焦りを生むことだ』だのと、読み合いや裏の取り合い、戦術やゲームコントロールという部分の全ては両陣営とも後衛の男子が握っていたのだ。
蹴人のペアは彼のサポートを武器にした『堅実さ』で敵に焦りを生ませる戦術を取っていた。
対し友介のペアは、フェイントやロブボール、連携の隙を突くなど、あくまでも卑怯で狡からい搦め手ばかりを利用した方針を取り続けていた。
その激しさたるや、見ている側にまで伝わるほど。
素人目に見ても友介と蹴人が高度な頭脳戦をしていることがわかった。
しかも、それでありながら両者ともにペアの少女に無茶はさせておらず、体力を削りながらも二人が楽しめるように配慮していたこともプラスして、海でやるちょっとした遊びとは思えない熱狂ぶりを見せた。
最終的には他クラスの生徒まで観戦するほどの大事になっていたことからも、どれほどいい試合だったかがわかるというものだ。
「で、楽しかったし悔しいんでしょ」
「……だから」
ししし、と歯を見せて悪そうに笑う茶髪の少女に、友介は心底嫌そうな表情を浮かべながら、
「何で俺がガキの遊び如きに本気にならねえとなんねぇんだよ。たかが蹴鞠で負けたからって悔しがると思うのかよ」
「友介もちゃんと男の子だったってことじゃん?」
「…………ッ。こいつ」
いいから黙って信じてろよ――と友介は内心毒づくのだが、やはり凛には通用しない。
何とかしてこのクソ女を遠くへやれないだろうか……と思案するも、その深刻な顔を見た凛が呆れたように笑いながら、
「いやでもさ」
「なんだよ」
「もう見栄張らなくて良くない? だって意味ないっしょ。もうバレバレだし。ちょー楽しそうだったし。もうさ、点入れるたびに修人はガッツポーズするし、友介もらしくもなく喜んでるしさ」
「は? 喜んでねえけど?」
「いや、あんな『ニヤッ……』って感じで口の端めっちゃ吊り上げて、ビーチで膝をつく蹴人を超悪そうな笑顔で見下してたくせに。あれ、死ぬほど楽しんでるときの友介だよね?」
「は、ちょ。待てこら。そんな顔してねえだろっ」
「してたし。『はんッ、サッカー部ってのも大したことねえなあ。雑魚が粋がってんじゃねえよ、俺に勝てるとでも思ってんのかよ?』みたいな顔してたじゃん」
「なっ……!?」
なぜか一言一句違わずバレていた。そんなことあるのだろうか……?
友介がギリギリと奥歯を噛みながら、言い訳を考えていると、
「それに得点取るたびにペアの子とハイタッチしてたし」
「ま、え……マジか!?」
「え、覚えてないの?」
「覚えてねえよっ! つぅーか、嫌われてんのにそんなことするわけねえだろ! 誰が俺とハイタッチしてえんだよっッ。自慢じゃねえけどよ、俺はこの学校で一番嫌われてんだぞ? 女子なんかもう、俺のことなんか触りたくねえだろッッ。よく考えろ、誰が俺みたいなやつとハイタッチするんだ? お前嫌いな奴の手触れるのかよっ」
「ほんと自慢になってないし。言ってて悲しくない?」
凛はとても悲しい気持ちになった。
「つぅーかしてたからハイタッチ。得点入れるたびにピョンピョン跳ねるくーちゃん……あ、あんたのペアの子ね。――そのくーちゃんが嬉しそうにジャンプしてあんたに近づいて、あんたはあんたでクール気取って笑いながらハイタッチしてたじゃん。得点入れられてもクーちゃんは笑顔で『どんまい! 次々っ!』とか言ってたし、友介は友介で『気にすんなよ。取り返しゃいい。切り替えろ』とか言って慰めてたし、二人とも必死になってボール追いかけてるしたまにぶつかったりして二人でビーチに倒れたりしてたしくーちゃんちょっと顔赤かったしまじふざけんなよほんっとまじほんっっっとにさァアッッ! マジ我慢の限界なんですケドっ!?」
「はぁあっ!? テメエ何一人で勝手にキレてんだよ!?」
「キレてねえしッ!? つぅーかなにそれ! 天然にしてもひでぇわほんとっ! つぅーかあたしも、ここまでの効果は期待してないっつぅーか? 友達ができたらいいと思ってたらナニ勝手にモテてんの!? 舐め過ぎでしょッ!?」
「めちゃくちゃキレてんじゃねえかよ……ああ、もういい。疲れた。そうだよ、楽しかったですよはいはい。勝ちたかったようん。はい、これでいいか? じゃ、俺は行くぞ」
「まだ話は終わってないんだケドッ!? ナニ勝手に部屋戻ろうとしてんの? 無理だから」
