Main Line 偽りなる者たち 3.■■■■■、
安堵友介の意識が漂白されていく、
刻一刻と近づく死の瞬間を前に、彼は何を成すことも出来ず木偶のように溺死の時を待つばかり。今すぐこの海牢から抜け出し、ジブリルフォードのデッドコピーを打ち倒さねばならないというのに。
ここで友介が死ねば誰が楽園教会を討つというのだ。そんな危険極まりない、地獄のような道を、いったい誰に歩ませるというのか。
こんな理不尽を誰かに押し付けるわけにはいかない。
安堵友介がすでにこの配役を買って出たのだ。誰に渡すわけにもいかない。渡すものか。これは俺のものだ、お前ら全員下がっていろ。
俺が――やる。
他でもない安堵友介が、この最低最悪の役を、引き受けたのだ。
だから、足掻く。
死の瞬間まで、抗う。
この海の世界を切り開くために、脳髄を極限まで回転させ、『眼』をもって穴という穴を、亀裂という亀裂を調べ上げる。
千億にも及ぶ疑似脳細胞に取り囲まれた海神の腹の中で――――
――待て。
千数百億というナノマシンが水分子を掴み、地下空間を沈めるほどの大水量を制御する?
よく考えろ――本当にそんなことが可能なのか?
数が合わないのではないか?
もしもナノマシン一個につき水分子一個しか掴めないのならば、水分子の総数はたかが二千億以下ということになる。
二千億といえば巨大な数字に思えるかもしれないが、分子の世界では全くそうではない。
そもそも通常、化学の世界において分子の数を『個』という単位で表すことは正しくない。
本来はmolという単位で表されるのが常であり、1 mol=6.03×10^23個であるとされている。
これは鉛筆12本を1ダースとひとまとめにする考え方と類似しており、膨大な数の分子を個数で数えるとあまりにも桁が大きすぎるため、それをわかりやすく表現するために作られたものである。
水分子1000億個は10を底にした指数で表すと1.0×10^11となり、1モルあたりの分子の数である6.03×10^23には遥か遠く及ばないことがわかるだろう。モルで表せばおおよそ1.6×10^-13 molとなる。
さらにここで、1mol当たりの液体の体積が22.4 Lであるという定義を用いることで、千億個の水分子の体積を計算することができる。1.6×10^-13 mol ・ 22.4 L/mol ≒ 3.6×10^-12 Lとなり、人を呑み込むどころか黙示すら不可能というレベルの水量にしかならぬことがわかるだろう。
極限状態の中、友介はここまで精密に計算したわけではない。
しかし、数が合わないだけはわかっている。つまり――本当にナノマシンが千数百億しかないのならば、ナノマシンが水分子を掴んでいるという彼の言葉は『嘘』である。
ああ――そもそも、だ。
どうしてあの扉を守ることだけをプログラムされた攻撃的人工知能が、己の不利になるような情報を相手に渡すというのだろうか。
これは戦い。この未来を想定していたのはライアン・イェソド・ジブリルフォード。ならば、そんな甘く優しいアルゴリズムが搭載されたAIを門番に置くだろうか?
