DAY1――Ⅰ Light Atlantis 4.his Love on her Tear
[October 27, 13 : 58 : 49 at 〝Engineering〟 in Atlantis]
「そんで」
悪党じみた決意を胸に抱き、同級生たちが多く集まるビーチから少し離れたところにある屋台へと戻り、遠くから少年少女たちがはしゃいでいるのを眺めていたはずの友介は、今はなぜか砂浜から結構離れた沖で泳いでいた。
「何だよこれ」
「えぇー? 泳いでんじゃん」
「じゃなくて」
「え、なに? まさか浮き輪引っ張らせてるの怒ってる?」
「……っ」
泳ぐ友介の右手には白いひもが握られており、その先には可愛らしい赤いハートの浮き輪があった。
その浮き輪に体を預けながら、友介の頭をぺしぺしと叩いているのは、先ほど蹴人たちの元へと突き出したはずの凛だった。
「つか普通もっと喜ぶくない? こんなに可愛い女子と沖まで二人で泳げるって、だいぶ役得っしょ」
「自分で可愛いとか言ってんじゃねえよ」
ぱしゃっ、と海面を軽く叩いて凛の顔に水をかけた。
「わっ、うわっ! ちょ、しょっぱ! なにするし!」
「うるせえ。お前がアホみてえなこと言うからだろうが」
「アホじゃないし! つか可愛いのは事実だし!」
「……アホじゃねえかよ」
まあ可愛いのは認めるが……と口には出さないが一応心の中で同意しておいた。
派手な赤色のクロスネックのビキニは、お世辞抜きに凛によく似合っていた。果実のごとき実りある双丘、その谷間を強調するような水着の破壊力は凄まじい。ほどよくくびれた腰から小ぶりな臀部の流線的なラインはいっそ芸術的ですらある。ポニーテールは今日も変わらず、いつもよりも露出が激しい分、油断すればすぐ意識がそちらに向いてしまう。
「どう? かわいいっしょ」
「……は? どこがだよ」
「素直じゃないんだからぁー」
「つぅーか、何でテメエ新谷たちのところにいとかねえんだよ。俺は俺でやることぐォばラァ!?」
「え、ちょ、ゆうすけ!?」
台詞の途中、唐突に友介の姿が消え去った。
激しい水しぶきが発生したことから海の中に引きずり込まれたことはわかるのだが、まるでパニック映画みたいな引きずり込まれ方をしたことという異常事態に、脳が正常に働かない。
ぽかんと口を半開きにしながら、つい先ほどまで友介がいた場所を眺めることしかできずにいた。
ちゃぽん……と静かに広がる波紋だけが、友介が今までそこにいたことを示しているのみで、それ以外の痕跡が消え去っていた。
「………………………………………………………………………………………………………………………………なんで!? ちょ、ゆ、友介!? 大丈夫っ? どこッ!?」
五秒ほど経ってようやく忘我を脱し正気を取り戻した凛だったが、次に待っていたのはパニックだった。
とはいえそれも仕方ないだろう。沖で唐突に泳いでいる人が消えたら何事かと思うのは誰だって一緒だ。この場にいるのが友介でも同じような反応になっていただろう。
「あわわわわわわ」
浮き輪に捕まりあたふたする凛。飛び込んで救けに行きたいのはやまやまなのだが、残念ながら凛は泳げない。金づちである。
どうする? 助けを呼ぶか? 大声を出すか、近くに人は……混乱する頭で思考をぐるぐると巡らせる凛の耳に、ばしゃん、と新たな水音が届く。
次いで、探し求めていた人の声も。
「ぶはぁ! おいコラ字音テメエ! 危ねえだろうが普通に死にかけたぞ!」
水しぶきは眼前――つまり先ほど友介が消えた地点と全く同じところから。
そして、若干顔を引き攣らせながら叫ぶ友介の背中には、赤いトップスと白いボトムという巫女服を意識した水着を着た少女が抱き着いていた。
「……私のことは振っておいて、四宮さんのチューにはなびくんだね、友介くん」
