DAY1―Ⅰ Light Atlantis 2. Cursed Relic
[October 27, 12 : 47 : 38 at 〝Medicine〟 in Atlantis]
理想都市『アトランティス』に七つある『学領』と呼ばれる区域の内の一つ、第七学領に当たる『医学領』の裏路地に二人の少女が佇んでいた。
一人は夜色の髪と碧色の瞳が特徴的な水色のシャツと花柄の白いスカートを組み合わせ、その上からなぜか黒いローブを羽織っている少女。頭にかぶった魔女帽子のせいもあり、どことなく魔女のような印象を与えてくる。
もっとも、彼女は真実、『魔女』と呼ばれる存在であるためその心象は何も間違っていない。
空夜唯可。
多くの魔術師や描画師に命を狙われ、今やそれらを返り討ちにするほどの力を持つ吸福の魔女である。
実は安堵友介と絶賛遠距離恋愛中の恋人であったりする。
もう一人は彼女の従者ナタリー=サーカス。
紫色のノースリーブシャツと黒いミニスカートを組み合わせた、褐色肌の少女だ。長い銀髪はぼさぼさに伸び散らかっており、容姿へのこだわりのなさが伺える。
「ナタリー……さすがにちょっとやり過ぎたかなあ……?」
「まあ、少しやり過ぎたかもしれないんです……けど、この人たちから襲って来たんだから仕方ないんです」
「まあ、それはそうだけどさあ……」
二人の足元では十人ほどの男が情けなく伸びていた。
調べ物をするために裏路地に入った唯可とナタリーを背後から襲おうとし、その後七秒で返り討ちにあった者たちだった。
最新式のスタンガンやら、どう見てもガラパゴス的な進化を遂げている銃などを使っていたが、一般人に毛が生えた程度の力しか持たないチンピラが無策で挑んだところで、描画師と魔術師の二人に勝てるわけもないのだった。
「理想都市って触れ込みなはずなんだけど、こんな人たちもいるんだね」
「まあ、光もあれば闇もあるということなんです、きっと。こんな風に変な方向に、しかも急激に進化した街は、バランスが悪くなるということかもしれないんです」
理想都市『アトランティス』――オアフ島を再開発することにより生まれた先端科学研究都市であり、今この瞬間にも多くの科学者が真理を追究している街である。
七つの『学領』と呼ばれる市のような自治体に分けられており、それぞれの学領によって地域特色はもちろん、研究の専門分野もまた異なっている。
中心部に陣取る第一学領『中央領』は政治、経済、司法の三権が集中する心臓部であり、首都のような機能を担っている。
第二学領は島の北部のやや西よりを占める『生物学領』となっており、その名の通り生物学を主として研究している地域である。他の領と比べマフィアまがいの集団やチンピラが多く、一般人や観光客はここにあまり寄り付かない。
第三学領はその東隣にある『医学領』。医学研究都市であり、ここでは最精鋭の治療を受けられる。生物学領を挟んだ『化学領』にある研究所などと提携し新薬の開発を行っていたりする。一部研究所は、生物学領にある研究所と提携し生命医科学分野の研究をしているところもある。
その隣、島の東部および北東を占めるのが第四学領『情報学領』。超高性能AIや高度暗号研究、最新ソフトウェアやゲーム開発まで、情報処理分野のあらゆる研究を幅広く扱っている地域である。アトランティスの中でも特に治安がよく、ここにしか存在しないゲームセンターなども存在するため、観光客や若者が多く集まる場所である。
その隣、第五学領『機械工学領』は島の南部やや東寄りといったところか。世界的に見ても明らかにおかしな進化を遂げている理想都市『アトランティス』だが、その中でも一層異彩を放ち多くの人の注目を集める、最もわかりやすく科学都市をやっている地域、とでも言うべき学領だ。その特異な景観から観光客も多く、隣の『物理学領』と並んで第三次産業が盛んな地域でもある。ただし『物理学領』との連携により最新鋭の兵器開発も行われており、一説には科学圏と魔術圏のパワーバランスが崩れ得る巨大兵器が開発されたとも噂されている。ナノマシン研究も行われており、『五感拡張計画・触覚』の根幹であるナノマシンを作成した研究所も存在するとのことだ。
