##### Walhalla with Cardinal_4th――Ⅰ
異常事態はすぐに発生した。
たった一人の少年を追い詰めるためだけに五千人もの人間が押し寄せてきたのだ。
最悪だったのは彼らが力を持たない善良な一般人だったことだろう。
彼らは友介が守るべき人々であり、間違っても銃口を向けてはならない。
つまり彼は拳銃も染色もなしで五千人を相手に逃げながら、ライアン・イェソド・ジブリルフォードの持つ『楽園教会の真実』を探し出さねばならないというわけだ。
だがその前に。
安堵友介の決死の逃亡劇を語るその前に、前提を語っておくべきだろう。
彼のゴールを、目的地を提示しておく。
よって時を少々遡り、リリスと友介がライブ会場から少し離れた場所にある、薄汚れた街に足を踏み入れた時へと視点を当てるとしよう。
☆ ☆ ☆
「つまり――ジブリルフォードが光鳥感那に渡そうとしていた『楽園教会が秘する真実』さ」
振り向いてこちらを見るリリスの向こうには、先ほどまで歩いていた美しい景観の横浜はどこにもなかった。
薄汚れた建築物に堅気とは思えぬ人間、路上で眠る年配の男と、まともな場所とは到底思えなかった。
「ここは……」
「結構歩いたな。ここは寿町だ。お前たちの国の言葉ではドヤ街と言うらしいな」
「知らねえよ」
「だったら今知るべきだろうな。うっかり妹さんがこんなところに来たら何がどうなるかわかったものじゃないぞ」
「……杏里を知ってんのか」
「別に攫ったりはせん。ああそれと、もう一つ教えておいてやるガキ。得体の知れない人間を相手にして自分の弱みを見せるのは愚策だぞ。大切な者を守りたいなら注意することだな」
「……わかった」
「素直でよろしい」
千矢の渡した護符があったからこそではあるが、友介は単騎で枢機卿を撃破するに至った。
空夜唯可を初めとした者たちがジブリルフォードへ勝利できたのは、複数人で彼を追い立て、偶然がパズルピースの如く収まるべき場所へ収まるという奇跡が重なったからこそだった。
ジブリルフォードの目的がただ単なる敵の排除だったならば。
空夜唯可の窮地に草加草次が間に合わなかったら。
痣波蜜希が水底の神の創り出した異界法則の穴を見つけていなかったなら。
ナタリー=サーカスの到着が僅かでも遅れていれば。
そのどれか一つでもピースが欠けていれば、かの平和を愛する偽神を打倒するには至らなかっただろう。
だが、安堵友介とバルトルート・オーバーレイの戦いはそうではない。
当然、千矢が護身用の爆札を友介に貸し与えていなければ敗北したのは友介であっただろう。
しかし、そうした諸々の細かな事情は重要ではない。
厳然たる事実として、安堵友介はバルトルート・オーバーレイという世界の頂点の一人と互角に渡り合い、勝利した。そして、『教会』に与するものでなくとも、リリスのように以前から彼らの存在を認知していた『深い場所にいる者たち』ならば、このような大ニュースを見逃すわけもない。
結果、老衰した『異端』ヴァイス・テンプレートを打倒した時などとは比較にもならぬ速度と重要性をもって友介の名は世界の暗部・深部に属するならず者たちに知れ渡る結果となった。
そうなれば当然、彼を利用とする馬鹿どもが現れる。未熟で弱い心に漬け込み、思考を誘導して自分に有利な道具とすることでうまい汁を吸おうとする輩が。
友介の名は、心象は、すでに一つの戦力として一定の価値を求められている。学生という立場もあり、薄汚い性根の人間は今こぞって友介に視線を向けているのだ。
使わせろ。役に立て。道具となって奉仕しろ。今すぐ私の駒となれ――
下種の欲望に限りはない。手段を選ばぬ輩などそれこそ星の数ほど存在する。あるいは味方面をしているリリス自身がそうだという可能性もある。
軽率に自身のウィークポイントを晒してしまえば、どこか場所でそれを聞いていた何者かが交渉材料として友介の大切な人間を狙うこともありうるのだ。
「さて、ではなぜここまで来たのかを簡単に説明するとしよう。なに、そう長くはならん」
小道や建造物を品定めでもするような瞳で検分しながら、ゆっくりと通りを歩いて行くリリス。
「ジブリルフォードが奴ら楽園教会に叛意を抱き、その目論見を潰すために空夜唯可に戦いを挑んだことまでは理解したな?」
「ああ。その狙いがクソ野郎の策によってダダ漏れになっていたこともな」
「よし、上出来だ。では次の質問。どうしてそんな事態になったと思う?」
相当とともに、リリスは可愛らしい面貌に底意地の悪い笑みを張り付けた。
「ジブリルフォードはもともと楽園教会に属する枢機卿だった。つまり奴らの仲間だったわけだ。それがなぜこうして敵対することとなり、謀反を企てたとして制裁を受ける羽目になったと思う?」
少し思考を掘り下げてみれば簡単に出てくる疑問だった。
ジブリルフォードはもともと教会の一員だった。コールタール・ゼルフォースの下に就き、世界救済などという訳のわからない目的のため数え切れぬほどの悲劇を生み出してきたはずだ。
教会の一員として、仲間として。
だが、男はその立場を捨て、最強の描画師たちが跋扈する組織を敵に回した。
ならばその理由は? ジブリルフォードが古巣を捨てることになったきっかけは何だ?
