##### Walhalla with Cardinal 4th――Final 〝敵〟
――ツマラナイ。
新谷蹴人の十六年の人生を自己評価するなら、その一語に限る。これで終わる、完了してしまう。
つまらない。下らない。退屈。面白くない。ありきたり。普通。平凡。凡庸。どこにでもある。当たり前。みんなと一緒。平均的。変わりない。色褪せている。
現実。
総じていえば、そういうこと。
最初に違和感を覚えたのは、中学生の頃。
夏前に部活動が終わって、中学三年の長い長い夏休み。受験勉強などそっちのけで友達と遊んでいる時に、ふと思うことがあった。
『自分はいったい何をしているのだろう』
友達と騒いで、はしゃいで、一生に一度の中学三年の夏を満喫して――その途中にふと、自分を斜め上から俯瞰してみると、酷く滑稽に思えてしまうのだ。
いま自分は特別な思い出を作っていると信じているけれど。
こんな当たり前の日常なんてどこにでも転がっているではないか。
今こうして自分が騒いでいることで、いったい世界に何を残せる? 自分が生まれた意味というのは、こんなことで達成できてしまうほどのことなのだろうか。
足りない。
こんな退屈な毎日では足りない。
この心は満たせない。もっと違う世界を見たい。自分には想像もできないような、おとぎ話すらも陳腐に思えるほどの世界に行きたい。
何としてでも日常という退屈な檻から抜け出したかった。非日常という異常事態に身を置いて、生の実感を得たかった。ただそれだけが長年の夢で。
だからこそ彼の姿を見た時に、全身を雷で打たれたかのような衝撃を受けたのだ。
一目見た時からわかってしまった。
あれは普通じゃない。
あれは世界にとって何かの意味を持った存在だ。
あれは――どこか遠い所にいる住人だ。
間違ってもこんな場所にいるべきではない人間で――いいや、否。きっと彼は、人間のふりをした化け物なのだ。
バカバカしい妄想のような考えが、しかしどうしてか真実であると疑わなかった。実際、凛が助けられたという話を聞いて、彼は己の考えに確信を持った。
やはりあの少年は違う世界の存在だった。彼は自分の知らない世界を知っている。新谷蹴人が求めて求めてやまなかった非日常そのものが、安堵友介だった。
だから、焦がれた。憧れた。求めた。彼の友になりたいと願った。対等の場所に立ちたいと望んだ。その資格を得たいと。安堵友介という少年と同じ景色を見たいと、狂おしいほどに渇望する。
取るに足らない凡人や守るべき民衆では我慢できない。彼にとっての特別でありたかった。たった一人、唯一無二の存在でありたいのだ。
そのためならば――
安堵友介と対等であれるというのなら。
彼のいる場所に自分も立つことができるというのなら。
たとえ狂気を受け入れ人をやめようともかまわない。
友として肩を並べることができずとも、敵として同じ場所に立てるのならば、それでもいい。
憎まれようとも、疎まれようとも、遠ざけられようとも、理解されなかろうとも。
安堵友介が新谷蹴人を見てくれるというのならば、それだけで満足なのだ。
だから、だから、だから――
今、この時。
安堵友介と死闘を演じているこの時、新谷蹴人の胸中は清々しいほどの幸福と生の実感で満たされていた。
敵意を向けている。自分だけを見ている。ただ打ちのめすためだけに、新谷蹴人という一人の凡人だった男に、意識のリソースのほぼ全てを費やしている。
「生きてる……」
心の杯には収まりきらない歓喜の情が、つぶやきとなって口から漏れた。
「ぼくは今、確かに生きてる!」
つぶやきは叫びとなり、それは凶刃と化して友介のうなじへと吸い込まれていった。
☆ ☆ ☆
弾ける。
弾ける。
弾ける。
火薬が弾けて轟音を打ち鳴らし、反響して干渉し合い増幅する。
鉛玉が浪費され、部屋中に風穴を空けていた。
背後から迫る蹴人に視線も向けず銃弾を撃ち放ち、その動きを牽制する。音速を超えて離れた鉛玉が一ミリのズレなく蹴人のつま先の刃を捉えんと空気を裂いて疾駆した。
蹴撃を繰り出さんと上半身を捩じりボレーキックの体勢を取っていた蹴人は咄嗟に蹴りを引っ込めると、銃弾が通り過ぎる瞬間を見計らって膝を突き出した。
先と違わずうなじを狙った一撃はしかし、やはり見切られている。
友介は重心を後方に預けつつ左方に平行移動。右腕を残しつつ、重心をさらにさらに後ろへと傾ける。
まだ傾ける、まだ、まだまだ後ろへと。
「――――」
バランスを崩し倒れそうになるその間際、友介の右腕を蹴人の右ひざが襲った。
力が加えられた結果モーメントが発生し、重心を後方に傾けていた友介の体がぐるんっ、と凄まじい勢いで回転した。蹴人の蹴りの力を利用して旋回し、屋外では捉えきれなかった蹴人を今度こそ捉えた。完璧に懐へ潜り込んだ。蹴人の膝は未だ友介の右腕に触れている。体感時間は綺麗そっくり真横に並んでいる。
「――ッ」
「屋内で跳ね回りゃァ行き先を読まれないとでも思ったか?」
戦慄し息を呑む蹴人に対し、友介は下らなそうに吐き捨てつつ金属製の拳銃でその横っ面を殴り付けた。
ばきり、と歯が折れる感触が手のひらに返ってくるが、かまわず左腕を振り抜いた。裏拳じみた一撃は見事クリーンヒット。蹴人の体は砲弾のような速度で吹っ飛び、壁をぶち破って隣の部屋へと転がり込んだ。
「づぁぁああああッ!」
そして当然、この程度で終わるはずがない。
確信とともに大穴へと飛び込み友介もまた隣の部屋へと飛び込む。
「――――はぁぁああッ!」
瞬間、眉間目がけて飛んでくる銀色の閃き。残光を虚空に焼き付けながら、部屋に落ちていたのであろう包丁が真っ直ぐ突き進み、致死の一閃が友介の脳髄を破壊せんと奔る。
「――ッ」
まさに光の如き刺突である。たとえ人よりも身体能力が多少優れていようとも、これ防御あるいは回避することは不可能に近いだろう。
――予期していなければ。
あらかじめ予測していればこのような直線的な一撃を交わすことは造作もない。
友介は軽く頭を傾けるだけでそれを避けつつ右手を跳ね上げ、意趣返しとばかりに蹴人の眉間へ銃口を突きつけ躊躇なく引き金を引いた。
激音。
しかし鉛玉は肉を抉ること能わず蹴人の背後の壁に風穴を空け、『崩呪の眼』の効果によって何でもない壁を無残に砕き散らすにとどまった。
「どこを狙っているんだい、友介くんっ!」
「黙ってろ、大人しく的になってりゃいいんだよテメエはァ!」
銃弾が外れると共にノータイムで左の人差し指を絞った。いつの間にか右腕とクロスしていた左手は、高速で動く蹴人を完璧に捉えていた。
「――!?」