そして第六学領『物理学領』。ここでは量子力学や宇宙開発などの研究が盛んに行われており、科学圏の中でもさらに最先端の研究がなされている。しかしここは研究都市としての側面だけでなく、物理学領南東部(ちょうど機械工学領との境界ほどの位置)は、もともとワイキキがあったためか、未だに観光地としての趣が強い。かつての名残を遺しており、多くのホテルやビーチが存在、観光客向けの飲食店も数多く立ち並んでいる。
最後に第七学領『化学領』。ここは新物質の合成実験を主として、その他高性能分析装置を置いた施設などが数多存在する。『五感拡張計画』の各被験者の疑似部位の材料が全てここで創られている。
理想都市『アトランティス』は、『中央領』を除いたこれら六つの『学領』で発明された諸々の研究成果を、試作の目的で街の機能や生活の一部に組み込んでいる。そのため、他の科学圏の都市に比べ、この街は相当に特殊な発展を遂げている。ある種ガラパゴス的な技術進化を遂げているとも言え、科学圏の中でも少しばかり異端な扱いを受けていたりもするのだ。
もっとも、生粋の研究者とは奇異な人種であるためか、この異端の科学都市で研究することを一つの区切り、目標としている者は多いのだが。
とはいえ、この街が科学技術の粋を集めた都市であることに偽りはなく、利便性に富んだ街であることに変わりはないため、ここに住む現地の人々がその異様な発展をどうこう気にしている様子はない。
便利で、明るくて、煌びやか。
街の表は科学の『光』を寄せ集めてできているため、現地人も観光客も笑顔を浮かべて街を歩いている。
しかし――
「一歩裏側に来てしまえば、これなんです」
ここは科学が異様な進化を遂げている。それが恩恵を与える先は、当たり前だが光だけではない。
「兵器開発、かあ……」
理想都市と言えば聞こえはいいが、所詮は人間が創り人間が管理するただの街だ。今が法則戦争の真っ只中であることを思えば、兵器がこの街で熱心に開発されていることは想像に難くないだろう。
そして、そうした血生臭いあれこれが創られている以上、それを求め、使い、私欲を満たさんとするものが現れるのも当然の理であり――
「こうやって、〝陰〟では弱い人を襲う悪い人たちがいっぱいってわけだね」
「はい、おそらくはそういうことなんです。……情報操作か隠蔽か、明かされていないだけで、この街で行方知れずとなった人も多いはずなんです」
「そっか……」
唯可たちが倒した彼らは、まだかわいいものだろう。たかがスタンガン、たかが銃器。十人程度で徒党を組んでいるだけの、麻薬に溺れたチンピラなど、おそらくこの『裏側』ではまだまだ浅いはずだ。
スラムじみた廃墟の集合地域などは酷いもので、どこで女が犯され子供が玩具のように殺されているかもわからない。
いいやきっと、そこですらまだまだ浅い。闇の濃度で言えばおそらく中度といったところか。本当に脅威なのは表社会にまで顔の利く組織だ。
メディアや金融機関、あるいは中枢領の行政府などとコネクションを持っている闇組織などがあれば最悪と言える。その悪辣な行為を、好き勝手気ままにもみ消すことができるのだから。
「ちょっとこの街、危ないかもね……」
「はい、そうなんです。……あまりこうした場所に長くいるべきではないと思うですし、早く聖遺物を見つけて観光に戻りましょうなんです」
「……うん、そうだね」
ナタリーの提案に、唯可が何か含みがあるような雰囲気を出しつつ肯定を示した。
奥歯に何かが引っ掛かったような、そんな口調。何だろうか、何かに納得していないような……
「姫……? 何か、不都合があったんですか?」
疑問をそのままにしておくこともできず、ナタリーが問を投げる。
対し、問われた少女はたはは、と力ない儚げな笑みを浮かべながら、
「……この人たち、どうにかできないかな」
「――、」
「私さ、この人たちには何もできなかったよ」
「姫、それは」
「うん、わかってるよ。先に襲ってきたのはこの人たちで、私たちは戦っただけ。……私は、そこに悩でるんじゃないんだ。その、なんていうのかな……もっと早くこの人たちに会ってたら、もしかしたらこの人たちが麻薬に頼らず、人を襲うこともなく、表で普通に生きて行けた未来もあったんじゃないかなって思うとさ……」
それは何て傲慢な悩みなのだろうか。
たかが十五年生きただけの弱く下らないだけの少女が抱くには、あまりに不相応と言わざるを得ない。神がいれば身の程をわきまえろと戒められていたかもしれない。
だが、そう思わずにはいられない。
空夜唯可は、そう考えてしまう少女なのだ。