「……めんどくせえ」
「めんどくさいじゃなくないっ? あんな風に目の前でいちゃつかれてあたしが怒らないと思ったワケっッ!?」
「いちゃついてねえし、もしそうだとしても何で怒られなきゃいけねえんだよボケ」
ちなみにここまで凛が友介に怒っているのは、単に友介が新しい女の子と仲良くなって嫉妬しているという感情以外に、『浮気』をしている『彼氏』に対する憤りのようなものまで混ざっていた。本人にその自覚はないのだが、独占欲の垣間見える台詞の出所は、つまるところ恋人の不貞に対する怒りのようなものがある。
それはつまり、アリアに見せられたあの時の『しあわせな夢』の影響が尾を引いており、冷静さを失った今、友介が自分の彼氏であるという偽りの事実と、そこから湧き出る感情に振り回されている形だった。
もっとも、友介はそんな凛の心など知る由もなく、ただただ困惑するばかりである。
「ていうかさ、友介はだいたいさぁ――っ!」
「…………」
いつまで続くのだろうか。早く終わってくれめんどくせぇー――と思考を明後日へと飛ばす友介。
その様子が気に入らないのか、凛が友介の顔を両手でバシッと固定して自分の方へ向かせた。
そこへ横から声をかけられ、二人の口論は一度終わりを迎えることになる。
「あ、あのっ。安堵くん――」
「だから友介は――って、あれ? くーちゃん? どしたん?」
「あん?」
先に正面の凛が気付き、次いで友介がガラの悪い表情で首だけを後ろへ向けた。その人相の悪さに、こえをかけた少女がビクッ、と肩を震わせた。
立っていたのは、黒い髪をおかっぱにした少女だった。身長はそれほど高くない。カルラよりは高いものの、一般的には小柄と評される部類だろう。
くりりと大きな瞳は真っ直ぐに友介へと向けられ、風呂上がりのためか頬が主に染まっている。
凛と同じく半袖のTシャツと半パンというラフな格好だったが、胸が小ぶりなせいか彼女ほど色気を感じられなかった。
一歩後ろには友人らしき少女が二人立っており、何やら笑顔で『くーちゃん』に囁き、背中をパンと叩いた。
少女は「わっ、たっ……」とよろめきながらさらに一歩友介へと近づく。
「え、えと……安堵くん?」
「あん? お前って……」
「っ!」
「さっきのペアの奴かよ」
「――! そっ、そうっ!」
友介が口を開いた瞬間、瞳の奥にあった不安のようなものが消え去り、キラキラと眩しい光のようなものが灯り出した。
「で、何だよ」
「うっ……」
友介がただでさえ目つきが悪い顔を訝るように歪めて続きを促すと、少女は委縮したように一歩後ろへ下がってしまいそうになる――が、それを寸前でぐっと堪え、その場にとどまった。
なかなか湯冷めしないのか、赤い顔はそのままで、少女は意を決したように胸に当てていた拳をさらに強く握る。
その様子を見た凛が「まさか……ッ」と痛恨のつぶやきを口にしていたが、友介には届いていなかった。
「あっ! あのさ、安堵くんっ」
「……? だから何だよ」
「えっと、……」
「??? あれ、お前なんか話があったんじゃねえの? あ、もしかして昼間のあれか?」
何か一人で納得し始めた友介に少女は慌てて否定を告げようとしたが、それにも気づかず彼は淡々と語り出した。
「いや、まあ負けたのは済まねえと思ってる。もうちょい俺がしっかりしてれば勝てたかもしれねえのにな」
「いや、そうじゃなくて」
「ああ、あとハイタッチとかしてたらしいな。……マジで、その、申し訳ない……何か俺も知らねえうちに舞い上がってたらしくて、馴れ馴れしくしちまったらしい」
「だっ、だから……! ていうか、ハイ……っ! はわわわっ」
「――――…………はあ」
最初は危機感を抱いていた凛だったが、友介の残念っぷりを見ているうちに次第に冷静さを取り戻し、クラスメイトに同情すら抱いて盛大なため息を吐いていた。
この少年は、どれだけ自らフラグを折りに行けば気が済むのだろうか。これでは相手の少女があまりにも可哀想だ。後ろで見ている彼女の友達もいたたまれないのか、沈痛な面持ちで成り行きを見守っている。凛もおそらく彼女たちと同じ顔をしているだろう。
これ以上は見ていられなかった凛は、助け舟を出すことに決めた。
「ね、くーちゃん」