疾走を無理やり止め身を捻る蹴人。間一髪――銃弾は蹴人の服を浅く裂き奥の柱を砕くに留まった。
しかし体勢が悪い。すぐに疾走を再開することは不可能であり、ならばこの場にとどまって戦うしか選択肢はない。
蹴人はその場で体の上下を入れ替えるや、床を両腕で押し膂力のみで跳ね上がらんとする。
だがその機先を制するかのように友介の放った銃弾が蹴人の手の甲目がけて突き進む。
転身、蹴人は床を握る手の位置を咄嗟にずらし銃弾を逃れた。
しかし――
バギンッッッ! と硝子が破砕するかの如き奇怪な音が鳴り響き、床が割れた(・・・)。ブロック状に砕かれて崩壊する頑強な木材建築。
「なっ、わ、わあ!?」
「甘いんだよルーキー。その程度で勝てると思われちゃあ困るな」
「――ッ!?」
背後から声? ――そう疑問に思った時にはすでに背中に衝撃が叩き込まれ滑空を始めていた。きりもみ回転しながらまたも壁に激突し、何度目になるのかもわらかぬ壁やぶりを果たした。
「がはっ、ぐぅうあああ……!」
瓦礫の上に寝転がり、土煙を被ってむせる少年に、友介はさらに追撃。
繰り出される蹴撃や拳の合間を縫って引き金を引き柱や壁を破壊しつつ行動を制限し続ける。とにかく蹴人が全力を出せない状況を作り続ける。
速度とはある種絶対的な力である。
破壊の力よりも、自然の力よりも、速度の力は絶対的な強さを持っている。
致死の一撃も当たらなければ致死足り得ない。
たとえ世界を滅ぼす力を持っていようとも、力を発揮する前に殺されてしまえば敗者だ。
友介はそれを理解していた。ブリテンで肩を並べ共に戦ったディア・アークスメント=モルドレッドが最強の枢機卿セイス・ヴァン・グレイプニルに勝利した経緯を、彼自身の口から語られていたからだ。
だからこそ、対策を立てられた。
圧倒的な速度でこちらを翻弄する者とどう戦うか。
単純――最高速度を叩き出す前に停めてやればいい。加速の途中で横やりを入れ、ブレーキを懸けさせ続ければいいだけの話だ。
「――なん、で……ッ」
先まで歓喜が支配していたはずの蹴人の胸に、徐々に暗い影が滲んでいく。不安と疑問、どうして彼に勝てないのか。なぜ追い付けない。どうしてここまで遠い……ッ!?
友介の策に嵌まり、しかしそれに気付けない蹴人の心は焦燥に支配されていく。
描画師として覚醒してはいても、やはり今日覚醒したばかりの少年に黙示録の処刑人の相手は厳しかった。勝てるわけがない。そもそも、簡単に追いつけないからこそ、憧れたのだから。
だから、もう無理なのでは――?
安堵友介の隣に立つことなど不可能なのではないか。
弱い心が囁いている。心が折れる。心象が崩れていく。新谷蹴人には無理だと、諦観が少年を支配しかけて――
全く同じ命題に直面した時。
四宮凛は、諦めた。
かの少女は己の下らなさに絶望し、その恋心から目を背けようとした。
それは確かに逃避ではあったが、同時にこう言い換えることもできる。
四宮凛は、正真正銘、人間である――――と。
少女は人間をやめなかった。
踏み込んではならない領域の前で足を止め、苦難しながらも、決して血の道を突き進もうとはしなかった。
たとえそれが、己の器に見合っていないからという諦観からくるものであろうとも、立ち止まり、人としての道を踏み外さなかったことは確かなのだ。
では。
新谷蹴人はどうか?
彼は今、凛と全く同じ苦難を、凛よりも遥かに直接的な『武力』という形でもって突きつけられている。
勝てなければ隣に並べない。
対等どころか、染色を使わせることすらできていない。
新谷蹴人は、安堵友介には届かない。絶対に届かない。届かない。届かない。届かない。
ならば、諦めるか?
心を折るか?
この道は合っていないと、己を見限るのか――?
「……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………」
新谷蹴人は自分の生に意味も価値も実感すらも見出せなかった。
誰かと一緒にいても、どれだけ楽しい時間の中に生きていても、ほんの刹那、少し離れたところから自分を俯瞰する冷たい自分を自覚してしまう。
皆が楽しく生きているのに。
誰もが己の人生を一所懸命に生きていて、今を楽しもうと全力なのに。
新谷蹴人はいつもいつも、そんな彼らをどこか下らないと思ってしまう。
誰も彼も、平行線で同じようなことをしているのに、いったいみんな自分たちのどこにオリジナリティを感じているのだろう。
自分が世界にたった一人しかいないと、どうやって確信しているのだろう。まさか、あの様で何も考えず、それでも自分は世界にたった一人必要な自分だとでも思っているのだろうか。
新谷蹴人は彼らとは違った。
少しでも人と違っていたかったし、少しでも非日常に触れて生の実感を得たかった。
だから友達と遊ぶ時も、できるだけ自分でセッティングするようにした。たとえ遊んでいる最中に冷静になってしまうのだとしても、それでも友達とどこかへ行きいつもと違うことをすると胸が躍る。友達を誘い遊びの段取りを決めたりといった準備している時間は、あるいは遊んでいる時よりも生の実感を得られた。
サッカーの試合で一進一退の攻防を繰り広げている時も、勝てない相手に全力で挑んで負けることは、遊ぶよりもなお生の実感を与えてくれた。
本気で打ち込んで、鎬を削って勝利のために泥まみれに走っている時だけは、いつも全力でいられた。
けれどそれも、試合が終われば別。
負けた時など最悪だ。
負けた、勝てなかった。世界一には程遠い。
こんなことを言えば笑われることはわかっている。何を高望みしているだとか、分相応に生きろよなどと諭されるのかもしれない。
それでも、彼は思わずにいられない。
……一番になれないとわかっているのに、どうして必死になっているんだろう――と。
誰もが必死であることは理解している。それでも『全国出場』だとか『行けるところまで行こう』とか言っているチームメイトを見てしまうと、一位を目指していないのに練習を必死にやる意味がわからなくなってくるのだ。
冷める、冷める、冷める。
ならば、そうだ――
これもきっと、同じことなのかもしれない。
今こうして、戦っている最中だというのに、俯瞰したところでぐだぐだと拙い思考を垂れ流していることがいい証拠だ。
結局は、新谷蹴人にとって最も適合した場所などどこにもないのだろう。
居場所などない。
これこそが。
この冷めた性格こそがきっと、新谷蹴人の人間性の本質だから。
それが変わることはないのだろう。
簡単な話。
新谷蹴人は狂った人間なのではなく、ツマラナイ人間でしかないということだった。
だから――
(だから?)