ジブリルフォードのことは何も知らない。
だが、枢機卿という人種がエゲつないことは知っている。バルトルート然り、今回友介を付け狙ってきた何者かも然り。
ならば――その嘘にこそ、攻略の鍵はある。
前提把握――ジブリルフォードの説明には嘘が多分に含まれている。
現状問題――友介は今ジブリルフォードのデッドコピーの操る海牢に取り込まれている。
事象推測――先までの異常な流動も、何者かの意思が介在しているか、何かしらの方式で水を制御していなければ不可能だろう。
再度確認――水流は操られている。
結論再認――千億というナノマシンでは圧倒的に数が足りない。もっとも、これだけの水量を操るに足る数のナノマシンが存在しているのならば話は別だが、千億という数ですら現実的でないというのに、京や垓すらも超える数のナノマシンを用意できるとは思えない。金銭的な面でも、物理的な面でも。
考察開始――矛盾している。故にこそ、その矛盾が攻略の鍵であり、突破口であり、この水牢の亀裂なのだ。
そして。
結論、了――
――――視えた。
友介の『眼』をもって捉えた。
五感拡張計画――第一被験者、『視覚』を司る安堵友介。
万象見通し未来視すら成し遂げる慧眼をもってして、視界を覆う煌めき揺らめく透明なる景色を超え――微視領域たる分子レベルの世界を垣間見る。何よりそこに顕在する矛盾を見る。
――否、そも矛盾という表現すら正しくない。
これは単に、友介とリリスの知識が不足していただけの話なのだから。ただ騙されていただけの話なのだ。不条理な現象などここにはない。科学という名の完璧無比たる論理の元に、それら怪現象は成り立っていたのだから。
ナノマシンは確かに膨大な数だった。『眼』の分析によると千億近くあることは確かだった。この数ならば人間と同程度の計算能力を発揮することは可能であろう。
だが、しかし。
それら無数と思えるナノマシン、そのどれ一つとして水分子を掴んでなどいなかった。
この小規模にして真なる太平洋を動かしていたものは、ナノマシンではない。
では、何か。
その答えは、既に出ている。
「電気、信号」
友介の声が空気を振動させた。
「リリスゥ――――ッッッ! 掴まれぇッッ!」
染色発現――黙示録が稼働し、世界に亀裂を刻んで絶叫する。
ひび割れる世界、壊れる、壊れる、壊レル。宇宙を砕く銃弾が、太平の海底を木っ端微塵に粉砕した。
『ほう』
満足げに笑う声に唾を吐きかけ、不遜なる処刑人が手を伸ばした。
「掴まれクソガキッ、もう大丈夫だッ!」
瞬虚。
空間を砕いてショートカットを成した後、未だ海の中で溺れる少女の体を優しく抱き留めた。当然友介も再度海神の腹に囚われることになるのだが、既に恐怖はどこにもない。
さらに連続して瞬虚を発動し、少女ともども近くの螺旋階段へ避難した。
全身から塩気の混じった雫を滴らせながら、リリスを抱き上げたまま眼下にて暴れ狂う海域へ視線を投げる。
「がは、げほッ! ぐっ……ふざけたナノマシンだ。死ぬかと思ったぞ……っ」
「そんだけ軽口叩けるんなら大丈夫だな。――リリス、ここで少し待ってろ、俺が今から、あいつを叩き潰してくる」
「なに……?」
澱みなく告げた友介の背中へ、怪異でも見るかの如き瞳を向けるリリス。瞬間、常は意地悪く細められている少女の目が大きく見開かれる。
「ぁ――」
少年の背中が、少女がいつか見た父の大きな背中に重なった。
大きな背中だった。無条件で自分を守ってくれるかのような。
少女がまだ純粋だった頃。
もう何もかもがおぼろげで、その時の気持ちなんてほとんど思い出せないけれど。
それでも、何の疑いもなく父を世界最強の男だと思っていたことだけは覚えている。
その父の背中と、似ていた。
無垢なる瞳に焼き付けたあの憧憬と――重なる。
「――――ッ!」
そうして込み上げる何かに気付いた時、少女はようやく我に返り、熱くなった頬を冷ますように濡れそぼった両手で頬を叩いた。ぱちん、と大きな音が鳴ると共にいらぬ感傷が消え去り、魔術結社の長としての威厳と冷淡な心を取り戻す。
己を固定しなおしたリリスは上着の裏に縫い止めたホルダーからトートタロットの大アルカナたるアテュの山札を取り出し、友介の隣に並び立ち、
「それで、私は何をすればいい?」
問いかけに、少年は短くこう答えた。
「邪魔だ、下がってろ」
「は……?」
一瞬、何を言われたかわからなかったリリスは、直後目の前に起きた景色に素っ頓狂な声を上げるしかなかった。
「危ねえからバリアーでも張ってここで待ってろ。すぐ終わらせて来る」
安堵友介は、荒れ狂う海へとその身一つで飛び込んだ。
「はぁぁぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!?」
背中に怒りとも嘆きとも驚愕とも取れる奇妙な叫びを受けながら、安堵友介は『右眼』を限界まで駆動させた。
「ライアン・イェソド・ジブリルフォード、よく聞け」
『なにかね?』
「お前の目的が何なのかは知らねえ」
視界に収めるべき事物はただ一つ、かの海水そのものだ。
海水を操っているナノマシンをどうこうする必要はない。電気信号によって連動してはいるが、何も直接結合しているわけではないのだから、それら全てを破壊するとなると時間的にも体力的にも厳しいものがある。
故に――
「たとえ求める未来が平和だろうが、救済だろうが、正義だろうが、光だろうが、俺には知ったこっちゃねえ。好きにしろよ」
狙うべきはそこではない。
「だがな――これは今までさんざん言ってきたことなんだけどよ、」
そも、最初から疑問を感じるべきだったのだ。
どうして海水だったのか、と。
どうして、塩水だったのかと。
「どれだけ高尚な理由並べようと、どんだけ目指しているもんが綺麗で素敵で正しかろうと、」
真水ではなく、塩水でなければならなかった理由は何だ?