問に対する答えは、これまでの話との関連性を思えば簡単に浮かんだ。
「知ったからか。教会の最悪の秘密とやらを」
「おそらくな。まさかあの大物が、これまで行ってきた非道の数々の罪滅ぼしのために――などという理由で謀反は企てんだろうさ」
どこか曖昧な表現を用いながらも、リリスは確信しているかのような表情で言い切った。
「ライアン・イェソド・ジブリルフォードは傑物だ。そこらの描画師とすらも一線を画す実力と精神を持つ。デモニア・ブリージアに出し抜かれたとはいえ、奴は基本的に頭がいい。ゆえに、己の行いが己の正義に反していることに気付かんなどという、愚か者のようなまねはせんだろうさ。『こんなはずじゃなかった』『こんなことをするつもりはなかった』『ぼくは、わたしは、ただがむしゃらに必死に走り抜けて、その結果悲劇を生んでしまったんです』……どれもこれも成否の区別もつかないめくらの戯言だ。悲劇的なことにそうした愚者は世に五万と蔓延っているが、少なくともジブリルフォードという男に限ってそれはない」
悲劇をもたらし人に災いを投げつける者を、社会は『悪』と呼ぶ。
人を殺す。物を盗む。街を壊す。女を犯す。男を誑かす。
個人個人の価値観によって善悪などいくらでも切り替わり、様々な側面を持つことはあるが、しかし社会一般的な通念としてそうした非道が『悪』と断じられることに変わりはない。
だが、こうした悪を無自覚のままに行使する輩は、悪ですらない。
例えば、散々悲劇を撒き散らしておいて『自分はただ世界を守りたかっただけなんです』などと下らぬ言い訳を並べ立てる者などがそうだ。
振り返ってみて初めて自分が行ってきたことの重大さに気付く阿呆。白痴にも劣るその精神性は、『愚か』であると言うほかないだろう。
ジブリルフォードは己が悪であることを知っていた。この身が平和を犯す異物であることを自覚していた。
己の行動がどのような結果を引き起こすのかを理解し、その上で行動する誇りある『悪』。
「ゆえに、『知った』からこそ寝返ったと考えるべきだ。楽園教会の行き着く先にジブリルフォードの望むものはなかった。あるいは、結末ではなくその過程が甚だ看過できるものではなかったのかもしれんな。殺人という極大の悪すらも霞むほどのな」
失敗の原因があまりにお粗末だったことからも、ジブリルフォードの行動がよく練られたものではなく、焦燥に押されるかのようにしてなされたものだということは簡単にわかることから、最初から教会を潰すつもりで仲間面をしていたということはないだろう。
そして、その真実というものが――
「これから向かう先にあるっていうのか」
ライアン・イェソド・ジブリルフォードが楽園教会に盾突くことを決意するきっかけとなった真実が、安堵友介の元に転がり込んでくる。
光鳥感那に渡そうとしていた真実。ブラックボックス。決して開けてはならぬパンドラの箱。
「そういうことだ。お前を呼んだのはその隠れ家の鍵を壊すのを手伝ってもらうため。力になれよ、期待しているぞ?」
「お前でどうにかできねえのかよ」
「あいにく私の魔術では無理だ」
断言するリリスの表情に羞恥や劣等感と言った感情はない。割り切っているのだろう。己に出来ることと出来ないことを見極め、役割を分担する。これもある種カリスマと言えるものなのかもしれない。
だが、魔術で鍵を壊せないとはどういう意味なのだろうか。彼女の魔術が戦闘向きではないのか、あるいはよほど固い施錠なのか。
どちらにせよ、友介の染色で破壊できぬものはない。唯一の例外は『統神』コールタール・ゼルフォースのみだが、ここで奴が出てくることはないと信じたい。神出鬼没、玉座に腰かけず散歩のような感覚でラスボスに歩き回られては、世界が何個あろうとも持たない。