染色を発現する、そのずっと前から――
それは、罪の意識から来るものでありつつ、しかし確かな少女の心。
手の届く位置にいる人くらいは全員助けたい。だから、手が届いたかもしれなかった人のところへ間に合わなかったことに、少女は心を痛めている。
それは美しい心であり、しかしどう贔屓目に見ても愚かとしか言えなかった。
手が届いたかもしれなかった人を助けられなかったことにまで責任を負おうとするその在り方は、美しいのかもしれないが、正しいとは言い難い。
そんなことを言ってしまえば、結局は世界を救うなどという壮大かつ荒唐無稽な話に飛躍しかねないのだから。
それは不可能だ。世界を救うことなど、人間の分際で出来るわけがないのだから。
人は助けられる人しか助けられない。手の届いた人間しか助けられないのだ。
それを理解せず、誰も彼も、知らない人も、いるかどうかもわからない人すらも助けたいなどとのたまうのは、傲慢以外の何物でもなく。愚かであり、無知であり、白痴そのものであると言わざるを得ない。
「だからこそ、なんです。姫」
ゆえに、理解しなければならない。
人には限界があると。
そして、それを知ったからこそ、動くことができず、何もできない自分に雁字搦めにされては助けられる者も助けられない。
だから大切なのは、己に出来ることを理解し、その範囲で全力を出すことなのだ。最善を尽くし、最善を目指し、最善を掴み取る。
「姫、〝聖遺物〟を見つけるんです。そして、大きな戦争を止めるんです」
そして、今やるべきはそれだった。
「この人たちは、その……気絶してはいますがすぐにでも起きるはずだから大丈夫だと思うんです。だから、今は行きましょう姫」
「うん、そうだよねっ」
聖遺物を探し出す――それが彼女たちの目的。
事の発端は数か月前。時系列的には、ちょうどカルラを巡るブリテンでの一幕が終わった直後の話だった。
☆ ☆ ☆
「俺様の名はデモニア・ブリージア。正式にはマーリン・デモニア・ブリージアだ。
提案がある。
俺様と一緒に、楽園教会を潰して世界を救済しねえかァ?
――――手を組もう」
台本を用意してきたかのようにスラスラと言葉を並べる金髪の男を目にした瞬間。
空夜唯可の心中には純然たる畏怖が湧き上がり。
ナタリー=サーカスの魂には殺意の赫炎が噴き上がった。
そして――
「『開裂と結合』ァァァァァアアアアアアアアアアアアアアッッッ!」
「え、ちょっ、ナタリー!?」
「呵々ッ! 容赦ないねェ。けはははは!」
爆発のような勢いで褐色の少女の周囲に水晶の如ききらめきを放つ三角錐が浮かび上がる。虚空から引っ張り出してきたかのような曲芸じみた光景だったが、その実やっていることは空気中の水分子の固体化に過ぎない。分子レベルの破壊と再生すらも司るナタリーにしてみれば、三つのボールでお手玉するよりも遥かに容易であった。
「何の用なんです、異界卿ッッ! あなたは葬禍王だったはずなんです! それがどうしてそんな話になるんですかッ!? 答えるんですッ!」
創造と同時、三角錐の底面付近の空気が爆発する。周囲の元素を一気に結び付け、凝固。さらに凝固した『固体の空気』の分子間結合を再度破壊する――この工程をコンマ一秒にも満たぬ間に成したがゆえの爆発であった。
鼓膜を突き刺すような破裂音が炸裂すると同時、水晶の如き輝きを乱反射させる三角錐がデモニアへと突き進んだ。
「だぁ、めんどくせえ……何でどいつもこいつも、すーぐ手を出すかねえ? 普通何もしていない、罪なき子羊ちゃんを問答無用で殺そうとしたりするかね?」
これだから最近の若者は……などと意味の分からないことをぶつぶつと呟きながら片手をぞんざいに横へ振った。
ただ、それだけ。
避けるような動作も、受けるような動作も、何もしていない。
ただ腕を横に振るっただけだ。だが、その一挙動をもってデモニアは攻撃の無力化を成功させていた。
三角錐は全て『邪悪』の背後の地面に突き刺さっていた。
全弾命中とはいかずとも、少なくとも半数以上はデモニアを串刺しにする軌道だったのだ。
何をしたところで男の串刺しは確実だったはずなのに。
「な? 何もする気ねえって」
「づ、ぅぅうう……ァァアアアッッ!」
その悪意の全く見えない明るい笑顔を見るなり、まるで汚物に蓋でもするかのような烈火の如き猛攻を叩き込んだ。
その全存在を破壊するために。
