##### Walhalla with Cardinal 4th――Ⅱ
「――『染色』――」
「は?」
間の抜けた声が喉から漏れ出たが――その小さな声は、続く歪な大合唱に掻き消された。
「――染色」「『染色」『染色』』「染「染色」染色」染『色」アウローラ『あうろ色「せん」しょく』「せん「「「「「ローラ」『せんしょ「しょく」ローラ』「あうろーら」『染色』」」ょクセンショク「「「「「「「アウローラ」『せんしょく』「ろーら」「染色染色「染色『染色『染色染色染色』染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色染色』』』』――」
それら無慈悲な心象合唱。屋上も地上も関係ない。世界を己が心の色で染め上げる偽神の絶叫が、不協和音と化して地球の片隅で歌い上げられた。
「あ、な――」
「おのれ、いったい何が起きているッ――っッ!?」
絶句する友介に抱きかかえられていたリリスが、今度こそ同様と困惑と恐怖と疑問に脳を突き刺され、それまでの余裕ぶった雰囲気もかなぐり捨てて叫んでいた。
噴き上がる神威。形はない。魔力もないし明確な数値として何かが変わるわけではない。ただ、場の空気が圧倒的に軋んだ。千を超える心の形それぞれが互いに宇宙のリソースを奪い合い、認識・観測の差が世界に矛盾をきたしたことでたわんでいるかのような錯覚すらある。
何が起きている? なぜ伊藤ヒカリが染色を? 彼女だけではない。千人以上もの『只人』がなぜ『染色』などという単語を口にした?
まず浮かんだ可能性は、ハッタリ。
どういう経路で染色という概念を知ったのかは謎だが、ともかく彼らは友介の内心に動揺を引き起こすためにそんなでたらめな言葉を口にしただけだろうと考えたのだ。
その結果は――――コンマゼロ一秒後に集中砲火を浴びたことで否であると体に刻み付けられることで理解した。
最初に、光が全て消えうせたかの如く視界が漆黒で埋め尽くされて――――
次瞬。
集中砲火という言葉すら生ぬるい破壊の津波が押し寄せた。
「がぁぁぁっぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッ! ぎっ! ぐゥゥうウウウウあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッッ!!?!???!???」
炎刃が、水砲が、氷鎖が、雷槍が、樹牢が、砂嵐が、衝撃が、斬撃が、圧倒的な死の具現の数々が、安堵友介の体をズタボロの襤褸雑巾の如き様相へと変えた。
リリスを攻撃から庇うために自ら身を差し出したのも悪かった。先ほどまで有利に戦いを進めていた描画師の少年は、見るも無残な姿になっている。
額を深く切り顔は流血で真っ赤、服も同様朱に染まっており、節々が焦げ千切れ飛んでいた。
「あ、ぎ……ぁ――」
肌の見える場所には、数えることが馬鹿らしくなってくるほど青い内出血の跡が。
ふらふらとよろめく友介は、それでもリリスを後ろへ下がらせる。あるいはそれは、無意識下における行動だったのかもしれない。
敵か味方かもわからない少女だが、それがこの少女を守らない理由にはならない。話を聞くためにも、ジブリルフォードの情報等やらを手に入れるためにも、この少女には傷一つつけさせない。
「掴ま、れ……リリス、飛び降りるぞぉっ!」
激痛と困惑でうまく舌が回らない。視界を埋め尽くしていた漆黒は消え去り視力は戻ったはいいが、まぶたが開いていないのか、脳がうまく機能していないせいなのか、ぼやけて個人の判別すらも難しい。
そんな最悪の状態でありながらも、友介は再びリリスを抱き上げて屋上から飛び降りた。
『瞬虚』を用いることで重力加速度の影響を最小まで縮めたうえで大地へ降り立つ。
とはいえ地上に人がいることもまた変わらない。否、地上に立つ人間がそれ以上の数だ。
何せ1000や2000など遥かに超える。まだ屋上にとどまっていた方が数的不利は軽減されていたはずだ。
しかしそれはならない、認められない。