だからもう、全て諦めて、いつもの生活に戻ろう――
新谷蹴人は新谷蹴人らしく、どこにでもいるような人間として。
ただ一人の人間として、満たされない思いを抱えながらも、一歩一歩、大地を踏みしめ己に見合った歩幅とペースで歩けばいい。
それが、彼の人生で。
新谷蹴人の、運命なのだから。
だから――――
「嫌だ……ッ!」
それら下らぬ思考の全て、新谷蹴人は破却した。
「僕だって、生きたいッッ!」
四宮凛が立ち止まったその最後の一線を、新谷蹴人は踏み越えた。
境界線に立っていた少年が、向こう側へと足を踏み入れ、本当の意味で描画師として安堵友介の正面に立ち塞がる。
「――『須臾疑似牢獄』」
呟きとともに蹴人は後方へと跳躍した。
友介へと猪のように突進するのではなく、確実に〝取る〟ために、一時的な離脱を図る。
「なんっ――逃がすかテメエ!」
当てを外された友介が苛立ち紛れに銃弾をばらまくが、そのどれも蹴人に当たりはしない。
当然だ。
なぜなら友介はすでに、蹴人を捕捉し切れていないのだから。
己の手のひらの上に乗せ蹴人の動きを操り制限することで、何とか追い縋っていたのが現状だったのだ。一度でも見失いそれを崩されてしまえば、ペースは乱れ速度で劣る友介に勝ち目はない。
「ち、クソが……ちょこまかうざってえ野郎だッ!」
狭い部屋の中をピンボールの如く縦横無尽に跳ね回る蹴人に、友介の銃弾は紙一重届かない。友介の右眼の演算が追い付いていないわけではない。ラプラスの悪魔の実在を証明するかのような義眼は確かに敵手の行動を全て先読みしている。
だが――友介の肉体が追い付かない。速過ぎる。もはや残像が一つの線と化し、牢屋のような印象を与えてきた。
――否、真実これは、牢獄である。
友介に移動を認めぬ不可侵領域。この狭い部屋の中で彼に勝つという意志の表れそのものだった。
「ぉおおおおあああああああああああああああああああッッ!」
「――――ッ」
既に蹴人の叫びと戦いに、遊びはない。先までのような浮ついた気配は皆無だった。
友介への執着すら、きっと今の彼の心にはない。
勝ちたい。
ただそれだけが、ある。
この戦いに意味はない。
ここでの勝利が、この先何かを変えることもない。
世界の分岐点には程遠い場所にある、物語とも呼べぬ蛇足のような戦いだ。
しかし。
確かに。
新谷蹴人という少年にとっては、違う。
世界も物語も知ったことではない。
今ここにいる新谷蹴人という一個人にとってしてみれば、この狭い部屋の中で安堵友介に勝つことには確かな意味があると信じているから――!
「――ちィッ!」
引き金を絞るもやはり届かない。蹴人はそれを紙一重で躱すや、友介の懐へと入り込んで拳を叩き込んだ。
「ご、ァ……ッ」
「ぉぉぉおおおおおおおおおおおああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッ!」
絶叫とともに焦がれた少年を吹き飛ばし、滑空する友介へさらに追撃。顔面に膝を叩き込んで加速させる。
壁を粉砕して廊下に出た友介へすかさず追撃を仕掛ける。
「調子乗ってんじゃ――」
だが、
「――ねえよボケッ!」
猛進してきた蹴人の手首をつかむや、近くの壁に叩き付ける。
「がッ……はァッ!?」
「二億年早いんだよカスが」
さらに旋回してボレーキック。矮躯が床のすれすれを滑空していく。
しかしそこでは終わらない。瞬時に『瞬虚』を発動し、蹴人の滑空先までショートカット。
対して蹴人は、寸前で体勢を立て直し再度屋内を跳ねまわる。友介が舌打ちを漏らしながら狙いをつけて発砲するも、やはり届かない。
弾丸は壁や柱を矢鱈に爆砕させるのみで、蹴人に当たることはなかった。
しかし友介もただやられているだけではない。
銃撃は牽制としての働きは十二分に果たしていた。
描画師といえど心臓や脳に鉛玉が食い込めば死ぬことに変わりはない。音速で飛翔する金属を前にすれば自然動きを制限されてしまう。
狭い屋内における超加速能力者とガンナーの戦闘は熾烈を極めていく。
壁をぶち壊し部屋を変え場所を変え体の向きや立ち位置を変えつつ、確実に狙いを定めて銃撃を繰り返す友介と、それら銃弾を至近距離から放たれながらも全て紙一重で躱す蹴人。
中でも蹴人が攻撃を加えんと接触を図った瞬間は苛烈そのものである。
体重移動に蹴人の打撃を利用することで、体勢や立ち位置をありえないレベルの速度で変更し、隙あらば蹴人の脳天をぶち抜く腹だ。時に銃を鈍器のように扱っては動きを縫い止め、銃撃を繰り返す。
対して蹴人は友介の腕を払い、体勢を半身にするなど最小限の動きだけで回避する。
友介の右腕が跳ね上がる。蹴人が体を右に傾けつつそれを払い、反時計回りに旋回しながら回し後ろ蹴りを敵手の膝へと叩き込んだ。
しかし空振り。友介は跳躍して回避していた。
「――っ」
だが、空中では身動きが取れない。友介が銃口を真っ直ぐ正面へと向け、それより早く速く手刀を繰り出して――否、駄目だ違う。こうではない。
怖気を感じた蹴人が寸前で真横へ凄まじい勢いで飛び込んだ。地面に倒れ込むような無様な格好になったが構うものか。
果たして、蹴人のその怖気は確かだった。
真上に跳躍したはずの友介は、なぜか先ほどまで蹴人がいた位置の真後ろに立ち拳銃を構えていた。さらに一瞬遅れて銃弾を放ち、壁を弾き飛ばす。
しかし当たり前の帰結として、そこに蹴人はいない。
「づぁぁぁアアアアアアッ!」
絶叫一喝、気合の喝破とともに覚悟の突進を敢行。右脚を鞭の如くしならせて靴に仕込んだ刃を突き刺す。
ぶしゅり、という怖気の奔る感覚がつま先から頭頂まで駆け抜けて、しかしそこでやめはしない。
引き裂く。足を振り抜き、刃を真横へ引いた。
友介は咄嗟の判断で後方へ跳躍したため大事には至らなかったが、重傷を負った。動きも大きく制限されるであろうし、血を流し過ぎれば意識も霞みかねない。
「――づぅう……ッ」
思案する友介だったが――しかし、蹴人の猛追は留まるところを知らなかった。
動きが鈍ったその隙に、蹴人が立て続けに蹴撃を繰り返す。銃撃で両足の刃を砕くことには成功したが、しかしその猛攻の全てを止めることは不可能。
