終章一 茶番は終わり、神は道化を嘲笑う
それから先のことを、四宮凛は一生忘れることはないだろう。
二度と忘れられないくらいに鮮烈なその光景。
友介は凛を抱きかかえながら『瞬虚』を用いて飛び回り、アリアの操り人形を次々と気絶させていった。一分も経たずアリアの戦力は消え去る。
ならばと広がるアリアの染色も、そもそも安易な幸せに逃げず、誰かの理不尽を撃ち砕くために戦う友介を囚えられるはずもなく、いとも容易く撃ち砕かれた。
そして、あらゆる力を砕かれ、ユメすら満足に振るえぬまま、アリアは友介の拳に倒れた。一応女なので手加減したが、軽く気絶はしていた。
そして、それで戦いは終わり。
彼が来てからは、本当に一瞬だった。
それを特等席で眺めていた凛は――
「――――……」
何も、言えなかった。
四宮凛を守るためだけにやって来てくれたこと。
少女では絶対に勝てない敵を、次々と屠っていくその姿。
そして――動くたびに感じる、彼の体温。
その全てが、ああ、愛おしくて、嬉しくて、気持ち良くて、大切で、大好きで。
やっぱり、どうしても自分では届かないなあ、とそう思って。
だけど――
「ま、いっか」
もう、彼の隣に立つだとか、自分には恋をする資格がないだとか、平凡だとか異常だとか、そんなものはどうでもよかった。
だって、四宮凛の戦いの場は、そこではないのだから。
彼女は彼女のまま。
凡人のまま、当たり前の世界で、一人の少年を救う。
そう決めた。
だから、四宮凛はあちら側には行けない。行ってはならない。
彼女は当たり前の日常から、異常な世界で血反吐を撒き散らす友介に手を伸ばし、彼をこちら側に引きずり込まなければならないから。
暖かな陽だまりの下で、友介が笑えるように――光の世界で、安堵友介を見守り続ける。
戦いが終わり心地よい静寂が流れる中、凛はずっと友介の顔を見上げていた。
胸の高鳴りが収まらない。体が熱い。喉に何か込み上げるものがある。必死にそれを呑み込まないと、何かが決壊しそうだから。それを忘れるためにも少女はふと浮かんだ質問を投げかけた。
「なんで?」
「は?」
「いや、さ。何であたしのピンチに駆け付けられたの?」
それは、単純な疑問。
絶対に来るはずなんてなかった。凛が戦っていることを、友介が知っているはずがないのだ。
「ああ、それはな――」
何の気なしに答えようとした友介だったが、しかしふと不自然なタイミングで言葉を切って。
少し顔を赤らめて、ばつが悪そうにこう言った。
「……お前が、ヤバいような気がしたから、だ……」
何というか、あまりにもぎこちなかった。
もはや演技なのがバレバレだ。変な汗をかいているし、顔は少し変だし、喋り方も急に棒読みになっているし。
そしてそれに気づかないほど凛は鈍感ではない。
ああ、きっと……蜜希が連絡してくれたのだろう。友介を取り巻く異常事態が収束したことで彼と連絡を取ることが可能となり、電話なりメッセなりを入れて凛が窮地にあることを教えてくれたのだ。
おそらくこの演技も、蜜希の入れ知恵だろう。
凛をヒロインにするために、蜜希が友介にこう言うように要求したのかも。『それが凛さんのためになるから』とか言って。
だけど――
「そっか。あ、ありがと……」
それでもきっと。
そこにどんな意味があるのかわかっていなくても。
彼が戦って傷ついた凛のためを思って口にしたことだけは、わかったから。
それが嬉しくて。彼が自分のことを、少しでも大切に思ってくれていることもわかって。
「ふふっ……」
「なに笑ってんだよ……」
「え、今笑ってたっ?」
「笑ってた」
「え、え、ウソ? じゃあ色々声に出てた!?」
「は? なにが?」
「あ、そ、それは大丈夫だったんだ……良かった」
どうやら恥ずかしい言葉は口にしていないようで安心する。だが油断すればいつ本音が溢れ出るかわからない。今のこんな状況ならばなおさらだ。
凛は緊張した面持ちで友介の腕に抱かれている。お姫様抱っこという極限の状況の中、決して恥ずかしいあれやこれやを表に出さないように。
しかし友介は、凛のその複雑な感情をどう勘違いしたのか、ああ、と何かに気付いたように声を上げて、
「降ろすぞ」
「むりだし」
「は?」
即答だった。わりと食い気味に断った。「降ろすぞ」の〝す〟のところで既に口を開いていた。
「いや、でも重いし」
「はぁー? ふつう女子に重いとか言う!? まじありえないっしょ!」
「うるせえな、別にいいだろうがめんどくせえ」
「めんどくさいって何!? あたしが悪いのっ?」
叫ぶ凛と、うざそうに顔を背けて適当に返事を返す友介。
しきりに降ろしたいと言う友介と、それを拒否する凛。
冗談じゃない、せっかくこうして友介と密着できるようになったんだ。こんなところで降ろされてたまるか。あと二、三時間はこのまま一緒にくっ付いててやる。
そのためなら何だってしてやる――
心の中で欲望を燃やす凛は、そんな覚悟を胸に抱き、
「ねえ、安堵……」
「あん?」
「あたし、怖かった……もう少しこうして、誰かにくっ付きたいんだって……。もうちょっと。ちょっとだけだから……お願い?」