「はわっ! ま、待ってね!? 違うんだよ凛ちゃんっッ! 全然! ぜんっぜん、ワタシそういうのじゃないから! 略奪愛とか、そういうのじゃないから!」
「ちょっ、何言ってるし! あたしと友介はそういう関係じゃないから! ……まだ」
「え、そうなの? ていうか今『まだ』って言った?」
「そうだよ。だからそんな風に委縮しなくていいし」
「まだって言ったよね、今。ねえ、無視しないで凛ちゃん」
凛は勤めて無視しながら、呆れ顔を浮かべながら友介に水を向けた。
「つかあんた、くーちゃんの名前知ってんの? や、ごめん。知らないよね。ごめん、あたしが悪かった」
「そんな謝んな。お前は別に悪くねえだろ」
「何でちょっと慰めてやってるみたいな感じで言ってるし。悪いのは友介だかんね。あんたはくーちゃんに謝っときなよ」
「う、ううんっ! そんなのいいよ! だいたい、安堵くんに酷いことしてたのはウチの方なんだしっ」
「あ、まあそっか。つかそれは、あたしも同じなんよね……」
「は? 酷いこと??? 何の話してんだ?」
突然気分が沈んだ様子の少女たちに困惑した友介が、心の底から何のことかわかっていない様子でそんなことを口走った瞬間、凛と『くーちゃん』、そして彼女の付き添いの二人が驚愕の表情を浮かべて友介を見やった。
「え、ちょ……友介、それマジで言ってる?」
「はァ? なに言ってんだよテメエ。俺は別にこの……すまん。名前教えてくれ」
「あ、えと……その。倉本空美、です」
「倉本か。そう、倉本に俺は別に何もされてねえだろ。殴られてもねえし、刀で腹刺されたわけでもねえし、家族を人質に取られたわけでもねえし、炎で炙られたわけでもねえし」
「……あんた、どんな修羅場くぐってんの。――じゃなくて!」
呆れた声を上げていた凛だったが、すぐに怒ったように声を張り上げて、
「あんた、自分がされたこと忘れたん!? 一学期とか、クラスでどんな扱い受けてたか思い出したらっ?」
「一学期……? って、ああ。ああー……そういうことね」
そこまで言ってようやく思い当たったのか、友介は苦い表情を浮かべ、憂いを多分に帯びた苦笑を漏らした。
瞬間、空美の口元がぎゅっと引き結ばれる。
胸に当てていた拳を下ろし、居住まいを正して頭を下げた。
「ご、ごめんなさいっ!」
「は?」
続けて少女に付き添ってやって来た二人の少女も同様にぐっと頭を下げて、友介に謝罪した。
呆然とする友介には構わず、空美は震える声で続ける。
「ずっと、安堵くんのことを殺人鬼だとか言ってクラスのみんなと一緒になって罵ってごめんなさい! その、何も知らなくて、ウソかホントかもわからない噂を真に受けて……うっ、そ、その……えっと」
「いや、待て待て。何してんのお前? ちょっ、泣いてるっ? やめ、まじで。マジでやめろってマジで!」
「ウチ、その……ほんとに最低なことしてたからっ……。何も知らないのに、勝手に決めつけて、自分は攻撃されないからってみんなと一緒になって人殺しとか死んじゃえとか、そういうこと言って……ほんとに、ほんとに……っ! ごめんなさい! ごめんなさい! ごめん、なさい……」
「いや、別にいいから。それよりこの絵面の心配しろって。女三人に頭下げさせてしかも泣かせてるって……マジで勘弁してくれ」
「駄目ッ!」
「駄目じゃなくて」
「凛ちゃんが安堵くんのいいところを教えてくれなかったら、ウチずっと安堵くんのこと虐めてたと思うから」
「いや待て。俺は虐められてねえ」
「友介それはさすがに無理があるっしょ……」
凛のツッコミを友介はあえて無視した。ここで認めてしまえば、本当にカルラの虐めイジリに歯止めが利かなくなってしまう気がするから。
「でも、ウチ凛ちゃんがあれだけ言ってくれてても、それでもまだ全然信じられなくて……っ。う、うぅっ……その、だから……今日やっと、安堵くんとペアになれて、それでやっとわかって……」
ロビーの端とは言え、周囲には同級生たちも多い。それぞれグループに分かれて談笑しており、少し大きな声を出せば簡単に注目を集めてしまう。
だが、倉本空美はそれどころではないのか、大粒の涙を流しながら謝罪を続けていた。
「……っ」
どうせ何を言っても止まらないと悟った友介は、ひとまず空美の好きなように言わせてやることにし、落ち着いたところで口を開く。