天秤が傾き始める。超速が破壊を上回る。
銃弾は一向に蹴人を捉えず、対して蹴撃の悉くが標的を打ちのめす。
ひときわ大きな蹴りが首に入り、呼吸を強制的に止められた。衝撃と激痛、混乱が脳を席巻し、自分が吹っ飛んでいることも理解できない。
地面に叩き付けられ、えずき……さらに蹴りを額に叩き込まれことでようやく状況を把握した。
(首蹴られて、追撃を受けたのか……ッ、づッ、クソがっ……!)
そして、さらに。さらにさらにさらに――――
趨勢はほぼ決まった。
新谷蹴人は限界を超えた駆動に肉体が悲鳴を上げているものの、未だ目立った傷は少なく健在。戦闘行動は続行可能であり、支障をきたすレベルにない。
対して友介は満身創痍。先の集団一斉飽和疑似染色攻撃によるダメージが蓄積されていることもあり、そもそも戦えていることが不思議な状態だ。
そして――
「さあ、最後だ。ここで僕は――」
新谷蹴人が最後の一撃を叩き込まんと疾駆する。知覚不可能な速度で矢のように友介の懐目がけ疾走を開始した。
「――――僕は君に勝って、生の証を手に入れる。終わりだああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッッ!」
黙示録の処刑人が、須臾の住人の前に膝を屈する。
――――その刹那。
外に真っ赤な花火が上がった。
「あァ、終わりだ。――お前の負けだよ、新谷蹴人」
☆ ☆ ☆
誰もいないホールの観客席で、二人の少女が向かい合っていた。
片や人気急上昇中の地下アイドルであり、着実に一歩ずつ栄光の階段を昇り続けている追光の歌姫。
片や高校で有名な程度の女子高生であり、片想いを成就させることすらできぬありきたりな負け犬。
本来ならばこうして向かい合うことがあり得ない者同士。
枢機卿と凡人。
捕食者と被捕食者。
奪う者と奪われる者。
あるいは、歌姫と観客。
しかし今この瞬間、二人の少女は紛れもない一人と一人の人間として相対していた。
敵として認識し、障害として登録し、排除することを決定した。
春日井・H・アリアと四宮凛の視線が、敵意と闘志を伴って絡まり弾けて燃えていく。
『……凛さん、不用意に出てぺら回していたけれど、勝算はあるのかしらあ? より具体的には、あの枢機卿を討つ手立てや得物は?』
「――一応、あるよ。ちょっと心もとないけど」
『……マジックバスターね』
「なんでわかっ」
『んふふ、凛さんのやることなすこと、全部わかるからそんなこと気にしなくてもいいのよぉ』
「なんか背中がぞくぞくするっつぅーの。……それで、なんかミーちゃんからアドバイスはある?」
『そうね……。魔術の特徴からも、きっとブリテンでそう……草加くんと戦っていたローブのあの人だろうし、』
「草次って呼ばなくていいのー?」
『安堵くんにあなたの全てを教えてもいいのよ?』
「それはマジでやばたにえん。ほんと調子乗ってすいませんでした」
『わかったならいいわ。……そうね、一度戦っている身としては、「目を見るな」っていうのが大前提かしら。もう敵意や闘志があの少女に向いているのは仕方ないから置いておくとして、今目を見れば本当の本当にあれの制御下に置かれてしまうわあ』
「……無理じゃね?」
『なんとかしなさい? 得意でしょ』
「何を根拠にッ?」
『それともう一つ――――』
凛がぶつぶつ言っている間、アリアもまた何かを思案しているようだった。魔術の術式でも組んでいるのか、あるいはもっと恐ろしい何かをしているのか、こちらを舐めているだけなのか――凛としては最後であることを望むばかりだ。
『――――勝たなくていいわ。私が全て終わらせるから』
その一言の意味を脳髄が理解した瞬間、味方であるはずだというのに、凛の背筋が悪寒に震えた。
『さあ行きなさい』
「う、うんッ」
だが、次の瞬間には得体の知れぬ畏怖は消え失せ、ただ頼もしい温かみを背中に感じるだけだった。
☆ ☆ ☆
「らぁっ、ぁあああああああああっ!」
スマホを取り出しアプリを起動。電気ショックを用いて脳に干渉し、相手を無理やり睡眠状態へと落とす電磁波を発する危険極まるアプリが、今は唯一の武器になっていた。
ほんの数メートルの距離を駆けながら、凛はつい最近とある少年にこんな玩具では枢機卿を追い返すことなんざできないと釘を刺されたことを思い出していた。
(こんなもんほんとに効くか知んないけど、でも――これしかないんだし、仕方ないっしょ。
それに――)
それに、何より――そもそも凛は、戦う力があるからここに立っているのではない。
勝てるかどうかは関係ない。ただ、四宮凛が戦うと決めたから、今ここに立っている。マジックバスターなどという唯一無二の玩具のような武器がなくとも、たとえ素手であろうとも四宮凛はここに立っていた。
「あんたはあたしが、ぶっ飛ばすっ!」
なぜかスマホを持っていない右手を拳の形に握り締め、突進する凛。
対してアリアは、至極つまらなさそうに息を吐いた後――
「ねえ」
耳を溶かされたのではと疑うほどに甘い声が聞こえて来て、
「凛さん」
名前を、呼ばれた。
「なに?」
しかしその程度で戦意を喪失するほどやわな覚悟でここにいない。既に敵と見定めた。もはや対立は避けられない。ならばわかりやすい色仕掛けや動揺を誘う囁きに惑わされることはない。
凛は敵意を隠しもしない声音で返事し、顔を上げかけて――
『凛さんッ!』
鼓膜を突き破るかのような鋭い恫喝がイヤホンから弾け、アリアに向きかけていた凛の視線を無理やり留めた。
「づ、ゥ――っぶなっ! ごめんミーちゃん、マジ助かったわ」
『気を付けなさい。――あれは枢機卿、安堵くんを追い詰める傑物よ。勝てるとは思わないで』
「――わかった。気を付けるわ。でもそれはそれとして、あのクソアマ一発ぐらいぶん殴って――いいよねッ!」
目を合わせまいと視線を胸の辺りへと向ける凛。
(デカ……っ)
『いらんこと考えない!』
「あ、ちょわかったから声デカイ!」
