???? Line 偽りなる者たち 5.夢/現実
愛しい彼の腕を抱き、しあわせを胸に満たして歩いていたそのとき、
――――たった一人で、颯爽と街を歩く赤い少女とすれ違った。
「――――――――っ」
え?
「――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――」
幼女にしか見えぬ矮躯。赤く長い髪は夏の生ぬるい風を受けて旗の如く揺れ、両の眼窩に収まる金眼には決然とした覚悟と赫怒、そして悔恨の色が宿っていた。
時代錯誤にも程がある、腰に差した少女の背丈ほどもある長大な野太刀。学生服の上からは黒いコートを纏っており、どことなく騎士を連想させる少女だった。
あまりに美しく、あまりに鮮烈で、あまりに輝かしく、あまりにも儚い。
硝子のように固く脆い――そんな印象を与えてくる。
少女の瞳はここではないどこか遠くを見つめている。まるで戦争でもしに行くかの如く、ただ一人、孤独の正義を纏ってそこに在る。
――どうしてこの子は、一人なのだろう。
凛はそんな、意味の分からない感慨に囚われる。
だが、この少女が一人でいるところを見ていると、どうしても思ってしまうのだ。
バランスが悪い。今にも崩れ落ちそうだ。
なぜかこの少女の隣にぽっかりと穴が空いてしまっているような、そんな気すらしてくる。
この赤の少女が一人でいることに、強烈な違和感を覚える。
こんなことはありえないと、四宮凛の脳髄がエラーを発する。
赤の少女はこちらを振り向かない。すれ違う有象無象に興味を示すほど、この少女は暇ではないのだろう。
四宮凛だけが、この赤い少女の横顔に囚われていた。時間が止まったかのように、その少女の存在に釘付けになった。
だが、やはり少女は振り向かない。興味も示さず、視線に気づくことさえしない。
そして、隣の友介もまた同様に。
当たり前のことだった。確かに赤髪は目を引くが――しかし今の友介にとっては、隣で己を愛してくれる凛以上の存在などこの世にいないのだろうから。
ならば、ああならば――
別にそれでいいのではないか?
どうしていちいち、こんな少女を気に留めなければならない。
彼女はきっと自分たちとは違う世界の住人だ。
ここではないどこかで生きる、騎士なのだ。
平凡で凡庸でありきたりで平均的な自分たちとは、まるで正反対。
だから――
赤い少女がついと安堵友介に視線を向ける。その視線に友介も気付いたのだろう、くっ付いて歩く凛へと向けていた瞳を、ほんの一瞬だけ■■■に向ける。
『お前そんな顔してどこ行くんだよ』
『……っ、別にどこでもないわよ』
凛はあの少女のことなんて何も知らない。
けれどなぜかわかってしまう。
二人が街中ですれ違えば、どんな会話をするのか。そこに何が生まれるのか。二人がどんな表情を浮かべるのか。
知らないはずのことを、四宮凛は余さず全て知っている。
だから――反射的に、止めようとした。
(まって、だ――、……っ)
だけど。どうしてだろう。声が出ない。出してはいけない。そんな直感が働いて、言いたい言葉を呑み込むしかなかった。
恋人が他の女の子へ目移りすることを嫌だと思う気持ちは、十六歳の女の子として何もおかしくないし、悪ないはずがないのに、なぜか醜い行為に思えてしまったのだ。
「――ぁ」
そして、二人の視線が交錯して。
(やだ。そんなの、絶対、やだ――」
「――――――――」
「……………………」
だけどそこに、あるはずのものはなかった。そこになくてはならないものが、存在しなかった。
安堵友介と■■■■■は、互いに興味を示さないまま、赤の他人のようにすれ違う。
――あれ?
それは、当たり前の光景だった。
別に何もおかしくなんてない。だってこの赤い少女と自分の恋人は何の関係もないのだから。
無関係の赤の他人同士の間に何の言葉もないこと――そこに不可解なものを感じる方がおかしい。
なのに。
――なんで?