目にしずくを溜め、潤んだ瞳で見上げる凛は、わかりやすいほどあざというというのに、めちゃくちゃ可愛い。女性関連の話題はからっきしであり、何より空夜唯可という少女に恋をしていることから、カルラ以外の少女に対し深く入れ込んだり、誘惑されないように気を付けているのだが……可愛いものは可愛かった。
「だめ……?」
「……ちッ、勝手にしろ」
「えへへぇーっ」
ぎゅぅ、と首に回した腕にさらに力を込めて体を密着させる。わざと胸を押し当てることも忘れず、それでいて友介のぬくもりや匂い、肌の感触……その全てを全身にこすりつけるように。
すりすり、すりすり。
きっと、もう、こんなことは出来ないだろうから。
ずるいとは思っているが、それでも、今だけは四宮凛だけの安堵友介にしたいから。
だから――
「……あの」
「なに?」
「いや、お前なんか今日変だぞ」
「そらそうっしょ。こんなにか弱い女の子だってのに、腕折られるほど戦ったんだから。腕、うで……ああああああああ!? いったぁぁぁあああああああい!?」
「今さらかよ!? おい大丈夫か!? つぅーか待て、そんな抱き着くな! おい、あいつが、あの枢機卿の女が見てんだよッ、頼むからもう離れろって!」
「そんなことより痛いんだけど友介!?」
「だあああああ畜生なんだよこれ、もう意味わかんねえ! とりあえず救急車だっ!」
あーだこーだと騒ぐ友介と凛。その二人の姿は、あのユメの世界で幸せな日常を送っていた二人とは少し違う。
その恋は一方通行で、そしてそれが叶う可能性は限りなくゼロ。本当にごく僅かだ。
安堵友介は地獄のような戦いに身を投じてばかりで。
四宮凛はそこには絶対追い付けなくて。
毎日のように会って、デートをして、愛し合って、馬鹿なことをして……そんなifは、もうどこにも存在しないのだ。
それでも。
「おい、だからお前離れろって暑苦しんだよ……っ!」
「は? 絶対ヤだし。そんなこと言うなら絶対降りてあげませーん。ずっとあたしを抱きかかえてろっての!」
「ああもう……ったく、めんどくせえな……ッ」
きっとこれは、ただ道順が違うだけだったのだろう。
ただ、どこにでもいる少年と少女として。
平凡な日常の中で二人が出会っていたならば、もしかしたら――あんな未来もあったのかもしれない。
そんなことはありえないし、きっと何かの歯車が違えば二人は出会ってすらいなかったのだろうけれど。
それでも、もしも友介と凛が両想いとなり、付き合ったのならば……きっと、あんな風に幸せなカップルになれるはずだ。
「……っ」
アリアはそんな二人を見つめながら、自分の中で何かが変わり始めていることを自覚した。
いいや、あるいはこれは、変わっているのではなく……
「ねえ」
「あん?」
「なに? 今いいとこなんだけど」
呼びかけるアリアに、当たり前だが友介と凛は敵意を隠すことなく反応した。とはいえ、先ほどまで殺す殺されるの戦いをしていた敵が声をかけてくれば、こうなることは当然だろう。
「私を殺さないんですか……?」
「はあ? なに言ってんだお前」
返ってきたのは、心底馬鹿にしたような声だった。
「何でテメエをいちいち俺が殺さなきゃいけねえんだよ、めんどくせえ。お前は今から光鳥の野郎に捕まってバルトルートと同じように晴れて牢屋行きだ。殺す必要ねえだろうが」
「ひねくれ過ぎでしょあんた」
「うるせえよ」
凛の言う通り、友介がアリアを殺さないのは合理的な理由が全てではない。
殺すことは理不尽に当たるから。たとえ敵だったとしても、友介から見た悪だとしても、だからといって相手の命を奪っていい道理はない。
「でも、私は逃げ出すかもしれないですよ」
「知るか。別に俺には関係ねえ。人に迷惑かけねえ限りは逃げるなり何なりしろよ」
「また嘘をつくかもしれませんよ。ブリテンの時みたいに」
「今日からは騙されねえから関係ねえよ」
「ブリテンで風代カルラを苦しめたのは……彼女の記憶を呼び覚まし、精神を追い詰めたのは私ですよ」
「……」
その事実だけは友介の言葉を一瞬詰まらせるのに一役買ったが、しかしそれだけだった。
「……別に、だからってどうするつもりはねえよ。そりゃ、今すぐお前をあと五発くらいぶん殴りたい気分ではあるけどよ」
そこで友介はふぅ、とひとつ息を吐いて、
「カルラはさ、お前と同じように……きっと、お前以上の罪を犯して、それを背負ってんだよ。だけど俺は、いつかあいつにあいつ自身を許してやってほしいんだ。あいつが、許されて欲しい。そんで、きちんと救われて欲しい」
じゃあよ、と付け足して、彼はこう結んだ。
「俺がお前のやったことを許さないとしたら、それはきっと、カルラがやったこともまた、許されないと俺自身が認めちまうような気がすんだよ」
だから――それはもう、いいと。
安堵友介はそう言った。
最愛の少女。一生を懸けて守り、救うと誓った少女。
その少女が許されて欲しいと願うからこそ、少女を愛する少年は、彼の愛した少女を苦しめた張本人すらも、許すと言った。
「そう、ですか……」
それで、もう――アリアは何も言わなくなった。
「それより四宮、もうそろそろ――
「いい茶番だったぞ、安堵友介! さすが私が見込んだ男だ。その戦い、その心象、間近で見せて貰ったからこそ、理解した」