「もうそう遠くないぞ。歩いて五分ほどか。あの角を曲がり、しばらく直進してから交差点を三度ほど右に左に折れて行けば、右手に見えるはずだ。――……何だこれは?」
目的地の大まかな位置情報を告げつつ角を曲がったすぐ後のこと。
リリスは訝しげな声を漏らし、眉をひそめて前方を凝視していた。
友介と出会ってから初めて見せた困惑の表情。この不遜にしてどこか気品とカリスマに満ち溢れた少女からはあまり想像できない声色に、友介もまた不信感を募らせる。
一定の距離を空けて歩行していた友介も角を折れ、状況の確認のためリリスの隣に並んで立った。その友介の喉からも、疑問と困惑の声が漏れ出した。
「なん、だこりゃ……?」
眉をひそめてそう漏らす友介の前には、異様とした表現のしようのない光景が広がっていた。
「人が、並んでいるな」
「何人いやがる? 百人は超えてるだろ。しかも道いっぱいに広がって、まるで誰も通さねえようにバリケード張ってるみてえだ」
それはまるで、人間で創った壁のようでもあった。歩道も車道もなく道に広がる大勢の人間。詰め物の如く密着しながら三列に並んでいるため、間を通り抜けることも難しそうだ。
友介は最初、洗脳か何かの類で操られているのかと訝しんだが、瞳が茫洋としていたり、妙な唸り声を上げていたりと、わかりやすい洗脳の気配はないことが気になる。
しかし、こんな光景が日常の中に当たり前のように存在しているとは到底言いがたい。鉄パイプやレンガなど、手軽な武器になりそうなものを持っており、皆が皆物々しい雰囲気を発していることからも、やはり何らかの異常が発生していると見るべきだろう。
「どいつもこいつも素人だな。こちら側と関係のある人間とは思えん」
「……ってことは、」
「ふん。ホームレスどもが一斉蜂起し暴動を起こしたのでないなら、十中八九裏で糸を引いている何者かがいる。加えて今私たちの状況を鑑みれば、どこの勢力がちょっかいを入れてきたのかも容易に想像がつくな」
「楽園教会か」
友介が答えた直後だった。
ブレーキもクラクションもなく、凄まじい速度で走るダンプカーが背後から友介とリリスを踏み潰した。
☆ ☆ ☆
何かが来る。
友介の『右眼』が大気の異常な挙動を捉え、背後から巨大な物体が迫っていることを察知。予見する未来は口にしたいものではなかった。
「リリスッ!」
「ほう、ようやく私の名前を呼んだか」
呑気に微笑を浮かべる幼女の腰を抱くや旋回。独楽のように主軸をブラさず回転しながら、右脚を鞭の如くしならせた。
靴底がアスファルトを噛み焦げ臭い匂いを発する。
友介の右脚に科学では説明のつかない異様な力の奔流が流れ込む。鼓動の如く脈打つ力の渦を自覚して、黙示録の処刑人が本領を発揮する。
「んだテメエ、ぶっ飛べカスが」
舌打ちを伴って放たれた森羅を砕く蹴撃は、ダンプのバンパーの下部に叩き込まれた。鋼鉄が紙細工の如く拉げると、そのまま掬い上げた。
少年の宣言通りとなった。
大量の土砂を積んで20トン近い重量を持っているはずのダンプカーが空を舞った。慣性に従い空をも突き進むダンプカーは、道路を占拠していた百人近い人々の密集地帯をも超えて行く。これで友介の狙い通り、洗脳を受けた人々が轢かれてミンチになるという展開はひとまず避けられた。
だが、空高く舞ったことで荷台から大量の土砂が一般人たちの頭上へと降り注がんとしている。普通ダンプカーの最大積載量は10トン。それだけの土が空から降って来れば、人間がどうなるかなど容易く推測が可能だ。
落下まで一秒とない。
「――『染色』――」
しかし――一秒あればこの程度の命題は容易くパスできる。
「――――『崩呪の黙示録』――――」
瞬間。
世界が、砕けた。
宇宙にヒビが入り、大穴が空く。