「え、あ、はぁ!? 待てこら、テメエそれどこで――」
「顔赤いよ、ねえ」
「つぅーかテメエ、抱き着くんじゃねえよ沈め返すぞボケがッ!」
「赤いよ」
ぎゅぅううーっ! と凛が見ている目の前で、友介の背中に抱き着き、決して小さくはない胸を押し当てる土御門字音。両腕を脇の下から回し、自身のおなかと友介の腰を密着させた。
「ちょっ、ちょちょちょちょ、ストップストップ! すと―――――――っぷ! な、にゃ、にゃにしてんのぉ!?」
「何を慌ててるの、四宮さん。さっきまでずっとあなたのターンだったんだから、次は私が友介くんとラブコメする番だよ」
「駄目だから! ずっとあたしのターンだし! つぅーかいつまでくっ付いてんの!? 早く離れろし!」
「やだ。悔しかったら四宮さんも抱き着けばいい。浮き輪を捨てて、泳いで来て、友介くんにしがみつけばいいよ。ただし――」
そう言いながら、字音は友介に抱き着いたまますいすいと器用に泳いで凛から離れていく。
「――追い付けるなら、ね」
「――――ッ!」
瞬間、ギャルの背筋を悍ましい寒気が駆け抜けた。それは恐怖と呼べるもの。己の獲物を、自身の宝を奪われる恐怖に駆られ、名状しがたき衝動が爆発する。
嫌だ、奪うな許さぬふざけるな。
女の遺伝子、DNAに刻まれた本能が唸りを上げ、今すぐあのクソ泥棒猫をぶち殺さねばならぬと魂が吼えた。
浮き輪に捕まりながら、気を高め、エンジンを点火して浮き輪には捕まったまま字音と友介目がけ全力で泳いだ。
だが――
「誰に許可を得て、私の友介に抱き着いてんのよ」
「な……っ! あなた、は……ッ」
声は字音のすぐ至近から。
いいや、すぐ真後ろ。今の今まで誰もいなかったその場所に、赤い騎士が字音と背中合わせで浮かんでいた。
背中越しに伝わる圧倒的なプレッシャー。格の違い。ただそこにいるだけで、彼我の差を思い知らせるような、圧倒的な〝力〟の持ち主――
「風代カルラ――ッッ!?」
安堵友介の家族にして、四宮凛と土御門字音――二人の少女にとっての不倶戴天、無謬の壁(他意はない)がそこにいた。
「どうして、ここに? いや、そうじゃない。い、いつの間に――!?」
「いつの間に、ですって? ハンッ、あの館で一年間生き延びた女の台詞とは思えないくらいわね」
「くっ――!」
柄にもなく狼狽した声を上げる字音だったが、対応自体は迅速であった。片手を友介から離しカルラの前まで回り込ませ、海面を強く叩く。散弾の如く飛沫が上がり、少女の眼球へと塩水が直進するが――
「甘いわね」
「なっ、効いていな……キャァああ!?」
冷たい一言とともに先の万倍にも及ぶ(誇張表現)飛沫が上がり、巫女服風ビキニの少女の顔面に襲いかかった。
予想していなかったカウンターに対応できず、海水が目に入る。
焼けるような痛みに悶える中、余裕すら滲ませて荘厳な声がするりと字音の耳へと入ってきた。
「ねえ――ゴーグルって知ってるかしら」
「く、ぅう……!? 小癪、な……っ!」
「なあ、お前ら高校生にもなって恥ずかしくねえの?」
友介の無粋な言葉は、既に少女たちには届いていない。彼がどれほど叫ぼうとも、声が枯れても、その心まで響くことはない。
だって、男である友介には、この女の戦いを理解できないから。
「風代カルラァあああああああああああああああ! どんな偶然か知らないけど、ここで決着付けてやるっしょ! 今日こそあたしが勝つしぃい!」
「いいわよ、かかってきなさい!」
若干遅れてやって来たのは四宮凛。スクールカーストトップに位置する女王の登場により、事態はさらに混迷の一途をたどる。
両手を大きく広げ、海面に力の限り叩き付ける。
「ぶぅおわっ」
友介がそのあおりを受け顔面に大量の海水を浴びたが、もはや少女たちの眼中にはなかった。