尊大だがどこか舌足らずな、幼女の声がホール内に強く鳴り響いた。つい先ほどまでずっと近くで聞き続けた少女の声だった。
音源は客席一階の。中央入り口。
そこに見知った少女の姿がある。黒のゴスロリ衣装を着た金髪碧眼の美少女だった。歳の頃は12かそこら。しかし纏う雰囲気や放出する覇気は年齢にそぐわぬ本物であり、かつては頼もしくもあったその少女。しかし、今はその相貌に浮かべられた嗜虐心を隠しもしない笑みに、友介はどうしようもなく不安を覚えていた。
コツ、コツ、と踵を鳴らして歩く少女。その名はリリス・クロウリー。
かの20世紀最大の変態魔術師アレイスター・クロウリーの娘を自称する、謎多き女。
かつてノースブリテンのブレインを務め、南北が統一した現在においてもその地位につく少女は、くっくっと喉で笑って、
「目的はジブリルフォードの遺産だけだったが、まさかこんな掘り出し物があるとはなあ。くく、くは……ははははは! なあ枢機卿っ! 春日井・H・アリアか! ははっ! はははは! すっかり騙されていたよ。く、くく……私も安堵友介相手に嘘をつくために、常に『愚者』を纏ってはいたが、お前の方がよほど上手い。力の差を、格の差を突き付けられているようで心苦しいことこの上ない」
「世間話は良い。リリス、離れたところで待ってろって言ったろ。何で来た? 問題でも起きたか?」
先ほどまでともに肩を並べて戦っていたはずの少年から苛立ちと敵意の込めた視線を向けられるも、やはりリリスはどこ吹く風だ。からからと嗜虐的に笑って、嘲りの混ざった声を返す。
「ははは、どうだろうな。まあ問題というならば最初から起きている。そこの女を始めとして、この世界に楽園教会という悪が蔓延っていること……それはやはり問題いだろう?」
「おいガキ、優しく言ってやってるうちにさっさと答えろ」
「お前こそ何様のつもりだよクソガキ」
吐き捨てるように言った直後だった。
「正道、そいつを解放しろ」
少女がここにはいない何者かに命じて、
「悪夢」
「■■■■■■■■■■■■■■■■――――――――――――――――ッッッ!」
「なっ――――、ちィッ!?」
直後、迸る絶叫。友介はすかさず凛を下ろし、背後に突き飛ばした。腕が折れている少女に対する扱いでないことはわかっているが、今はそれどころではない。一応転ばないよう配慮したし、彼女だって友介に抱きかかえられたまま死ぬことなんて望んでいないだろう。
次瞬、大気を引き裂く黒の軌跡が、天蓋を突き破り空の彼方から飛来した。
黒色の閃光が縦に一本、世界を割るが如く焼き付いた。鮮烈にして迷いない殺意の一撃は、しかして安堵友介を捉えられなかった。
「ォオオオオオオオオッッ! ォアアアアアアアアアアアアアアアア――――ッ! ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■――――――――――――――――――――ッッッ!」
ゆえに絶叫は止まらない。終わらない。六年を経て醸成され煮詰まったマグマのような憎悪の渦は、留まることを忘れ天井知らずに深化する。――殺せなかった、それ故に。
膨張する怒りが無限の促進力を黒騎士に与える。
――悪夢。
敗者の印を押されたそれは、今はもう己という人格をすら奪われ、ただひたすらに個人を恨み憎み殺す装置と化している。
土御門狩真とライアン・イェソド・ジブリルフォードの襲来の際に、まるで爆弾のように投下されたそれ。場を乱すためだけに投入され、ついぞその正体が明かされなかった黒騎士は、此度もまたただ暴走する狂戦士と化していた。
ただし狂気には一定の方向性がある。
コロス。
コロス。
コロス、コロス、コロス。
キサマヲコロス。
絶叫と絶叫の合間に呟かれる小さな呻き。
兜の奥にて怪しく光る血走ったその瞳は、安堵友介だけを射抜いていた。
「ああ、殺せ。そいつはもう用済みだ。念には念を。大事を取って殺しておかねばならない男だそいつは」
そして、その殺意を肯定する者が黒騎士の後ろには立っている。
「それが貴様の運用方法だ。それ以外に使い道などないからな。道具に用途があるように、人にも適材適所が存在する。貴様の適所はここというわけだ、悪夢」
「――――ッ、んの……っ」
嗤う少女に、友介は怒りを返すことすらままならない。
迫る二刀。ただ力任せに叩き下ろされるだけの、技も駆け引きも思考すらも消え去った木偶の剣。しかして神速。それら二刃が友介の行動を制限していた。
『眼』によって今はまだ一太刀とて浴びてはいないが、これもいつまで続くかわからない。当たり前だが友介はすでに満身創痍。今この瞬間に気絶してもおかしくない状況なのだ。
そこへ放たれる剣の乱舞、乱舞、乱舞。
狂する者と常なる者、相対すれば本来勝利するのは常なる者。しかして今、友介は戦える状況にはなく、体力に明確な開きがある両者の趨勢は当たり前のように黒騎士へと傾いていた。
徐々に回避に余裕がなくなり、少しずつ、薄く浅い裂傷が増え始める。隙だらけの木偶の剣でしかないはずなのに、体が思考に追いつかず死への坂道を転がり落ちる。
「安堵友介、戦いながらよく聞いておけ」
「――っ」