先ほどは幸いにもビルから落ちる者は皆無であった。だがそんな幸運は続かない。あのような狭い場所で再度染色が飽和すれば、今度こそその煽りで誰かが落ちて死ぬだろう。
どういう理屈で染色を使っているのかは知らない。だが、いくら染色を発現し友介を追い立てていようと、やはり彼らが一般人であることに変わりはないはずだ。そんな彼らを巻き込めない。
この澱み汚れて再起不能なまでに腐り切った暗い世界のルールから彼らを守るために、自ら死地へと突っ込んでいく。たとえ、この身に染色の一斉砲火を絶えず受け続けることになろうとも。
地に降り立った友介を染色の津波が襲う。理不尽が、不条理が、不幸が。予想通り、何の捻りもなく純然たる覆せぬ道理として安堵友介へと殺到した。
「ぉ、ォォォぉおおおおおぁァァあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッ!」
『瞬虚』で回避、『絶拳』をもって迎え撃つがしかし――
当たり前の理屈として、千にも及ぶ染色を前にしては染色殺しの染色といえどその全てに対応しきることなど不可能が道理。
ここに順当極まる結果が横たわる。
すなわち、安堵友介の敗北。
「ご、ぉォオ……ァァ……ッ」
リリスは何とか無傷で守り切った。敵として立ちはだかる二千人近い人々も傷付けていない。
不条理に晒されたのは安堵友介ただ一人。決して折れぬと心を燃やすも、体はまともに動かない。膝が折れ、数の暴力の前に黙示録の処刑人は無様に敗北を晒す。
――いいや、否。
終わらない、終わらない。この程度では終わらせない。
理不尽は続く。不条理は続く。不幸は続く。災厄は破滅をもたらすからこそ畏怖の対象となり得るのだから。
安堵友介の前に地獄の窯が開いているのだ。ならばこんなありふれた結末で終わるはずがない。
その男は永遠の敗者であり、奪われ続ける宿命にあるのだから。
ああ、強くなった。力を付けた。誰かを守り、大切な少女を取り返した。
ならばこそ、ゆえにこそ、だからこそ。
押し寄せる津波の第二波はより凶悪な獣となって彼を襲う。
「――『染色』――」
その祝詞だけは、有象無象のそれらとは一線を画すものであった。
内に秘められた濃密な神威に祝詞を歌う声の音色、そして秘められた異常なまでの執念に、友介の脳が警鐘を鳴らす。
そして同時、これを聞いた瞬間に、友介は自覚した。
彼ら二千人近い者たちの心象発露はおそらく疑似的なものでしかなかったのだと。どういう理屈かは知らないが、無理やり心象を引き出すことで瞬間的に深層心理で世界を染め上げていたのだろうと。
だが、これは違う。
どういうことだ? ――これは本物だ。
紛い物ではない、正真正銘世界を己が心で染め上げる描画師のそれである。
だが、しかし――いいや、否。
そんなはずはない。
だって、彼は当たり前のどこにでもいる少年だったはずだ。
確かにクラスの人気者で、学校の中でも彼を知らない人間はいなかったが、それは四宮凛と同種のものでしかなかった。
つまりは、優しい陽だまりの世界での話でしかなかったのだ。
あの少年は、こんな血みどろの世界にいる人間ではない。
後ろ暗い過去などなく、裏で陰謀を張り巡らせている人間ですらなかった。
真実、ただの凡人だった。
そのはずだったのだ。
だとするならば――
――新谷蹴人は、今この瞬間に染色を手に入れ描画師として覚醒したことになる。
「――――『須臾憧憬・絶氷地獄疑似顕招』――――」
そして、ここに偽りなくコキュートスが顕現する。
氷る、凍る、時が呆気なく凝結する。
次瞬、少年の認識が酷く緩慢になって――
「ご、が――ッ」
時間が戻ったその時に、全身を殴打された激痛が爆発した。
何が起きた、いつやられた? ――そんな疑問を発する暇など欠片もなかった。
そもそも痛みを紛らわせるための絶叫を上げることすら許されなかったのだから。
「は、ははは! はははははははははははははッ!」
笑い声が響き渡る。友介に紛れもない親愛の情を向けていたはずの少年が、喜色満面の笑みを浮かべて蹴撃を繰り返す。一秒に都合十五撃の蹴撃を浴びせられたのだ。