罪なき人々を押し潰さんとしていた理不尽の砂がまとめて消し飛んだ。それ以外の土砂も揺り戻しによって世界の向こう側にある無色のどこかへと吸い込まれて生き、最終的には頭にほこりを被る程度にまで減った。
同時、宙を舞っていたダンプカーが着陸。四つのタイヤがしっかりとアスファルトを踏み、そのまま停止した。
「淑女の扱いは心得ているようだな」
「黙ってろ」
リリスの軽口には取り合わず、彼女を両手で抱きかかえると、描画師の身体能力を生かして後方へ一気に跳躍。道路を占拠する人間の団子から逃走を図る。
(それにしてもあいつら、どっかで見たような顔ばっかしてたな……)
しかし、安堵友介を襲う理不尽がこの程度のものであるはずもなく。
「〝どうか魔法よ、消えてほしい。さあ進め。ここが我らの墓場なり〟」
人が、一瞬にして増殖したかのように安堵友介目がけて殺到した。
☆ ☆ ☆
角を曲がった直後のことだった。
背中に痛烈な一撃がぶち込まれた。瞬時に何がしかの鈍器で殴られたのだと理解した友介は転がるように前方へ離脱。コンマ一秒遅れ、背後で金属の反響音が鳴り響いた。
立ち上がりざま振り返れば、そこには鉄パイプを持った男が血走った目でこちらを睨みながら立っている。奥にはさらに二百人近い人間が控えており、皆一様に鈍器や刃物を手に握り憎悪すら滲ませた瞳で友介を睨み貫いていた。
「なん、だこれ……?」
「チッ、少し面倒なことになったな。……私たちをジブリルフォードの隠れ家へは向かわせないという意志の表れか?」
「知るかよ。どうでもいいが、この状況を何とかしねえ限りは隠れ家へ行っても無駄なんじゃねえのか?」
「そうだろうな。だが、いちいち原因を探している暇はないぞ。……さすがに私たちも絶体絶命らしいからな」
「んだと?」
何百人という人間を相手にするのは骨だが、一般人を相手にして後れを取る魔術師や描画師ではないはず。拳銃も染色も傷つける恐れがあるため直撃させることはできないが、この程度の人数ならばあしらえる。
そんな甘い考えは、すぐに捨てねばならなくなった。
「おい、ふざけんじゃねえぞ……何だよこれ、何が起きてやがる」
不機嫌を隠そうともしない声音でそう漏らすと、少年の瞳は右方向へ向けられた。
少し離れた場所を集団で移動する人、人、人の群れ。
怒りを御し切れなくなり暴動を起こす一歩手前のような血走った瞳を友介一人へ向け、一歩一歩近づいてくる。
当然のように背後からも大量の足音が響いてくる。
「囲まれたな。何人いる?」
「ざっと千人ってところか。……なあ魔術師、洗脳ってこんな大勢できるもんなのか?」
「お前の思っている通り普通は無理だ。少なくとも、人として生まれた以上、これほどの規模の大規模洗脳は不可能。生涯を費やし、己の知識と気力と情熱の全てを注ぎ込んだところで、いいところ百人といったところだろう」
「じゃあ――」
「だが」
言いかけた友介の言葉に被せるように、リリスは冷や汗をひとつ額から流しながら、
「ごく稀にだがこうした現象を引き起こす傑物がいることは確かなんだよ。魔術師などではなく、天性の才能であったり神から与えられた奇跡であったりというような形で、こういうふざけているとしか思えない現象を引き起こす化け物がいる。ご都合主義、作り話としか思えんカリスマを発揮し、人類の歴史を変えてしまう――そんな化け物どもが」
「あん? それってまさか――」
「アレクサンドロス三世、ジュリアス・シーザー、卑弥呼、釈迦、イエス・キリスト、諸葛亮、ジャンヌ・ダルク、ナポレオン・ボナパルト、イヴァン雷帝……ここ百年ならアドルフ・ヒトラーなんかも当てはまるな」
中には現代では醜悪な外道だと断じられている者や、それ以外の奇跡をも成し遂げている傑物もいたが、どれもこれも歴史に名を遺すほどの事績・事件を成した埒外のカリスマ性を持った者であることに変わりはない。