浮き輪から落ちないよう絶妙なバランスを取りながら高速掌打を放つ。飛沫が機関銃の如き連射され、カルラを襲うが、しかし――
「甘いわ」
声は凛の後ろから。つい先ほどまで捉えていたはずなのに、どうして――いいや、まさか。
「その通り。泳いだのよ。海中をッッ!」
一喝。それとともに放ちし一撃は海面を叩き付けるなどと言う半端な技にあらず。
手のひらを海面と垂直に半分ほど沈める。逆の手は照準を合わせるかのように凛へと向けられている。
「これで――」
「ぐッ……!」
背後を取られた凛は、当たり前の帰結として反転する。カルラを視界に収めるべく背後へ振り向いた。
しかしそれは失策。カルラの術中に嵌まっている。
「終わりよっ!」
ズバァアアッッ! という豪快な音とともに大量の海水が押し寄せた。獣の咢じみた水の壁を前に、凛は身動きが取れない――否。否、否、否だ!
「まだ、だァ……ッ!」
これで終わり? そんな結末許せるはずがないだろう。
また負けるのか? この少女に? 水かけなどと言う子供の遊びですらも勝てないと?
そんなもの許せるはずがないだろう。
負けられない、勝たねばならない。こんな胸囲断崖絶壁に敗北するわけにはいかないのだ。
だが、この場面でいったい何ができる? 迫る水壁はすぐそこに。視界の全てが青で埋め尽くされており、回避は不可能。浴びれば敗北は必死。眼球は焼けた痛みに晒されて、海に無様な敗北を晒すだろう。
ゆえに――
「うらぁああ!」
ざぱん、と。
ありえない音が耳に届いた気がした。
そう、こんなことは本来絶対にありえない。
景色が揺らめいている。頭上では陽光が眩く乱反射し、星の如く散っていた。
地上に、あるいは海上にいたときとは比べ物にならぬほど見通しは悪く、しかし秒ごとに揺れる世界は幻想的ですらある。
「――――」
四宮凛は、浮き輪を捨てたのだ。
その事実に恐怖すら覚え、固まりそうになる体を、しかし意志の力でねじ伏せて水を掻き分けた。
目が焼けるように痛い――構うものか。
体が重い――そんな制約引き千切れ。
目指すは風代カルラの真正面。
轟! とそんな音すら聞こえそうなほどの勢いで海中を進み、目的地を目指す。
加速する体は、少女が金づちを克服した証だった。
そして――
「はぁぁぁああああっ!」
裂帛の気合とともに海面目がけてかち上げられる掌底。
「なっ――」
「これで終わるし――ッ!」
ザパァァアアンッッ! という鋭い音とともに飛沫が弾ける。
そして――――
[October 27, 14 : 13 : 08 at 〝Engineering〟 in Atlantis]
「馬鹿だね、あの二人。というか、どうしてカルラちゃんがいるのかな」
「…………離せ」
「やだよ。もう少しこのまま抱き着かせてもらうから」
「…………ッッ」
馬鹿二人が相打ちになっている間に、最初に敗北していた字音はちゃっかり安堵友介をキープしているのだった。
先と同じように後ろから友介に抱き着き、がっちりホールド。特別大きいわけではないが、確かな膨らみのある胸の果実が押し付けられてとても良くない。
「離せ」
「やだ」
「落とすぞ」
「私泳げないんだよね」
「嘘つくんじゃねえよ」
「……まあ、確かに嘘だけど。でもここで無理やり暴れて、私が怪我したり気を失ったりしたら、溺れちゃうかもしれないよ? ……そんなこと友介くんに出来るの?」
「お前、いつか覚えてろよ」
「一生覚えておくから付き合ってよ」
「断る」
安堵友介の胃は痛くなり続けていたのだった。
[October 27, 14 : 20 : 39 at 〝Engineering〟 in Atlantis]
字音に岸まで抱き着かれたまま戻った友介は、当然その様子をクラスメイト達に見られ、周囲の男子から圧倒的な敵意を向けられまくった。