どうして、こんなにも虚しい気持ちになるのだろうか。取り返しのつかない失敗をしたというのに、それが有耶無耶になり誰にも指摘されないままの時のような居心地の悪さ。
罪悪感――
しあわせな世界に紛れ込んだ異物が、小さな棘となって少女の心をチクチクと刺す。
甘いだけの夢のような日常に流れ込んでくる黒い何か――凛には自覚できるはずもなかったが、それは現実という名の無粋な侵入者だった。
■■■■■という少女。四宮凛が勝てないと諦めている少女。どうしようもなく、ままならない痛みを押し付けてくる少女。
そして、それを彼から奪ったという罪。
――知ら、ない。
だけど。
――知らないっての、あんな子……
目を逸らすのは、思いのほか簡単だった。
後回しにして、忘れて、有耶無耶になって問題が発生したということ自体をなくすという、卑小極まる行為に対する抵抗など欠片もない。
彼から■■■■■を奪ったことに対する罪悪感も、そもそもその少女のことも、彼女に関する記憶や、彼女に向けていた劣等感や嫉妬の感情も何もかも、水に砂糖を落としたように桃色の庭園に溶けていく。
知らない、あんな少女は見たことない。バランスが悪いだとか、罪悪感だとか劣等感だとか、そういったものを感じる義理もなければ必要もない。
ゆっくりと、消えていく。
少女のカタチが、輪郭が、声が、髪が、纏う覇気が、何もかもが霧散する。
何も起こらず、劇的な出会いも運命も存在しない。
安堵友介は四宮凛だけを見て、これからも生きていくだろう。
■■■■■は誰に肯定されることもなく、己を罰し続けるだろう。
それが、嬉しい。どうしようもなく、背筋にしびれが走るほど気持ちがいい。
もう邪魔をするものなんてどこにもない。
安堵友介の隣にいるのは四宮凛だけ。彼を理解し、支え、ずっとずっと二人だけで生きて行けるのは自分だけなのだ。
たとえ彼がどれほど世間から糾弾されようとも、四宮凛だけは――――
『あんたが■■■だっつうー――――』
――ああ
『■■■■みたいなあんたを――――』
――これ、……違う。
その瞬間。
四宮凛の中で、何かが弾けた。
「なあ、凛」
確かにあたしは、これを求めた。
「明日はどうすんだ」
どこにでもいる平凡な女が、どこにでもあるような平凡な幸せを求めた。
「もう夏だし、そろそろ海に行こうとも思ってんだけどよ」
ただ好きな人の一番になりたい。好きな人と恋人同士になりたい。
「まあ、遠出になるし何より俺ら高校生だから、日帰りの海水浴になってアホみてえに疲れるんだろうけど」
彼が世界中から嫌われていても、あたしだけは大好きでありたい。たった一人の唯一無二の女として、ずっと一緒にいたい。
「まあ用意とかあるし、いきなりはむずいだろうから明日じゃなくてもいいけど」
他のことなんてどうでもいいから、私だけを見てほしい。
「水着でも買いに行くか?」
それは世界中に転がっている当たり前の願い。
「……おい。聞いてんのかよ……、って――」
好きな人の心を独占したい。私だけを見てほしい。他の子よりも、私を大切にして。
「おまえ、何泣いてんだよ」
その気持ちに罪なんてどこにもなくて、恋という名前のこのワガママを糾弾することは誰にもできない。
「え……?」
でも、だけど――
きっとあたしは――四宮凛は今、絶対にやってはいけないことをしたような気がする。
四宮凛という人間の生き方を、否定するような、最低な行為をやったんだ。
だって。
だって安堵友介の幸せを願うのならば、あの少女を行かせてはいけなかったはずだから。
あの赤い少女を、この少年から奪ってはならないはずだったのだから。
だって、彼女は。
ああ、だって。だって、だって――
だってだってだってだってだって――――!
「友介。さっきの……ッッ」
だって――――
「カルラちゃんじゃん……ッッ!」
風代カルラは、安堵友介にとって、唯一無二の存在だったはずなのだから。
彼にとって最も大切な人で。
彼は誰よりも彼女を守りたくて、彼女は誰よりも彼を慈しんでいて。
安堵友介を、ただただ愛してくれる――彼の大切な人だったのだから。
この瞬間。
悟るべきではない傷に気付いた瞬間。
彼方へと飛んでいた少女の意識が、そんな一言とともに〝現実〟へと引き戻された。
「ぁ、」
そうだ。
「ぅ、あ……」
違う。
「あああ……っ」
こうではなかっただろう?