雑念を振り払い拳を突き出す。一回の女子高生であり、戦闘経験が皆無である凛だが、それなりに運動神経が良いためだろう、しっかりと体重の乗った綺麗な右ストレートが繰り出された。金髪の少女目がけて飛んで行った拳は、しかし――首を振るだけで容易く避けられてしまった。
「くっ――」
「すぐに終わらせてあげます――」
「な、ぁ――」
冷淡に言い放ったアリアは、伸びきった凛の右腕に己の両腕を絡ませるや、腰を下ろし足裏で大地を踏みしめた。
投げられる――それがわかっていても、命を懸けた殺し合いなど全くの初めてである凛に対応できるわけがない。それどころか、腕を掴まれただけで悪寒が全身を駆け抜け、頭蓋の内側が漂白された。恐慌状態に陥った凡庸なる少女は、か細い呻きを漏らすしかできず、恐怖に縛られ抵抗ひとつ許されない。体が、許してくれない。
『ここで負けたら安堵くんが死ぬ。マジックバスター』
「く、――ぅうああああああああ!」
短い、要点だけをまとめた警告と指示が耳からするりと脳へと流れ込む。
ただし考えなかった。意味を理解しようともしなかったし、なぜそんなことをするのか、その後にどうなるのかなど何一つすっ飛ばして、四宮凛の体は行動を起こしていた。
左手が動く。指が奇怪にうねり出し、適切な手順を踏んで『マジックバスター』を起動した。
「――ッ、小癪ですねっ。下らない時間稼ぎを!」
苛立ったようなアリアの叫びに凛の体が委縮する。しかしそれでも、左手をアリアの胸につき出すことだけはやめなかった。
「ちっ」
アイドルにはあるまじき舌打ち。その衝撃に打たれる暇もなく、凛は奇妙で不快な浮遊感に包まれていた。空を切る音、流れる景色。そして――背中に衝撃。
雷を打ち込まれたかのような音が背中から響き、それとほぼ同時、灼熱の如き痛みがジワリと広がった。
「あが、う……いっつ……ッ」
『凛さんっ?』
「はは、そ……そんな声も出んのね……」
どうやらステージの際まで飛ばされたようだ。おそらく一段高いステージの段差に背中をぶつけたのだろう、同じ女とは思えぬ膂力に、凛はますます戦慄する。
痛みと恐怖で涙が出てきた。今すぐ逃げたい衝動に駆られ、情けない雫を流しながらも軽口を叩いて起き上がる。
「う、づ……ッ」
「――〝どうか魔法よ、消えてほしい――」
「――っ、な、なに……ッ!?」
『見ては駄目よ、罠だから』
「――ッ」
一喝。鋭い忠告に助けられ、アリアの思惑に乗る前に、間一髪のところで逃れる。
咄嗟に視線を外して――しかし、再度視線を上げれば、すぐ近くにフリフリとしたアイドルの衣装が――
「ぁ――」
「甘いですよ、四宮さん。――死んでください」
冷たい声。温度の消えた、激情の入り込む余地などない真なる殺意が乗った声に射竦められ、凛の体が硬直しかける。その自家製さんの金縛りを無理やり引き千切り、何とか後ろへ飛び退るが、
「だから、甘いですって」
ひらり。
妖精の衣装が舞った。
見惚れた――そんな暇は、どこにもないのに。
どぼんっ! と嫌な音が腹から臓腑へと伝播し、さらに全身を蹂躙した。臓物がひっくり返るかのような、痛みとも異なる奇妙な不快感。強烈な異物感に襲われ、少女の体がくの字に曲がった。
「ぎ、ぃ……っ」
「次、まだです――よっ!」
固く握った拳が凛の顔面に突き刺さった。混じり気のない、疑いようもなく完璧な一撃に、凛の脳が理解を拒み――しかし、続く第二撃が現実を刻み込んだ。
「ぐ、ァ――きゃぁあああああっ!?」
ごろごろと無様に地を転がり、止まったところで腹に踵をぶち込まれた。
「いっづぅぅぅううああああああああああああああああああああああああっ!?」
聞く方も耳を塞ぎたくなるような悲惨な叫びがホール中にこだまして、アリアが一瞬顔をしかめた。しかしすぐに表情を冷酷そのものに戻し、鼻を押さえ、腹を丸めて饅頭のように蹲る凛の長い茶髪を無造作に掴み上げる。
綺麗に手入れされているであろう少女の茶髪は、すでに原形を留めていない。ポニーテールは崩れ、髪が四方八方へ跳ねていた。
尋常でない量の鼻血が出ているし、瞳からはボロボロと涙を流している。
しかしアリアは頓着しない。
躊躇などしない。迷いながらも、戸惑いながらも、無意味に葛藤し、後悔して自己嫌悪をして自慰行為にふけったとしても、やることはやるのが春日井・H・アリアだ。
髪を握る手にさらに力を込め無理やり立ち上がらせると、目を閉じて視線を合わせまいとする凛の瞳を覗き込もうと目線を合わせにかかる。
「ぐ、ぅう……こっちみんな――陰キャ女がッ!」
しかしたとえ泣いていても、ただで終わる凛ではない。スマホを額に押しやり電磁ショックを流さんとする――その刹那、腹に再度の衝撃。
「ごぶっ……!」
さらに顔面に一発。
「ぁ、うぅああ……」
よろめき、たたらを踏んで下がる凛に、アリアは容赦せずさらに追撃を浴びせにかかる。
「く、マジで……調子乗んなってェのぉおおおおおおおおお!」
直進してくるアリアに反撃せんと、先のお返しとばかりに髪を掴みにかかる凛。
しかし視界も意識も朦朧とした中での攻撃など恐れるに足らない。アリアは最小限の動きだけでそれをひらりと躱すと、伸びた左腕に再度両腕を絡ませる。
「――っ!? な、なにを……?」
悪寒、恐怖、混乱、絶望。
言葉とは裏腹に、アリアが何を成さんとしているかを直感で理解した凛の表情が青く染まり、泣き出しそうなほどに歪んだ。
対してアリアはやはり表情一つ変えることなく――否、僅かに嫌悪を滲ませている――冷たく一言。
「折ります」
「いや、やめっ
ぼきっ
「あ」
信号が
一瞬
途絶えて
「、あ。あぁあぁあああ、ぁぁぁぁああ……――ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっっっ!?」
痛覚のキャパシティーを越えた。超えていない。痛い、無理だたすけてもう嫌だ、おかしい。痛い、腕が曲がってる。変な方向に、関節が増えたみたいだ。痛い、ママ、パパ。安堵。お願い助けに来て、もう無理。怖い、痛い、怖い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いッ!?