「奴らは魔術なぞ使っていない。卓越したカリスマ、ただそれだけだ。だがそれは、決して科学で説明のつく事象というわけではなく、おそらくはその二つからもさらに外れた法則だろうな。科学や魔術などという概念すらも塵芥に思えるほどの、何か。おそらく――」
抱きかかえられながら、リリスはほんの一瞬だけ友介の顔を盗み見る。何事かを口にしようとするも、結局途中でやめてしまう。
「今はどうでもいいか。ともかく、私たちが今相手にしているのは、そういう類の化け物だということだ。軍を纏める力、士気を挙げる手腕、そのどれをとっても反則級。人類逸脱者とでも呼ぶべきか。歴史の転換点に現れる化け物だと思っておけよ」
リリスが口を動かしている間にも、四方を囲む人間の壁は着実に近づいており、既にその距離は十メートル近くまで縮まっていた。
友介はリリスを抱く力をより強くして、逃走経路を模索する。
「リリス、捕まってろ」
「お前はそんな風にして女を落としてきたのか?」
「あん? なに言ってんだお前」
訳のわからないことを言っているリリスを無視するとともに、逃走の筋書きを立てる。消去法で残った策であり、何より事態の根本的解決から遠ざかるような選択だが、現状取れる策がそれ以外にないことも事実だ。
「行くぞリリス」
小さく囁きアスファルトを蹴り抜いた直後だった。
「「「「「「「「「「安堵友介が逃げるぞおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお! 追えッ! 追って殺せえええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええッッッ!」
親でも殺されたかのように友介へと極大の悪意と殺意を喚き散らしながら、各々得物を持った『人』の群れが友介目がけて殺到した。
対して友介が行ったことは至極単純だった。
「――『瞬虚』」
空間破壊によるショートカット――瞬間移動だった。
大気に空いた大穴を通過した直後、友介は近くのビルの壁に立っていた。前方に空けた穴、目がけコンクリを蹴り抜きさらに跳躍。それを繰り返すことで壁を垂直に走り抜ける。
「ガキのクセにやるな。ロンドンで手に入れた力か?」
「正確にはパラレルワールドだけどな――って、ちくしょうが……ッ」
風を切って五階建ての低いビルを駆け上がり屋上へ着地した友介は、しかし目の前に広がる光景を視界に収めるなり恨めしげな声を上げた。
足の踏み場がないのではないかとうめきたくなるほど屋上をびっしりと埋め尽くす大量の人、人、人の群れ。百人程度しかいないが、そもそもそれほど大きな建物ではないため十分人で埋め尽くされ圧迫した印象を与えてくる。こんな状況では闘争どころではない。それどころか満足に戦うこともままならないだろう。少し投げ飛ばしただけで何人の人間が地面に叩き付けられるかわかったものではない。
「っざけやがって。どんだけ悪趣味なんだよ」
「安堵友介だ」「安堵だ」「安堵友介」「悪い奴」「悪人」「平和を乱す悪魔の子」「最低の血を引く愚か者」「殺せ」「殺せ」「殺せ「殺せ「殺せ「殺せ「「「「殺せ」」」」「捻り殺せ」「轢き殺せ」「殴り殺せ」「切り殺せ」「撃ち殺せ」「焼き殺せ」「臓物を引きずり出し」「不浄の血を洗い清めよ」「その生血を神への「供物とし」「未だ生を貪る卑しき豚を潰すのだ」「ブリュンヒルドの名」のもとに「主神へ勝利を「捧ぐべく」「エインフェリアの」刃を研がし「ヴァルハラ」を支える柱となれ」「「「「「「〝どうか魔法よ、消えてほしい。さあ進め、ここが我らの墓場なり〟」」」」」」
歪んだ合唱、狂った賛美歌を叩き付けられ少年の瞳に嫌悪が宿る。