「ったく。お前さ――」
はぁ、と呆れを多分に滲ませた笑みを浮かべ、やれやれとでも言いたげに髪をガシガシと掻く。
果たして、彼の第一声は――
「お前、バカじゃねえの?」
「え……?」
空美が愕然とした表情を浮かべ、顔を上げる。後ろの二人も似たような反応を見せていた。
――と、同時に。
「あんったは馬鹿かこの馬鹿友介の馬鹿ぁッ! 馬鹿はあんただし馬鹿ッッッ!」
ゴッ! と少々ヤバめの音が鳴り響くと同時、友介の体が前に大きく倒れた。
「ぐおわっ!?」
友介の後頭部を殴った姿勢のまま、凛がうがぁーっ! と怒りをあらわにした。
「あのねぇ友介! あんたその言葉足らずなところマジに直した方が良いからね!? 今の一言でくーちゃんたちがどう思うかわかんなかったのかっての! せっかく誤解が解けるチャンスだってのに、ふいにすんなし!」
「ってぇーなァ! だからって後頭部殴るこたァねえだろ!」
「いいや殴るし。今のは殴る! はぁ……ったく、もう~~~ちょー疲れるんですケド」
「いや、それは俺の台詞だ」
「どう考えてもあたしの台詞だから! って、ああもう! まずは友介! くーちゃんたちにちゃんと話しなよ」
「はあ? 別にちゃんと話すも何もこいつら馬鹿じゃねえか」
「あんたもう一回殴られたい?」
「……何なんだよめんどくせえな……」
友介は痛む後頭部をさすりながら空美たちに向き直ると、バツが悪そうに口を開いた。
「ああ、何だ。その……すまん。言葉が少なかったな。要はあれだ。俺は別に、んなこと欠片も気にしてねえから、お前らも気にすんなってことだよ」
少女たちは困惑の視線を互いに交わし合う。が、友介はそれには興味を示さず、好き勝手に話を進めていく。
「いいか。お前らの言ったことは別にあながち間違いでもねえんだよ。俺は二年前、助けられたかもしれねえダチを助けられなかった。あと少し早かったら、死なさずに済んだかもしれねえのに、呑気に女と喋ってたせいで遅れたんだ」
そうだ。
勝田匠と秋田みなの二人を救えなかった。助けられなかった。
確かに手を下したのはヴァイス・テンプレートだった。みなを殺したのも、その生首で匠の顔面を殴打し、その心を壊したのも、確かにヴァイス・テンプレートだった。
けれど。
「それにな」
ああ、そうだ。
そしてこれこそが、彼の罪だった。
あの二人を殺したのは、安堵友介である――それが事実であり真実である、根本だ。
「あの二人は、俺を苦しめるために殺された。俺に憎悪を抱いてたクソ野郎が、復讐として俺の心をぶっ壊すために、あの二人を俺の目の前で殺したんだ。俺のせいで……あいつらは死んだ。だから、俺は人殺しだと言われても何も言えねえ。あの学校の……いや、渋谷事変の犠牲者たちは……俺のせいで、死んだんだから」
だから――それは噂や勝手な憶測ではない。
事実なのだ。
友介にとっては紛れもない事実であり、この弾劾は正当なものだと知っているのだ。
無論、納得できない部分も当然ある。剛野や子分たちのあれには毎度イライラさせられるし、ぶん殴ってやろうと思ったことも十や二十では収まらない。
それでも、やはりわかっていた。
匠たちを死なせたその原因の一端は、自分にあると。
だから――
「違うっ!」
後悔と自責の渦に呑まれかけていた友介の意識を、凛の声が現実に引き上げた。
眦を吊り上げて友介に詰め寄る凛の姿に、はたから見ていた空美が気圧されているほどだ。
「あんたは悪くないし! 悪いのはその……悪い奴じゃん!」
「いや、でも……」
否定しようとする友介を視線で押し留める。
「まず安堵は意味わかんない奴に狙われただけでしょ? 確かにみなはあんたを苦しめるために殺されたのかもしんない! でもさ、相手がどんな動機で友介を付け狙ったのかは知らないけど、やったのは相手じゃん! 手を下したのも、その判断をしたのも、全部そのヤバい奴じゃん!」
「……、」
秋田みな――あの時友介を苦しめるために殺された少女であり、四宮凛の幼馴染でもあった少女。
彼女にとっては大切な友人だった。
だから、誤解が解けた今となっても、その遠因となっている友介に対し複雑な思いを抱いていてもおかしくないのに。
今すぐ、彼を弾劾しても誰も文句は言わないのに。
それでも――
「つぅーか! そもそも!」