「ぐぅううううううぅぅぅううううううう! うううううううぅぅぅぅうううううっ! うあ、ああ、ああ、あ、あ、あ、あ、あ、あっ……あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッ!」
折れ曲がった左腕、それを見て恐慌に陥る凛。
蜜希が何かを言っているが、もう既に聞こえなくなってから相当な時間が経っている。ような、気が、する。
「ぎ、ぃいいいいいいいいいいいい!」
涙をあふれさせ、後ずさりかける――それを、寸前で抑え込み、その場に踏みとどまった。
逃げたい、今すぐ逃げたい。どうして自分がこんなことをしているのか欠片もわからないし、戦っている意味も、この怪我の価値も、何一つ理解が及ばない。
それでも、今ここに立っているのは――
「青いですね。羨ましいですよ。――でも、だからといってあなたの正義が通るわけじゃない。私が勝ちますから」
見事な身のこなしで地面に両手をつき、脚を跳ね上げる。カポエラじみた挙動でもって身を捻り、その艶めかしくしなやかな脚がプロペラのように旋回した。変則的な蹴撃は、当たり前の帰結として凛の体を打ち据える。――それも、つい今しがた折られたばかりの左腕へと。
「う、ぁ、ぁああああああああああああああああああああああああああああっ!」
雷が弾けた。腕が爆発した。
そんな錯覚すら抱くほどの激痛が。
「 、 。 。 、 。 、」
意識が飛びかけて――
「あ、ぅ――」
それでもまだ、ぎりぎり手放さずに済んだ。
「はぁぁぁああっ! はああああ! あああああああああああああああああああああああああああっ!」
天に吼えるかのような絶叫とともに脚を地面に縫い付け、その場にとどまる。
限界まで拳を握りしめ、その痛みで現実を認識し続ける。
まだ死んでいない。心も体も、鼓動を刻んでいる。
しかし、どう勝つ――?
ただでさえあちらとは目を合わせられないというハンデがある上、彼女は描画師であるため常人よりも遥かに身体能力が高い。加え、アイドルという職業柄、身のこなしや体力といった部分も足元にも及ばない。体を動かすというセンスにおいても、足元にも及ばないだろう。
対策を立てなけれなならな――
「作戦っていうのは」
――いつの間に、目の前に……、っ。
「戦う手段を持たない人にとっては、ただの妄想と変わらないんですよ」
「ひっ――」
引き攣った声に、しかしアリアは躊躇せず拳を放つ。咄嗟に顔を背けたせいでヒットする箇所がズレ、最悪なことにこめかみに叩き込まれた。
ぶれる。ずれる。落ちる――意識が、溶ける。
「ぁ。あ――ぅ、」
もはや趨勢は決まった。
奇跡は起きず、
ヒーローは現れず、
都合の良い覚醒もなく、
実にあっけなく。
四宮凛は、塵のように食われた。
『はい終わり、私たちの勝ち』
☆ ☆ ☆
偶然か、必然か。
両局面における決着は、全く同じ時に。
それは起きた。
☆ ☆ ☆
ビルの外で真っ赤な花が咲いた瞬間、安堵友介の口の端が凶悪に吊り上がった。
「あァ、終わりだ。――お前の負けだよ、新谷蹴人」
「は……?」
とどめの一撃を繰り出す刹那、蹴人は目前の男の放った言葉の意味を理解し切れず、間の抜けた声を発していた。
「頑張ったな、新谷」
花火――それはリリスが中にいる人間を避難させたことの合図。
ここから先は、思う存分好きなようにできるというその証左だ。
「だけどな、もうお前の負けは確定した」
「――――?」
疾走しながら訝しむ蹴人だったが、しかし止まらない。
どこから来る自信なのかわからぬし、見落としている事象が存在するのかもわからないが、もはやこちらは加速を終えて最高速度。すでに速度に大きな差が開いているのだから、敗北する道理はどこにもない。
だから――このまま、潰すッ!