夏休み直前に転校してきた、ミステリアスな雰囲気すら纏う和風美少女。常に儚げな雰囲気を纏っており、少し不思議ちゃん属性も持っていることもあり、男子からの人気は相当高い。淡々とした口調で棘のある言葉を放ったりする個性の強い面もあるため、密かに想いを寄せている生徒も多いのだ。
事実、転校数日で男子女子含め多くの同級生たちにチャットのIDを聞かれたし、夏休み中に祭りや花火、デートの誘いも多かった。それらの誘いに乗った結果、変な噂が立ち友介のところまで話が行くことを嫌がって二人きりの遊びには一度も行かなかったが、男子女子数名で遊びに行ったことは何度かあった。もっとも、遊びの最後に特定の男子と二人きりにされて告白されたときはほとほと困ったが……好きな人がいるからときっちり振っておいた。
あの告白の雰囲気は慣れない。いくら恋愛感情を抱いていないとしても、やはり自身に好意を告げてもらえることは嬉しく、だからこそそれが友介に対し不実であるように思ってしまうため、これ以上はされたくない……という、複雑な乙女心を自覚して落ち着かないのだ。
だが、そんな少女の悩みとはお構いなく、新学期になってからもその人気は衰えず、今では同い年の中で凛と並んで一年美少女2トップの座に至っているほどの人気を獲得していた。告白される回数も少なくなく、完全に学校における立ち位置を確立してしまっているのだった。
そして、それゆえに――だ。
その隣にいつもいるあのクソ野郎は何だ?
腐ったミカンの分際で土御門さんと一緒に弁当を食べやがって。
しかも四宮さんとも仲がいいよな。
「……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………」
もともと嫌われていたところへ追い打ちのように嫉妬が殴り掛かってきたせいで、もはや友介の居場所はこの学校にはなかった。この修学旅行で殺されるかもしれないとすら思っている。気が気ではない。これではうかうか夜も寝ていられない。
そんな安堵友介が、だ。
学年のアイドル土御門字音に抱き着かれながら岸に戻ればどうなるか。
突きつけられる視線の数々、どれも致死の炎を宿していた。
安堵、死すべし――
その言葉を軸に回り始める嫉妬の陣。
とはいえ、それら全て字音の一瞥で霧散する。
特に脅迫の意図はないし、そもそも特に理由があっての行動ではない。
おそらくは、意中の女子に視線を向けられたことで、嫉妬をあらわにする恥ずかしさに気付き冷静さを取り戻したからだろう。
ただ、だからといって敵意の視線が消えるわけではない。ぐぎぎぎぎ……という歯ぎしりが聞こえてきそうな重苦しい空間に晒されることとなった。
「つか、もういいだろうが。離せよ」
「溺れそう」
「地上なんだが?」
「友介くんへの愛で溺れてしまう」
「一人で溺れて水死体になってろ」
これ以上ここにいてもいいことはない。さっさとここから離れて木陰で休もう……
濡れた髪をかき上げて、気怠そうに歩く友介。
「うわ、今のだめ……」
「何がだよ」
いつの間にかちゃっかり隣をキープしていた字音がなんか胸を押さえていたが無視する。
そんな風にもたもたしていたからか、背後からさらに二つの喧しい声が。
「あ、こらー! アンタなに勝手に私の友介を拉致知ってるのよー!」
「つぅーかあんたの家族でもあんたのもんではないっしょ! 勝手に所有宣言すんなし!」
うるさすぎる。女三人寄れば姦しいとはよく言ったもので、もはや騒音である。壊れたラジオのように友介の周りで叫びまくっていた。
もう勝手にしてくれ……とため息を吐きながら歩き去ろうとする友介だったが、ふとあることに気付いて立ち止まる。
そして振り返り、ある少女へと視線を向けた。
「いや、そもそも何でお前ここに来ちまってんだよ」
「あ」
視線の先には赤髪金眼の少女が。