それは、疑似的な絶氷地獄であり、時の氷った異界であった。
超加速能力、それが新谷蹴人が発現した染色だった。
肉体精神共に限界まで加速することで、疑似的に周囲の時間を遅延させる。己が加速することで世界を止める。停滞させる。ただ一人、どこか遠くにいる君へ追い付きたいと願うから。
「ははははははははははははははは! はははは! 追い付いた、追い付いたよォオオおおおお! やっと、やっとだ……やっと君のいるところに立てる! 友介くん、ああ友介くん! 君を知りたい、もっと魅せてくれ! その輝きを、君の見ている景色を! 僕は君の所へ行きたいんだよォオオオオオオオオおおおおおおおおおおおおおおおッ! あははははは! はははははッ、ははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははッ――――っッ!」
ああ僕の憧憬、僕の目には君の背中が遠すぎる。遠いんだよ、早くその非日常へ行きたいんだ。
日常は退屈に過ぎるから。陽だまりは飽きた、もういらない。安堵友介、君という存在がこんなにも近くにいるのだから、もう日常の範囲でスリルを楽しむ必要はないんだ。
これからは、正真正銘命のやり取りができる。非日常が日常になる。
君に追いつくことで、君の隣に並び立つことで。
あるいはそう――君と真逆の地平に立つことで。
君に追いつく。追いかける。逃がさぬ行かせぬ待っていろ。今すぐ僕がそこへ行く。
そして同じ地平に立った暁には、共に戦い殺し合い、本当の意味で対等な友達になろう。
だから――
「さああああああああああああああああッ! 行くぞ友介くん、殺すつもりで迎え撃てぇぇぇぇええええええええええええええええええええええええええええええええええええええッッ!」
「ご、が……ッ! ギ、ィいい……っ! テメエ、自分がどうなってんのかわかってねえのかッ!」
友介の叫びは耳に入らない。そんな言葉は聞きたくない。ただ戦えばいい。敵意を抱け、悪意を向けろ、殺意で僕を殺すがいい。
それができぬと言うのなら――
「死んだらいいよ」
込められたマグマのように粘質な熱量の感情に、友介はようやく悟った。
この少年は親愛を持って己を殺さんとしていると。
嘘でも冗談でもなく、真実友介と友誼を結ぶためだけに殺し合おうと、そう願っているのだ。
端正で中性的な顔たちを共謀に歪ませて、少年は秒間十五撃の蹴りを叩き込まんと脚を振りかぶる。
「おォ……ァァ……舐めんなよ、新米野郎がァッ!」
蹴撃――その初撃を、友介は左手一本で受け止めた。
「なっ……ッ」
「調子乗ってんな雑魚がッ!」
驚愕を張り付けたその顔面に、友介は右の拳を叩き込む。
破壊の法は込めていない。純粋なただの膂力のみで、安堵友介は新谷蹴人の矮躯を数メートル吹っ飛ばした。
確かに蹴人の染色は強力かつ厄介なものだ。ディアと同種たる加速の力。それはたとえ、破壊の法をその左目に宿していようとも回避されてしまえば意味がない。
実際、ディア・アークスメント=モルドレッドは、圧倒的な速度をもって敵に何一つ行動を許さないという戦法を取ったことで、枢機卿最強の描画師であり、明らかに格上であったはずのセイス・ヴァン・グレイプニルをほぼ無傷で沈めたのだ。
ゆえ、蹴人の染色もまた同種である以上は危険極まりないものだ。
だが、忘れてはならない。
染色にはその反則的な力に対して、バランスを取るが如く必ず弱点が存在する。
心に救う諦観や絶望、トラウマに恐怖――そうしたものが弱点として顕現してしまう。
ただし、蹴人の場合においては、それらのうちのどれでもなかった。
心の望む願いそのもの、あるいは願いの先の終着点こそが、染色の弱点として顕現した。
彼の望みは『非日常の世界で歩きたい』『遥か先にいる少年と同じ地平に並び立ちたい』――その果てに。
凡庸であったからこそ、異常を望んだからこそ、そこへ少しでも早く追い付きたいがために加速の力を手に入れた。
だが、もしも追い付いてしまえばどうなる?