「う、ぁぁ。うぁあああ……ああ!」
四宮凛が選んだものは、こんなものではなかったはずなのだ。
ねえ、思い出してよ四宮凛。
あんたの望んだ〝しあわせ〟は確かにこれで正しいのかもしれない。
「う、ぅあ。あああ……っ、ああ! あああああ……ああああああああああっ!」
あたしが求めて、けれど無理だと諦めて――それでもやっぱり、諦めきれなかったしあわせの形は、きっとこういうものだったはずなのだ。
もう無理だと諦めて。
それでも諦めきれなかった、乙女の儚い願い。
安堵友介の恋人になる。彼と同じところに立つ。少年にとっての唯一無二になる。
――この世界は、それを現実にしてくれる。
現実の世界ではどうだとか、こんなものは脳が見せているただの幻じゃないかだとか、そういうものはどうでもいい。
これは、本当に――真実、四宮凛が求め、憧れ、焦がれるほどに欲しかったものの実現なのだ。
たとえ他者からは虚構にしか見えなくても。
この夢の中で生きる四宮凛にとっては、真実以外の何物でもないのだ。
腕に感じる彼のぬくもりも。
耳をくすぐる不愛想な声も。
瞳に映るふてくされた顔も。
この胸を満たすしあわせも。
何もかもが、ああ――本物だから。矛盾なんて一つもなくて、少女にとっては全てが現実のように感じられるから。
四宮凛にとって、この世界はしあわせで満たされた現実だった。
たとえ誰がどう言おうとも、四宮凛という個人にとっては紛れもない真実の世界なのだ。
だから――
そう、だから。
凛が泣いているのは、ここが作られたユメの世界だと気付いたから――などではない。
とめどなく流れる透明な雫の理由は、そんなものではないのだ。
だって――もしも四宮凛が本当にただ安堵友介の恋人になりたいと想っているだけの、何かを求めるだけの少女だったならば――きっと、この世界がユメであることに気付いたとしても、それでもいいやと無視していただろうから。
いいやそれ以前に、この世界がユメであるということに気付かなかったかもしれない。もしかしたら、気付いていることから無意識の内に目を逸らして、ユメの頂へと昇っていたかもしれない。
四宮凛とはその程度の少女だ。本当にどこまでも凡人で、性根の底から真っ当な女の子。
諦めて、それでも諦めきれない幸福を目の前にぶら下げられたのなら、恥も外聞もなく飛びつくような、弱い少女だった。
そのはずだったのに。
「――――」
振り返る。
もうそこに、赤い少女の姿はどこにもない。隣の友介にしても、すれ違ったカルラに興味を示すどころか、すでに忘れているようなそぶりですらある。
彼の人生には、風代カルラがいないから。
それは、安堵友介を肯定し、彼の価値を誰よりも認めてくれるはずだった少女がこの世界にいないことを意味していて。
「ああ――」
そう、だから。
平凡で凡庸で真っ当で、誰よりも普通でしかなかったはずの少女は、体も心も簡単に揺れてしまうほど弱かったけれど――
それでも彼女は、彼に出会って、確かに変わったから。
だから――!
「ありがとね、安堵」
すぅーっ、と大きく息を吸った。
胸に満ち満ちる都会の美味しくもない空気が、ここは四宮凛にとってだけは確かな現実だと教えてくれて。
「でも」
そして、その全てを――
「あたし、行かなきゃ」
静かに、ゆっくりと。
「だって、あたしは――」
――穏やかな声とともに。
「あたしは、あんたを――本当のあんたを、みんなに知ってもらう。そのために、あたしも戦うって、あんたに助けられたときに決めたんだからっっっ!!」
――――吐いて、捨てた。
――ある時、ある場所に、平凡な少女が凡庸な人生を生きていた。
――その少女が歩んできた道は平凡そのもので、少女自身、そんな自分の人生を気に入っていた。
――だが、ある時。
――少女の前に、誰よりも強くて、何よりも脆い……そんな少年が現れた。
――どれだけ戦い、何かを守り誰かを助けても、たった一つの間違った〝真実〟のせいで、謗られ罵られ嫌悪される……そんな、見ているだけで心が張り裂けてしまいそうな少年が。
――少女は、そんな少年の真実を知った。
――彼の優しさを。彼が嫌というほど不器用なことを。
――だから。
だから――――四宮凛は、安堵友介を世界に認めさせると、天に叫んだのだ――ッ!