安堵友介が守るべき家族である風代カルラである。
断崖絶壁のくせに上下とも赤のビキニを纏っており、少女の白い肌がきれいに映えている。海から上がったばかりなため細い手足には未だ水滴が残っており、夏の日差しを反射してきらきらと輝いていた。
薄い胸を覆うトップスはぴっちりと胸に張り付いており、谷間など欠片も存在しない。ただし、本来あるはずのものがないというのは一種のプレミアを生じさせるものであり、そこに価値が生まれていないと言えば嘘になる。何より、前かがみになったときに、トップスと胸の間に隙間ができ、見えてはならない部分が見えるかもしれないという想像を掻き立てられてしまい、目のやり場に困る者も多いだろう。
パンツも同様で、背丈が小さい分水着も小さくなるため、家族である友介としてはいろいろと心配になってしまう。
幼児体形とビキニの二重奏に、友介は頭が痛くなる気分だった。
対して、腰に手を当て、偉そうに仁王立ちする少女はそんな己の危うさには無自覚なまま、ふんっと鼻を鳴らして、
「……だって友介が女の子とばっかりイチャイチャするんだもん……」
友介には全く聞こえないほどの、蚊の鳴くような声でそう言った。
そして当然友介には聞こえていないので、
「はっきり喋れよ」
「うっさいわね! いいからアンタは引き続き修学旅行を楽しんでおきなさい!」
「いや待て。テメエ俺の質問に」
「うるさい! 私はあれよ! そう! えーと……通りすがりのキューピットよ! アンタが修学旅行を楽しめるように計らってあげる天使みたいなもんよ!」
「ハワイの暑さにやられて馬鹿になったのか……」
「う、うぅうう! だからうっさいって言ってるでしょ! よ、予定外だったのよこれは……」
最初は勢いのまま捲し立てていたカルラだったが、やがてそれもしりすぼみになり、ずーん……という効果音すら聞こえそうなほどうなだれて、とぼとぼと歩き出した。
「じゃ、楽しんで」
「お、おう……」
哀愁漂う後姿を見ていると、さすがに心配になってくる。友介としては特に修学旅行にこだわりもないので、今すぐ駆け付けてやりたい気持ちではあるのだが、やはり団体行動なのであまり遠くまで行くわけにはいかないだろう。
四時半に集合で、それまでは自由行動との話だったが、何かの用で先生に呼ばれでもすれば面倒だ。
となると、共犯者というか、一応協力して友介の不在に適当な理由をでっち上げてくれるくれるものが必要なのだが……
「はぁ……本当に損な役回りだね」
「マジでね。これ貸し1だから。あんた今日の夜はさすがに付き合ってよね」
「悪い、恩に着る」
学年トップ2の美少女の協力を取り付けて、友介は大切な女の子のもとへと奔った。
[October 27, 14 : 47 : 11 at 〝Engineering〟 in Atlantis]
「はぁ……何やってんだろ。馬鹿みたいね」
なぜカルラが友介のところへやって来てしまったのか。それは単純な話、嫉妬のあまり衝動を抑えられなかったのだ。
友介が女二人にまとわりつかれている光景を見ていられなかったカルラは、仲間三人の制止を振り切って突撃してしまった。
本当はこの修学旅行でクラスメイト達と少しでも多くの思い出を作ってほしかったし、今も友達がいない友介に居場所を造ってほしかった。
いつもはあんな風に言っているけれど、家族となった今、世界で誰よりも大好きな人が未だにクラスメイト達から嫌悪されているのは悲しいのだ。
だから、極力邪魔しないようにしていたのに……
「はぁ……」
何度目になるかわからないため息をついたカルラは、今から草次たちのところに戻るのも気が引けてしまい、誰にも見つからない岩陰に腰かけることにした。
「……怒ったわよね、友介……」
「あん? 別に怒ってねえよ」
「えっ? って、何でここに!?」