新谷蹴人が追い付きたいと願う者に、届いてしまったとき。
新谷蹴人は加速する必要がなくなる。
ゆえに、彼の染色の弱点とはそれだった。
新谷蹴人が接触した人間は、体感時間が彼と同じ速度まで引き上げられる。
蹴人の染色発動後、友介が感じた違和感の正体はこれだった。周囲の時間が遅くなったかのような感覚――何のことはない、彼の思考速度が加速していただけだった。
肉体の制御まで超速で操れるわけではないのだが、未来視にも似た『眼』の力を応用すれば攻略につなげるのは容易かった。
最初の十五撃は不意打ち気味であったため後れを取ったが、もうお前にばかりペースは握らせない。
だが――
「ははっ、く……はははは! やっぱりいいなあ友介くんは」
増幅された歓喜の情を爆発させて――呵々と笑って蹴人は言った。
「で・も――敵は僕だけじゃないんだよ?」
少女のような無邪気さと魔女のような蠱惑さをたたえた愛らしい声が響いた――その直後。
全方位から友介目がけて致死の津波が押し寄せる。
「ぐっ――テメエら、ンの野郎がァッ!」
それら心象の渦、渦、渦の群れが三度友介を呑み込まんと咢を開いて迫り来る。
染色を使うか、否か――その逡巡こそが命取りになると、愚かにも友介は未だ気付かない。
結局何もかもが手遅れとなった段になって、リリスを抱えて走ることとなる。『眼』で予見した被害の薄いであろう場所を駆け抜けるも、やはりダメージは免れない。
「ちィ……安堵友介、貴様もういい! 場所を教えるからお前だけでも向かうんだッ!」
「っざけんなクソガキッ、テメエ一人置いてそのあとどうなるかわかってんのか。それに、どっちにしろ奴らの狙いは俺だよ。逃げられるわけが――」
「そう、君は絶対逃がさない」
「――――ッ!」
真横から声、そして放たれる経った一発の蹴撃。勘だけで体を捻ることで回避するも、続く第二撃までは避けられなかった。
背中に衝撃が走り肺の空気が一斉に押し出された。息が詰まる、呼吸ができない。一瞬の隙――それを逃がすはずがない。
友介が抵抗不可能なその一瞬を利用して、秒間十五連撃の蹴りを叩き込む。脳の処理が蹴人の速度に追いつかない。結果、痛みは遅れてやって来る。
追い縋る追い縋る、何が何でもその手を掴み、隣に立ってみせるのだ。
「逃げるのならば追いかける。差を開かれるのなら追いかける。未来永遠、絶対に君を逃がさない……ッ!」
「ちッ……!」
この少年だけなぜ憎悪ではなく憧憬を前面に押し出しているのかわからない。ただ、その狂的なまでの己への憧れが染色に至るほどに強烈であることに変わりはない。
迷惑なうえ、弱点がわかったとしても厄介なことこの上なかった。
おそらく蹴人は、己の染色の弱点に早急に気付いたはずだ。もっとも、己の心のことなのだ。異常事態が起きた後に、己が心象を見つめなおせば、二つの共通点など簡単に見つかるだろう。
実際、蹴人はすでに戦法を変えている。
先ほどまでのように一度に何撃も蹴りを入れるのではなく、一撃打ち込んで後方へ退くというヒット&アウェイを行っている。蹴った瞬間に体感時間が並び立つなら、一発蹴って離脱すればいい。土台速度では己が勝っているのだ。蹴りが当たらぬ道理はない。
友介も『眼』の力で上手く応戦しているものの、染色と拳銃を使えない縛りの状態では満足に戦うことができない。リリスを傷付けられぬよう庇いつつ、避けられないものは全て己から当たるようにしているせいで刻一刻と敗北の時が近づいていた。
すでに全身血まみれ。皮膚は内出血で青く染まり、息も切れ切れである。
何より厄介なのが精神的な消耗であった。
持っている武力を存分に振るえないことによるストレスだけではない。
この戦いに勝利はない――それこそが彼の精神を摩耗させる最大の要因。
この騒動は術者を止めぬ限りは終わらない。たとえ逃げ切ったとしても、第二波第三波と疑似的なものであるとはいえ染色を携えた人間が何千人と殺到することは想像に難くない。
いいやそもそも、逃げられない。これら心象発露の狩人どもから逃げきることなど不可能だ。
唯一の逃れる術は術者を見つけ出し直接叩くことだが――それもおそらく無理だ。
敵は確実にこちらを捕捉している。対して友介は術者が誰なのかも、どのような種類の魔術なのかもわかっていない。当然術者の位置も例外にあらず。
――起こりは何だ? どこかにヒントがあるはずなのに、ああ、なぜだ。
なぜ皆目見当もつかないのだ?