「『教会』が進めているくそったれな計画の中心に、お前がいることは既に察し手が付いているか? 奴らが掲げる世界救済という名の大虐殺。その渦中に、お前は必ずと言っていいほど存在している。奴らの虐殺において、安堵友介という存在は必ずついて回る」
「ぐっ……ッ」
「私は奴らの計画の全貌を知ったわけではない。というよりも、未だ何もわかっていない。ジブリルフォードの残した資料を読んだ今とて、その根底にある目的など測れない」
黒刃はより一層勢いを増す。殺意の煮沸は無限に続く。どす黒い殺意の念を突き付けられる友介の全身に傷が増えていく。
背後で凛が悲鳴を上げ、飛び出そうとする凛をアリアが必死に押し留めているのが友介の視界の端に映った。敵同士だったはずの二人だが、そもそもアリアの性根は己が悪を疎んでいたことを思えば、こうして目の前で死に向かおうとする人間を止めるその行為は、何らおかしくない。
友介は敵だった少女に今はほんの少しだけ感謝しつつ、改めて目の前の敵へと意識を集中させた。
その意識の隙間を縫うように差し込まれるリリスの声が、友介の集中力を掻き乱す。
「だがな、そこまでわかっていれば対策のしようもあるんだよ」
無視せんと決意をするも、それが己のこととなれば難しいのは道理。友介の思考のほんの一部は流れてくる言葉に耳を傾け、その結果どうしようもなく彼の劣勢は深まっていくばかりであった。
「お前を殺せば、それで計画は頓挫する」
「ッ……!」
楽園教会にとっての安堵友介という描画師の存在価値。
渋谷にてコールタールに敗北したあの時も、ブリテンでカルラを救った後のあの時も、安堵友介は満身創痍であったにもかかわらず見逃された。
前者に関してはブリテンでのカルラ覚醒の一件を思えば納得も出来るが、後者に関しては未だ謎のままだ。
枢機卿を一人撃破し、鏖殺の騎士の覚醒を食い止めた黙示録の処刑人を見逃す理由が、あの秩序の覇王のどこにあったというのだろうか。
それを考えれば、安堵友介という少年が彼らにとって必要不可欠な何らかのピースであるという推察は、何もおかしいこととは思えない。
「故に殺す。無論、私とてこの程度の浅知恵でかの銀色の秩序の思惑を砕けるとは思っていない。当たり前のように第二第三のプラン程度は用意しているだろうさ。何よりあちらには『邪悪』が――異界卿デモニア・ブリージアがいる。たかが十二歳のメスガキのいたずらなど、嘲笑爆笑――笑い飛ばして、すぐに修正をかけるだろうさ」
しかし。
「だが、それらがスペアであることに変わりはない。時間は掛かる。効率は下がる。再計算の必要が出てくるだろうし、失敗する可能性だって現れる」
少女は薄い胸に手を差し込み、何かを取り出した。
「その間により強くなる。私は誰にも負けないよう、世界最強の魔術師となる。父の跡を継ぎ、今度こそこの世の癌を取り除く」
それは二十二枚のタロットカード。かつて稀代の変態魔術師アレイスター・クロウリーが開発した新たなる魔術概念。トートタロット――その大アルカナに相当する二十二枚のアテュである。
「楽園教会は私たち『蒼穹の曙光』が潰す。故にお前はここで死ね」
少女の名乗りとともに、ホール全周を囲むように、百や二百を超える魔術師の姿がずらりと並んだ。
どこに隠れていたのか、気配すら悟らせなかった。
フードを被った結社のメンバーたちは、アリアや凛、そして友介へと杖や手のひらを向け、何らかの魔術詠唱を唱えている。
アリアを含め、三人は窮地に陥った。絶体絶命。友介の染色をもってすればたかが魔術如き、文字通り手を動かす暇もなく撃ち砕けるだろうが、今はあまりに状況が悪い。
ほんの一瞬でも隙を見せれば、今も至近距離で黒刃を振るう狂戦士の刃に絡め取られてしまうことだろう。
「〝王冠に住まう神は奇跡を人に与えたもうた〟
〝アダムの継嗣よ。流れ出し、王国まで下る神威に手を伸ばせ〟
〝魔の術を知れ、神に祈るな引きずり落とせ〟
〝其の法を知れ、人を超えよ、いざ昇らん〟
〝二十二の小径を網羅せよ〟
〝王冠は近く、神の嗤いが希望をもたらす〟
〝我ら曙光を敬すもの。これより神に奉る〟
〝我ら混沌を招くもの、汝の意に沿うものなり〟」
それは祈りであろうか。いったいどこへ向かう祈りなのかは知らないが、リリスの詠唱は確かな力を発揮していた。
収束するマーブル模様の神威――友介には確かに一瞬そう見えた――が束の間杖に手のひらに流れ込み、個人の魔力に上乗せされる。
膨張する力にしかし、友介は何も成すことができない。
せめて後ろの凛とアリアだけは守ろうと脳を極限まで回転させるが、やはり目の前の黒騎士の存在が邪魔をする。
守れない、守り切れない。
「ク……ッソ、が……っ」
そして。
「〝Menifestation――Sulfur Rain from Wrath!〟」
三人の命を刈り取るべく、神威の極光が放たれた。
それは神に逆らう異分子を燃やす硫黄の雨。かつて廃都を焼いた神の怒り――その裁きの鉄槌が、此度、黙示録をもって世界を壊す残虐なる悪魔へと振り落とされた。
赤橙色の極光が、都市を灰にする熱量を内包して迫り来る。
「ぐッ――」
相対する黒騎士は、己もまた焼かれるかもしれないというのに、そんなことなどまるで知らぬ存ぜぬと言うかのように黒刃を振るい続けている。
どうする――?