真上から声が掛かると同時、影が陽光から少女を守るように覆いかぶさった。
視線を上げれば水着を穿いただけの友介がそこにいる。傷が走り筋肉のついた上半身が、彼が男であることを視覚を通じて否応なくカルラの意識に叩き付けてくる。
「はわ、あわわ……あぅう……っ」
想い人――それも自分の全てを肯定しくれる最愛の少年の肉体を前に少女の心はパンクして、脳がフリーズする。心臓が弾け飛びそうなほど荒らぶり、刺激の強すぎる光景に歯の根が合わない。気を抜けば気絶しそうになる意識を必死に繋ぎ止め平静を保とうとするも、全身を海水で濡らしたその姿を見ているだけで、幸せで死にそうになってくる。
しかし――
少女の幸せはこの程度では終わらない。
なぜなら、それこそが安堵友介と風代カルラの関係だから。
「ほら」
「う……」
カルラの隣に胡坐をかいた友介は、特に何を言うわけでもなく、ただ腕を広げてそう呼びかけた。
これが何を意味するかなど、カルラにだってわかっている。もはや日課のようになった抱擁。
友介がカルラをただただ愛でる、二人だけの幸せな時間。
しかも今は、両者ともに水着で、肌と肌が直接密着する面積が相当広い。
火傷するほど熱くなる頬に、爆発寸前の心臓。にやけそうになる口の端……その全てが少年に抱き着きたいという衝動の表れだった。
だが――
「い、いい……っ。大丈夫」
それらの全てを押し殺した。今すぐにでも抱き着きたい衝動を抑え、少女はそっぽを向いて踏みとどまる。
カルラは友介に友達を作ってほしいのだ。今日……というか、この修学旅行の間くらいは、自分のことなど忘れて楽しんでほしい。そもそも修学旅行に寂しいからといって家族が付いて行くなどありえないだろう。
今回はアリアの護衛という任務があったからこうして付いて来ただけで、本来ならばカルラは家で留守番しているはずなのだ。
だから、この五日間は自分をいない者として扱ってほしい。
自分のための時間にしてほしい。
その重りにはなりたくない。
さっきのは例外というか、抑えきれなかった自分が悪いのだ。もうああいうことは二度としてはいけない。
不器用ながらも、そんな気遣いがゆえの否定だった。
友介はその心中を知ってか知らずか。
「いいから」
「あっ……」
カルラの返事など無視し、腕を引っ張ると己の腕の中に収めてしまった。
抵抗などさせる間もなく両腕で矮躯を包み、強く抱きしめる。
全身を密着させ、彼の愛情の全てが少女の背中越しに伝わるように。
「ひぅう……っ」
ぎゅぅう……と。
逃がさないように締め付けられた途端、全身から力が抜けた。
抜け出さなければならないとわかっているのに、体がそれを拒否してしまう。この暖かさに身を包まれれば、もう抵抗することはできない。
少女の対抗心ごと溶かすような愛に包まれて、やがて力が抜けきってしまった。
こてん、と小さな頭が友介の胸板に乗せてしまう。
「何があったんだよ。言ってみろって」
「な、何でもないわよ……」
「本当か?」
「ええ。ないわ……大丈夫」
スンスンと密着する友介の香りをかぎ、さらに顔を真っ赤にするカルラ。
そんな少し変質的な行為にも友介は何も言わず、ただ黙って髪を梳いてやる」
「伸びてるな」
「伸ばしてるから……」
「切らないのかよ」
「……友介は、短くしてほしい?」
「うーん……いや、俺は別にそのままでもいいな。見慣れてるし」
「そう……なら、変えない」
「いや、別に俺に合わせなくてもいいからな」
「ううん……友介がこっちがいいなら、切る意味ないし。それに……」
「それに?」
「……こうやって、髪梳いてもらえなくなるの、寂しい……し……」
「……そうか。ならこのままにしとけよ」
「うん、しとく」
いつもならそれで会話が途切れ、また新たな話題へとシフトしていくのだが……
カルラはこれをこの修学旅行最後のワガママに決めたからだろうか。