頭を捻ることなく、当たり前のように答えはそこに転がっているはずだというのに。
思考が乱れる。答えに近づこうとすると、途端に煙に巻かれてしまう。
どこかの誰かの顔が白い靄で塗り潰されて犯人までたどり着けない。
「ぐっ……わからねえなら後回しだ……ッ。今はとにかくあいつらから――――ッ、ギッ……がぁァァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッ!?」
脇腹に灼熱を感じた。肉が沸騰したようなそれは肉を削がれた激痛に他ならない。痛みの許容を超えた損傷に、脳が処理を間違えたのだ。
右足を踏み外しバランスを崩してしまい転倒する友介。もはやリリスを庇う余裕すらなくなり、小さな体を放り投げるようにして地面に崩れ落ちた。その際に肉を削がれた脇腹を地面に叩き付けたことでさらなる激痛。
もはや耐えられない痛みに、黒髪の少年の喉からかすれた絶叫が迸る。
地面をのたうち回る友介は、もはや右も左も天と地の差も知覚できていない。
すぐ近くでリリスが大人しくしろ、さらに傷が開くぞと声を荒げているが当然耳に入らない。
「ぐふ、ぶッ。がはッッ!」
数秒経ってようやく落ち着きを取り戻し、地面に盛大に血の塊を吐き出してむせる。喉の奥に引っ掛かった粘質な赤い液体を全てぶちまけると、荒く息を繰り返しながらもリリスを抱き上げるべく立ち上がった。
しかし、ああ――しかし。
その時間はあまりに無駄。今さらその程度のこともわからぬはずがないというのに。やはり五千人に追われているという状況はただの少年には少々残酷過ぎる展開なのか。
小さな隙は敵に攻撃の機会を与えるだけだというのに。
「しまっ――――」
煌々と光る閃光を初めとして、数多の死が去来した。それら全てを視界に収めるも、やはり決定的に全てが遅い。
破壊の嵐に巻き込まれ、友介の体がゴミのように宙を舞う。
「ぉ、ァ……ッ」
呻きにもなっていない小さな息が喉から漏れて自由落下を始める――直前、その友介を誰よりも執拗に追う中性的な風貌の少年の蹴りが秒間十五撃、その全身へ打ち込まれた。体が地面に叩き付けられ、そのままごろごろと地面を転がる。その途中にさらに炎水氷雷風鉄斬刺圧衝……ありとあらゆる『攻撃』が襲い来る。
「――――っ。ぅ、ァァっ!」
両腕で地面を強く推すことで転がる速度を上げて回避を試みる。
少年のすぐ鼻先の地面に鈍色の刀剣が突き刺さった。あと数秒遅れていればあわや串刺しというタイミング。
(どうすりゃいいッ。どうすりゃ奴らから逃れられる。どうやったら逃げられんだよッ!)