この程度の炎、友介ならば撃ち砕けるし、直撃したとしても描画師である彼ならば生き残る可能性すらあるだろう。
しかし、凛はどうなる? 彼女は一般人だ。あんな高熱の硫黄の塊、その身に浴びれば即死だろう。
おそらくアリアでは彼女を守り切ることなどできない。そも、彼女が凛を守ってくれるかどうかも――あるいは、彼女自身、この炎に耐えられるのかどうかも、実は定かではない。戦闘向きの染色でない場合、描画師の身体能力がどうなるかわからない以上、硫黄の霧が晴れた後の彼女の生死もまた不明である。
ならば、もう――選択肢など存在しない。
もとよりリリスの狙いもこちらだろう。
黒騎士を無視し、彼に殺されることを覚悟で硫黄の雨と少女たちの間に割り込む。
方針は決まった、ならば今すぐ動くしか他あるまい。
「ぉ、ォオオ……ぉぉおおおああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッッ!」
黒騎士の腹を蹴りその間合いから離脱。距離が空いたところで彼に背を向け、凛とアリアの前に立つ。
「なっ、ちょ――安堵!?」
「なにを……ッ!?」
狼狽と混乱に叫ぶ凛と、敵である己まで守ろうとする友介に対し疑問と驚愕の声を上げるアリア。その二人を後ろに感じながら、友介は染色を発動して――
「終わりだ――楽しかったぞ、安堵友介」
最期に――どこか寂しげな少女の別れを聞き、漆黒の凶刃が友介の頸椎へと吸い込まれる。
「させるかぁあああああアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッッ!」
――――その直前。
大絶叫とともに吐き出される数多の鉛玉。轟き響く重低音は、秒間50発の掃射を意味していた。
声は上方――悪夢が切り裂いた天蓋より。
風を切って進む茶髪の少年、両手に重機関銃を携えた少年が、天より降って来た。
「俺の仲間に、手を出すなああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッッ!」
吐き出される銃弾は、友介を絶命させんと踏み込む悪夢へ豪雨の如く降り注ぐ――その直前、黒騎士は第六感とも呼べる驚異的な危機感知能力をもってその気配を察知し、咄嗟に後方へ跳躍していた。
局地的な鉛玉の豪雨の範囲から逃れたそいつは、言葉の体を成していない絶叫を上げて、己が復讐に横やりを入れた異分子を睨む。
茶色く染めた短髪。背中にはギグケース。いつも軽薄なちゃらけた笑みを浮かべている相貌は、今は怒りに染まっていた。
「草次……ッ!?」
「真打ち登場ってね」
強がるように口を笑みの形にする少年は、草加草次――安堵友介と同じ光鳥感那直属部隊『グレゴリオ』に属する、彼の仲間であり、友達。
「お前――っ」
「友介くん、今だ! そんな炎ぶっ飛ばしちまえ!」
「ッ! ――ああッッ!」
駆け付けた仲間に背を押され、安堵友介もまた己の心象を増幅させる。瞳を開く。反転目が世界を捉え、理不尽を砕かんと唸りを上げた。
「砕け散って哭き叫べ――」
赫怒が回る。世界に対する怒りが吼える。■■■より引き出された魔力の渦を、安堵友介は絶対に許しはしない。
同時――■■■との過度な接触により少年の天権がさらに増幅されて――
割れる。
世界が割れる。
何もかもが塵と堕す。神の怒りは魔王の怒りに呑み込まれたのだ。
「――――」
リリスの瞳から嗜虐が消える。疑念と苛立ち――僅かながらも本物の動揺が見て取れた。
「……草加草次。まさか、また知識王メーティスか?」
「そいつだけじゃないわよ」
「な――、に……?」
直後、声はリリスの真後ろから。振り向けばそこに、赤い長髪をなびかせる小さな少女の姿があった。
「風代、カルラ……ッ!?」
「よくも私の友介を……ッ!」
真一文字に振り抜かれる長刀を身を屈めて回避し、そのまま後方へ跳躍することで鏖殺の騎士の間合いから離脱する。
靴底が地を掴むと同時、リリスはアテュの山札から二枚のカードを取り出す。
「〝栄光より出り、勝利を超えて王国へ至る二本の小径をここに顕す〟
〝汝、眠らせし血の記憶を迎え入れよ〟
〝さすれば汝、其が罰により光を閉ざすであろう――!〟」
風代カルラを相手取るならば、これが最も効率的だ。
大アルカナ〝塔〟――正位置における意味は惨劇、悲劇、トラウマ、自己破壊、洗脳。
大アルカナ〝月〟――正位置における意味は欺瞞、不安定、トラウマ、フラッシュバック、洗脳。
これら似た意味を持つ二つを重ね合わせることで、意味を補強・増幅――結果、風代カルラの心に巣食う血の記憶を呼び起こし、少女の心を一時的にだが――壊す。
「――――ッ!」
カルラも詠唱の意味を理解したのだろう。気の強いその面貌が青白く染まり、恐怖の色が滲み出る。
それをいち早く察知した友介が駆け出さんとするも――遅い。
間に合わない。このままでは、あの少女はまた己を傷付け追い詰めるかもしれない。ただでさえ不安定なその心が、傾ぐ――その、間際。
トン、とリリスの背中に何か札のようなものを張られる感触が走る。。
「――――ッ、まさか川上千矢か……?」
直後、全てを理解したリリスはカルラへ向けていた魔術の発動を直前で止めた。張り付けられた札を外すためだ。
しかし、遅い。間に合わない。安堵友介や風代カルラの気性を鑑みれば、この爆札が殺傷目的者でない可能性は高いが、重傷を負うことに間違いはない。
そして、そうなれば安堵友介を消す者がいなくなる。――それは、絶対に避けたい。
「ちっ……、つまらん小細工を。――正道、これを外せ」
「御意に」
(な、――?)