四宮凛は、安堵友介に背を向けた。
求めて焦がれて、どうしても欲しくて、諦めたけれど諦めきれない、砂糖味のしあわせから。
「おい、凛ッ!」
流す涙は、決意の証。このしあわせに、この幸福に、もう別れを告げなければならないことを、少女自身が悟ったから。
「ごめん、あたし行かなきゃ! 今すぐっ! だってあたし、あんたのことが世界で一番好きだから!」
そして、力強く、迷いひとつない一歩を踏み出した。
現実に立ち向かうための一歩を。
さあ、もう夢から覚める時間だ。
背中に投げられる愛しい少年の声に背を向けて、少女は未練を振り切るように走る。
「――思い出せ、思い出せっての四宮凛ッ! あんたは、あたしは、こんな『しあわせ』に一人で浸って、それで満足なんかよッ!」
助けたいと、そう思った。
「安堵と付き合えたらそれで満足かよッッ! 誰かを助けても褒められなくて、必死に戦っても人殺し扱いされるあいつが、本当は世界でいちばん優しいってことを、世界中のクソバカたちに教えるんじゃなかったのかよっ! そう決めたのをどうして忘れてたぁっ!」
認めさせたいと、そう思った。
「安堵はあたしを助けてくれた! あたしのヒーローで、だけどそれを誰も知らないからそれが許せなかったんだろうがっ!」
心優しい少年が、石を投げられているその姿を見ているのがつらかった。
誰かに手を差し伸べるその姿が誰にも認められなくて、ただ少年が傷つけられるだけの毎日に納得がいかなかった。
誰も殺していないのに殺人鬼扱いされて、嘲笑と差別と虐待の的になっているあの日常が、気持ち悪くて気に入らなくて気に食わなくて仕方がなかった。
『あんたが人殺しだっつうー、その勘違いを変えたい』
そうだ、そう言ったのだ。
あたしは『それ』を変えたいと、そう言ったことを覚えている。
『ヒーローみたいなあんたを。英雄みたいに戦うあんたを、あたしはあの時見たんだ』
四宮凛は今も鮮明に覚えている。
見当違いの憎悪をぶつけて糾弾した四宮凛を助けるために。ぼろぼろになって、ズタズタに引き裂かれて、血まみれになって――それでもただ、四宮凛という個人の命と尊厳と笑顔を守るためだけに、見返りも求めず絶叫しながら戦っていた、あの姿を。
誰に見られているわけでもない。助けたところで褒められることはないとわかっていたはずだ。感謝されるとは思っていなかったはずだ。どうせ斜に構えて、何でもない風に装って、次の日からもあの地獄のような日常を送るつもりだったはずだ。
でも。
『だからそういうあんたを、あたしはみんなに知ってもらいたい』
それは、認められない。
認めてなんてやらない。
あいつの全てを曝け出してやる。
彼の求めていないことまで余さず白日の下に引きずり出して、この世界に安堵友介の全てを見せつけてやる。
なぜなら。
――四宮凛は、安堵友介の努力の語り手になると、そう誓ったのだから。
ああ、どうしてこんなに大切なことを忘れていたのだろう。
凛にとって、友介の恋人が誰かなんて、二の次でしかないのに。
四宮凛の真実――それは、安堵友介を救うこと。
安堵友介が、当たり前の輪の中に入ること。
彼が普通に友達を作って、下らないことで笑って、何でもないようなことで泣く。
そんな毎日が、彼にやって来ること。
四宮凛は、そんな日を彼に叩き付けてやるために戦うのだ。
ならば――ああ、ならば。
こんなところで、しあわせなユメにいつまでも浸っているわけにはいかないだろう。
ここで四宮凛が安堵友介と幸福な時間を過ごしたとして。
でも、じゃあ。
――――いったい誰が、現実で生きる安堵友介の戦いを語ってくれるのだろうか?