繰り返そう。
何度でも告げよう。
この戦いにおいて、安堵友介の勝利はない。
そういう風に仕掛けた者がいるからだ。
そもそもからして勝率が絶無であったマッチアップに、何者かがそれを完全にゼロになるよう介入した。
よって理論上安堵友介がこの局面を超えることは不可能。
何の奇跡もなく、捻りも歪みも何一つ存在しないまま、当然極まる結末をこの空の下に晒すこととなるだろう。
安堵友介は負ける。死ぬ。
顔も名前も正体も、己を殺す者の力も、その理由すらも知らないままに殺される。
結末までは一本線。俺も曲がりも途切れもせずに、破滅へ転がり落ちて行く。
友介はそれを予感している。
死ぬ。俺はここで終わってしまう。
世界の命運を決める神話規模の戦いでも、巨大な陰謀に翻弄された末路でもなく、ただ当たり前の人間のように、襲い来る死の指先に捕まって死ぬ。
「はあっ、ぐぅぅぅあああああああああああああああああああッ!」
土煙を割ってリリスを掴み、手近なビルの壁を砕いて中へ逃れた。
集合住宅であるらしく、多くの扉が廊下に並んでいる。少年と少女は廊下を折れ、階段を昇り、適当な部屋に忍び込み、風呂場へと飛び込んだ。追手がビルの中になだれ込んできては友介たちを探しているが、未だ所在は掴めていないようだ。
「リリス、何か策は……ッ?」
「ない。術者を特定するしかないが――クソ、どうしてだ。なぜだ。簡単なはずなのに、認識阻害の魔術か……? 誰が術者なのか、何がキーになっていたのか全くわからん。とにかく今は逃げるしかない」
「ちっ。く、そが……ッ。結局じり貧じゃねえ――ぁ、かッ……ぐ、ぁぁッ!」
舌打ちを打った直後、思い出したかのように痛みが再燃した。脇腹だけでなく、全身至る所が悲鳴を上げてこれ以上肉体を酷使するなと懇願していた。
湯船に背を預ける友介はそれらを無理やり押しとどめ、荒い息を吐きながらも瞳に意思を宿し続ける。
まだ折れていない。諦めない。ここからどうにかして逆転してみせる。
そんな気概は、ああしかし――当然何の成果も結ばぬだろう。
逆転することなど不可能。何をどうしたところで、この圧倒的劣勢が覆ることは絶対にない。
だがそれでも、考えることをやめてはならない。考えたところで勝てるわけではないが、考えることをやめれば一瞬で命を落とす。簡単に死ぬ。
「蜜希か誰かに連絡取れればって思ったんだが……無理だ。電波が飛び交ってるせいでまともに携帯が機能しやがらねえ」
自力で切り抜けることは不可能な状態に加え、仲間に助力を乞うことすら不可能。
足りない頭を必死に動かし打開策を模索するも、やはり何も浮かばない。
「……くそ。貴様血を流し過ぎだ。止血と回復の魔術をかけてやるから少し大人しくしていろ」
「あん? ガキに心配されるほどやわじゃ――」
「心配してるんじゃない。お前にここで死なれると鍵を開けられなくて困るんだ。利害の一致という奴でお前と私は今手を結んでいる。お前が死ぬことは私にとって害なんだよ」
「……そうか。なら頼む」
そう言われてしまえば頷くしかない。友介は不承不承といった風でそう返事をし、それを受けてリリスが何か咒を紡ぎ始めた。おそらく癒しの概念を四元素の水属性から抽出しているのだろう。
目をつむり祈りを詠うリリスの雰囲気は幼女のそれではなく、どこかカリスマめいた空気を放つ魔女のそれであった。
「お、まえ……っ」
癒しが全身に行き渡っていき、少年のまぶたを重くする。
寝ている暇はない。こうしている間にも包囲網は徐々に狭まっている。
そんなことはわかっていても、抗いようのない疲労感があったのだ。
起きていなければ。己の身を守り、リリスを守らなければ。
だから起きろ、目を閉じるな――そう言い聞かせるも、しかし。
「安心しろ」
「……?」
「五分だけでもいい、少し寝ろ。その間、お姉さんが守ってやろう」
不敵な笑みを浮かべて頭を撫でるリリスの一言で、友介は闇に落ちるように意識を閉ざした。
☆ ☆ ☆