押し黙る友介に、しかし凛が勢いを緩めることはなかった。
「そんな過去のことはあたしら話してないから! どっちにしろ、今の友介はヒーローじゃん! あたしのこと助けてくれたし、さっきだってくーちゃんのために本気出してたじゃんっ」
「――、」
友介は何も言えない。呆けたように凛の顔を見て、言葉の続きを待っていた。
「だから、別にいいんだって。そんな理由で、自分をみんなから遠ざけるのはやめて。くーちゃんの話聞いたげなよ」
真っ直ぐに友介を見るその瞳は、とても綺麗だった。
宝石のように純粋な光が瞬いていて、その瞬きのひとつひとつが友介への愛だった。
彼は何も言えず、ただ気まずそうに視線を逸らすだけだ。
「そ、そうだよっ」
すると、凛の説得がひと段落するや、それまで口を出せなかった空美がさらに一歩近づいて強く言い放った。気弱そうな少女だが、こういう時は肝が据わるのだろうか。
「う、ウチね……そのお礼、言いに来たの!」
「お礼?」
「そうっ。あんなに安堵くんを虐めてたのに、安堵くんはそんなの気にせず、勝負に本気になってるウチのために、一緒に本気になってくれたでしょ?」
「……虐められてねえし、俺は本気になってもいねえ」
「……まだ言ってるし」
「それが嬉しくて、申し訳なくて……それで来たの。あ、安堵くんのこと誤解してたから……。凛ちゃんの言う通り、凄く優しくてカッコよくて頼りになって抱擁感があって、強い人だってわかったから――」
盛り過ぎだろ――と友介は思った。
「これまでのことを謝って、それから、お礼を言って、それで……」
あくまでも軽い調子の友介とは打って変わって、真っ赤な顔の空美は必至だった。未だに湯冷めしていなどころか、さらに熱くなっていることに友介は疑問を浮かべざるを得なかったが、少女にそれを気にした様子はない。
がばりと再度頭を下げて、裏返った声で叫んだ。
「とっ、友達からお願いしますっ! そ、それからその……チャットのIDも教えて欲しい! かなぁー……なんて」
叫んだのだが、最後は尻すぼみになっており、途中から自信がなくなっているのがはたから見ている凛にもわかった。
空美がおそるおそる顔を上げると、友介は困惑顔、凛は苛立ちと焦りと喜びと達成感の混じった、それはもう複雑そうな表情を浮かべていた。
そして。
「まあいいけど」
「ほっ、ほんとに!? よ、よかったぁ……。ほんとに、ほんとうに、ありがとう!」
「嫌そんな喜ばれても」
「ううん、嬉しいよ! それに、なんていうか……ほんとにごめ――」
「やめろ。もう二度と謝るな。俺が惨めになる」
「う、えっと。うん……わかったよ。じゃあ、これからよろしくね、安堵くんっ」
こうして、安堵友介のスマホに新たな連絡先が登録された。
「なんかムカつくけど……まっ、いっか」
その様子をすぐ近くから見守っていた凛は、悔しげながらも心から嬉しそうな微笑を浮かべていた。
[October 27, 19 : 04 : 52 at 〝Information〟 in Atlantis]
「ちくしょう、見失った。っざけやがって、あのイカレジャンキーどもッ。ヤク中の分際でおれの仕事の邪魔をすんな」
『そう怒るなよ。癇癪ばかり起こしているから部下にも子ども扱いされるのだろう?』
「あぁ? テメエ何か言ったかッ? クライアントだからって神様みてえに崇めると思ってたら大間違いだぞ」
『これはアドバイスだ……もっとも、おまえが聞くとは思っていないがな』
第四学領『情報学領』の内陸部。第一学領『中枢領』との領境付近の交差点に面したビルの屋上――その縁に、流れる川のような金髪を持つ少女が立っていた。歳の頃は十歳かその程度だろう。身に纏うのは体のラインがはっきりと浮き出る特殊スーツで、まだ第二次性徴が来ていない体にピッチリと密着していた。色は黒。完全に闇に溶けている。
ただし、可憐な容姿は年の割には完成されており、纏う雰囲気も幼女のそれではない。人形のように整った顔であるにもかかわらず、不機嫌に歪められた頬や、口から漏れ出す罵詈雑言の数々のせいで、幼女の皮を被った凶悪犯罪者にしか見えない。何より物々しいのは、腰に巻いたホルスターに差されたハンドガンや軍用ナイフ、そして肩に提げたサブマシンガンなどの凶器だろう。幼女の容姿とは全く釣り合っていないはずの組み合わせであるにもかかわらず、自身の剣呑な雰囲気もあってか、えらく様になっている。