だから、
「ぅ、」
だから――
「ううう、うあああああ……っ」
そう。だか、ら――
「ぅああああ、ああああああああ! あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ! あああああああああああああああああああああああああああああ! う、ゆうす、け……、ゆうすけ、ゆうすけぇ! ゆうすけ、嫌だよ、離れだぐない! ずっと一緒にいたい! ずっと、ずっと……友介の恋人になりたかったよお! あああああ! うああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっっっ!」
今だけは。
夢から覚めるまでのこの時だけは、あなたの恋人であることを許してください。
好きなんです。世界で一番大好きなの。愛してる。あんたと過ごした、このたった三日間、本当に本当に幸せでした。
だからお願い。
この幸せを、このしあわせを、砂糖のように甘かった三日間を、あたしの一生の宝物にさせて。
『だから、友介と同じ。あたしも、ずっと友介のこと見てたら、時間経っちゃって……その、全然集中できなかった』
『え、あ……? お、おう……っ。そう、か』
『うん、そう』
たった三日間だけの恋人関係だったはずなのに、まるで十年もの間ずっと一緒にいた恋人だったように、様々な思い出が頭の中を駆け巡って行く。
『にゃあー♡ 友介好きぃ~~~! にゃにゃにゃあー、にゃあーにゃあー♡』
『……世界一、かわいい』
思い起こす記憶の全て、嬉しくて幸せで、手放したくないと思うものばかりだった。
『……一緒の大学、行くか』
約束だってした。二人で一緒の大学へ行って、いつか彼との子供を授かって、二人の宝石を、愛の結晶を大切に大切に育てながら、幸せな家庭を築きたいと思った。。
『だから、宇宙一可愛いっつってんだよ。な、何回も言わせてんじゃねえよボケ』
『ゆ、友介がでれた……可愛すぎっしょまじで。何コレ、なにこれ……ツンデレ過ぎっしょ。何か目覚めそう……やばっ、これまじでヤバッ。あ、ちょ、待って見ないで……』
ずっとずっと続いてほしかったし、ずっとずっと続くと思っていた。
この夢のような幸せが終わってほしくないと。
『ねえねえ友介、カップルだって! あたしらカップルに見えるって!』
『あっそ。だから何だよ』
『えぇ~、嬉しくないの友介ぇ~』
だけど、もうお別れの時間だ。
走馬灯のように流れていく彼との幸せな毎日が、少しずつ、少しずつ色褪せていく。
『ぶっ飛ばされてえのかクソアマ』
『クソアマっ!? 今彼女にクソアマって言ったの!?』
抱き着いた彼の腕のぬくもりが。
耳朶を打つぶっきらぼうな声が。
瞳に焼き付いた不愛想な表情が。
この胸に満ちていたしあわせが。
『あたしが、ずっと一緒にいてあげる』
『……っ』
『世界が終わっても、無人島に取り残されても、人類が絶滅しちゃっても、あたしは最後まで友介と一緒だから』
少しずつ、少しずつ――泡沫の夢の如く、弾けていく。
「う、やだ、やだ……っ! 離れたくない、ゆうすけ、大好き、大好き、大好き大好き大好き大好き大好き……ッ! 大好きだよ、ゆうすけぇっッ!」
それでも、走る。
弱い心を踏み越えるかのように。
甘い誘惑を振り払うかのように。
思い出を引き千切るかのように。
敵の元へと。
彼のために。
「うあああああああ! ああああああああああああああああああああああああああッ! ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッッ! ぶっ壊れろ、こんな夢の世界ッ! あたしは、あたしはッ――! 安堵友介を、その価値を守る女だッ! こんな、こんな……ッ! こんなふざけた……くそったれな夢の世界で! 眠ってるわけにはいかないんだあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッッ!」
拳を握る。
眦を決する。
どこかの誰かと同じように、
決然と、
全てを破壊せんと赫怒を燃やして、
ただ撃ち砕くべき天国を見据えて、
少女を救った、魔法の言葉を口にする。
「アウローラッッ!」
そこに意味などない。価値などない。
起句にはならない。
四宮どこまでも平凡で、何かを変えられるほど心を純に染めることなどできないから。
狂うことなどできない、真っ当な少女だから。
決して、決して。安堵友介の隣に立つことなどできない――凡人だから。
染色が発現することはない。
ならばなぜ口にしたのか。
――それが、魔法の呪文だから。
――理不尽を撃ち砕く、彼女のヒーローの勇気そのものだから。