最後に勇気を振り絞ってこんなことを言った。
「だから友介……帰ったらまた、頭撫でてね……?」
真っ赤な顔を見せないように、俯きながらそう告げたカルラに、友介は優しく笑って。
「ああ。またいくらでも撫でてやるよ。――愛してるぞ、カルラ」
[October 27, 15 : 04 : 51 at 〝Engineering〟 in Atlantis]
友介はそれから十分もの間カルラを抱きしめ、髪を梳き、子供にするみたいにあやし続けた。
カルラの本音はいつまでもこうしていたかったのだが、それでは友介の修学旅行の時間を奪ってしまう。よって、留まりたいという欲求を無理に押し殺し、真っ赤な顔で「もういい。ありがと」と言って彼から離れたのだ。
捕捉だが、十分間もその状態だったのは、カルラが友介から離れることを決意して、実際に行動に起こすまで十分かかったからだ。さすがに半裸状態で密着して抱き着かれるというのはこれまでなかったし、これからもそうそう来ないだろうという客観的予測が邪魔をしたせいで、こんなことになってしまったのだ。
(……体が石みたいに動いてくれなかったわ……)
肉体と精神の乖離とはこんなにも恐ろしいものなのか……と戦慄すら覚えながら、体を引き千切るように友介の腕から離れた。
「もういいのか?」
「ええ。もう大丈夫。……大丈夫過ぎてちょっと危なかったわ」
「意味わかんねえよ」
友介の不服には取り合わず、カルラは振り切るようにして彼から視線を外す。未だに耳が真っ赤なままなのだが、友介は馬鹿なので全く気付いていない。
「とっ、とにかく……。その、あれよ。春日井アリアに関しては私たちが見とくから、アンタは普通にアホ面晒して修学旅行を楽しんでおきなさい」
「何でひとこと多いんだよ」
「いいから! アンタは修学旅行を楽しむ! アホ面晒して! わかった!?」
「うお……わ、わかったよ。わかったから、お前あんま近付くな。暑いんだっつの」
キッと眦を決して再度こちらを睨み、指を突き付けて迫ってくるカルラをどうどうと宥めつつ、めんどくさそうに返事をする。先ほどまでくっ付いて抱きしめていたのに今さら暑いも何もないはずなのだが、友介の中ではそれとこれとは話が別なのだ。
「ほんとね?」
「ああ、ほんとだっつの。いちいち確認してくんな」
「でもあんまり四宮センパイとか字音センパイと仲良くしたらダメだから」
「結局会話相手いなくなるじゃねえかよ」
「べっ、別に友達なんて他に作ればいいじゃないっ。その、クラスの男子とかさ……別に、わざわざ女の子とばっかり遊ぶ必要ないでしょ……っ。ムカつく……」
「何なんだよめんどくせえな……」
乾いた髪をガシガシかきながら口にしたその言葉は、あながち筋の通った文句ではあった。
とはいえ、それが『女の子』の良さであり、可愛さであり、それに気付ければ友介もまた男として一つ成長できるのだが……重ねて言うが彼は馬鹿なので、相棒の少女の心の機微には全く気付けない。
なまじ『家族』という唯一無二の関係性を構築してしまっただけに、そういった甘酸っぱい方向へ想像が飛躍していかないのだ。
カルラもそれがわかっているのだろう。特に呆れたり失望の表情を見せたりすることもなく、何度目になるかわからない「とにかく!」を言い放って、一方的に自分の言いたいことをマシンガンのように友介へと叩き付けた。
「修学旅行を楽しむこと! それと女子にデレデレしないこと! 特に字音センパイと四宮センパイ! あの二人にいいようにされたらダメよほんとに!」
「わかった。返り討ちにする」
「待ってそこまで言ってない。……なんか返事が物騒だけど、まあいいわ。ちゃんと楽しみなさいよ。これは私からの命令……というか、お願いよ」