強い風が吹いているにもかかわらず屋上の淵から身を乗り出すように地上を見下ろすその姿は、下から見れば魔王か何かに見えたかもしれない。
彼女はシャーロット=プリスアート。
アトランティス特別治安維持部隊『クリティアス』隊長。
この理想都市『アトランティス』の治安を、陰に、裏に、闇に潜み、守り支える仕事人たち。
汚れ仕事を請け負い、街の暗部を潰す為に活動する暗部部隊、その隊長である。
眼下には交差点の中央で炎上するトラックがあり、黒ずくめの服を身に纏う部下たちがその周りを忙しなく走っている。
「にしても、こりゃどういうことだ? 相手はただの雑魚だと思ってたんだが、予想以上に出来るじゃねえか。あと一歩だったってのに、〝聖遺物〟を見失っちまった。さすがに『中枢領』に戻っちゃいねえだろうが……こりゃ色々面倒だな。まさか『機械工学領』にでも入るつもりか? 別にいいが、あそこはカタギが多い。事を構えたくねえんだがな」
『知らんよ。それは私ではなく側近にでも聞けばよかろう?』
端末の向こうから聞こえてくる声は、穏やかだがどこか傲慢さが滲んでいた。
その口調が神経を逆なでしたのか、少女はそれにムッとしたように苛立たしげな表情を浮かべて、
「あんたには言ってねえよ」
『そうか。……ところですまないが、おまえには一度帰投してもらうが構わんか? 会わせたい人間がいるんだ』
「はぁ? 何だよ会わせたい奴って」
『協力者さ』
「……、」
傲慢さに含みを持たせた、奇妙な口調だった。
シャーロットは訝しみながら、しかしあくまでも平時の調子のまま返す。
「そりゃぁどういう風の吹きまわしだ? おれらと同業者ってわけかよ。分け前は減らねえだろうな」
『質問が多いな。だが、ひとつひとつ答えていこう』
上から目線の口調にシャーロットの神経が逆立ったが、ここで癇癪を起せばそれこそ子ども扱いされてしまう。
忌々しいながらも、少女は暗部部隊の隊長としての威厳を優先しそれを堪えた。
『おまえを彼らに会わせるのは単なる興味だ。協力者はいた方が良いし、君とよく似た境遇の子もいるしね』
「『五感拡張計画』か……わかっちゃいたが、おれ以外にもいたか」
『ああ。……そしておまえと同業者かどうかという質問だが、これにはノーと答えおこう。いや、厳密には暗部部隊ではあるのだが、彼らはこの街の住人ではない』
「外国……二ホンのサムライかニンジャか何かか?」
『……おまえの日本観は何年前で止まっているんだ』
「日本人以外の日本のイメージなんざこんなもんだろうが。んなことよりも、三つ目だ。こっちのが重要なんだよ」
『ああ、それなら心配するな。取り分は減らん。彼らに報酬を払うつもりはない』
「とんだブラック企業だな」
ケケケ、と邪悪に笑い飛ばすシャーロット。その仕草、発言……どちらをとっても、その容姿にも年齢にもそぐわない。
しかし彼女に気にした様子はなく、あくまでも暗部部隊の隊長としての在り方を崩さずに『クライアント』との会話を進める。
「ならいいさ。仕事がやりやすくなるってなら大歓迎だ。……一応聞くが、そいつらにゃぁ命を捨てる覚悟があるんだよな?」
『さあな、知らんよ。だが実力に関しては保証しよう』
「なんか怪しいが……まあいいさ。で、おれは明日どこへ行けばいい?」
『私のラボへ』
「ははッ、いたいけな幼女を自分の研究室へ連れ込んで、どんなやらしいことをすんのかね」
『ではな』
「あ、おい無視すん……ちっ。切りやがった」
シャーロットの軽口には付き合わず、相手は通話を切ってしまった。
「……あの野郎、明日絶対ぶちのめしてやる」
「ぼ――、ボスっ!」
苛立たしげに端末をポーチに戻したシャーロットのもとへ、部下の一人が息を切らせながらやって来た。
少女は炎上するトラックから視線を切り、部下へと向き直る。
少女が顎で促すと、部下の男は居住まいを正して敬礼した。
「はっ、報告させていただきます!」
「固いのは嫌いだっつってんだろ。おっさんに敬語遣われる幼女の身にもなれ。いつものでいい」
「……了解っす。ボス、網に得物が掛かったらしいっす」
「そうか。どの辺だ?」
「医学領に通じる都市道っすね」