「はっ、はっ、はっ、はっ、はあ! はあ! はあっ! はあっ! ぁああ。あああああ……あ。あああああっ。ああああああああああ……っ」
ライブ会場となっていた施設の奥まった廊下の角。誰にも見つからないような寂しい場所で、焦燥と恐怖と困惑と疑問がキメラの如く入り混じった声が響いていた。
「なに……?」
周回遅れの少女は。
平々凡々にして、物語に食い込むことのできない哀れな少女は、目の前で起こった超常現象に心を砕かれ、頭を抱えてぶつぶつと幽鬼のように呟いていた。
「なによ、あれ……マジ意味わかんない……ありえないっしょ、あんなの……っ」
嫌だ、嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ。怖い怖い怖い。怖くて怖くて仕方がない。
絞り出す声色に宿るは純然たる恐怖。怒りも嫌悪も湧いてこない。ただひたすら怖い。
命がどうこう武力がどうこう、そんな次元の話ではないのだ。
意味がわからない。
理屈がわからない。
何が起こったのかわからない。
何に巻き込まれようとしていたのか、そもそもどうしてこんなことになっているのかも、なぜ自分だけ無事なのかも、何もかもが理解できない。
それが、怖い。
知らないということは、わからないということは、こんなにも怖い。
常識を壊されるとは、こういうことを言うのだろう。
地面が液状化し底なしの沼に沈んでいるかのような感覚。臓腑の底から気味の悪いものが這い上がってくる不快な感覚さえあった。
土御門狩真に心をいじくられたときの恐怖を思い出す。あの時もこんな感覚だった。あの得体の知れない気持ちの悪い笑みを浮かべる少年に出会ったとき、少女は確かに死を自覚した。
あれは紛れもなく常識の外にある人間だった。想像の範疇を大きく逸脱していた。人を殺すことが呼吸と同義。殺さないと生きていけない。そんな人間を、理解できるわけもない。
だが、これはあれを超えている。
五千人規模の一斉催眠・洗脳。
凛の頭でわかることはそれくらい。
ライブ会場にいた人間が、凛を除いて全員何者かの制御下に置かれたことだけは、彼女の足りない頭でも理解できた。
観客が興奮で鼻血を出すほど異様な盛り上がりを見せたライブが終わり、ぞろぞろと会場を出て行った彼らは、皆が皆不吉な詩を口ずさんでいた。目は充血し、歯は軋り、息が荒かった。
憎しみ。
彼らの瞳に映る感情を一言で表せばそれだろう。
だが、凛が恐怖で動けなくなっているのにはもっと別の理由がある。
それは、奴らが一様にして呟いていた一人の少年の名前。
四宮凛にとって、とても特別で大切だったはずの名前。
安堵友介。
安堵友介、死すべし消すべし殺すべし。憎い憎い憎い、恨めしいぞ――
なぜ彼なのだろう。どうしてまた、あの少年なのだろう。
彼がこうまでして攻め立てられねばならない理由は何だ?
――理由などない。しいて言うなれば、彼が『教会』に最も対極にあるがゆえだ。
だが、四宮凛にはそんなことはわからない。
ただ一つ、安堵友介がまた血反吐を撒き散らす羽目になることしかわからない。また地獄に叩き落とされ、絶叫しながら前に進むしか、彼に道は残されていない。
黙示録の処刑人に日常など似合わない。陽だまりなど恐れ多い。光の世界など用意されてはならないのだ。
今この瞬間も安堵友介が傷ついている。少女の大切な人は、ボロボロになって戦っている。
しかも、染色や銃など使っていないだろう。一般人を傷付けるようなことを、友介がするはずがない。まして相手は操られている身、あの少年ならば自分が傷つけられようとも、彼らを傷付けることはないだろう。
スマホの液晶には目立つフォントで『寿町集団ヒステリーか? 五千人規模の暴動が発生』の文字が躍っていた。
SNSサイトではその異常事態の一部を切り取った動画がアップロードされていた。
逃げ惑う小さな影と、それを追う無数の人、人、人の群れ。ひと塊になってうねる人間どものその様は、大量の虫の大移動にも、意思を持った一つの波のようにも見えた。