若干口が引き攣っていたが、すぐに表情を優しいものに直し、多様な種類の『愛』のこもった視線で最愛の家族を見上げた。
対する友介は、いつもとは異なる雰囲気のカルラに見つめられてバツが悪くなったのか、何度目になるかわからないため息をついて目を背けた。
「んじゃ、もう行くけどいいんだな」
「ええ」
「一応確認しとくが、あの女はお前を――」
「わかってるわよ。でも、別にもう気にしてないし」
カルラがアリアの傍にいることで思い出したくないことを思い出し、苦しいのではないか……そんな心配から出た言葉だったのだが、当のカルラはあっさりとしたもので、全く気にしていない風だった。
ひらひらと片手を振り、背を向ける。
友介はその背中が僅かに震えていることに目ざとく気付き、手を伸ばそうとして――けれど結局やめた。
(こいつも……向き合ってんだよな)
今のカルラには、すでに過去の所業の記憶がある。ブリテンの騒動の最中に、おそらくアリアの魔術やら友介を刺したショックやらで戻って来たのだろう。
友介が寝ている時に夜な夜な泣いていることだって珍しくない。友介はその都度いちいち起きてはカルラを抱きしめてやっているが……
今のカルラは、それを求めていないような気もするのだ。
アリアと一緒にいる――その最中、カルラはアリアからされた諸々を思い出し、それに連鎖して過去の所業もフラッシュバックするはずだ。
それを理解していて、なお気丈に振る舞っている。友介の前で強がっている。
それの意味するところは、友介に心配をかけてせっかくの修学旅行の時間を奪いたくないということもあるだろう。
だが、それ以上に『向き合いたい』と、そう思っているからこそなのでは――と友介は考えていた。
ヒーローになりたい、世界を救えるような人になりたい。
もう自分みたいな人間を生み出したくない。
そんな風に言った彼女を、安堵友介は無条件で応援することに決めた。過去に何があろうとも、安堵友介はそれら全てを無視して、『罪や罰や赦しやケジメ』を全てゴミ箱に投げ捨てて、風代カルラという少女の全てを愛し、慈しみ、守ると決めた。
その決意、覚悟が正しいかどうかはともかく、友介は己の決めたこの道に納得しているし、これから先、何があろうとも彼女の味方であり続けることを選んだ自分を、呪ったり悔んだりすることはないと言い切れる。
だが、だからといって守られる対象であるカルラがそれを許容するかどうかは別の問題なのだ。
友介は倫理や贖罪……そうしたもの全て、かなぐり捨てればいいと思っている。
だが、当の本人たるカルラはそうはいかないだろう。あの過去に誰よりも苦しめられたのは確かだが、実際にその手で人を殺したことに変わりはないのだから。
風代カルラは『鏖殺の騎士計画』の全てに真摯であらねばならない。
自分の人生を歩むためにこそ、彼女は彼女自身の過去と向き合い、乗り越えなければならない。
……いいや、違う。
乗り越えるのではなく、きっと背負っていかなければならないものなのだろう。
それを過去のものにするのではなく、背負い続けて生き続けなければならない。
その重みを背負いながら、過去に押し潰されずに自分の人生を歩くこと。
風代カルラが選ぶ道は、おそらくそういうものなのだろう。
それを、カルラはわかっている。だから今、彼女はアリアの監視・護衛を自ら進んで行おうとしている。過去に、トラウマに、己に負けないために。
歩き去っていく後姿は、未だに僅かに震えている。
それでも折れずに踏みとどまり、あまつさえ笑みすら漏らしながら、
「まあ、あれよ。ついでにあいつを少しはまともにしてあげるわ」
カルラの声には、自分を苦しめた相手に対する恨みや憎しみや怒りなどは全く宿っていなかった。
だから友介も、それ以上は何も言わず黙って見送った。
いつも通りに小さい背中が、今日は少しばかり頼もしく見えたから。