「医学領だと……? 聖遺物ってのは『兵器』になるんじゃねえのか? てっきり機械工学領の兵器開発企業にでも運ばれると思ってたが……」
「……どうしやすかボス。そっちにも何人か張っときますか?」
シャーロットは数秒の思案の後、
「一応、そうだな。だが最低限の人員だけでいい」
「そう、すか……」
「ああ。お前も感じなかったか? あいつらは素人臭い。というよりも、おれたちに比べて暗部としての深さが弱いと」
「まあ、そりゃ確かに」
「飼い主はあんまりこういうのには疎いのか……? だがそんな奴が聖遺物なんてやべぇ代物を欲するとも思えねえ」
「ぼ、ボス……?」
「……ああ、悪ぃ。ともかく、だ。奴らがおれたちの目を出し抜いて機械工学領に入るこたァおそらくねえよ。さっき言った通りそっちには最低限でいい。他は医学領に向かえ。さっさと依頼を完遂して派手にパーティと行こうぜ」
「了解っす」
「ああ、それと明日、おれはクライアントと話があって抜けるからそのつもりで。指揮は……そうだな、現場はお前に任せる。一応端末つけとくから、何かあったら連絡しろ」
「了解っす!」
「指示は以上だ。解散」
言うと、部下が無線で仲間に連絡を始め走り去っていく。
それを確認してから忌々しげに舌を打つと、西北西――すなわち生物学領のある方角へ視線を流した。
「……狸野郎が。いったいおれに何の用だ……? どうにもきな臭いもんが漂ってるし、その辺りも含めて問い詰めてや――、ッ! 誰だ?」
腰のホルスターからハンドガンを抜き放ち、安全装置を外して遊底を引く。振り向きざまにトリガーを絞り弾丸を五発撃ちこんだが――手応えがない。
さらに舌打ちを繰り返しもう片方の手でサブマシンガンを抜き放つ。片手と口で一連の操作をしたのち、何者かへ向けて躊躇いなく鉛玉の雨をプレゼントしてやる。
しかし――
「……気のせいだったか?」
すでに暗がりの奥にあった気配は消えていた。当然そこに蜂の巣になった死体なども転がっていない。
まるで幽霊に化かされたような気分になりながら、シャーロットは銃をホルスターにしまう。
そうしながらも、警戒を緩めるような愚は侵さない。
同時、今しがたの己の発言を心の中で撤回する。
気のせい――? そんなわけがない。
部下どもが人間と獣の気配を勘違いするならばまだしも、よりもよってこのシャーロット=プリスアートが人の気配を掴み損ねることも、何かと勘違いすることもあり得ない。
「……ッ、なら。何だったんだ」
答えは出ない。ただ胸の奥に靄のように残り続ける、気味の悪い違和感だけが異常予兆でしかなかった。
[October 27, 19 : 30 : 52 at 〝Information〟 in Atlantis]
「お嬢様」
「クククっ、悪いな正道。隠形が乱れた」
シャーロット=プリスアートが歩き去った後の屋上。
そこに、二人分の影があった。
一人は長い金髪を夜になびかせ、ゴシック調のドレスを身に纏う十二歳程度の幼女だ。
リリス・クロウリー。
口元に浮かぶ笑みは悪意を湛えた毒女のそれだ。シャーロットのような苛烈な悪意が前面に出たものではなく、あくまでも嫣然で、嫋やか。親の知らないところで虫を殺す悦楽を覚えた箱入り娘のような――そんな嗜虐に塗れた貴族の嘲笑だ。
その傍らに侍るのは、白髪をオールバックにした和装の老人。細身ながらも衰えの感じさせない居住まいは、武人と称されるにふさわしいものだろう。
彼は中山正道。
愚者のアテュを使って隠形の術を強化していたリリスとは異なり、科学も魔術も何のインチキも利用せず、ただ風読みと呼吸法のみで隠形の術を成していた練達者である。
先ほどシャーロットが感じた人の気配が、ただそこに立っていただけの正道ではなく、術にほころびが生じたリリスのものだったという事実からも、この男の技量というものが伺えるだろう。
「聖遺物は医学領に運ばれたとのことですが、いかがされますか?」
「お前はどう思うんだ? 正道」
「行くべきかと。彼女が先ほど言った通り、これまでの彼らの様子を見る限り、陽動を使って反対側へ逃げる……という策は考えにくいかと。――しかし、本当に行くのですかな?」
「何を言いたい?」
「今後の情勢を鑑みるに、明日の医学領は戦場となりますぞ? おそらく『吸福の魔女』と『破壊技師』もこちらへ来るでしょうし、当然ながら〝彼ら〟も参戦するでしょう。アノニマスとやらの動向も気になります」