かの『邪悪』の魔の手が、決して主には届かないように。空夜唯可を絶望劇の人形にさせないために。
今ここで殺す。壊す。この邪悪の全てを分解して分裂させて粉みじんにせねばならない。
「ははッ、必死だなァ。嬉しいぜナタリー、機械みたいだったお前が、今はこうして誰かのために、大切な人のために、感情を燃やして戦ってんだからよォ」
「黙れなんですッ!」
絶叫とともに顕現したのは四つの超巨大な鉄塊。一片五十メートルはあろうかという立方体が、デモニアの頭上数ミリで創形されたのだ。
「わお」
ふざけきったデモニアの感嘆の声をかき消すように鉄塊が落ちた。
人など原形すら残さず破壊できる超重量の物体の落下。これに巻き込まれて無事な人間などいないだろう。描画師であろうと体は人間。多少丈夫であろうが、挽肉にされて生きていられる者などいない。
「死んでくださいなんですッッ!」
しかしこれでは終わらない。敵は葬禍王だ。オーバーキルにオーバーキルを重ねた過剰攻撃でもまだ足りない。
ナタリーは手のひらをデモニアへと突き付けるや、直線状に存在するあらゆる物質を分子レベルの分解する『開裂』を、砲撃の如く叩き付けた。
これで終わりだ、痕跡すら残さず死ね――らしくもなく悪意と殺意をあわらにし、感情を爆発させたナタリーの戦いは、しかし――
「くかかか。そんなに怒んなよ」
ぽん、と。
背後から肩に手を置かれたことで、実質上敗北したのだと理解した。
絶対に逃げられないはずだった。確実に獲ったはずだった。
しかし現実はこうだ。
何をされたのかもわからぬまま、あっけなく背後を取られた。
「……ッッ」
「いや、そんな警戒すんなって。カカカッ、俺様の今の標的は取るに足らねえ有象無象じゃねェ。楽園教会だ」
「それを、信じろと言うんですか……?」
「いえーす。信じてくれ。これが嘘を言っている人間の目かよぉ。カハハハ」
「…………ッッ」
首だけを後ろに向けたナタリーの瞳に映るデモニアは、それはもう悪意に満ちた笑みを浮かべていた。
明らかにこれから何かで遊ぶであろう、期待に満ちたそんな顔。
ただし、その悪意の矛先がわからない。稚気はどちらに向いているのか……本当に楽園教会で遊ぶつもりか? そう言って唯可や自分を弄ぶつもりではないだろうか?
この男の言葉は何も信用してはならない。言葉のひとつひとつが罠で、節々に仕掛けが施されている。油断すればいつの間にか悪辣な蜘蛛の糸に囚われかねないし、何よりも厄介なのは自身でそれに気付けないことだ。
全てが終わり、何もかもが台無しになり、もう後戻りできないほどの破滅に直面して、ようやく自分が玩具であることに気付かされる。そんな手合い。
ゆえにまともに取り合ってはならない。最大の警戒を。
――否。
関わってはいけないのだ。遠ざけろ、忌避しろ、逃げろ。『邪悪』と関われば絶望へと堕落する。ゆえに、共闘などいう世迷言を真面目に受けてはならない。交渉の余地などない。ノーと、そう言えば――
「なァ、頼むよぉ。楽園教会の十の支柱が一柱――枢機卿、第六神父『破壊神』ナタリー=サーカスちゃんよぉ」
「――――」
「え、今……何て……?」
「いや、今はあいつが死んだから葬禍王に昇格したんだっけかァ?」
するり、と。
まるで甘い毒のように耳に流れ込んできた事実に、先から呆然と立ち尽くしていた唯可が正気を取り戻した。
しかしデモニアは、間抜けな問いを発する少女には目もくれず、かつての盟友であったナタリーへとさらに言葉を投げかけていく。
「今さら教会に戻れなんてことは言わねえよ。つぅーかそもそも、俺様はあそこから抜け出たんだから、戻られると困るわけだわ」
「……なにが、言いたいんです……?」
弱々しいナタリーの質問に、デモニアの笑みが深まる。
別に今から何か特別な罠を仕掛けようというのではない。この男は常態でこうなのだ。人の弱い部分を見るのが好きで、人が恐怖に震えているさまが好きで、人が絶望しているところを見るのが好き。愛すべき玩具たちが可愛らしい反応をしてくれることが、心の底から嬉しいのだ。
ああ、だから俺様はお前たちが好きなんだ。人間が好きだ。
だから、デモニア・ブリージアはこの世の全ての人間を愛している。
「だからぁー、仲間に入れてちょ☆」
ふざけた調子でそんなことを言う『邪悪』に、ナタリーは反駁することができない。
次に何を言われるのかわからない。何を暴露される?