それは自身へ殺意をぶつけ意味のわからない詩を歌う一般人に対してではない。こんな風に殺意と悪意と敵意と害意を増幅させ訳のわからぬ詩を歌わせるよう仕向けた悪趣味な外道に対する怒りである。
民衆を操り己は安全圏で優雅に紅茶でも飲んでいるのだろう。何から何まで反吐が出る。腐った根性がまるだしだ。
「凄まじい嫌われようだな。お前あいつらに何かをしたのか?」
「いいや、んなわけねえだろうが。ほぼ全員が初対面だ」
「含みのある言い方だな……そうじゃない者がいると?」
「ああ。クラスメイトだよ」
友介の視線の先には、よく凛と一緒にいた黒髪ギャルの伊藤ヒカリがいた。両手に果物包丁を持ち、血走って目で友介を睨み、小さく殺したい殺したいと口の中でつぶやく少女。
だが、いつまでもクラスメイトに見とれている場合ではなかった。
「来るぞ――っ」
安堵友介を殺すことだけを目的に立つエインフェリアが、各々得物を掲げて殺到したのだ。頭から落ちれば即死も免れないというのに、そんな簡単な想像もできないようにチューニングされているのだろう。我先にと隣のものを押しのけるように、ブリュンヒルドによって死地へ送られたエインフェリアたちがなだれ込んでくる。
殺す、殺す、ただ殺す。アア憎い。安堵友介、貴様を殺したくて仕方がない。理由などない。たくさんあってわからない。母を殺した女を奪った私を犯した俺を殴ったみんなを殺した。よって死刑、我ら民衆の手によって、貴様に然るべき裁きを下そう。
さあ進め、さあ進め、さあ進め。ここが我らの墓場なり!
「ちィッ! きりがねえっての! リリス・クロウリー、俺をジブリルフォードの隠れ家まで案内しろッ!」
「やりたいところだができん! 奴らの狙いもおそらくそれだからだ! こんな現象を引き起こす傑物だ、相手は確実に楽園教会の誰かだろうさ。となると、私たちを襲っている外道の狙いも私たちと同じだッ。おそらく我々が隠れ家へと逃げるよう仕向けるつもりだ! 行くなら全員気絶させてからだぞ!」
「何千人いると思ってやがる!」
「何万人いようとやるしかないのはわかるだろう!? 奴らに資料を潰されれば人類は永遠に奴らに勝てなくなるのだからなッ!」
これまで余裕を保ってきたリリスも、さすがに平静を欠き始めていた。
リリスを背に庇い、ひとりひとり殴打や蹴撃をもって昏倒させていく友介だったが、この屋上だけで百人以上いるのだ。当然ながらきりがない。
腹を殴り、首を打ち、顎を叩いて昏倒させていく。
決して殺さない。傷も与えない。あくまでも気絶させるのだ。
だがそれは無茶であり無理であり無謀であり何より無意味だ。五感拡張計画による『眼』を持ち、描画師ゆえの身体能力を持っていたとしても、徒手空拳のまま百人を相手に傷を与えず昏倒させるとなると、細心の注意が必要になる。攻撃の手は限られる。反射的に放たれるカウンターで人を殺さぬよう、防御や回避の際に自分の体に制動を懸けるため意識をそちらへ割く必要も出てくる。
シンプルな話、注意が散漫になるのだ。周囲を警戒するのではなく、肉体が反射的に動かぬよう制御する必要があるため、どうしても攻撃のタイミングが一拍か二拍遅れてしまう。
別にそれが致命的な隙になるわけではない。友介と一般人の間には隔絶した力量の差があるのは事実。未だ高校に通う学生の身であるが、残念ながらその枕に平凡と付くことはない。彼は必要以上に闇に触れ、闇が生んだ傷に対して責任を持たねばならなくない立場にいるほどの実力者でもある。プロというほどではなく、世界の暗部に全身をズブズブに浸けているわけではない。だが楽園教会の枢機卿を相手に真っ向からかち合い互角の戦いを演じた実力は本物なのだ。まだまだ未熟であることは事実だが、たかが一拍二拍遅れたところで一般人に後れを取ることがないこともまた同様に事実。