だから、少女もまた、この不条理を撃ち砕くために、彼の勇気を借りる。
「――フェイト、オブ……アポカリプスゥゥアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッッ!」
突き出した拳の先。
バキリ、と。
少女を包んでいた夢に、致命的な亀裂が走った
亀裂は瞬く間に広がり続け、やがて空をも割っていく。
そして、少女は。
平凡で凡庸で、どこにでもいるような心の弱い女の子は。
何よりも求め、諦めても諦めきれなかったしあわせに、背を向けた。
――――四宮凛は、夢を砕き、現実を選び取ったのだ。
ガラスが割れるかのような音が凛の耳朶を叩き、夢から現実に帰還する。
「なっ、に……が――!?」
今度こそ驚愕に目を見開く〝敵〟を見定めて、四宮凛はもう一度――今度はこの現実で、拳を強く固く砕けるほどに握りしめた。
一歩、踏み込む。
「ぶっ――飛ばすッッ!」
「その、目は……ッ!?」
視線に宿る猛き焔に射竦められ、アリアの動きが止まった。
対して凛の足取りに迷いも恐れもありはしない。ようやく思い出した揺るぎない覚悟をその拳に収斂させ、さらにもう一歩。
「づ――ァ、舐め、る……なぁああああああああああああああああああああッ!」
気圧され半歩後ろへ下がるまでしたアリアが、ようやく忘我を脱し赫怒と恐怖がないまぜになった絶叫を放った。歌姫もまた拳を握り、今度こそ少女の意識を奪わんと、拳に敵意と憧憬の全てを収斂させる――そして、一歩。
半歩遅れたものの、拳が先に届くのはおそらくアリアであろう。もともと素人とプロで戦闘能力に埋めきれない差が存在した上、今の凛は左腕は折れ顔面は腫れに腫れている重傷だ。こうして今、立って拳を握っていることがまずおかしいのだ。
ゆえ、此度の戦いもまた予定調和の悲劇を晒す。
四宮凛は今度こそその意識を閉ざす。そしてあるいは、もう二度と起きることができなくなるかもしれない。
もう一度あの夢へと落とされることだってあるだろう。
己の真実に気付く前の凛ならば、それでもいいと思ったかもしれない。
だが、己の真実に気付き、しあわせを砕き信念をもう一度掴み直した今はもう、あの夢に囚われてやるわけにはいかない。友介を守るのだ。彼の価値を世界に認めさせるのだ。安堵友介の真実を――その輝きの語り部となって、いつの日か、その手を引いて当たり前の輪の中へと入れてやると、そう叫んだのだから――ッッ!
「「ォォォォォォォォおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッッ!」」
アリアの拳が迫る。凛の拳は半歩遅い。
アリアは既に左足を地につけ、体重移動が完了しているのに対し、凛の左足はまだ地面へと向かう途中だ。
遅い、間に合わない。
なら――稼ぐッッ!
果たして。
「ぐ、ぎ、ィィい……ッ!」
アリアの拳は、凛の顔面には届かなかった。
その直前で。
変色した四宮凛の左腕が、上腕と前腕でアリアの右腕を挟んで固定していた。
「なっ、ば、馬鹿、なんですか……ッ!?」
怖気が走るような奇行を目の前にして、とうとうアリアが明確に困惑と恐怖の絶叫とも呼べる声を上げた。
対して、四宮凛は不敵に笑って。
「あたしは――」
ギヂィ……ッ! と激痛を発する左腕にそれでも力を込め、敵を逃がさぬようガチガチに固めると。
「あんたと違って、自分が本当にやりたいことを、思い出したッ! だから……ッ!」
今はもう、こんな奴は怖くない。羨んでなんてやらない。今この瞬間だけは、憧れではなく嘲りをぶつけてやる、この狂人が。
「自分が何をやりたいかもわかってない、あんたみたいな間抜けにッ!」
教えてやんよ――恋する乙女の力ってやつッ!
「ぶれっぶれで悩みだらけのあんたなんかに、負けてなんてやらねえってのォッッッ!」
そして。
決して相容れぬ女と女の戦いに、一つの決着がついた。
四宮凛という少女は至って普通だ。一般的な観点から見た彼女は、奇抜な服装や茶色い髪のせいで少し変わった女の子に見られるのかもしれない。友介がギャルと言ったように、異性から寄せられる好意も他の少女とは一線を画しているのだろう。
だが、それだけ。それは友介のような日陰者――否、狂人達からすれば十分普通の人間というくくりに入れられる。どこにでもいる、日常を謳歌するただの女の子だ。平均的なラインからはみ出ていない。
けれど。
たとえ凡人でも、譲れぬ想いは持っている。
そして誰もが、掲げた信念を燃やして戦っている。
これはただ、それだけの話だった。
☆ ☆ ☆
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