空夜唯可に、忠誠を誓った主に、過去の所業を知られるのは嫌だ――
「待ってください」
そんな風に怯え、震え、恐怖していたナタリーの耳に届いたのは、誰よりも敬愛する少女の声だった。
吸福の魔女――空夜唯可。
いつもは明るい七変化を見せるその表情は、今は静かな怒りを湛えた無表情だ。
「そんな風に私の友達を虐めないで。怒りますよ」
いつの間に握っていたのか、長い杖をデモニアに突きつけてそんなことを言う。
そこでようやく男の興味が唯可へ向いたのだろうか。ナタリーの肩においていた手をどけ、視線を唯可へと向けた。
デモニアの悪意の詰まった瞳と、唯可の真っ直ぐな瞳がぶつかり合う。ともすれば一触即発、何がきっかけで爆発してもおかしくない張り詰めた空気が流れる。
その中で、先に声を発したのは唯可だった。
「ナタリーが枢機卿だというのは今はいいです。それよりも聞きたいのはあなたのこと」
「おう、何でも聞いてくれや」
「さっきの口ぶりだと、あなたも教会の一員だという風に聞こえるんですけど、そんなあなたがどうして教会を潰そうとするんですか?」
「ああ、それね――」
少女の問いにデモニアはふっ、と一つ小さく笑ってから、その表情に若干の怒りを滲ませて――
「コールタールの野郎が下らねえことしたからさ」
瞬間、デモニアの瞳に映ったのは怒りとも悲しみともつかぬ感情であった。
「何のためにあいつに付いて行ったと思ってるんだかよォ。トップが腐っちまったんなら組織は終わりだ。ただ中途半端に強い奴らが集まった人殺しサークルに落ちるだけだ。それがつまんねえから、せめて俺様が引導を渡してやろう――ってなわけよ」
そう告げるデモニアの瞳は、嘘をついている風には見えなかった。
たとえ全てを語らず、少女たちを罠にはめようとしているのだとしても、少なくとも、教会やコールタールに対する怒りは本物であるように見える。
先ほどまでの喜々としてナタリーを言葉攻めしていた様子から比べれば一目瞭然。心底つまらなさそうなその様は、失望の表れだろう。
「ついで世界を救ってやる。ははッ、あいつらが世界救済だなんだのと言ってやがるからな。俺様は俺様なりの方法できちんと世界を救ってやって、それで完全勝利を見せつけて心を追ってやるんだよ」
理由としては納得できるし、この短い間に感じたデモニアの気性とも一致する主張であった。
すでにこの時点で、唯可はデモニアを信じはせずとも、共闘関係を築くほどの価値はあると判断した。
深くは入れ込まず、さりとて確かなパイプを築いておけば――
「なァ」
交渉相手を前に思案する唯可に、デモニアはさらに言葉を投げる。
「何ですか?」
思考を一旦切り、顔を上げて問い返す唯可にデモニアはつまらなさそうに息を吐いて、こんなことを尋ねた。
「人が世界を……いや、何かを救うことを決意するのって、どういう時かわかるか?」
「え?」
「いいから答えてみてくれよ」
まるで関係ないように思える質問に、唯可が間抜けな声を出す。が、デモニアはそれを無視して答えろと促した。
質問の意図はわからないが、おそらく雑談程度の意味だろう――若干の警戒はしつつも、数秒思案してから答えた。
「泣いている人を見たとき、かな……」
「ちげぇな」
あっさりと否定される。
むっとなる唯可だったが、デモニアは頓着せずに持論を口にする。
「今ある世界を、諦めたときだ」
見ている唯可が悲しくなるほど空虚な色を瞳に宿らせ、デモニアはそう言った。
「……――」
「何を……?」
唯可はその意味を思案するように押し黙り、対してナタリーはデモニアの神威そのものを訝るように呟いた。
だが、デモニアは少女二人を無視してさらに話を先へと進めた。
「まァ俺様を信用するかどうかは好きにしろ。だが、少し手を組むくらいはしようや」