しかし――蓄積すれば話は違ってくる。
友介が今戦っているのは個人ではなく群体。一つの群れだ。群れは個々の意思よりも全体としての総意を尊重する。あらゆる意味において個人は希薄。突出した才能や無双の才など不要なり。最たる獲物は数であり量。圧倒的質量をもって押し潰す。
ゆえに――
「ぎ、ぃぁ……ッ! クソがッ。こっちが優しくしてるからって調子に乗りやがって……ッ」
拳が、足が、鉄パイプが、レンガが、木の棒が。四方八方どころか全周360度から叩き付けられる。
苦悶と苛立ちの声を発する友介は、真正面から迫る男の腹へ右ストレート。威力を押さえた一発だったが、それでも一般人の意識を刈り取るには十分なものだった。
「おいリリス、テメエだけでも向こうへ行けねえのか!?」
「できるならそうしている。だがお前に接触したのは鍵を開けるためだ。一人で行ったところで何もできん。そして何より、私が行けば奴らに先を越される可能性が十分高い」
「ちっ、ならやっぱ全員気絶させるしかねえかッ」
「何ならば手伝おうか? ただし私の実力では、おそらく洗脳は説くことはできない。戦うとなれば魔術を使い火力で吹き飛ばすことになるが」
「ならそこで大人しくしてろ」
リリス・クロウリーの扱う魔術はトート・タロットのアテュを利用した魔術であり、どのような組み合わせを引くかわからないという難点があるものの、引き起こす現象自体は割合シンプルなものである。『Ⅰの魔術師』や『Ⅷの調整』辺りを引き当てれば並の洗脳なら容易く解けるのだが、これは無理だろう。枢機卿直々の洗脳だ。歴史に名だたる偉人と同種のカリスマを誇るそいつから兵を奪うとなると相当骨が折れるはず。たとえ五人六人兵を奪ったとしても、いたずらに被害を増やすだけの結果になりかねない。
よってここは静観する。何もできず、己を守るために百年も後に生まれた少年に戦いを押し付けることに心が痛まないと言えば嘘になるが、現状リリスに何ができるわけでもない。
それに今のこの 状況は、リリスの目標が半ば達成されていることの証左でもあるため、実際の彼女の心情は比較的上機嫌であったりもする。
「はあっ、はあっ! きりがねえし、こんなところでつまずいてるようじゃッ! 千人倒すなんてできんのかってのぉッ!」
もう何度目になるかわからない背負い投げで顔も名前も知らない誰かを気絶させ、息を切らせながらもさらに前へ。
すでにたった一人で半分まで削った。だが、なのに――彼らの士気は下がらない。人間なら当たり前の恐怖が湧き上がらない。得物も力も使わず五十人近くを投げ飛ばし続けているというのに、敵対者が本来抱いてしかるべき『強者への畏怖』が存在しない。
異様、異常、転じて不気味。
まるで昆虫でも相手にしているかのようで気分が悪かった。
「はあっ、はあっ! ぁぁあああああああああああああああああああッ!」
今度は友介から仕掛けに行く。一番近いナイフを持つ男の懐へ潜り込み、掌底を鳩尾に叩き込む。くの字に折れてえずくそいつの顎に肘鉄を見舞い、脳震盪で昏倒させた。
次、次、次。次次次次次次次次次次次次次次次次次次次次次次次次次次次次次次次次。
戦い方も知らない一般人が相手ではあるが、闘牛の如く人を蹴散らしていく様は圧巻。これぞ描画師、取るに足らぬ凡愚との差。選ばれし者とそうでない者の圧倒的格差であり、差別である。
やがてその『眼』が次なる標的を捕えた。伊藤ヒカリ。クラスメイト、四宮凛の友人で、三人の中では大人しめではあるがやはりギャルというくくりにある少女。いつもはニコニコと笑っているその整った愛らしい面貌は、今は虫のように無機質で。
次いで、その口から放たれた言葉に、友介は絶句するしかなかった。
すなわち。
「――『染色』――」
「は?」
直後、安堵友介の視界が暗転した。