リリスの言葉に反応したのは、漆黒の和服を着た齢七十近い男であった。白髪をオールバックにし、頭の上で結わいでいる正道と呼ばれたその男は、千矢の気付かぬ間にリリスとの間に割り込んでおり、腰に差した白サヤの日本刀でもってリリスの背に貼り付けられた爆札を切っていた。
縦一文字。
少女のドレスには触れず、糸一本ほつれさせることなく爆札だけがはらりと落ちる。
「――――ッ!」
その技に、千矢は戦慄し声を上げかけた。だが、声を上げれば隠匿の術の効果が薄まることに気付き、寸前で口を押え押し殺す。が、早鐘を打つ心臓までは止められない。
隠匿を専門とする千矢をも超える隠形の術に、紙だけを正確に切ってみせるその手腕。
柳のようにゆらりと佇むその男は、隠匿の魔術によって気配すらも消しているはずの千矢へ緩やかな笑みを浮かべると、次に凛とアリアを守れる位置で荒い息を吐く友介と、彼と肩を並べる草次を一瞥し、最後にカルラへ視線を寄越し、何かを期待するような曖昧な笑みを浮かべた。
「テメエ、誰に手ェ出そうとしてるつもりだァッッ!」
男の刃の切っ先がカルラへと向かうその前に、友介が瞬虚により即座にカルラの元へ飛び、その体を抱き寄せる。そのまま至近距離から染色を発動し、正道を空間ごと吹き飛ばさんとした。
だが――
「遅い、そして単純ですね」
染色を、避けられた。
視界に映る森羅万象を撃ち砕く黙示録の崩壊は何も捉えず、ただ虚空を砕くのみ。
「――ッ、づァッ!」
だが動揺している暇はない。続けて第二撃、第三撃と破壊の法を叩き付けんと吼えるが、やはり届かない。染色を発動したころには、なぜか男の姿が視界から消えているのだ。
「――避けるのに苦労しない、楽な力です」
「あァ?」
「あなたの染色は、視界に移る全てを破壊する。ならばあなたの視線を追い、そこから外れる行動を取っていれば、光の速度で迫る破壊を回避することも容易い。たとえ私が、何一つ異能の力を持っていない、老衰した剣士の成れの果てであるとしても。なぜならあなたは、どこへ攻撃するのかを、自ら教えてくださるのですから」
「…………ッ」
男の語るその理屈に、友介は戦慄を覚えざるを得ない。
確かに彼の言う通り、友介の視線の行く先を完全に把握しそこから外れる行動を取り続ければ、このように染色を避けることは可能だろう。
だが、それを何の異能も持っていないただの剣士が、技術と観察眼と身体能力のみで成した――その事実は、到底受け入れられるものではなかった。
男はもう一度的である友介たちへ順番に視線を向けてから、次いで、如何な歩法か、縮地じみた体捌きでもって悪夢に近づき、両足の腱を切った。今にも友介へと跳びかからんとしていた黒騎士は膝から崩れ落ち、無念と憎悪の絶叫を響かせる。
「お嬢様」
男は暴れ回る黒騎士を肩に担ぐと、憮然とした表情でこちらを睨むリリスのもとへと近づき呼びかける。その声音はどこまでも落ち着いており、丑三つ時に風に揺らされこすれる葉の囁きにも似ていた。
「撤退を」
「なに?」
告げられた忠告に、しかし主たるリリスは当然の如く反目する。
「正道、いくらお前といえどこれを簡単に承服することはできないな。安堵友介を消さないとはどういうことだ?」
「言葉通りの意味です。それに……今後一生手を出さないとは申しておりませぬ。ここは、一旦引きましょう」
「……、」
「もともと、私は〝鍵〟が開いた時点で彼を襲うべきだと言っていました。それをあなたはしなかった。そして急遽予定を変更し、状況に合わせ、ここで一息に叩くという戦法を取りましたが……これだけ長引いてしまえば、もうこれは私たちの敗北と見るべきです」
男はズタズタに引き裂かれたホールを見回して、
「敵手には描画師が二人。それも枢機卿と、彼らと抗する力を持つ者。追光の歌姫の力の性質から考えても、これ以上戦闘が長引けば我らが不利になることは確実。ここは一度引き、また新たに戦術を立てるべきかと」
「……だが、時間がない」
「ええ。確かに我ら人類に時間はありません。しかし何も、明日世界が滅びるわけでもありますまい。ここで私たちが無理をして倒れれば、それこそ目も当てられない。大局を見誤らぬように。私たちは楽園教会の敵であり、『蒼穹の曙光』は楽園教会を打ち倒すことを目的としている。安堵友介は、その手段にすぎません。お嬢様、どうか手段と目的を混同なさらぬよう」
男はゆっくりと、言い聞かせるように言った後、そこでふっ、と脱力した笑みを浮かべた。
まるで祖父が孫をからかうように。
「それとも――まさか、彼がそれほどまでに気に入ったと……そういうことですかな?」
「……ッ!」
瞬間、リリスは先とは少し異なる色の苛立ちを面貌に表し、不機嫌な調子で反論した。