先ほどまでの暗い雰囲気を吹き飛ばし、デモニアは呵々と軽薄に笑った。既に唯可も八割がたデモニアを信用しているため、仲間とは言わずとも、情報交換や一時共闘の様な、協力関係ならばとそれを了承する。ナタリーは最後まで反対だったようだが、唯可が「大丈夫だよ」と微笑みながら言うものだから、それ以上の反駁はしなかった。元より彼女は従者の身。主が決定したのなら、それに従うまでだ。
「んじゃ、本題に入るとしよう」
紆余曲折あったが、ともかくこれで共闘関係は成立した。よってここからは具体的な行動を決める段となる。
「十月にアトランティスで科学圏と魔術圏、両首脳による会談が行われることは知ってるな。そのタイミングで、『聖遺物』ってのが持ち込まれるって話を聞いたんだが――興味あるかァ?」
☆ ☆ ☆
聖遺物。
あの『邪悪』ですらも、その未だ正式な名前も、形すらもわかっていないらしいそれが、この街に持ち込まれているらしい。
唯可とナタリーのこの街における目的は、使い方次第で戦争を終わらせることも、人類を滅ぼすことすら可能と言われている、その最悪の『兵器の卵』を回収し、誰の目にも届かぬところへ封印するというものだ。戦争の激化や大虐殺を未然に食い止める。それが此度、唯可とナタリーがアトランティスへ足を運び入れた目的の一つだった。
デモニアもまたアトランティス入りはしているが、現在は別行動している。定期的に連絡を取り合うことにはなっているが、直接的な支援や助力は望めないだろう。……もっとも、ナタリーから聞いたあの男の在り方を考えるに、あまり深く協力し合うことは得策とはいえないため、これくらいがちょうどいいだろうとは唯可も思っているが。
現在は何も手がかりを掴めてはいないが、しかしこの街の裏側の凄惨さや陰鬱さは嫌と言うほど理解した。理想都市とは表の顔で、裏では何が行われているのかも。
となれば、この都市の闇で世界を破滅させかねない兵器が創られていてもおかしくはない。もしも聖遺物がこの街の暗部に渡れば――
そう考えるだけで、唯可の背中に震えが走った。
「行こう、ナタリー」
[October 27, 13 : 00 : 00 at 〝Biology〟 in Atlantis]
理想都市『アトランティス』が第二学領『生物学領』にある巨大植物園の中央。無数の蔓が地上五メートルに上るまで歪に絡まり、玉座の形を成したその上で、深緑の王妃はたおやかに微笑んでいた。
「あら、あらあら……これは、また珍しいお客様がいっらっしゃいましたわ」
王妃の美貌は、もはや人という種からは外れているとすら言えるほどに常軌を逸しており、身に纏うそれの異常性をも鑑みれば、彼女を人間の枠にはめて語ることがどれほど愚かかわかるというものだった。
時を匂わせる大木の如き深緑色の長髪は腰まで届き、神聖さすら纏っている。眼下へ慈しみすら伴って落とされている翡翠色の瞳は、髪に反して人を惑わす魔性を帯びていた。
身に纏っているのはドレスだ。だが、それを服と呼ぶことは常人の感性を持っていれば不可能だろう。
広葉を繋ぎ合わせただけの隙間だらけのドレスに、アクセントとして左肩、右の腰、それから右の太もものあたりに赤い薔薇をあしらった、いかれた衣装。風が吹くたびに柔肌があらわになり、ただ座しているだけの今ですら、身じろぎするだけで男の腕くらいは容易に包み込めそうな乳房が零れ落ちそうだ。
総じて、異質。それでいて痴女めいた卑しさがなく、あまつさえ神々しい気配すら滲ませているのは、ひとえにこの女が只人とは一線を画す存在であることの証左であろう。
魔術圏統合同盟『九界の調停局』における軍事担当機関『美麗賛歌』、その機関長――『花園の豊饒姫』ことアモルシア・プランターレ。
深緑の王妃は聖母めいた顔を淡い笑みの形に和らげ、アポイントも無しにやって来た無礼者に対しても、慇懃な態度で要件を問うた。
「公式の発表では、わたくしがアトランティス入りするのは28日……つまり二日後とされていたはずなのですが、どこで情報を掴んだのでしょうね。それにこうして、仮宿すら暴かれてしまうだなんて、ああ、これでは暗殺の危険もあるかもしれませんわね。ふふっ」