生前のジブリルフォードの扱う力が海水であったから? そうした記号を統一させなければ十分な性能を発揮できなかったから?
「――その過程で、関係ねえ人間を巻き込んでんじゃねえよッッ! どっか遠くでやってろボケがッ! お前らの理想も事情も知ったこっちゃねえんだよっ、神様気取りのワガママ野郎どもッ! カスはカスらしく、誰にも迷惑かけねえように隅で大人しくしてやがれッッッ!」
――否、断じて否。
科学とはそういうものではない。
其は合理の極みである。
不確定かつ不安定な、願掛けや呪いにも似たものに論理を預けるなど笑止千万、ありえない。
無駄などあってはならぬ。常に裸体の美貌を晒さなければならず、装飾の施していない真っ白な本質こそが科学なのだから。
故、一見論理的に見えぬ部分にもまた、必ず何かしらの論理が存在しなければならない。
ならば、この海水についてもこう考えることが妥当だろう。
今目の前に広がっている大量の水が塩を含んだものであることは、これら大量の水を操るためには必須条件であると。
「いいか、よく聞けジブリルフォードッ! 俺はお前の思い通りにはならねえッ! テメエの思惑から外れ続けるッ! お前の残した資料の全て、俺が俺のやりたいように使ってやるッ! テメエの意思は介在させねえッ」
なぜか?
知れたこと――そうでなければナノマシン同士の電気的連携が成せないからだ。
高校レベルの理科で学ぶ常識の範囲。そもそも真水は電気を通しにくい。電解質が存在せねば、電子の交換が成されず電流が通らない。
故に、本来不要であるように思う塩が――塩化ナトリウムが大量に投入されていた。
ナノマシン同士の電気的連携の媒介となるために。
しかしそうなると、新たなる疑問も発生する。
それは、結局のところどのようにして海水を操っていたのかという点だ。
ナノマシン一個が水分子一個を掴み、それらが群れを成しひとつの水塊として大雑把な動きをしていると考えていたが、友介の『眼』はそれを否と断じた。
その答えは――――肉体が脳から命令を受け取るメカニズムと似たものであろう。
ここからは仮説だが、ナノマシンから発される電気信号は主に二つ。
一つは既に示した通り、ナノマシン同士の連携に用いられる信号。
もう一つは――ナノマシンから周囲の塩化物イオンやナトリウムイオン、あるいは水分子へと送られる『命令』であろう。
脳が筋肉に命令を送ることで体を動かすようなもので、おそらく『ナノマシン群』から『海水』へと電気信号を飛ばすことで制御していたのだ。
ならば。
「テメエも、楽園教会も、何もかも――ぶっ潰すから、死人はさっさと休んでろッッ!」
その媒介を消失させてしまえばいい。
より詳しく述べるならば、イオン結合を破壊する。
たった一瞬でもいい。
脳細胞のリンクを、切る。
それだけでいいはずだ。脳髄とはそれら無数のニューロンが相互に作用し合うからこそ生命活動を維持できるのだから。ただ一度でいい。ほんの小規模で構わない。この両眼に映るだけのイオン結合を破壊することで、その完璧なバランスを崩し、ジブリルフォードのデッドコピーを消滅させる。
あとは――それができるかどうかだけ。
マクロな破壊ではなく、ミクロな破壊。
分子レベルの破壊など、安堵友介に出来るのか。
気合や根性、想いの力でどうにかなるものではない。
おそらく、左の魔眼だけでは無理だろう。
しかし――
「――――『崩呪の黙示録・微壊』――――」
右眼が、その全てを捉えていた。
陰イオンと陽イオンを繫ぐ電気的な結合を確かに把握し、視界に収めたそれら全てのイオン結合を切り尽くす。
破壊などとは呼べぬ微細な崩壊。しかし確かに小さな世界が壊れていった。
「ふ、はは……ああ、そうだね。もう死人はひとまず休むとして、ここから先は君たち若者に任せようではないか』