「正道、あまり私を舐めるなよ。こんなガキにほだされて道を見失うほど阿呆ではない」
「ならば良かった。もう、あなたがどうするべきかはわかりますね?」
「……上手く丸め込まれた形になったが、まあいいだろう」
そう結び、リリスは手に持っていたタロットカードを胸に隠し、友介たちから背を向けた。
二メートルほど離れた場所で、今なおカルラがこちらを睨んでいたが、リリスはふんとひとつ鼻で笑い、
「お前は殺さん」
「……友介だって殺させない」
「――」
カルラの反論には言葉一つ返さず、リリスは何事もなく赤の少女の隣を通り過ぎる。
すれ違う寸前、二人は互いに視線をぶつけ合うも、それだけ。それ以上の何かはなく、カルラもリリスも既に互いに興味を無くし、その矛先は友介へと向かっていた。
「安堵友介、これからしばらく夜道には気を付けろ。いつだれが後ろからお前を刺すかわからんからな。今日は退くが……お前が教会に利する存在であることを忘れるな」
「黙れ」
対し、友介が返したのはそんな冷たい言葉。
ただ一言。
それ以上何も言うことなく、安堵友介はリリス・クロウリーを拒絶した。
「くっく……まあいい。また会おう。そしてその時こそ、私とお前の決着を付けようか」
そう言って少女は姿を消した。まるで闇へと浸かるように、悲壮な覚悟を背中に滲ませて、友介の前から消え去った。
カルラは友介の前に割り込み、消えたリリスの背を、そして今なお彼らの前で柳のようにゆらりと佇む男を睨む。
敵意を向けられた男はしかし、なぜかふっと脱力したように笑うと、カルラを中心にグレゴリオたちへ恭しく一礼し、
「私は中山正道という者です。剣術を少々嗜んだ、しがない老いぼれではありますが、以後お見知りおきを。特にそこのあなた――風代カルラ様。いつかあなたと剣を交えられる日を、この老いぼれ、人生最後の楽しみとさせていただきますゆえ」
「知らないわ。勝手にしなさいよ。私は戦いなんてどうでもいい」
「ふふ……これは手厳しいお嬢さんだ。――それでは私も、これで失礼。皆も今すぐ撤退しなさい。あまり長居しすぎると、エインフェリアとしてこき使われることになりますよ」
中山の言葉に恐怖を覚えたのか。あるいはただ単に長の命に従い撤退することにしたのか、友介たちを取り囲んでいた魔術師たちが一人、また一人と姿を消していく。
やがてホールには友介たちグレゴリオと、枢機卿・春日井・H・アリア、そして四宮凛だけが残った。
重苦しい空気が広大な空間を包み、友介たちの上に圧し掛かる。
安堵友介という少年の利用価値。故に殺すと宣言する蒼穹の曙光。
深まる謎や、己への不信に何か思うところがあるのだろう。友介は一言も発さず、何かを考えるように引き裂かれた天蓋から夜に侵食され始めた茜色の空を見上げていた。
カルラや草次も何か言葉をかけようとするも、結局口を閉じてしまう。
少女たちは知っているから。
己の闇を知った時の絶望を。どうしようもなく、何を言われたとしても納得などできないことを。
だから、皆が皆、安易な言葉を発することができない。
そんな空気を察したのか、友介は暗い雰囲気を吹き飛ばすため、あえて自分から話題を作った。
その視線の先はアリアへ向いており、彼は気だるげな調子で言葉を投げる。
「お前、これからどうなるんだ?」
「……私が知ったことではありません。おおかた、バルトルートさんみたいに牢屋に閉じ込められるというあたりでしょうか」
「そうかよ。まあそれが妥当だろうな。五千人近くを洗脳するに飽き足りず、疑似的とはいえ染色を発現させんだからよ」
「……はい?」
「あん?」
友介の言葉に、しかしアリアは訝しむような視線を向けた。その瞳に宿っているのは疑問。この男は何を寝ぼけたことを言っているのだろうという、呆れの色も混じっていた。
「えっと、何を言ってるんですか?」
「はあ?」
「いえ、だから……疑似的な染色を発現させるって……」
「おいおい、お前がやったんだろうが。どういう理屈か知らねえが、洗脳した人間に疑似的な染色を発現させて、俺を追い詰めさせただろ」
「…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………」
アリアの瞳に理解の色は宿らない。
それがどうしてか、不安を加速させて。
そして次瞬、歌姫が口にした真実が謎を深化させた。
「私の魔術に、そんな効力はありませんよ……? 人を洗脳して操る、それしかできません」
「お嬢様、これから如何様に動くのでしょう」
「……しばらくは様子見だ。安堵友介はしばらく捨て置き、まずはジブリルフォードと協力関係にあったと思われる安堵暮人なる男を見つけ出し、コンタクトを取る」