「ぶっ壊れろ」
しかし、迫る死の凶刃をものともせぬ落ち着き払った勝利の笑みを浮かべた友介の左眼が、ギンッ、とひときわ強く見開かれた。白と黒が逆転、禍々しい反転目が蹴人とは全く関係のない柱を捉え――黙示録のギロチンをもって穿つ。
そう――これまで破壊し尽してきて、ただ一つだけ残ったこの建物の柱を。
「こっち側に来てんじゃねえよ。お前らはきちんと埋もれてろ。俺が全部終わらせてやるからよ」
染色、発動。
万象撃ち砕く黙示録の銃弾が、ちっぽけな柱に致命的な亀裂を刻んだ。
ビルを辛うじて支えていた最後の柱が砕かれ、ぐらりと建造物全体が揺れる。
「――なっ、ァ――が、ぅうううう……ッ!?」」
床が崩れバランスを取れず転倒する蹴人。
土埃を上げながら転がった彼は、友介のすぐ手前で止まった。凄まじい速度のまま転倒したため全身に浅くない傷を負い、痛覚が弾けた。
苦悶の呻き声を上げながら、それでも傷にまみれた体を持ち上げ、すぐ近くで蹴人を見下ろしている友介を見上げて。
「本当に、遠い……」
先まで戦っていたはずの己を助け起こさんと駆け寄るその姿を見つめ、そんな声が漏れた。
直後――致命的な倒壊が訪れ、二人は大量の瓦礫に呑まれていく。
痣波蜜希は天才だ。
その脳髄は、人類の最先端に君臨している。
ゆえに――――春日井・H・アリアという少女の魔術の弱点についても、ある程度の予測を立てていた。
それはあるいは、ライアン・イェソド・ジブリルフォードという傑物と相対し勝利したからこそなのかもしれない。
あの経験があればこそ、この絶望的な状況下であっても勝利への道筋を諦めることなく探し続けられたのだ。
ジブリルフォードとの戦いで得た知見――それは、魔術であろうと染色であろうと、たとえ元となる概念・法則が条理から外れた者であろうと、この世界に現出する際には必ず化学・物理的現象として具象化されているということだ。
バルトルート・オーバーレイの業火然り。
ライアン・イェソド・ジブリルフォードの海域然り。
世に現出する場合には、一つの例外なく科学で説明のつく事象へと落とし込まれている。
ならば――
アリアはどのようにして民衆を操っていたのか。
見るべきものは彼女の集団洗脳、その根本にあるもの――ではなく。
洗脳を引き起こしている科学的因果関係はどこにあるのか――それを見極める。
さあ、ここで考えてみよう。
人が操られているのならば、まず疑うべき場所はどこか。
(――脳)
これ以外にはありえない。
人を操る以上、脳に直接干渉できるものでなくてはならないはずだ。
では、どのようにして脳を操作するのだろうか。
おそらくだが、ここに魔術なり染色なりの不条理が絡んでいる。
アリアは声や歌を聞かせた相手を洗脳する。おそらくは、彼女の魔術の根底は空気振動を特定の電磁波および電磁パルスへと変換し、それにより脳に干渉し、洗脳下に置いていたのだ。そう――携帯電話のスピーカーから聞こえてくる音声が、相手の声を電気信号に変換し、それを音声に再変換されたものであるように。
ならば――あとは。
(脳に影響を与えている電磁波。それと逆波長の電磁波を……電気ショックを与えれば――洗脳は解ける)
ならば次なる課題――その波長をどう導き出す?
今蜜希の元にアリアの声に洗脳された人間のサンプルはない。
今から洗脳されている人間をひっ捕らえ、脳波の異常を調べることはできない。時間が足りないのだ。
だが――ここに、例外がいた。
偶然居合わせた少女。
運命にも物語にも選ばれない、凡庸極まる女子高生が。
四宮凛は、洗脳から解放されている。
つまりは彼女の存在こそがキーなのだ。
凛が洗脳されていないのはなぜか。
彼女はどうしてアリアの呪縛から逃れ得たのか。
それこそが、アリアの洗脳を解くカギである。
ならば、正答への道筋、そのヒントは確実に少女の発言の中に隠されている。
思い出されるは少女の発言。
〝何か身に覚えのある感覚が体に駆け抜けて、そしたら一気に冷静になれたんだけど……〟
身に覚えのある感覚。
静電気のような――電気ショック。
これだけでは、答えに辿り着くことは不可能だっただろう。
しかし――
蜜希は知っていた。
あの日。
蜜希が草次に感謝の品を送るために、ファミレスで友介と千矢、蹴人、そして凛の五人で集まったとき。
四宮凛が誤って友介に『マジックバスター』の電気ショックを浴びせられ、気絶していたことを。
身に覚えのある、静電気のような感覚。
さらに『マジックバスター』にまとわりつく不可解な背景。
制作企業の倒産。
そして、Mセンサーの導入と全く同時期に会社が創設されていたこと。
これらから、蜜希はある仮説を導き出し――――
『はい、終わり。私たちの勝ち』
四宮凛が操られるその直前に、それは完成した。
タンッ、と。
痣波蜜希の指先がエンターキーを押した瞬間、洗脳状態にあった者もそうでない者も、周辺にいる人間のスマートフォンに『マジックバスター』が本人らの許可無くインストールされ、アリアの洗脳を解くための波長に調整された電磁波が照射された。
電磁波であるため、当然音として脳が認識することはない。
しかし確かに、それによる効果は絶大であった。
無音の騒音が規則性もなく、無尽に照射されていく。
人を害するために作られたはずの機械の絶叫が、今は永劫戦うことを強要されたエインフェリアに安息をもたらす子守歌となる。
決して優しくはない電子の歌声。
されど、破滅へと導く戦乙女の甘い囁きから目を覚まさせるには、十分だった。
一人、また一人とヴァルハラの法に囚われていた人々がミズガルズへと降ろされていく。
「……これは」
全周をエインフェリアたちに囲まれていたリリスが不信と安堵の入り混じった声を漏らし、知らず息を漏らす。
少し離れたところでは、気絶した蹴人を肩に担いだ友介も同じように困惑していた。
「なんで、急に……」
「な、――に……?」
そして、その劇的な逆転劇は、遠く離れた場所にいるアリアもまた理解していた。
使える駒が悉く消えていく。友介とリリスを追い詰めるための網が、端といわず中心といわず、至る場所から解れていった。
ヴァルハラ疑似降臨の術式を組み、準備を整え、大切なライブまでを利用して術を発動させたというのに、その魔術が塩を水に入れたかのように虚空の彼方へ溶けていく。
アリアの拘束力が、糸が、繋ぎ止めるための天女の歌が、武骨な電磁波によって打ち消されていった。