童女の如き可憐な笑みを漏らす王妃は楽しげだ。悪戯が失敗したような子供の笑みは魅力的で、ともすれば和やかな雰囲気すらこの植物園に満ち満ちる。
それは特におかしくない、当たり前の光景。変わった風貌の女だが、来客者に対して笑顔を浮かべ、優しく声をかけている。どこにでもある優しい風景だ。
だが、この場にいるもう一人の男――王妃の対話の相手を勘定に入れた場合、それはどこまでも異質なものに映るだろう。
なぜなら――
「カカカッ、まさかこの俺様すらも出し抜ける気でいたのかよ、王妃サマ」
オールバックにした金色の髪、軽薄な笑み、着崩した紺色の軍服。
何より、瞳に宿る地獄よりなお醜い邪性。
森羅万象、この世の全ては我が玩具と言って憚らない世界最低の『邪悪』の化身。
すなわち、楽園教会を支える五の葬禍王が一柱――『異界卿』デモニア・ブリージア。
邪悪は今日も口元に黒い愉悦を滲ませて、高みより己を見下ろす女に言葉を投げる。
「ま、別に特別なことはしてねえがな」
「そうでございますか。して、今日はいかようなご用件でいらしたのですか?」
アモルシアとデモニアは世間話でもするような口調で言葉を並べていく。互いに対等、人と人が当たり前に交わし合うそれは、しかし役者を思えばやはり常識の枠外にあるだろう。
過去、デモニア・ブリージアが対話する際において、彼に対し悪意や害意を抱かなかった者がいったいどれだけいたであろうか。天上に坐す邪神に怒りをぶつけるような、そんな敗者特有の敵意を抱かず、対等に会話できた者は。
友介やカルラは当然無理であったし、ディリアスも最後に侮蔑と憐憫を抱いたものの、やはりデモニアを不倶戴天の敵として認識していた。あの強大無比な力を持つ枢機卿たちですら例外ではない。春日井・H・アリア、バルトルート・オーバーレイ、セイス・ヴァン・グレイプニル、ナタリー=サーカス……彼らに限らず、枢機卿は皆が皆例外なくこの男に対し憎悪とすら言える嫌悪を抱いている。
唯一の例外と言えば、コールタール・ゼルフォースと光鳥感那の二人ぐらいであろう。加え、デモニアに対し友好的な態度を取っていたものとなれば、コールタール以外には存在しない。感那は彼と対等ではあったものの、やはりデモニアに対し敵意は抱いていたはずだ。
「あァ、それなんだがな」
「あ、申し訳ございません。少々お待ちくださいまし。今部下にお茶を入れさせますわ」
「……カカッ。そうかい、じゃァありがたく貰うとするか」
それらの事実を鑑みれば、このアモルシア・プランターレという女がいかに度外れているかがわかるのではないだろうか。
――この女は違う。
数多の人間の人生で遊んできたデモニアは、当然人の器や気質を見極める目が鋭い。一目見れば……とはいかないものの、ひとつふたつ言葉を交わせば、相手の大まかな全体像は掴める。
その彼からして、この美女は逸脱していると評価を下す。
つまり、木っ端どもとは違うのだと。
枢機卿のような背伸びや強がりも感じられない、正真正銘の傑物。あるいは――怪物、人外。
「……クカッ」
で、ありながら――だ。
デモニアは深緑の王妃の微笑みの正体が、人類への普遍の愛でもなければ、万人を対等に見ているからでもないと、そう踏んでいた。
この正体不明の植物の生い茂る空間に加え、甘い香りを発して彼の周囲を包む色とりどりの花々……ああ、なるほど、そういうことか。
デモニアはある程度の真実の一端を垣間見ながら、しかしそれには触れずただ用件だけを伝えることにした。
横合いから彼女の部下であろう、青のジャケットと赤のパンツで構成された近世あたりのフランス軍服を身に纏う女から紅茶を差し出された。デモニアはそれを、無礼にも視線も向けず、片手で受け取りながらこう言う。
「聖遺物」
「……、」
「俺様ですらその正体は知らねえが、そういうもんがこの理想都市に持ち込まれてるらしい。何でも? その聖遺物ってのは使い方次第でとんでもねえ兵器になるって話じゃねえか。テメエら魔術圏に渡ればもちろん、ここ『アトランティス』で研究者に渡った場合でも、もしかしたらこの戦争も終わるかもなァ」