「御意に。それでは部下に所在を探らせます。……して、その男はやはり、彼と関係があるのでしょうか」
「おそらくな。偶然とは思えん。安堵暮人……奴の父親か?」
日は沈み、東京に夜の帳が落ちる。闇が天蓋を覆い、その闇すらも都会の光は拒絶していた。
リリス・クロウリーと中山正道。魔術結社の長とその補佐たる二人は、都会の喧騒に溶け込み颯爽と風を切り街を歩いて行く。
「となると、なあ……そろそろお前も余裕ぶっていられなくなってきたんじゃないか? ――光鳥感那」
『黙ってくれるかな』
届けられた電子音声は、何の技術かリリスと中山の二人以外には聞こえぬよう、空気振動に精密な指向性が設けられていた。
『リリス・クロウリー、ここまで君に許した覚えはないんだよね。友介くんに手を出すだけでも万死に値するっていうのに、まさか暮人にもちょっかいを出す気かい?』
「おいおい、まるで私が悪者みたいな言い方はよしてもらおうか。過保護は良くない。まだ若干十五歳の安堵友介ならばいざ知らず、三十路も過ぎ子供もいるだろう男を庇うのは、さすがに守られる側の沽券にかかわるというものではないか?」
『それで納得できるなら、最初からこんなことは言ってないよ』
飄々とした、どこか捉えどころのない女狐の声を受けて、幼女はくつくつと笑う。
「まあお前はそうやって勝手に悩んでいろ。Mセンサーなどという役にも立たん玩具を作り続け、悦に浸っているといいさ」
対し、光鳥感那の声音には嘲弄と憐憫が宿り、
『まさかノースブリテンの時にからかったことへの当てつけかな? 別にいいけどね、可愛いし。ああ、そうやって背伸びをしているといいよ。僕はたかが十二歳の女の子に本気で怒るほど子供じゃないから。友介くんも暮人も君には渡さないし殺させない』
「だが、利用する――か? 複雑な親心だなあ。どうして捻くれていて、面倒くさい」
『……』
感那は答えない。神秘殺しの女はリリスの言葉を無視し、こう忠告した。
『この日本に友介くんがいる間は、君みたいな奴には手を出させない』
「くっく……それはつまり、あれか?」
『皆まで言わなくてもいいんじゃないかな?』
「それもそうか」
そうして、ぶつんっ、と何かが切れる音が響き、光鳥感那の声は聞こえなくなった。
未だくつくつと嗜虐的に笑い、歩く速度を緩めも速めもせず、リリスは一歩下がって追従してくる中山へ簡潔に命を告げる。
「十月にハワイだ。安堵友介の修学旅行のタイミングを狙い、ここ東日本国の外……先端科学学術研究都市――理想都市『アトランティス』にて奴を――消す」
少女は歩く。決意を胸に。
教会に大切なものを奪われた――その者たちを代表し、己が責務を果たすためだけに、たかが十二歳の少女は死地へと赴く。
(安堵友介さま)
その後姿を眺めながら、長老の武人は密かに願った。
(もしも許されるのならば――風代カルラさまと同じように、リリスお嬢様もお救いください)
「して、此度の戦いはどういうものだったのかな? 陽気」
「知れたことだろうが。ただの前座だよ。束の間の平穏、次への布石。この宇宙の殻を破るための準備段階さ」
安堵友介が生きる宇宙とは全く異なる世界に建つ〝城〟の玉座にて、秩序の覇王と混沌の雑種が言葉を交わす。挑戦者と超越者の語り合いは、どこまでも傲慢に世界と人を裁定していた。
「ふむ、なるほど。確かにこれで、安堵友介の天権はまた深化していくか。心象侵食により順調に進んでいる。このままいけば――」
「ああ。神と成るのも近いだろォよ。加え、度重なる破壊と修復によって〝層〟も相当疲弊している。枢機卿レベルの心象と心象の衝突で穿孔可能だよ」
「重畳」
秩序の覇王は獣のような笑みを浮かべ、
「魔女の変性に動きは?」
「いいや、ない。しかし、これも――騎士の終わりとともに活性化し、権利を生み出す――いや、これは復権と言うべきか。まあ、我にも詳しい理屈はわからないが、ともあれ絶対悪の覚醒の基礎はこれで完成した」
「破壊神は」
「おそらくアトランティスにて彼と血を交わし合うことで、こちらも準備を終えるさ」
「さすれば」
「そうとも」
「決戦はの日は近いか」
「約定は果たさんとな」
世界が軋む。第二層が、宇宙最強と■■■の神威の鬩ぎ合いに耐え切れず、撓み、歪み、捩じれる。
「貴方はどこまで見えている?」
「全て視えているし、何も視えていない。既に、俺の瞳にはまさしく混沌しか映っていない。だからこそ、俺も迷い戸惑い、こうして君と道を歩んでいる」
闇は濃く。
絶望は深く。
理不尽は速く。
歯車が回る。
世界の終わりへ、破滅的な加速を伴い深化する。
「では」
「ああ」
「千年王国を創世するがために」
「愛しき妻を救済するがために」
「「貴様を殺す――その日まで、共に歩もう。我が敵よ」」