鉄パイプやレンガなど手近なものを鈍器に仕立てあげ、少年一人に向かって暴力をぶつける。
いいや、それだけではない。
彼らはなぜか、魔術師や兵器のように炎や雷を生み出しては友介に差し向けている。
ボロボロになる。襤褸雑巾のように、傷だらけになる。
ちっぽけな少年が、いわれのない悪意に晒され、過剰な暴力を刻み付けられている。
ちっぽけ――そうちっぽけなのだ。
あの少年は確かに強い。
安堵友介が並外れた戦闘能力を有していることは凛にだってわかる。自分とは違う世界に両足を突っ込んでいる存在で、絶望に抗い闇を撃ち砕くほどの意思を有していることも確かだろう。誰かを守るために立ち上がることのできる、強い人間だ。
だが、いくら彼の心が強く気高く輝いていたとしても、その実態はただの十六歳の高校生に過ぎないなのだ。
理不尽や不条理、不幸、世界や運命などという巨大なものと戦い、襤褸雑巾の如く傷だらけになりながらも、それらを時に撃ち砕き勝利してきた友介だが――所詮はただの子供なのだ。
液晶に小さな影として映っている友介は、今何を感じているのだろう。
ただの高校生が、いわれのない悪意と敵意と殺意を五千人からぶつけられるというのはどんな気持ちになるのだろう。街の全てが敵に回り、己を殺すために追い掛け回してくるのだ。
どれほどの恐怖か。理不尽なその事態に対する怒りは如何ほどのものなのか。
凛には一つとして、少しとしてわからない。そして、彼のために出来ることもない。彼の元へ行ったところで、人の波に押し流されて踏み潰され、何の物語も紡ぐことなく、何一つ残すことなくゴミの如く命が潰えるのがオチだ。
四宮凛が安堵友介にできることなんて、何もない。
描画師でもなければ魔術師ですらなく、特別な武器など当然持っておらず、人から逸脱するような体質を宿しているわけでもない。
それでも。
なぜだろう。
胸の中心で燦然と輝き燃え上がる炎があるのだ。
魂とも呼べる何かが、この理不尽を許すなと吼えている。
理由はわからない。
安堵友介という少年の周りにいる少女を見たことで、純粋だった恋心は嫉妬や劣等感で醜く濁りごちゃごちゃと散らかったままだ。最初の想いなんて既に忘れてしまって、どうして自分はこんなにも下らない人間なのだろうと心が沈んだ。
この恋は叶わないと悟った。それどころか、自分には好きになる資格すらないとようやく知った。
だから、諦めたはずなのに。
だから、もう彼に関わることはやめようと、そう決意したというのに。
「……ざけんな」
炎は消えない。魂は煌々と燃え盛り、少女の全身に熱を流し込んでいく。
「こんなもん、認められるかっての……ッ」
何も解決していない。何も変わっていない。
四宮凛は依然蚊帳の外の存在で、世界の核心に食い込めるような重要な存在ではない。描画師の気まぐれひとつで殺されてもおかしくないような矮小で価値のない弱者だ。運命という名の歯車にただ磨り潰されるだけの砂粒だ。
安堵友介に対して行ってきた仕打ちが消えたわけでもなければ、少年の唯一無二になったわけでもない。
そもそもからして、戦う理由すら今の彼女にとっては定かではない。
四宮凛が何を決意したのかすらも、その少女はすでに忘れてしまっている。
だが、その茶髪のチャラチャラした見た目の少女は。
平凡で凡庸でありきたりな少女は。
そうした理屈を全て吹き飛ばすかの如く。
世界へ向けて己が誓いを刻み付けるかの如く、叫び上げた。
世界へ向けて、宣誓した。
「何が起きてんのか知らないけど、安堵をこれ以上苦しめるような真似だけは、絶対にさせないッッ!」
さあ四宮凛よ、舞台に上がれ。
勝率は皆無。核心に辿り着くことすら無理難題。
しかしそれがどうした、関係ない。あらゆる前提条件に意味などない。
定めた道があるのなら、力と魂が燃える限り走り抜けるだけだ。
ここにもう一つの戦端が開かれた。