「聖遺物……あなた様は、その正体を本当にご存じでないのですか?」
「あ? 俺様は、大量殺戮兵器の素材ぐらいにしか知らねえっての」
「…………」
嗤うデモニアに、アモルシアの瞳にこれまでとは異なる色が宿った。訝しむような、デモニアの真意を探るような。
対し、ぶしつけな視線に晒されているデモニアは、依然軽薄な笑みを浮かべて佇んでいた。
自然体でありながら、しかしどこか楽しげ。
ああ――こいつは乗ってくるだろうか、と。そういう表情だった。
「嘘を、ついていますわね」
「呵々、そりゃァひでえぜ。俺様は何も嘘をついてねェっての」
「ふふっ、まあいいですわ。乗ってあげましょう。〝聖遺物〟……わたくしは是が非でも手に入れたいものですし。ええ、もちろん手に入れますとも。しかし、やはり疑問が残るのですけれど……どうしてそんなことをするのでしょうか? 聖遺物は、あなた様も喉から手が出るほど求めているとばかり思っていましたが」
「いんや、いらね。下らねえ、そんなもんに執着するかよ」
「あら……それは、なぜ?」
「聖遺物は絶望しねえだろ、別に」
「なるほど、理解いたしましたわ。度し難い趣味ではありますが、邪魔をしないと言うのならば何も言いません」
「ククっ、クカ。カカカカッ! じゃあそういうわけで、伝えることは伝えたぜ、女王サマ。あとは自分で何とかやってくれ」
「ええ、そうさせていただきますわ」
そうかい、契約成立だ――そう告げて、デモニアは踵を返しその場を去ろうとする。
だが、その直前、アモルシアはまたしても声を上げていた。
「申し訳ございません、もうひとつ質問をよろしいでしょうか?」
「ん? ああ、別に何でもいいぜ。何なりと、答えられることなら何でも答えてやるよ」
「では、お言葉に甘えて。……わたくしもまた、駒の一つなのですよね?」
涼やかな笑み、柔らかな声。確信に満ちたその問いは、質問というよりも確認の意味合いが強かった。
デモニアも声音からそれを察したからか、あるいはその問いすらも彼の絵の一部にすぎないからか……正直に答えていた。
「ああそうだ。テメエも俺様の手のひらの上だ」
「承知いたしました。では、そのように。引き留めてしまい申し訳ありませんでした」
「いいってことよ。んじゃ、楽しみにしてるぜェ」
そう言って、今度こそ邪悪は姿を消した。
歪な自然界に再びの静寂が戻る。アモルシアはまぶたを閉じ、口元は変わらず優しげな笑みのままにしながら、
「三権人に告げます」
この植物園にいる三人の直属の部下に命を出した。
「本日これより聖遺物のありかを探り、明日から会談までの間に奪い取ってください。無論、わたくしが関わっていることを知られてはなりません。理想都市『アトランティス』に眠るという聖遺物……ええ、このわたくしが手に入れて、必ずや今の混沌を正しましょうではありませんか」
言葉を結ぶと同時、庭園にいた三つ気配が消え去った。上司の命令に従い、それぞれの方法で聖遺物の探索に赴いたのだろう。
アモルシアはそれに満足しつつ、ふと何かを思い出したかのように人差し指をあごに当て、
「ああ。友介くんを探してもらうことを忘れていましたわね」
ゆっくりと、しかし確実に。
この理想都市を舞台に、何かが蠢き始めている。
[October 27, 13 : 07 : 39 in 〝?????? ???????〟]
空夜唯可がいる。風代カルラもいる。そこに加えて安堵友介まで。
近いぞ、我が本懐を遂げる日は。
芽吹いた憎悪は天へと上る。
狂騒せよ、理想都市――
絶望の暗色が島を覆うその時まで、せいぜい白痴の如く煌めきながら踊るがいい。
常夏に終わりを、冬の幕を開けよう。
二つの岸を隔てる門に軋みが生じる。
ケタケタと笑う何者かは、浮上せぬ意識の底で全てを俯瞰している。