次々と破壊されていく電気の通り道。己が回路の破壊を知り、終わりの瞬間を自覚したジブリルフォードの名残とも言える誰かは、やはり生前の敗北の時と同じように、どこか安心した笑みを浮かべていた。
『安堵友介、君に頼みがある』
目に見えるような劇的な変化はなかった。
しかし確実に終わりの時は近付いており、役目を終えた霧牢の海神の残影は、やはり教師のような優しい声音でこう言った。
『もう二度と……私の子供たちのような悲しい〝英雄〟が生まれない平和な世界を創ってくれ。……これは、楽園教会の第九神父『霧牢の海神』ライアン・イェソド・ジブリルフォードとしての願いではなく、ただ一人の父親としての願いだ』
それが、彼が望んだ世界だから。
彼にとって何物にも代えがたい宝物を奪われた世界に復讐するでもない。失った子供たちを取り戻すでもない。歴史を変えて、全てを無かったことにするでもない。
ただ、もう二度と己と同じ境遇の親を生み出さないために。
息子と娘のような、誰かのために戦った子供が、無残にも殺されることのないように。
ただ明日を。ただ未来を。
己とは何の関係もない誰かの明日が平穏でありますようにと、そう願って。
全てを失い、それでも明日を生きる誰かの平和を願った男の残影が託した。
「だからお前の頼みなんざ聞く気ねえよ」
対して、破壊の使者たる少年は、
「お前に言われなくても、理不尽、不条理、不幸――誰かを泣かすクソ概念を、俺は世界と運命ごと撃ち砕くってもう決めてんだよ。何回も言わせんな」
だから――安心しろ。
口には出さなくとも、少年の瞳はそう伝えていた。
『そうか』
大海と化し、まともな人間の姿すら取っていないジブリルフォードはふっと脱力すると、一転してその声音に緊張の色を滲ませて、
『ならば私から君に一つ忠告だ』
「あん?」
『〝彼〟の話が正しければ、君はこの先「救い」の本質を前に心を折られる。それでも――どうか、呑まれないでくれ』
「な、あ――? それどういう意味で、」
言葉の意味がわからず問い返す友介だが、遂にデッドコピーの崩壊の時が来た。
一度バランスが崩れればもはや脳髄は機能を果たさず、海水の制御どころか脳細胞の統制すら解体された。
大蛇の如くうねり、友介を追い立てていた海は既にその有機的な行動力を失っており、ただ揺れる塩水だけが、そこにある。
(救いの、本質……?)
真意までは聞くことのできなかった彼の忠告を頭の中で反芻しつつ、今はもう大人しくなった水面へと友介は落ちた。
☆ ☆ ☆
ジブリルフォードのデッドコピーの撃破後、友介たちを追い立て苦しめた大量の塩水は波が引くように減っていった。この地下にさらに空洞があり、そこに大量の水が格納されていたのかもしれない。床や壁から滴り落ちる水の音が縦穴を反響し、戦闘の名残を響かせた。
友介は濡れた髪を適当に掻き上げながら、再度階段を降りて地下最下層の床に足を付けた金髪幼女へ視線を投げかけた。
けばけばしい衣装ながらもなぜか威厳を伴って着こなしていたゴスロリドレスも、海に落ちたとなれば話が変わった。
全体的にふわふわとしたシルエットを取っていたはずドレスが、今はリリスの貧相な体にぴたりと張り付いていた。滑らかでありながら、なぜか情欲を掻き立てられる少女の肢体が布地越しにあらわになった。下着の形までくっきりと浮き出ており、少し下へと視線を移動させると、少女特有のだらしのないほんの少しだけ膨らんだ腹に、白地の布が張り付き、しかも透けていた。
それだけではない。
張り付いた服はしわを作っているため、透けていない箇所が存在する。お腹の全てが透けているわけではなく、ところどころに遊びを持たせることでより一層のエロリズムを作りだす。しかし濡れた服はおへそのくぼみを強調することは忘れていない。
総じて、十歳程度の少女が纏う色気ではなかった。
「終わったぞ」
しかし友介は、そんな少女の肢体には何の興味も示さず、そっけなくそう告げただけだった。
「貴様、一回でいいから私に殴らせろ」