正道の中元を受けたリリスは、クッ、と喉の奥で笑いを漏らすと、何を今さらという風に告げる。
「行くさ、騒乱の渦中へと」
「身が持ちますかな?」
「持つさ。そしてそこで――」
一転。
嗜虐に塗れた笑みを消し去り――ほんの僅かだけ痛恨の色を滲ませて――、絞り出すように少女は決意をあらわにした。
「そこで安堵友介を――消す」
[October 27, 19 : 31 : 09 at 〝Information〟 in Atlantis]
それら二つの勢力が動き始めたのとほぼ同時刻。
そこから遠く離れた情報学領の海沿いの都市部――すなわちアトランティスにおける最東端――にて、異様な悲劇が広がっていた。
「カッ……ァ……ッッ!?」
「ひぃょ……――」
「――あ、ギャ――――、ギ――だず、げ……」
紫煙が漂う。
甘ったるい香りが周囲一帯を覆い尽くしていた。その猛毒の香に呑まれた穢れ無き者たちが白目を剥き、泡を吹き、全身を変色させながら次々に昏倒していく。
静かな悲劇。
火も、血も、音も、ない。
緩やかに広がる黄泉の瘴気に当てられた人々が、苦悶の色を顔面に浮かべて絶命していく。
「……、……――」
街を歩いていた者も、まだオフィスに残り仕事をしていた者も、友人と遊んでいた者も。
例外なく臓腑を腐らす毒に蝕まれ、断末魔さえ満足に上げる暇なく死んでいく。
それら全てを睥睨するのは、この悲劇を演出した張本人。
希望も、未来も、明日も、光に属する何もかもを見ていない死人のような青年だった。
相貌からは〝正〟に属するあらゆる感情も見いだせない。
絶望を直視し、過去だけを見つめ、昔日の思い出だけを胸に抱く不能者。
生気の抜けたその顔は、まさしくすでに死んでいる人間である。
常態でこれ。
生者にも正者にも聖者にも関心はなく、過去だけを抱いたまま自身が定めた王道を歩く死人である。
彼こそ楽園教会が十の支柱たる枢機卿、その一柱――第五神父。
『八百万夜行』土御門率也。
「……こんなものか。呪力も集まっている。そろそろ切り上げてもいい頃だな」
呪力とは絶望、悲哀、憎悪、怨恨――そうした負の感情が乗った魂の塊。魔力とは異なる、陰陽師が主に利用するエネルギー源のことだった。
とはいえ、呪力が向かう先は率也本人ではない。
その流れの先には、鏡張りのビルがある。
当然というか、言うまでもなく当たり前のことだが、そのビルの中でも大勢の罪なき人間が訳もわからぬまま、身を絞られるかのような激痛に焦がされながら、絶望を抱いて絶命している。
「〝掛け巻くも畏き、大宮内の神殿に坐す御前に畏み畏み白さく〟」
クツクツと笑う悪趣味な■に苛立ちを覚えながらも、率也は祝詞を唱える。
「――――〝布留倍、由良由良ト布留倍〟――――」
瞬間――
ギヂィイ……ッ! と何かが捩じれ、千切れるが如き壮絶な音が殷々と鳴り響き、鏡張りのビルに異様な気配が立ち込めた。
呪力を込められたそのビルに纏わりつく暗色の靄。見るからに異様でありながら、どこか神々しさすら感じさせるのはいったいどういうことであろうか。
「〝一つ目〟が終わったな」
その成果を誇るでもなく、事務的な口調で淡々と事実を述べた率也は、そのままなに一つの未練なく背を向けて歩き出す。
同時、ビルに立ち込めていた靄が消え去り、ただ不気味で近寄りがたい『気配』だけがそこに残る。
あるいはそれは、墓地のような。
あるいはそれは、神社のような。
あるいはそれは、異界のような。
何もないとわかっているはずなのに、どうしてか『何かがある』と思わされる、そんな気配。
古来より人の遺伝子に刻まれた超常への畏れ。
何の変哲もないただのオフィスビルだったはずの建造物は、今や一種の神域と化していた。
もっとも――その例えすら、間違っているのだが。
「開け、開け。
軋みを上げて開くがいい。
――――〝布留倍、由良由良ト布留倍〟――――」
狂騒せよ、理想都市――
二つの岸を隔てる門に軋みが生じる。
供物を捧げよ。
茶番を終わらせよ。
我はそれだけを待っている。
やがて暗色の光が星を覆う。
ただその日だけを、夢見て。
絶叫するその思念は、 今は電子の海に意識を沈めるのだった。