「ばか、な……どうして……いったい何が起きて――!?」
「へ、へへ……っ。あは、は……」
「っ、あ、なた……凛さん……? そんな、いったい……何を、知って……?」
目の上を大きく腫らし、顔の至るところを切って血を流し、怒りや屈辱や敗北感や痛みや恐怖で涙を流す凛の口から、そんな、現状とは不釣り合いとしか思えぬ声が聞こえてきた。
アリアに髪を無造作に掴まれ無理やり立たされているという、最悪な状況。もうろくに目も開けられないほど痛めつけられ、後は洗脳され制御下に置かれるしか道がないというのに、四宮凛の顔には勝ち誇るような笑顔が張り付けられていた。
どう見ても負け犬のはずの少女が、満足そうに息を吐いて言葉を紡ぐ。
「あ、は……、あたしは、さ……ばか、で、あほで……弱っちくて、しょーもない、けど」
「…………、」
「でも、ね……こんなあたしでも、あんたみたいなクソアマに、一泡吹かせることくらいは、できるんだから、ね……っ」
「――ッ」
瞬間、アリアは合理性から遠くかけ離れた行動を取った。
あとは目を合わせ、咒を紡ぎ、洗脳するだけで良いというのに、アリアは激情に任せて腕をぞんざいに払い凛を投げ飛ばしたのだ。
宙を舞う凛が何度目になるかわからぬ地面との熱い接触を交わし、折れた左腕に何度目になるかわからぬ衝撃を受け、そして大気を引き裂くような悲鳴を上げた。
だが、その悲痛極まる絶叫を聞いても、今のアリアの心にその行為に対して自虐をする余裕はなかった。
「ふざけないでください……っ」
砕けかねないほどに歯を噛みしめて、赫怒を滲ませ凛へと近づくアリア。
「邪魔を、しないでください。私は、私は……」
金髪がぶわりと浮かび上がっているような錯覚すら与えてくる。おどろおどろしく髪が揺れ、それら全てが蛇と化して凛を射抜いているようにすら思えた。
握る拳からは血が滲んでいる。それは怒りだ。少女の怒りが具現化し、赤い滴となって床を濡らす。
「私は――自分の声を取り戻すんですから! 諦めない! 諦めたくないんです! そのためなら罪がない人でも、正しい人でも、利用しますし殺しますっ! ズルをしてでもッ! だからあなたなんかに邪魔されたくない! ゼルフォース陛下の創成なさる『楽園』に移住するためにも、ここで折れるわけにはいかないッ!」
「……っざけんな……ッ」
対して凛も、立ち上がる。
襤褸雑巾のようになりながらも、目の前にいる敵を真っ直ぐ睨んだ。
「おまえさっきからムカつくんだよッ! 何が楽園だっつの。意味わかんねんだよバァーカッ! 別にあんたみたいな根暗がどこで何を求めようがあたしにゃどうでもいいけどさあ! 迷惑だからあたしらのいないとこでやってくんない!? 鬱陶しいんだよマジで! 邪魔! 目障り! お前の歌とか声なんて知ったことかマジで! 一人でやってろ。自分勝手な願いにあたしらを巻き込むなっっ! 根暗が移るから誰も見てないとこでやってろよ! あんたなんて冥王星あたりがお似合いだっての! 宇宙の果てまで吹っ飛べクソ陰キャッ!」
「――こ、の……ッ!」
春日井・H・アリアの脳髄が沸騰する。思考の全てが白熱し、今すぐ目の前のクソ女をぶち殺したくなる衝動に駆られた。
何も少女の煽りに怒りが振り切れたわけではない。
どうしても、どうあっても、この少女が受け入れられないのだ。
四宮凛は、地に足を付けて歩くことのできる、正真正銘の凡人だから。
自分の卑小さを正面から受け止められる少女だから。ままならない現実に絶望したとしても、その現実を歪めて望みを叶えようとする狂人ではなく、そんな中でも己にできることを探していくことのできる、真っ当な人間だから。
アリア・キテネが選べなかった、人としての正道を歩める少女だから。己の渇望や宿願を抑え込んででも、幻想ではなく現実を選び取り、過去に決着をつけては前に進んでいける人間だから。
ズルをして、現実すらも歪めて、道徳や倫理を冒涜して、罪を重ねに重ねて我を通していく身勝手極まる己とは違うから。
眩しい。
まるで自分が酷く下らない、最低の人間のように思えてしまうから。
だからどうしても、この女が認められない。
そしてそれは、凛も同じだった。
あんな風に、自分も一線を越えられればどれだけ幸せだっただろう。
彼女のように不思議な力があれば、こんな下らないことに使わず、安堵友介とともに誰かを助けるために戦っていたかもしれないのに。
彼と肩を並べ合い、軽口を叩き合い喧嘩なんかをしながらも、同じ目的のために一緒に歩けたかもしれないのに。
あるいは彼女のように、やむにやまれぬ事情を抱え、袋小路に追い詰められていたのなら、きっと――きっと自分は、もっとあの少年に近づけたのに。
取るに足らない一般人ではなく、助けるべきヒロインにはなれたかもしれないのに。
きっと今だって、ボロボロの凛をお姫様だっこでもして、怒りに震えてくれたかもしれないに。
こいつは、こいつは――――ッ、
それをこいつは、こんなくだらないことに使いやがって――――ッッ!
あんたがそんな使い方をするなら、私にくれれば良かったのにッッ!
春日井・H・アリアは四宮凛に劣等感を抱き、
四宮凛は春日井・H・アリアに憧れを抱いた。
どうあっても平行線。されど互いに手を伸ばし、相手の在り方の眩しさを憎悪した。
「はあ、ぅ……っ。あたしは、負けない」
「っ――」
四宮凛は、立つ。
どうあっても、屈しない。
「あんたにだけは、負けられないッッ!」
「――っ、勝手な、ことを……」
対してアリアも、絶対に折れない。
「私だって、あなたにだけは、負けられませんッッ!」
なぜなら。
「「ここで、お前を否定するッッッ!」」
春日井・H・アリアを認めることは、四宮凛がこれから歩いて行く道を否定し、塵と断じてしまうに等しいことだから。
四宮凛を認めることは、春日井・H・アリアが積み重ねた罪業の全てが無意味であったと認めることと同義であるから。
そうして、二人は気付く。
四宮凛にとって、春日井・H・アリアとは〝敵〟という存在であり、
春日井・H・アリアにとってもまた、四宮凛が〝敵〟であるのだと。
凡人は拳を握りしめ。
歌姫は空気を吸った。
そして――――
「――『染色』――」
破滅の歌が。
「――――『魔女は破滅の偽天を歌う』――――」
追光の歌姫が、哀れな少女を無謬の天国へ誘った。