「は? 何でだよ」
「――――」
心底人を馬鹿にしたような顔でそう返され、遂にリリスの堪忍袋の緒が切れた。
「ほうー、ほほうー。ほうほう、ほう……人が少しいい気分になり力を貸してやろうとしている時に『邪魔だ、下がってろ』など突き放されたのだ。なあ、これは怒っていいと思わないか? ん? んん?」
「うるせえ黙ってろ。それより早く行くぞ」
「……お前、だから友達がいないんだろ」
「はいはい、さっさと行くぞ」
リリスの苦し紛れの言葉のナイフを、友介は事も無げに交わす。所詮はガキの言うことだ。既にカルラに嫌と言うほどいじられているのだから、今さら何を怒ることが――
「……いや、待て」
「なんだ」
「……そもそもお前、何で俺に友達がいないことを知ってんだ?」
「は? そんなの貴様の交友関係やここ最近の動向を探っていたからに決まっているだろう」
「……まさか、観察してやがったのか?」
「? そうだが」
「こいつ……ッ。ガキだからって、人のプライバシーを何だと思ってやがんだまじで」
「貴様にプライバシーなどない。そうだ、安堵友介、貴様今日から私の奴隷にならないか? 毎日頭を踏んでやるぞ」
「……どうでもいいから先行くぞ」
もはや埒が明かないと判断した友介は、リリスを置いて階段を下り鉄扉へと向かう。
扉の前まで来ると、目の前にそびえたつ巨大な扉へと視線を向けた。
肩を怒らせてついてきたリリスも、友介の隣に来た頃には既にその表情は引き締まっており、同じように扉を見上げていた。
無骨な巨大扉。両腕で押したところで開きそうにない鉄製の扉を前にして、友介とリリスは若干ながら息を呑む。
巨大な威容そのものに畏怖を感じているわけではない。
この奥に世界の真実が隠されているということ。そしてこの鉄の扉がその〝入り口〟であること。
ここは、境界線だ。
これを踏み越えた瞬間、安堵友介の運命はおそらく暗黒よりもなお深い闇に囚われることだろう。
「……ついてくるのか?」
「今さら何言ってんだよ」
問いに、友介は澱みなく答えた。告げる声音に寸分の迷いはなく、少年は地獄への片道切符を手に取った。
「…………そうか」
「?」
「何でもない。では行くぞ」
妙に間が空いたことが気になったが、下らない事だと切り捨て鉄の扉に手を当てた。
「……開きそうだな」
「なら頼む」
扉は見た目からは想像できぬほど軽い力で動いた。
闇蟠る密室の奥からかび臭い風が吹き出し、二人の髪を煽った。
友介は珍しく舌打ちもせず黙って扉を押し開ける。
やがて人が通れるほどの隙間が創られ
――そして、中へ踏み込んだ。
☆ ☆ ☆
照明ひとつない空間であった。地下であるため窓も当然存在しない。それらしい光源といえば、部屋の隅に置かれたデスクトップ型のPCぐらいだろうか。それなりに古い型のコンピュータだ。おそらく法則戦争が始まるよりもさらに前に使われていたものだろう。
電源は入っており、液晶にはすでにアンロックされた画面が映っている。
不用心なことこの上ないように思えるが、この部屋を守っていた者のことを考えれば、確かに必要ないのかもしれない。
「……これか」
「だろうな。……安堵友介、少しデータを探してくれ。私はパソコンが使えない」
「なに威張ってんだよ」
呆れたように息を吐きつつPCに近づき、マウスやらキーボードを操作してファイルを探す。
友介と机の間から体をひょっこりと出して画面を覗くリリスに鬱陶しげな視線を向けつつ五分後……どうやら文書が纏められているらしいファイルを見つけた。
「こいつだ」
迷いなくカーソルを当て、ファイルを開く。
しかし、表れた文書はたったの一つ。
「……?」
「何だこれは。私は騙されたのか?」
「そうだとしたら今日馬鹿騒ぎしてた人間全員間抜けになっちまうな」
ともあれ、いま手元にある手がかりはこれだけなのだ。まずは中を覗かなければ話にならないだろう。
友介は文書を開いた。




